アラブ世界における月と太陽~アラビア語における太陽と月を使った比喩表現

目次 | 日本でのイメージ | 比喩表現 | 製品デザイン | イスラーム | 多神教時代

  1. 国語の授業で学ぶ「太陽のようだ」「月のようだ」の意味
    1. 児童・生徒向けのアラビア語の授業ではどう教わる?
    2. 修辞学(雄弁術)の教科書で紹介されているアラビア語における比喩の定型表現
    3. 比喩表現例文集
  2. アラビア語における太陽と月が持つ色々な意味
    1. 主な比喩表現のリスト
    2. 明白さの象徴である太陽
    3. 移ろいゆくものの象徴としての月
    4. 太陽は王、月は大臣
    5. 太陽と月を「二つの月」とまとめるアラビア語的な双数形用法
  3. 月は優しさ・慈悲というよりは美貌・色白・豊満の象徴
    1. 月は美しさの代名詞
    2. 男性の美しさも「月のよう」と表現する
    3. 女性をほめる時に月を使った方が良いのは太陽が悪い意味だから?
    4. 月を使ったほめ言葉はセクハラ・ナンパの常套句なので取り扱い注意
  4. 高位の人物・崇敬対象・大切な人・恋人を太陽や月で表現する比喩用法
    1. 月を使った比喩
    2. 太陽を使った比喩
    3. 太陽と月の両方を使った比喩表現
  5. 太陽や月が由来のアラブ人名
    1. 太陽に由来する人名
    2. 月に由来する人名
  6. アラブの自然環境と太陽=寛大・新生のイメージ
    1. 慈悲や寛大さといえばまずは雨や海
    2. 砂漠に命を蘇らせるのは雨と太陽
    3. 無償の愛情・絶えぬ恩恵としての太陽
  7. 冷酷非情ぶりは「石のように無慈悲な」といった表現に
    1. アラビア語で冷酷・非情・無慈悲の象徴は「石」
    2. 心が冷たくなったり凍ったりするのは喜び・幸せ~灼熱の暑さがマイナスイメージになっている慣用句も

国語の授業で学ぶ「太陽のようだ」「月のようだ」の意味

児童・生徒向けのアラビア語の授業ではどう教わる?

こちらはアラブの生徒たちが学ぶ国語科目のテレビ授業です。30分ずつ単独のテーマを勉強するカリキュラムになっていてこの回では比喩表現を取り扱っています。

1:25でかわいい女の子の写真を出して「この少女は美しいです。」という通常の文を読んだ後、同じ内容の比喩表現の例として「この少女は美しさにおいてまるで月のようです。」「この少女は月です。」と言い換えています。月は子供が学ぶ簡単な比喩の基礎にも出てくるぐらいに身近な美の代名詞というわけです。

直後に出てくる例文では「その高き地位は土星をも超越されるほどだ あなたはその光輝ける様においてまるで太陽のようであられる」と称賛の意味で太陽を用いる比喩表現が紹介され、先生も「最も輝きの強い太陽を使って詩人は相手をほめています。」と解説しています。

太陽を使って称賛するのは王のような統治者相手に詩を贈る時のテンプレ表現です。もしアラブの文化で太陽がもっぱら非情な冷血漢をけなす表現だったとしたら、パトロンになってくれる大事な王を太陽みたいだと形容することもしなかったのではないでしょうか。

こちらはもう少し上の学年向けの国語の授業です。1:30あたりで上から二行目の説明をしているのですが、内容としては「あなたは海のごとく寛大、太陽のごとく高くにおわし、満月のごとく輝いておられる」という称賛の詩となっています。

為政者などに贈る詩の場合月は美貌以外の描写にも使われ、ここでは海が寛大・寛容・気前の良さ、太陽が高位・高貴な地位、月が人としての魅力・輝きに対応しています。

修辞学(雄弁術)の教科書で紹介されているアラビア語における比喩の定型表現

جواهر البلاغة
『修辞学の宝石』

1800年代にエジプト人文学者・教育家アフマド・アル=ハーシミーが書いた修辞学の本で発売当時かなり高い評価を得たのだとか。現代においても参照され高校の国語テキストに引用されるなどしています。

この本にはアラブ文学における比喩の定番が列挙されていてとても参考になるのですが、アラブ世界では人の美貌に月だけではなく太陽も用いられてきたことがここからもわかります。

  • 寛大さ=海、雨
  • 勇敢さ=獅子(ライオン)
  • 美貌、美しい顔=太陽、月
  • 輝いている顔、美しい顔=ディーナール金貨
  • 黒髪=夜
  • 高い地位=星
  • 夜=海の波
  • 澄んだ水=銀
  • 星=真珠、花々
  • 歯=雹(ひょう)、真珠
  • 馬=風、稲妻
  • 堅さ、硬さ=鉄、岩

比喩表現例文集

国語・アラビア語学の比喩単元に出てくる例文をピックアップしてみました。国語で学ぶ例文は日常生活と違って古典文法・古典作品をベースにした文語(クルアーンのアラビア語、正則アラビア語、標準アラビア語)なので、近現代になってから西欧から輸入されアラビア語に直訳されたようなフレーズが少なくアラブ文化特有の比喩表現を知るには便利なソースだと思います。

月に関する比喩

  • その少女は月のように美しい
  • その少女は月(のよう)だ

太陽に関する比喩

  • その高き地位は土星をも超越されるほどだ あなたはその光輝ける様においてまるで太陽のようであられる
  • あなた様はまるで太陽そして他の王たちは星々 あなたがもし昇ればどんな星も見えなくなる
  • 彼の光はまるで太陽のようだ
  • 文明は太陽のごとく道を照らす
  • イスラームはその導きにおいて太陽である

太陽・昼と月・夜が両方出てくる比喩

  • あなたは海のごとく寛大、太陽のごとく高くにおわし、満月のごとく輝いておられる
  • 預言者ムハンマド様のお顔は太陽と月のようで、丸みのある形であった
  • 君よ毎日姿を表す太陽のようでいておくれ 姿を消してしまう月のようにではなく
  • まるで彼は輝ける昼とまばゆい月のようだ 誰が見ても隠れることはない

アラビア語における太陽と月が持つ色々な意味

アラビア語の教科書や文学書などからピックアップしてみました。作家が独自に考えた珍しい比喩表現ではなく、アラブ人が聞けば皆知っているようなごく一般的な用法です。

主な比喩表現のリスト

個別に紹介していくと長くなるので、先に太陽と月を使った主な比喩表現をまとめておきたいと思います。

太陽~女性名詞

  • (天空で最大・最高たる太陽のような)高い地位
  • (他の星々・惑星が全て消えて見えなくなるほどの)強い輝き
  • (月よりも無謬性が強い)宗教的な導き・啓蒙
  • (諸王の中でもずば抜けた)王者、国王
  • 卓越
  • 寛大さ、恩恵、慈悲・慈愛
  • 美貌
  • 丸い形
  • 日の出・日没=逢瀬・離別

月~男性名詞

  • (男性にも使いますが特に女性の)美貌
  • 色白
  • (満月のようにぷくっとした)ふくよかさ、丸み
  • (他の星々よりも強い)輝き
  • 闇の中での導き
  • 長や大臣(←太陽を王にたとえた場合は月が大臣、星が貴人といった位置づけ)といった高い地位
  • 満ち欠けのようなうつろい
  • 新月のように姿を消す=離別

太陽+月

  • 太陽と月に共通する光のような強く輝き並び立つ者がいないような人
  • 太陽と月が持つそれぞれ異なる美点を色々と持ち合わせている人

明白さの象徴である太陽

現代アラビア語で太陽についてよく使う別の表現は「太陽の明白さのごとく真実は明らかだ」「太陽のように明白だ」などです。

日本語の「白日のもとにさらす」に似ているかもしれません。物事について誰が見てもはっきりしているとか、否定のしようがないぐらい明らかな事実について表す時に使われます。

移ろいゆくものの象徴としての月

美人・美男の比喩に比べればずっと少ないですが、国語の比喩表現の授業では月が定まらず移ろいゆくものの比喩として出てくることもあります。

これに関しては「月は満ち欠けして姿を消すことがある→でも太陽はいつも同じ形だ→太陽のよう=常に与える、尽きることが無い」という発想から太陽>月という関係になっています。

月は満ち欠けがあり何も見えなくなる新月の状態があります。新月の前の月はだんだんと小さくなっていってやがて姿を消すことを知っていたアラブ人たちは、ずっと一緒にいることがかなわない状況、大切な人との離別・喪失、女性の恋心の喪失・心変わりといった定まらず変化してしまう移ろいゆくものの比喩にも使ってきました。

太陽は王、月は大臣

また天における強弱関係(光の強度)のイメージから、太陽が王(スルターン(スルタン)、マリク)で月が大臣(ワズィール)というセットで表現されることも。

イスラーム教では太陽が忌まわしくて月は好ましく優しいなどという教義は無いのですが、アラブ詩の伝統的な定番比喩表現として「太陽は一番明るい、月はその次、星も高いところにあり十分貴いがは太陽が出ると消える光の弱さ」という発想があります。

中世に書かれた国語大辞典では「偉人の比喩表現において太陽は王に、月は長や大臣のたとえとして用いられる。」と書かれています。また古い夢判断の書でも「月は大臣を意味する。」「月は太陽の大臣である。太陽は王である。」「月は王やスルターンの大臣である。」「太陽・月・星々は王・大臣・貴人らを示す。」といった記述が見られます。

ヌールッディーン・アッ=シャッタヌーフィーというマムルーク朝時代のイスラーム神秘主義者(スーフィー)の著書にも太陽・月・星のことが書いてあり、太陽がスルターン(スルタン、王)で月が存在物を統括する大臣だというようなことが記されています。

王を月にたとえることもあれば、王を太陽にたとえて大臣を月にたとえることもあります。アラビア語では月が王を指す場合と大臣とを指す場合との2通りあるため文脈で判断することとなります。

太陽と月を「二つの月」とまとめるアラビア語的な双数形用法

二つの太陽ではなく二つの月と呼ばれる理由

アラビア語には似ているが異なるもの・対比やセットでよくペアで語られるものを双数形「二つの◯◯」とまとめる用法 اَلتَّغْلِيب [ ’at-taghlīb ] [ アッ=タグリーブ ](普通の名詞としての語義:うち勝つこと、勝ること)があります。

اَلْقَمَرَانِ [ ’al-qamarān(i) ] [ アル=カマラーン(語末の母音まで全部読む場合はアル=カマラーニ) ](二つの月)は月が2個ある様子を表すこともできる*そうですが、通常は اَلشَّمْسُ [ ’ash-shams ] [ アッ=シャムス ](太陽)と اَلْقَمَرُ [ ’al-qamar ] [ アル=カマル ](月)のペアのことを意味します。

*太陽と月は空に一緒に昇ることが決して無いので、「二つの月」は「月と太陽」ではなく同じ時間帯に見えるということで「月と月」なのだと論じた اَلتَّبْرِيزِيّ [ ’at-tabrīzī(y) ] [ アッ=タブリーズィー(ュ/ィ) ](アッ=タブリーズィー、タブリーズィー)のような学者もいたとか。

なぜ太陽と月が「二つの太陽」ではなく「二つの月」と呼ばれるかについては諸説あるとのことで、色々な文法書やクルアーン注釈書を読んでみると

  • いくつかの条件を満たす場合を除き男性名詞が女性名詞に優先するのが基本パターンなので、男性名詞の月が女性名詞の太陽を含む形で「二つの月」とまとめられている。アラビア語において男性形は語としての基本形で最もシンプルな型であり、男性形の変形などで得られる女性形よりも優先性がある。
  • 空における位置関係でいうと月の方が地上から近く太陽の方が遠くにあるので、より近距離・身近にある月の方を優先させ遠くにある太陽を包含して「二つの月」とまとめたから。

などと記載されているのですが、このうちメジャーな説明が「月が男性名詞で女性名詞の太陽に優先するから」の方である様子。

なお「アラブ世界では月が太陽よりも愛され大切にされる存在。優先度が違うから二つの月になった。」といった学説は特に見当たりませんでした。

アラビア語文法学が発展するイスラーム以前のジャーヒリーヤ時代から使い続けられてきた表現であるため諸々の学説にも後付け的な要素はあると思うのですが、ひとまずは

  • 語形的にシンプルなベースの男性形かそれとも手を加えて作る女性形か
  • 距離的に近いか遠いか
  • 海と湖のように同じ水域でも大規模なのか小規模なのか

といった比較的単純な発想になっている模様です。

実際の訳

ただし「君の瞳に月が2つ見えるよ」というラブソングの歌詞などは瞳がキラキラしてきれいだねというぐらいの意味だったりで、現代のポップソングに関しては「二つの月」を必ずしも太陽と月として訳出する(例:ほら君の右の瞳に太陽が、左の瞳に月が見えるよ的な言い回し)とは限らず the two moons と英訳されるのが一般的なようです。

また中世に作られた女性への恋愛詩としては、

  • 太陽と月ではなく二つある月を意図し、地上にいる君の美しい顔こそが本物の月で空に浮かんでいる方は本来の月ではない方だ
  • あまりに美しく輝かしい君の顔立ちはまるで二つの月(太陽と月)が同時に現れたかのように素晴らしい

のような誇張による絶賛を行っている作品なども残されています。

月は優しさ・慈悲というよりは美貌・色白・豊満の象徴

月は美しさの代名詞

「月みたい」は美人・かわいい・キュートな女性や子供の形容として今でも多用されています。美貌の象徴ではありますが口説く時だけに使うというわけではなく、同性である女性がかわいい女の子をほめるといった時にも使われ用途としてはかなり幅が広いです。

「~のような」という意味の語を抜いて、直接相手を「月」呼ばわりする用法も一般的です。

  • أَنْتِ قَمَرٌ
    [ ’anti qamar ] [ アンティ・カマル ]
    *口語だとアンティ(貴女)はエンティ、インティなどと発音されたりします。
    *エジプト、シリア・レバノンなどではカマルがアマルと発音される地域が多いです。アラビア半島方言ではガマルなどと方言により「月」の発音は異なります。
    「君は月だ」=君は美人だ
  • يَا قَمَرُ
    [ yā qamar ] [ ヤー・カマル ]
    *呼びかけの語 يَا [ yā ] [ ヤー ](=おお、ああ)を足したものです。
    「ああ月よ」「ねえお月さま」=「ああ美人よ」「ねえ美人さん」

ラブソングやラブレター(アラブ人は恋文のかわりに意中の相手に詩を贈ることを今でもします)で「あなたの瞳にほら月が2つ見える」と恋人の美しく輝く瞳を月にたとえたり、色白で美しい顔を月(特に満月)にたとえたりといった文学的な表現も見られます。

月は夜の象徴ですが「昼間にのぼった月」と表現すると、太陽光の下・昼間の陽射しの中でも美しく輝く愛しい人といった意味になります。先日ネット動画で流れていたラブソングでも愛する女性を昼間の月にたとえる一節が登場していました。

ただしイスラーム以前のジャーヒリーヤ時代は太陽神が女性であったことから美しい恋人を太陽にたとえることの方が月よりも多かったとする専門家も。修辞学(雄弁術)の教科書にも美貌の象徴=太陽・月と書かれているのでアラブ文学の伝統としてはどちらもあり、ということになります。

男性の美しさも「月のよう」と表現する

現代のアラブ世界では「月のようだ」はもっぱら女性・女子の美しさや輝かしさを表現する言葉として定着していますが、文学的表現としては男性の美貌を表現するのに使われるなどしてきました。

現代では男性を月にたとえるのは預言者ムハンマドの美しい顔や輝かしい容姿に対する賞賛を歌った宗教詩(宗教歌)や異性間(女性→男性の恋人)のラブソングなどで登場することがありますが、美少年・美青年に対する同性愛が比較的多く行われていた時代には彼らを月に見立てた詩も作られていました。

青少年相手の同性愛詩では月だけでなく太陽として描写しているものが残っています。そうした同性愛詩の中には「太陽のように輝かしく美しい君はあまりに眩しすぎるよ。生えているひげがまるで強い日差しをさえぎってくれる雲のように強烈な美貌を和らげてくれている。ひげが君の美貌を直視できるレベルにまで抑えてくれている。」といった作品も残っています。

女性をほめる時に月を使った方が良いのは太陽が悪い意味だから?

現代アラビア語において女性や女の子の美貌をほめる時には太陽はまず使わず「月みたい」「ちっちゃくてかわいい月ちゃん」と言いますが、これは日本語でぷくぷくしたかわいい色白ほっぺを餅やまんじゅうにたとえるのと同じような決まり文句となっています。

アラブ人が「人をほめる時は太陽ではなく月で表すべきだ」と注意するとしたら、太陽がアラブ世界で常に忌み嫌われる存在で相手の冷酷さ・非情さを示す比喩表現・けなし言葉として実際に使われているからではなく、(特に女性の)美貌・愛らしさ・色の白さ・ふくよかな体型*を表現する長い伝統でこの用法としては月を使うのが圧倒的に普通だからだと思います。

(*今ではダイエットという概念が広まってきていますが、むちっとふくよかで色白なのがアラブの美人の古典的な理想像です。)

昔は詩などで太陽を美貌の比喩に使ったりもしていたのですが、現代では女性に「太陽みたいだね」という言葉でその美貌をほめる人は稀だと思います。歌や詩で輝くような女性を太陽にたとえている作品は今でもありますが、「月=美女(時には美男)」がすっかり定着しているため文学的な比喩用法を知らない人は「太陽を使って美人な女性をほめるのは違うよ」と訂正を入れてくることも考えられます。

とはいえ基本的には「太陽と月を使った比喩表現にはその性質の違いから使われる場面が異なるため女性の美しさをほめるには月を使うのが適切だから。昔は太陽も月も美貌を意味していたが現代ではもはや女性の美貌を称賛するのに月を使うのが圧倒的に多く、慣用表現として定着しきっているので月を使って美貌を表現すべきだから。太陽が悪いといった対比ではない。」という理解が適切かもしれません。

アラブのウェブフォーラム雑談板やアラビア語談義板も色々回ってみましたが、「太陽は皆を照らす優しく包容力があるから太陽っぽいし、女性を太陽にたとえる方が比喩として技巧的に感じられるが、実際には慣習的に月にたとえるのが多数派。男性はそこまで「月みたい」が優勢ではなく「太陽のように」といった表現も有名で月にも太陽にもたとえられてきた。」という意見が多く、誰も太陽が悪魔の化身とか死の象徴だとコメントしていませんでした。

月を使ったほめ言葉はセクハラ・ナンパの常套句なので取り扱い注意

「お姉さん美人だね」と知らない男性から言われるのは嫌、という現地セクハラ事情

『日本人の知らない日本語 2』であったような「アラブ女性をほめるなら君は月みたいだと言うべし」ですが、これは優しさではなく美貌の表現なのでむやみやたらに多用しないよう注意が必要かもしれません。

というのも現地(たとえばセクハラが多いことで知られるエジプト)では街角にいる若者やおじさん連中が通りすがりの女性にかける言葉のセクハラに使われることがあるためです。

عَسَل [ ‘asal ] [ アサル ](=はちみつ=甘くてスイートな)」「قَمَر [ ’amar(qamarのエジプト発音) ] [ アマル ](=月=美人、べっぴん)」などはキュート、美人なお姉さんを見た時に投げかけるセクハラワードで、日本語でいうところの「ヒューヒュー、おねーさんかわいいじゃん」「おっ、美人じゃん」「げへへ、別嬪さん」に相当します。

「エンティ・アサル」「エンティ・アマル」は「きみかわいいね」、「ヤー・アサル」「ヤー・アマル」は「ねえねえ美人さん」となり、路上ナンパを切り出す時の呼びかけテンプレ的なアラブ世界における有名フレーズともなっています。資料によるとエジプトだけでなくヨルダンなどでも「月みたいに美人だよ」はセクハラワードトップ3の殿堂入りとなっているようです。

アラブ世界のセクハラ問題に関するエッセイや記事などを読むと「ヤー・アサル、ヤー・アマルなどと声をかけてくる言葉のセクハラが毎日のようにあってうんざり。」といったことが書いてあったりします。そのためナンパで「ねえ月(のように美人なお姉)さん」と呼びかけられることに対して実体験から来るマイナス感情を持っている女性も少なくない模様。

真面目な服装をしていても路上セクハラが耐えない現状への強い怒り

ニュースサイトの投稿欄:国民からの苦情コーナー
أيها الكلاب
『犬野郎どもよ!』
*犬はアラブ世界において典型的なののしり言葉です。

エジプト人による投稿記事です。最後の署名からすると男性が男性たちに向けて書いたものだと思われます。

何十年も前からはちみつや月といった美人を意味する定番ワードを使って呼びかけたり着ている衣服といった外見について形容・コメントするといった言葉のセクハラをしてくる輩が絶えないこと、女性が着ている服に関係無く(=イスラーム的に好ましい装いであっても)ちょっかいを出してくることを挙げ、犬野郎並のけだもの(ハヤワーン)にまで身を堕としたセクハラ男たちを批判する内容となっています。

*罵倒表現「ハヤワーン」については姉妹ページ『アラビア語の慣用句~罵倒表現と動物』で紹介しています。

昔からセクハラ被害が多かったことで知られるエジプトでは言葉だけでなく身体接触系の痴漢も多く、ヴェールであるヒジャーブを留める針ピンを不届き者の手などに突き刺す、催涙スプレーを携帯する、護身術を習い最終手段として相手を殴るといった対策が実際に使われています。

これらはセクハラが増加傾向にあるエジプト以外の国のアラブ女性の間でも共有されている撃退方法で、いわばアラブ世界共通となっています。

「君は月みたいだね」はセクハラ被害調査でもトップ件数

The Jordanian National Comission for Women作成
دراسة ظاهرة التحرش ي الأردن
『ヨルダンにおけるハラスメントに関する研究』

ヨルダンで起きている女性を取り巻くトラブルについてまとめたレポートで、54ページにセクハラ事例と調査での回答数をまとめた表が載っています。

言葉によるセクハラ調査で「経験した」と答えた人がもっとも多かったのが、雌アヒル・ハチミツ・月といった美人の代名詞を用いて自分のことを表現されたり呼びかけられたりしたというような事例だったとのこと。「君は月のようだ」「なあ月のような美人さん」は親しくない異性から言われると嫌なフレーズであることを物語っています。

日本での都市伝説を真に受けてお礼のつもりで「あなたは月みたいだ」を連呼しないよう注意

「あなたは優しいね」「こんなによくしてくださってありがとうございます」というつもりで「あなたは月みたいだ」と親しくもない異性に対してむやみやたらと連発すると、実際には「うわー、美人ですね、美人だなあ!あなたはきれいだ!」と言っていることになるのでむしろ言葉のセクハラみたいにならないよう注意が必要かもしれません。

アラブ世界では増加するセクハラ・痴漢に歯止めをかけるべく罰則・刑罰を設けた国も出てきました。言葉によるセクハラの代表例として「なあお月さん(Hi moon.)=なあ美人さん」が挙げられるほどなので、特に全く面識のない通行人に「月みたいだ」と言い放つのはNG中のNGだと言えます。

男性から女性だけとは限らずその反対もあり、女性→男性では「わ、イケメン」「かっこいいじゃない」となりかねず、実際に言葉による逆セクハラ事例として女性上司から男性部下に対して「ふふ、あなたって月みたいだわ」とイケメンぶりをほのめかされたケースが紹介されているのを見かけたことがあります…

*男性→男性へのセクハラ・痴漢もあり近年になってメディアでも取り上げられるようになってきました。「あなたは優しいですね」とお礼のつもりで「あなたは月のようです」と言う際にも気を付けるに越したことはないのかもしれません。日本人男性旅行者が痴漢や局部露出行為の被害に遭うことがしばしばあるなど男性間でのトラブルにも注意が必要です。

高位の人物・崇敬対象・大切な人・恋人を太陽や月で表現する比喩用法

現代のアラブ世界で多用されている人物に関する比喩表現について、詩・宗教歌・歌謡曲のビデオクリップとともに紹介していきたいと思います。

月を使った比喩

アラビア語の比喩表現では月が為政者や高位の人物が傑出していることを示すのに使われます。

「あなたは月のようだ」といった基本フレーズ以外にも以下のような応用バージョンがあります。

月の中の月

太陽同様月は1つしかありませんが、複数形と組み合わせた قَمَرُ الْأَقْمَارِ [ qamaru-l-’aqmār ] [ カマル・ル=アクマール ](月の中の月)という表現に使われるなどしています。

日本語における「男の中の男」と似ていて、他の類似品よりもとりわけすぐれている、ただの月ではなくこの上なく輝いている月、極上の月とかいった強調表現的な感じです。

太陽と比べた時は太陽が王で月が大臣といった具合に光の強さで負けている感はあるのですが、非常に優れた人物であることを示す用法であることには変わりありません。

『月の中の月ムハンマド』という題名の宗教歌です。唯一神アッラーがこの世に遣わした選ばれし人物、何よりも輝いて優れた存在である預言者ムハンマドを称賛する意味で「月=預言者ムハンマド」という比喩になっています。

太陽を使った比喩

アラビア語では「太陽=死をもたらす大嫌いな天体・悪・冷酷非情」ではなく良い比喩で使いますが、その利用シーンは多岐にわたります。

天体としては光の強さにおいても月よりも太陽の方が上なため、月を使った比喩表現よりもずっと強い意味を持っていることが多いです。

太陽を用いた称賛~シーア派イマームの太陽性

太陽は人の手に届かない天空のはるかかなたにあり、しかも強い光と熱を出すので近づくこともできません。そのため威厳ある人物、高貴なる人物、一般人が及ばないレベルに到達している人物の象徴としても使われます。この用法においては太陽>月となります。

こちらはシーア派がイマームとみなすアル=フサイン(/アル=フセイン)を哀悼する宗教歌で題名は『太陽のごとし』。イマーム・フサインは預言者ムハンマドの孫・イマームのアリーの息子としてシーア派信徒が熱烈に崇敬する人物です。アーシューラーの日に亡くなったとされ、見殺し同然にしてしまったことを悔いてシーア派信徒は毎年盛大に追悼行事を開催しています。

シーア派はスンナ派と違い個人崇拝色が非常に強いため、宗教歌にも崇敬の念を示す表現がめいっぱい詰め込まれており太陽や月の比喩表現も数多く使われています。

哀悼詩で亡くなった人を太陽にたとえるのはイスラーム以前のジャーヒリーヤ時代から行われていたそうですが、シーア派に関してはこれとは別に「イマームは月すら出ていないような暗黒であるこの世に遣わされた導きと啓蒙の光であり、イマームはいずれも空に昇る太陽に等しい人物」だとされているのだとか。

太陽は月と違い欠けることも影になる部分も無く、その全てがまばゆいばかりの光・火炎に包まれています。この世を隅々まであまねく照らす太陽。しかし天高くに存在し創造主たるアッラー以外はその本当の姿や性質を間近で確認しつきとめることはできません。

イマームがこの世に遣わされることに関しても神以外に知り得ない太陽同様の神秘性があり多重の意味で太陽にたとえられるということのようです。

(*シーア派向け衛星チャンネルで放送されたイマームの通称に関する解説番組におけるシーア派法学者の解説より。)

シーア派第3代目イマーム アル=フサイン(/アル=フセイン)を太陽にたとえた宗教詩 شَمْسُ الْحُسَيْنِ [ shamsu-l-ḥusayn/ḥusain ] [ シャムス・ル=フサイン、口語詩なので実際にはフセインに聞こえます ](アル=フサインの太陽→アル=フサインという太陽)。元々定番の宗教詩らしく他の人々による朗誦・吟詠の動画も複数見かけたのですが、こちらは今どきの若者向けなMV仕上げで伴奏の音楽もついています。

冒頭に出てくるのはシーア派イマームらの墓廟・霊廟を複数抱えるイラクにあるアル=フサインの墓廟です。出だし付近の大まかな内容は

アル=フセイン様という太陽そしてその光
月がこれに続けば
目が闇を恐れることなどなくなる
二聖廟が放つ光だけで十分だからだ
太陽は我々のもとにある、そして月も
カルバラーは最も美しい地
二聖廟にはさまれた場所は天国の楽園を千も集めたほどに匹敵する

この詩の中でもイマームは太陽にたとえられ、人々が抱いている称賛や彼の崇高さが表現されています。

なお二聖廟というのはカルバラーにあるイマーム アル=フサイン(/アル=フセイン)の墓廟とすぐ近くにある彼の異母兄弟(アル=アッバース、アブー・アル=ファドル)の墓廟のこと。両墓廟は広場のような参道・大通りでつながっており、بَيْنَ الْحَرَمَيْنِ [ bayna/baina-l-ḥaramayn(i)/ḥaramain(i) ] [ バイナ・ル=ハラマイン ](直訳:二聖廟の間)と呼ばれているとのこと。

あなたは私の太陽だ

大切な人を「わが太陽(my sun)」「あなたは私の太陽だ(=You are my sun)」と形容する表現もあります。

こちらは宗教歌(ナシードといって厳密には楽器の演奏を伴わず人間の声だけを使って伴奏のようなコーラスにするものです)フェスティバルの動画で、題名は『あなたは私の太陽だ』です。冒頭で敬愛する父親のことを「あなたは私の太陽 冬にぬくもりを与えてくれる人」と表現しています。

地域差はありますがアラブ世界にも冬はあって寒いので、冬に自分を暖めてくれる人は慈悲深くて優しい存在として形容されます。

上の歌に出てくる「冬に息子を暖めてくれる太陽みたいな父の愛」のイメージが伝わりやすいニュース動画です。サウジアラビアで開催されたサッカーの試合で観戦する人々。気温が上がらないためジャケットを着たりポケットに手を入れたりしている人も。ビデオでは父親が我が子をコートに入れてやり気遣っている様子が写っており、コメンテーターはいつも母の愛ばかり話題になるけれども父親もこうやって優しかったりする的なことを言っています。コメントには「顔はいかついのに優しいお父さん」などといった書き込みも。

こちらはラブソングです。題名は『我が人生の太陽』。歌の出だしで「我が人生の太陽よ、沈まないでおくれ」というフレーズが出てきます。日本でいうところの「君は僕の太陽だ」と似たような表現で、愛しい恋人にずっとそばにいて欲しい気持ちを歌っています。

太陽のように皆に注ぐ温かい愛

こちらは قَلْبِي مِثْلُ الشَّمْسِ [ qalbī mithlu-sh-shams ] [ カルビー・ミスル・ッ=シャムス ](私の心はまるで太陽のよう)という歌です。

YouTubeページの動画説明欄に歌詞が書かれているのですが、

  • 自分の心は晴れた日の太陽のよう、口には微笑みを浮かべている
  • 皆のことを愛していて温かい気持ちで彼らを幸せにしてあげる
  • 自分以外の皆の幸せを願っている
  • 夜にだって立ち向かって皆を危機から救い悲しみを忘れさせてあげる

といった内容で、アラブ圏における「太陽のようなお母さん」像に合致したものとなっています。

太陽の中の太陽

そもそも太陽は1つしかありませんが、一応複数形もあり شَمْسُ الشُّمُوسِ [ shamsu-sh-shumūs ] [ シャムス・ッ=シュムース ](太陽の中の太陽)という表現に使われるなどしています。

日本語における「男の中の男」と似ていて、他の類似品よりもとりわけすぐれている、ただの太陽ではなくこの上なく輝いている太陽、極上の太陽とかいった強調表現的な感じです。

こちらは上で出てきたイマームのアル=フサイン哀悼歌と同じくシーア派信徒向けの宗教歌です。題名は『太陽の中の太陽』。最初の字幕にアフル・アル=バイト(アフルルバイト)の称賛(*預言者ムハンマドの家族のことを意味します)、とあり大きな字幕つきで يَا عَلِيُّ [ yā ‘alī(y) ] [ ヤー・アリー ](おおアリーよ)という掛け声が入ります。

歌の出だしは「太陽の中の太陽よ 絶えることがないご慈悲」といった内容で、歌の中で太陽や泉が永続的な慈悲・慈愛のたとえになっています。

ちなみにシーア派の哀悼詩・哀悼歌でシャムス・アッ=シュムースとたとえられアリーと呼ばれている人物は、第4代正統カリフ(初代イマーム)のアリーではなく十二イマーム派の第8代イマーム アリー・アッ=リダー(アリー・リダー)(*イランのペルシア語読みでリダーはレザー)の方となっています。

シーア派ではどのイマームも闇を照らす導きと啓蒙の太陽とされるそうですが、第8代イマームだけは特にその性質が強調され「太陽の中の太陽」(the Sun of suns 、the Sun of all suns、the Radiant Sun among all the suns、)という通称で呼ばれているとのこと。

こちらはもっと軽い感じで使われている شَمْسُ الشُّمُوسِ [ shamsu-sh-shumūs ] [ シャムス・ッ=シュムース ](複数の太陽の中の太陽、太陽の中の太陽)の例です。Jeddah Seasonというイベントに合わせて歌われた『太陽の中の太陽ジッダ』という歌です。紅海沿いの都市ジッダ(ジェッダ)がいかに美しく素晴らしい街なのかを歌ったもので、出だしが「太陽の中の太陽ジッダ 最も美しい花嫁ジッダ」という歌詞になっています。アラブ圏では素晴らしい街のことを「◯◯の花嫁」と形容することが多いです。

こちらは昔の録画ですがクウェートの子供向け演劇です。主人公である王女の名前は شَمْسُ الشُّمُوسِ [ shamsu-sh-shumūs ] [ シャムス・ッ=シュムース ](複数の太陽の中の太陽、太陽の中の太陽)。周囲よりも際立ってすぐれた美しい姫になるよう名付けられただろうことが推測される名前です。複合語で長いため劇中では周囲から単にシャムス(太陽)と呼ばれたりもしています。

スルターン(スルタン、王)に可愛がられた美しい姫。若くして亡くなった妃の遺言に従って結婚相手は自由に選ぶことになるのですが、権力を狙う大臣親子の画策などを乗り越えた末に農民の青年 بَدْر [ badr ] [ バドル ] と結ばれ外の世界と民の苦しみを知り人として成長。最後に実は夫バドルが身分を偽っていた大商人と判明し、太陽と月という名前を持った夫婦の盛大な結婚式が開催されます。

太陽の輝きは良い光

愛する街は太陽のように燦然と輝く素晴らしい場所

こちらはサウジアラビア紅海沿いの都市ジッダ(ジェッダ)を褒め称える歌『وَهَج الشَّمْسِ』[ wahju-sh-shams ] [ ワフジュ/ワハジュ・ッ=シャムス ](太陽の輝き)です。

上の方で出てきた شَمْسُ الشُّمُوسِ [ shamsu-sh-shumūs ] [ シャムス・ッ=シュムース ](複数の太陽の中の太陽、太陽の中の太陽)と同じようにジッダ関連イベントで歌われたものだとのこと。輝ける太陽のようなジッダ、他の都市よりも抜きん出て素晴らしいジッダ、花嫁のように美しい街ジッダといったイメージがここでも強調されています。

お越しいただき光栄です~あなた方の訪問は太陽のように至上の光栄・栄誉を与えてくださる

アラブ諸国では客人を迎える際に「あなた(方)が私たちに光を与えてくださった、あなた(方)が我々を照らしてくださった」というような言い回しによって「お越しいただき光栄です」という気持ちを表します。

この時客人側は「(それは)あなた方の光ですよ」ともてなす側を称賛を返し、自分たちではなく相手の方が素晴らしくこの場をかけがえのない物としていることを強調します。

こうした歓迎の表現ではその光の種類や強さを何かにたとえることもあるのですが、管理人自身が実際に聞いたパターンだと「太陽の光のようだ」というフレーズを添えているバージョンが印象的でした。

これは光がただの光ではなく何にも負けない太陽を「この上なく光栄だ」「至上の栄誉だ」「訪問が嬉しくてたまらない」といった気持ちを表現するのに使っているものになります。

愛しい女性は太陽のように輝いている~金髪や肌色の輝かしさのたとえとして

有名なレバノン人歌手によるラブソング『君は太陽』。女性を太陽にたとえ、彼女の持つ色や輝く様が太陽みたいだと褒めている歌詞となっています。

この歌手の出身地がある一帯(シャーム地方、シリアやレバノンなど)はアラブ世界でも北寄りにあり、アラビア半島のアラブ人とは違った外見を持っている人が多いです。

ゲーム『アイドルマスターシンデレラガールズ』に出てくるライラ嬢はドバイ出身ですが彼女の出身地として設定されているアラビア半島と違い、レバノンやシリアのように金髪碧眼系統の外見の人が実際に存在する地域では陽の光に照らされてキラキラと輝く髪や肌色を恋人が「太陽のよう」とほめるシチュエーションが成り立ちます。

そのためアラビア語では女性の髪を「夜のように黒い黒髪」とほめる使い方と「太陽のように輝く金髪」「太陽の光のような金髪」とほめる使い方の両方が存在している形です。「太陽みたい」がほめ言葉になる文化圏なので、太陽のように忌々しい・鬱陶しい色と言われるようなことは特にありません。

*ちなみにアラビア半島の男性はシリアやレバノンの色白な女性を好んで結婚する風潮が以前からあり、サウジアラビアや湾岸諸国には欧米人女性だけでなく北方のアラブ地域出身女性を母親に持つミックスのアラブ人が結構いたりします。染髪もカラーコンタクトもなしでライラ嬢のような外見になるのは代々地元人だけで通婚してきたドバイ(アラブ首長国連邦)民としては不自然ですが、アラブ人同士の国際結婚などによりそうした風貌になる可能性が考えられます。

日の出・日没を恋人との逢瀬・別離に見立てたラブソング

こちらのラブソング『ああ太陽よ』では恋人の女性を太陽にたとえているのですが、他の歌よりも日の出・日没がクローズアップされた内容となっています。沈んで夜に消える太陽の性質を愛する女性と日夜に関係無くずっと一緒にいられない苦しみに重ね合わせており、日の出=恋人が自分のところにやってくること・逢瀬、日没と=その日の逢瀬の終わり・離別という構図になっています。

上の方で国語の授業の内容として「月は満ち欠けがあり新月=姿を消すといううつろうイメージがある」と紹介しましたが、月と違って満ち欠けがない太陽の方も出たり消えたりを繰り返すため似たような比喩表現で使われることがあります。

太陽と月の両方を使った比喩表現

これから紹介する動画は太陽と月をセットで使っている例です。称賛の意味を持つ比喩表現であることがほとんどかと思います。

太陽と月が両方出てくる場合、「両者に共通の光の比喩で太陽と月に並ぶぐらいもしくはそれ以上。強く輝き、並び立つ者がいないほどに崇敬・愛情を受ける頂点たる存在。非常に素晴らしい人物。」という強調の用法と、「太陽と月それぞれが持つ異なる美点を複数持ち合わせている人物。」を描写する用法などに分かれます。

預言者ムハンマドは太陽であり月である

イスラーム教徒の中で最も強く崇敬される人間である預言者ムハンマドを称賛した宗教詩(宗教歌)で、エジプトの民族衣装を着た男性が「あなたは太陽、あなたは月。あなたは他のどんな光をも超越した光。」とうたい、横で白い服を着た人がイスラーム神秘主義の修行者が昔していた舞踏(スーフィーダンス)を披露しています。

偉人の高い地位や誰も並ぶことができないまばゆい輝きを示すのに太陽を用いる比喩表現に月の光まで加わってより強い称賛を示していると言えます。

ちなみにイスラームの法学Q&Aサイト等にはこれについて詳しく書かれていて、

islamweb.net
جمال وجْه النبيِّ صلى الله عليه وسلم
『預言者ムハンマド様ー彼にアッラーの祝福と平安がありますようにーのお顔の美しさ』

預言者ムハンマドは太陽や月のように丸みがあり輝かしい顔をしておりどこの誰よりも美しかったという当時の信徒らの証言も紹介されています。そして太陽や月にたとえるだけではなく、彼の素晴らしい外見は太陽や月すらも超越するほどだったことが記されています。

アラビア語の伝統的な比喩表現では非常に地位や程度が高いことを「太陽すら超える」「太陽にすらまさる」、光り輝く美貌の度合いが尋常でない様子を「月すら超える」「月にすらまさる」といった具合に、似ているどころかもっと素晴らしいのだということを示します。これはアッバース朝時代などの詩においても為政者を称賛する時に使われた用法でした。

なお預言者ムハンマドの容貌について語っている同時代の人々の回想に関しては「剣のような ー كَالسَّيْفِ [ ka-s-sayf/saif ] [ カ・ッ=サイフ ] ー お顔でしたか?」と尋ねた人に対し「いや、月のようでした」と答えたという記録が残っています。このことからもほっそり痩せた顔ではなく肉付きが良くふっくらした顔を「月」と形容していたことがわかります。

聖地メッカの素晴らしさは太陽や月に匹敵

イスラームの聖地であるメッカ(マッカ)を太陽と月の両方にたとえその素晴らしさを表現した詩とその吟詠です。

サウジの宗教家・文学者 مبارك بن مستور الجعيد [ ムバーラク・ビン・マストゥール・アル=ジュアイド ] 師(故人)によるメッカ(マッカ)称賛詩で題名は『يا مكة الطهر أنت الشمس والقمر』[ ヤー・マッカタ・ッ=トゥフル(/トゥフリ)・アンティ・ッ=シャムス・ワ・ル=カマル ](清浄なるマッカよあなたは太陽であり月である)。(吟じているのは詩人とは別の男性です。)

お母さんの素晴らしさは太陽や月のよう、そのぬくもりは太陽のよう

こちらは母を称える歌で「あなたは太陽、あなたは満月、ああ母さん あなたはこの世で一番美しき存在だよ、ねえ母さん」という世界を照らす光のごとき偉大なる母への愛をつづった歌詞になっています。

太陽はここでも母の温もりや我が子を抱きしめる腕の中の暖かさのたとえとして使われています。

恋人の存在は沈むことのない太陽のようなもの

レバノン人人気歌手のナジュワー・カラムが歌う『あなたは太陽』というラブソングです。「ああ私の大事な人、あなたは沈むことがない太陽のようなもの。あなたは月みたいに美しくて、声は最も美しい歌のよう。」的な歌詞が含まれています。

君は太陽や月よりも美しく素晴らしい

こちらは愛しい女性をこの世のどんなものよりも美しいと絶賛しているラブソングです。

歌詞はYouTubeサイトにてタイトル下を開くと確認できるのですが、هِنْد [ hind ] [ ヒンド ](ヒンド)というジャーヒリーヤ時代からある典型的なアラブ女性名を呼びながら褒めちぎっている内容となっています。

肯定的な称賛表現を色々と並べる中で、太陽や月にたとえられるだろうか…と言っておりアラブ世界で比喩として使われる美しいもの・素晴らしいものの中に太陽と月のどちらもが含まれていることがうかがえます。

結局愛しいヒンドは歌い手の男性にとってそれら全てを超越した美しさを誇っており、結局のところ誰も・何も君には並び立つことができないし君はどんなものにも似ていなかったみたいだ、と締めくくって歌は終わります。

歌っているのはアラビア半島周辺に女性ファンが大勢いるイラク出身歌手 مَاجِد الْمُهَنْدِس [ mājidu-l-muhandis ] [ マージドゥ・ル=ムハンディス ](マージド・アル=ムハンディス)。コンサートで黄色い声援が飛び交い一緒に大合唱となるレベルの人気アーティストだけに、コメント欄にも「ヒンドという名前の人がうらやましすぎる」といった声が多数寄せられているようでした。

太陽や月が由来のアラブ人名

太陽に由来する人名

  • شَمْس [ shams ] [ シャムス ] ♀・♂
    シャムス
    Shams
    「太陽」の一番普通の名称。女性名としても男性名としても使えますが、どちらかというと女性名としての使用が多いような気がします。
  • ذُكَاء [ dhukā’ ] [ ズカー(厳密にはズカーゥ/ズカーッ) ] ♀
    ズカー
    Dhukaa、Dukaなど

    「太陽」の意味。動詞 ذَكَا [ dhakā ] [ ザカー ](燃えさかる)から派生した太陽の別名。その強い輝きからついた別名。女性名。
  • شُرُوق [ shurūq ] [ シュルーク ] ♀
    シュルーク
    Shuruq、Shurouq、Shorooq、Shrouqなど

    「日の出」という意味の女性名。日の出の光は美しいことからアラブ文化では好まれており、イスラーム以前のアラビア半島では信仰の対象にもなっていたとか。
  • شَمْس الدِّين [ shamsu-d-dīn [ シャムス・ッ=ディーン ] ♂
    Shams al-Dinなど
    シャムス・アッ=ディーン(シャムスッディーン)
    男性名。「宗教(信仰、イスラーム)の太陽」という意味の複合語で、中世以降功績のある人物に贈られた称号が一般的な男性のファーストネームに転じたものです。

月に由来する人名

月が由来の人名は男性、女性ともに現代にも残っており満月さん、新月さん、三日月さんといった名前を持つひとたちが存在します。

  • قَمَر [ qamar ] [ カマル ] ♀
    カマル
    Qamar

    太陽の反対語としての一般的な「月」を指すことが多いです。イスラーム世界全体で見れば男性名として使われる地域もあるようですが、アラブ諸国に関しては「月のような美人さん」というイメージの名前で女性名という扱いです。男性やオスの動物にカマルと命名する予定の方は要注意です。なお実在するアラブ人の男性でカタカナ表記がカマルとなっている場合は別の男性名 كَمَال [ kamāl ] [ カマール ](完全、完璧)の長母音「ー」部分が抜けたカタカナ表記のことだと考えて差し支え無いです。
  • هِلَال [ hilāl ] [ ヒラール ] ♂
    ヒラール
    Hilaal、Hilal
    「新月;三日月;半月」のいずれかを指します。こちらは男性名です。
  • بَدْر [ badr ] [ バドル ] 主に♂・♀にも使われる
    バドル
    Badrなど

    「満月」の単数形です。口語発音によってバドゥル、バディル、バデルのように聞こえることも。アラブ諸国では男性名としての使用が多め。
  • بُدُور [ budūr ] [ ブドゥール ] ♀
    ブドゥール
    Budur、Budoor、Budourなど

    「満月」の複数形です。単数は主に男性名+女性名としても利用可能なのですが複数形はもっぱら女性名として使われます。
  • قَمَر الدِّينِ [ qamaru-d-dīn ] [ カマル・ッ=ディーン ] ♂
    カマルッディーン(敢えて分かち書きをする場合:カマル・アッ=ディーン)
    Qamar al-Dinなど
    「信仰の月、宗教の月」(イスラームの信仰、イスラーム教における月のような立派な人物)という意味の複合語で、中世以降功績のある人物に贈られた称号が一般的な男性のファーストネームに転じたものです。「カマル(月)」単体だとアラブ世界では女性名として使われますが、「カマルッディーン」は男性名になります。
  • بَدْر الدِّينِ [ badru-d-dīn ] [ バドル・ッ=ディーン ] ♂
    バドルッディーン(敢えて分かち書きをする場合:バドル・アッ=ディーン)
    Qamar al-Dinなど
    「信仰の月、宗教の満月」(イスラームの信仰、イスラーム教における満月のような立派な人物)という意味の複合語で、中世以降功績のある人物に贈られた称号が一般的な男性のファーストネームに転じたものです。こちらは男性名です。

アラブの自然環境と太陽=寛大・新生のイメージ

最後に「どうしてアラビア語では月ではなく太陽が寛大・優しさ・新生の比喩に使われるのか?」「日本でアラブの価値観だと信じられているような、砂漠は死しかもたらさないか過酷な灼熱で月は安らぎと慈悲という対比が現地では一般的ではなくむしろ逆なのはなぜか?」という点に関して補足しておきたいと思います。

慈悲や寛大さといえばまずは雨や海

アラビア語で慈悲・恩恵・寛大さを表す典型的な比喩表現ですがまず思い浮かぶのが雨や海です。

雨は神からの恵み・慈悲・恩恵の象徴。まさに慈雨という言葉がぴったりの地位を占めており、アラビア半島などでは災害級の豪雨でない限り人々は喜び降雨を祝う傾向が強いと言えます。

そして海は人の寛大さ、アラブ人男性が重視する心の広さ・気前の良さなどのたとえに多用されています。

太陽についてはそれとは別に使われているもので、尽きぬことがない無尽蔵な温もり・慈悲や雨と並んで春に草木を芽吹かせる様子などに対応しています。

砂漠に命を蘇らせるのは雨と太陽

アラブ世界の一部であるアラビア半島だけをとっても自然環境は地域によって差異が見られ、砂漠地帯もずっと暑いわけでなく季節があります。

灼熱の真夏、気温が下がり雨が増える真冬、新緑が一気に芽吹く春、実りと収穫の秋によって太陽の受け止められ方も違ってきます。アラビア語における太陽と比喩表現にも関わってくる要素なのでまずはそちらから確認したいと思います。

関連記事:『アラブ世界の様々な自然環境と季節変化

太陽と雨で生命が息を吹き返す春

こちらは関連記事にも出てきたクウェートの砂漠地帯を覆う春のじゅうたんです。雨雲が空にかかり合間から太陽が顔をのぞかせ、小川ができ、雨水を吸った種や多年草が一気に芽吹き、穏やかな日照で草木がぐんぐん育ちます。

アラブ人は古くから植物の生育に水だけでなく太陽の光が必要なことは理解しており、雨と陽射しが枯れ果てた砂漠に緑を蘇らせる存在であることを詩などでも語っていました。

たとえばマムルーク朝時代に活躍した詩人イブン・ヌバータ・アル=ミスリー(西暦1287年生まれ)は主である唯一神アッラーに感謝を捧げる詩の中で

  • 「あなたはその露によって私に生を与えて下さった 露と太陽は草木に生を与えるものなのだ」
  • 「あなたはその恩恵によって私に生を与えて下さった それと同じように太陽は草木に生を与える」

というようなことを語っています。

真夏の太陽と乾燥しきった厳しい砂漠の真ん中では熱中症と脱水で死ぬこともあるわけですが、降雨と適度が気温上昇が重なった砂漠における春の芽吹きの様子は劇的でそこから「慈雨と太陽が命をもたらす」という連想になった模様です。

アラブ人たちの元々の生活はシンプルだっただけに自然の変化や季節の移り変わりはとてもよく観察しており、生命を育み常に光を与えてくれるという太陽の一側面を素晴らしいと感じ詩作にも織り交ぜた形となっています。

アラブ詩の解説書なども自然に対するアラブ遊牧民の観察眼について触れていることが多いように思います。そしてそうした価値観は現代のアラブ世界にも受け継がれています。

冬は飢饉と死の季節、夏は作物に恵まれる生命の季節

サイト内記事『アラブ世界における月と太陽~日本で紹介されているアラブの太陽・月像を検証してみる』、『アラブ世界における雪・雹・氷』でも書いた通り、アラビア半島は1年を通じて太陽が照りつける常夏・酷暑の地域ではなく、低地から2000~3000m級の山地までがある起伏に富んだ地形で防寒具無しには冬を越せない寒冷地があります。

イスラーム以前から近代ぐらいまでのアラビア半島での冬の記録にたびたび冬季の旱魃・飢饉の記録が残されている通り、同地では冬は食糧不足と苦しみの季節でしばしば集団移住や部族間の奪い合いを招くなどしていたことから、食糧に困らない夏のことを「貧者のための季節」など表現していったほどでした。

太陽の光が照って食糧に恵まれる夏季が救いと生命の象徴だというのは、千数百年前から続いてきた冬の苦しみともリンクしていると言えます。

無償の愛情・絶えぬ恩恵としての太陽

太陽は月と違い形を変えず新月のように姿を消したりせず、毎日必ず昇ってきてこの世をあまねく照らします。そこから決して尽きることがない・こんこんと湧き出る・見返りを求めない無償の恩恵や愛情にたとえる比喩表現が生まれました。

アラブ世界の様々な自然環境と季節変化』で紹介したような冬がある地域で凍えているところを助けてくれる人や、上の方で出てきた親の愛情を太陽にたとえている例がこれに相当します。

父母の愛を太陽にたとえた創作作品

アラブ人の作品投稿板
الشمس
『太陽』

こちらはアラブ人向けのウェブフォーラムにある創作関連板で、作品を投稿すると他のユーザーらが評論をし良い点を具体的に挙げてほめてくれたり、改善点を例示してくれたりするという意見交換の場となっているようです。そこにちょうど太陽をテーマにした作品が投稿されていたので取り上げてみたいと思います。

内容は「私は太陽から尊厳を学んだ 父は無償の寛大さを 母は暖かさと愛情を そして敵は沈むことを学んだのであった」というようなものとなっています。

他の人たちも良い作品だとおおむね肯定的な意見を書いていることもわかるのですが、高貴で威厳がある・寛大である・温もりを与えてくれるというのは決して突飛な発想かつ通常と真逆の描写というわけではなくアラブ世界に元々ある太陽観に沿ったものとなっています。

アラブ世界では「お母さん=太陽」のイメージ

新聞記事から

パレスチナ系オンラインニュースサイト
الشمس والمرأة توأمان
『太陽と女性は双子である』

ヨルダンの現代女流作家による投稿記事です。前半は「女性・母は、光輝く存在で愛を向ける相手に対して溢れんばかりの愛情を注ぐという点で太陽とまるで双子のようである。太陽のように寛大で、周囲の人々に等しく分け隔てなく際限のない光と愛を与える。」といった内容になっています。

アラブ世界以外の太陽・女性観に影響されている可能性もあるかもしれませんが、現代アラブ女性が描く理想の母親像としては比較的ポピュラーだという印象です。

ネットに投稿されている母への言葉から

母に贈る言葉系のネット記事や投稿でも

  • お母さんは輝ける太陽のよう
    お母さんはきらめく星のよう
    彼女は私の人生においてあらゆる美しい物事に匹敵する
    彼女は一番大切な存在
  • 母さんは私の人生を照らしてくれる太陽
  • あなたは太陽だ、あなたは満月だ
    ああ母さん
  • 母さんは私の昼間を照らしてくれる太陽
    私の夜を照らしてくれる月
  • 母さんと太陽はそっくり
    太陽は毎朝世界を照らすけれど母さんは絶えず私の人生と日々を照らしてくれている
    おはよう、私の愛しい人
  • 愛する母さん、あなたは私の人生を照らす光明
    私にとって太陽の光、私の日々の喜び
    あなたは我が人生の光
  • 母さんは私にとって輝く星、柔らかな雲、我が人生の花、暖かい太陽
  • あなたは全てに匹敵する
    あなたは私にとって空に浮かぶ太陽、月、星
    照りつける砂漠の日陰
  • 母さん、母さん、私の一番大切な人
    我が心、我が道を照らす光
    太陽が沈むかのようにもしあなたがいなくなったとしたら、恋しさが溢れ出してしまうことだろう
    ああ母さん、あなたは私の太陽

といった最上級の愛・称賛をしばしば見かけます。

日本では「アラブの国では”太陽のような女性”というのは苛烈で激しいやばい人という意味だ」という都市伝説が流布しているようですが、実際には全くの誤報であることがこの実例を見ただけでもおわかりいただけるかと思います。

冷酷非情ぶりは「石のように無慈悲な」といった表現に

アラビア語の比喩表現として太陽を冷酷・非情の代名詞にならないのなら、一体何を使うのか?について触れておきたいと思います。

アラビア語で冷酷・非情・無慈悲の象徴は「石」

クルアーンの時代からあった「石のような心」という表現

アラビア語では相手の頑迷さ、冷酷非情さ・情け容赦の無さは「石」「岩」で表すなどします。

هٰؤُلَاءِ النَّاسُ بِلَا رَحْمَةٍ كَالْحِجَارَةِ
あの人達は石のように無慈悲だ

  • 文語発音:hā’ulā’i-n-nāsu bi-lā raḥmatin ka-l-ḥijārah
    読み方:ハーウラーイ・ン=ナース・ビ・ラー・ラフマティン・カ・ル=ヒジャーラ(フ/ハ)
  • 日常会話寄り文語発音:hā’ulā’i-n-nās bi-lā raḥma ka-l-ḥijāra
    読み方:ハーウラーイ・ン=ナース・ビ・ラー・ラフマ・カ・ル=ヒジャーラ

قَلْبٌ قَاسٍ كَالْحِجَارَةِ
石のように厳しい(≒非情な)心

  • 文語発音:qalbun qāsin ka-l-ḥijārah
    読み方:カルブン・カースィン・カ・ル=ヒジャーラ(フ/ハ)
  • 日常会話寄り文語発音:qalb qāsī ka-l-ḥijāra
    読み方:カルブ・カースィー・カ・ル=ヒジャーラ

إِذَا لَمْ تَبْكِ قَلْبُكَ مْنِ حَجَرٍ
もし泣かなかったとしたら君の心は石(のように冷たく非情)だ
*悲しみや憤りを誘うような出来事・事態を目の前にしてもなお心動かされ涙しないようであれば、君の心はまるで石のごとく冷酷非情であるに違いない、という意味。こんなひどいことを見て思わず涙しない人なんてまずいないだろうに、という前提の言葉。

  • 文語発音:’idhā lam tabki qalbuka min ḥajarin
    読み方:イザー・ラム・タブキ・カルブカ・ミン・ハジャリン
  • 文語発音:’idhā lam tabki qalbuka min ḥajar
    読み方:イザー・ラム・タブキ・カルブカ・ミン・ハジャル

يَبْكِي حَتَّى الْحَجَرُ
石ですらも泣く、石(のように非情で何かに心動かされることが決してないような心)ですら涙する

  • 文語発音:yabkī ḥatta-l-ḥajaru
    読み方:ヤブキー・ハッタ・ル=ハジャル
  • 日常会話寄り文語発音:yabkī ḥatta-l-ḥajar
    読み方:ヤブキー・ハッタ・ル=ハジャル

最後の表現は日本語における「鬼の目にも涙」に近いかと思います。日本では厳しく非情な人のことを「鬼のよう」と言いますが、アラブ圏だとそういう鬼のような心を「石のよう」と表現します。

石や岩が温かみや優しさがない心の比喩になる件については、クルアーン(コーラン)にも出てくる表現となっています。

クルアーンの注釈書を見ると石を無慈悲の比喩として使っている理由に関する考察が詳しく書かれています。そのうちの一説によると、硬度がある物体として当時(約1400年前)から知られていた鉄や鉛にしなかったのは火にかけると金属は溶解するのに石はそのままで頑なに変わることがないからだとか。

「石のような心」と題したドラマに表れている慣用句としての「石=冷酷非情、無慈悲」のイメージ

*閲覧注意*
子猫を池に投げ捨てるシーンあり。

慣用句をそのままタイトルにしたテレビドラマ『قلب من حجر』(石でできた心、石の心)。あまりの残酷さに戸惑う女性の言葉も聞かず子猫を袋に詰め込み池に捨てる冷酷無慈悲なシーンが出てくるなど、非情さに対する道徳教育的警告を織り込んだ全年齢向けの番組に仕上がっています。

石よりも大きなサイズ「岩みたいに冷酷無慈悲な」バージョンも存在

イラクの失恋ソング『قلبك من صخر(君の心は岩でできている / 君の心は岩のよう)』。石よりも大きな岩で相手の心を表現、自分を捨てた元恋人を無慈悲で冷酷だと恨んでいる内容となっています。

ああ無情な心を持つ人よ、自分は死ぬまで一生君のことを忘れないのに君は僕を忘れてしまった、君が刃のよう(に厳しく冷酷)なせいで僕の気持ちは傷ついた、と辛く苦しい想いを吐露している歌詞が続きます。

このような感じでアラブ世界にはラブソングだけではなく切ない失恋ソングも結構あります。愛情を伝える時は甘々で色々な表現を駆使しているのですが、大昔から続く恋愛詩や恋の病で飲食がままならなくなるといった表現が定着している文化圏の伝統のせいでしょうか。失恋ソングもズタボロのものすごい憔悴ぶりで苦行のような毎日を過ごしている様子が目に浮かぶ歌詞が珍しくありません。

心無い発言は「乾いた言葉」と表現

その他にも「乾いた、乾燥した」という意味の形容詞 جَافّ [ jāff ] [ ジャーッフ ] を「不躾な、粗野な、きつい、思いやりに欠ける、心無い」人の様子を表すのに使ったりもします。

日本語における無味乾燥が「面白みのない」という意味になるのに対し、アラビア語では「乾いた言葉」で相手への配慮に欠ける粗野な発言、他人への思いやりが足りない心無い言葉のたとえとして用いられています。

心が冷たくなったり凍ったりするのは喜び・幸せ~灼熱の暑さがマイナスイメージになっている慣用句も

アラビア語では夏の砂漠をじりじり照らす灼熱の太陽と良い意味にばかり使う比喩表現とのギャップが大きいのですが、一方で暑さに苦しむ夏がある地域ならではのフレーズもあります。

  • 心を冷たくする、心を凍らせる(=嬉しくさせる、喜ばせる)
    「~の心を冷たくする」「~の心を凍らせる」といった熟語は日本人の感覚だと相手に嫌な思いをさせる・不興を買うといった意味のように受け止められるかと思うのですが、アラブ世界ではとてもプラスな「~を喜ばせる、~を幸せな気持ちにする」という意味になります。
  • 日陰、木陰(=安らぎ、守ってくれる存在、優しい人)
    アラブの詩や歌詞によく出てくるのが فَيْء [ fay’ / fai’ ] [ ファイィとファイッが混ざったような発音 ] です。これは太陽が出ている時の日陰、木陰なのですが「安らぎ、守ってくれる存在、優しい人」などを形容するのに使われます。日本では「日陰者」というと悪い意味になりますが、太陽の日差しが非常に強いアラビア語圏では فَيْء [ fay’ / fai’ ] [ ファイィ/ファイッ ] はとても良い使われ方をしています。

これはまさに暑い国ならではの表現だと言えますが、アラビア語比喩表現における太陽のイメージについては「暑い天気だから太陽を使った比喩も悪い意味に違いない」という推論が大外れになってしまうため要注意です。

外国語の熟語や慣用句はその地域の天候だけでなく文化や宗教などの要素も加わって推測や想像だけでは解釈ができないことが多く、辞書の参照が欠かせないです…