女性の結婚と夫婦同姓/夫婦別姓問題に関しては姉妹ページ『アラブ人の名前のしくみ~西欧式名乗りとラストネーム、夫婦別姓問題とアラブ女性の家名・名字』をご覧ください。
アラブのファミリーネーム(家名)・ラストネーム制度
家名・名字・姓に相当する物を持つ人が意外と多いアラブ世界
「アラブ人には姓が無い」という話は日本でも有名です。たしかに、アラブ世界には全員が名字、姓を名乗ることを義務付けられた明治維新後の日本のような統一されたシステムは存在しません。
しかし実際にはファミリーネームに相当するものがあり、西欧式ラストネームと同等に名乗っている人たちが大勢います。日本では「アラブには姓が無く家名は王族ぐらいしか名乗らない」という言説も流布していますがそういうことはありません。多くが何らかの家名をラストネームとして使っています。
アラビア語ではこうしたファミリーネームを اِسْم الْعَائِلَةِ [ ’ism ’al-‘ā’ila(h) ] [ イスム・ル=アーイラ ](イスム・アル=アーイラ)もしくはファミリー部分を形容詞にして اَلِاسْم الْعَائِلِيّ [ ’al-’ismu-l-‘ā’ilī(y)(厳密には’ali-smu-l-‘ā’ilī(y))] [ アル=イスム・ル=アーイリー(厳密にはアリ=スム・ル=アーイリー)] と言い、文字通り「一族・家系の名前=ファミリーネーム」という意味で使われています。
部族社会であるサウジアラビア辺りだと部族名由来のニスバなどがラストネーム扱いされるのが一般的であるため、اِسْم الْعَائِلَةِ [ ’ism ’al-‘ā’ila(h) ] [ イスム・ル=アーイラ ](イスム・アル=アーイラ、すなわち「家族の名前」)ではなく اِسْم الْقَبِيلَةِ [ ’ism ’al-qabīla(h) ] [ イスム・ル=カビーラ ](イスム・アル=カビーラ、すなわち「部族の名前」)と呼ばれたりしているのを動画ニュースなどでも見かけます。
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『アラブ家名辞典』
部族名や先祖の職業名・あだ名など、ファーストネームとして使われずもっぱらファミリーネームとして使われるものを随時追加中です。
家名の語数
家名の語数は1語(定冠詞は別個1語とはカウントしないので、定冠詞があっても無くても1語とみなします)が多いです。
「~の父」「~の息子」タイプは2語の複合語になりますが、口語的な発音をするものでは分かち書きせず、アラビア文字上・英字表記上1語に見える場合があります。
2語からなる複合語タイプの家名としては「~の父」「~の息子」方式がメジャーですが、家長本人のファーストネームが他の人のフルネームをそっくりそのまま取ったものや主語・述語、名詞・形容詞を連想させるタイプの2語ファーストネームの場合は家名も2語になります。
またパレスチナに実在する صَانِع الْخَيْرِ [ ṣāni‘u-l-khayr/khair ] [ サーニウ・ル=ハイル ](「善をなす者」という複合名タイプの家名)家のように、能動分詞とその動作の目的語に相当する語から成り立つ複合語が家名になっているケースもまれに見られます。
ファーストネームとラストネームの区別
イスムとラカブ
ファーストネーム+ラストネームという概念に当てはめた場合、現代アラブ世界では本人のファーストネーム部分を اِسْم [ ’ism ] [ イスム ]、ラストネーム部分を لَقََب [ laqab ] [ ラカブ ] と呼んで区別することが広く行われています。
ラカブというと日本ではもっぱら『アラブ人の名前のしくみ~ラカブ(あだ名・尊称)』で紹介したようなアル=ジャーヒズ、ファーティマ・アッ=ザフラー(/ザハラー)、サラーフッディーン(サラーフ・アッ=ディーン)を指すのですが、アラブ諸国では事情が違っています。
『アラブ人の名前のしくみ~ニスバ(ゆかりのある出身地・部族・職業を示す)』に出てきたような出身地・出身部族由来の形容詞なども含めて、とにかく諸外国でラストネームやファミリーネームと呼ばれるものに相当するパーツをラカブと呼んでいるので、「あだ名・尊称」という意味で使われているラカブの方と混同しないよう注意が必要です。
ラストネームといっても種類はたくさんある
人によって父や父方祖父といった家父長の名前が来る場合もあれば、出身部族由来や出身地由来の形容詞形が来る場合もあったりで、「家名」「名字」「姓」とひとくくりにするのが難しい多様性をもっています。
ファミリーネームと形容するのがあまり適当ではないので、ここでは家父長の本名やあだ名がラストネーム部分に来ていないケースも含め、便宜上「ラストネーム」と呼ぶことにしたいと思います。
アラブ式ラストネームの性質
フルネームとラストネーム相当部分のパーツ数
家名、先祖の出身地名由来の形容詞、出身部族由来の形容詞など、ファミリーネームもしくはラストネームに相当するパーツは1つとは限らず、「すごく古い家名+ちょっと古い家名+数代前から名乗っている家名」のように3つぐらいがつながっている場合があります。
有名人物の人名録方式なていねいなフルネームでよく見かけるのですが、パレスチナのPLO議長を務めたヤーセル・アラファート氏の場合は
مُحَمَّد عَبْد الرَّحْمٰنِ عَبْدُ الرَّؤُوفِ عَرَفَات الْقُدْوَة الْحُسَيْنِيّ
[ muḥammad ‘abdu-r-raḥmān ‘abdu-r-ra’ūf ‘arafāt ’al-qudwa(h) ’al-ḥusaynī(y)/ḥusainī(y) ]
ムハンマド・アブドゥ・ッ=ラフマーン・アブドゥ・ッ=ラウーフ・アラファート・アル=クドゥワ・アル=フサイニー
もしくは
مُحَمَّد يَاسِر عَبْدُ الرَّؤُوفِ دَاوُد سُلَيْمَان عَرَفَات الْقُدْوَة الْحُسَيْنِيّ
[ muḥammad yāsir ‘abdu-r-ra’ūf dawūd sulaymān/sulaimān ‘arafāt ’al-qudwa(h) ’al-ḥusaynī(y)/ḥusainī(y) ]
[ ムハンマド・ヤースィル・アブドゥ・ッ=ラウーフ・ダーウード・スライマーン・アラファート・ル=クドゥワ(トゥ)・ル=フサイニー ]
ムハンマド・ヤースィル・アブドゥッラウーフ・ダーウード・スライマーン・アラファート・アル=クドゥワ・アル=フサイニー
という2種類のフルネームがよく出回っています。彼のファーストネームは複合名で、父の名前はアブドゥッラウーフ、父方祖父の名前はダーウードだったことが知られています。
終盤部分は家名に相当するパーツが複数連なっている状態で、アラファート、アル=クドゥワ、アル=フサイニーは全部ラストネーム・ファミリーネーム的扱い。時系列的にはアル=フサイニーが一番古く、続いてアル=クドゥワ、最後にアラファートという順番で付け足されていったようです。
一見するとアラファートまでが父子関係で連なっているように見えてしまうため「祖父の名前はアラファート」と書いてある記事もあったりするのですが、アラファートは一族がガザ地区に移住してきた最初期の家長のことだとか。アラファート家と名乗る前はアル=クドゥワ家。アル=フサイニーは出自由来の形容詞で一族のはるか遠いご先祖が正統カリフ アリーの息子フサイン(カルバラーで戦死)の遺児だったという言い伝えに由来するもので、家名とはちょっと違う感じです。
ラストネーム・家名と地域差
家名利用の頻度については地域差があります。
エジプトは家名を名乗っている人が他の地域よりも少ないことが知られており、「本人の名前・父の名前・父方祖父の名前」というファーストネームを並べただけというパターンの名乗りをしている人が大勢います。
一方、部族社会であるアラビア半島では部族名由来の家名が多く、レバノン・シリア・パレスチナ周辺では職業名や家長のあだ名が由来の家名が多様に存在する、といった具合にばらつきが見られます。
アラビア半島
部族社会に多いラストネームは?
サウジアラビアなどアラビア半島、いわゆる日本人がイメージする砂漠の部族社会の場合は「本人の名前+父親の名前+父方祖父の名前」というフルネームは少ないです。
そうした部族社会では、3パーツからなるフルネームのうち3パーツ目に部族由来のニスバ形容詞(al-◯◯ī(y))、家長の本名にアルやアールをつけた家名(Al ◯◯)、家長のあだ名であるアブー・◯◯(Abu ◯◯)類もしくはイブン・◯◯(Ibn ◯◯)類のような大部族の支族・分家特有のファミリーネームが来るのが一般的です。
イラクなども複数の部族が居住しており、人名を見ると部族由来のニスバ形容詞(al-◯◯ī(y))、家長の本名にアルやアールをつけた家名(Al ◯◯)をラストネームとして名乗っているケースが多いように思います。
サッカーなどのスポーツでポジション表などがアルだらけになる理由
アルは定冠詞で地名・施設名・チーム名やラストネーム部分で多用
部族社会であるアラビア半島などは部族名由来の形容詞や支族・分家の家長のファーストネームなどに定冠詞アルをつけたラストネーム(ファミリーネーム、日本の姓・名字に相当)を持っている人が大半を占めています。アルの後に来るのは出身部族名由来の形容詞、先祖となった家長・支族長の名前(もしくは通称)が多く、他には出身地名由来の形容詞や先祖の職業などです。
サッカーなどではファーストネームだけの選手一覧を作るとムハンマドやアフマドだらけになってしまうので、基本的にファーストネームとラストネームを1パーツずつ組み合わせた合計2パーツ構成の短いフルネームになっています。
ポジション表は字数の制限があるため、フルネームが無理な場合うちファーストネームメインで掲載する場合とラストネームを掲載する場合とに分かれます。
ムハンマド、アフマド、アリーのような人名が並んでいる場合はファーストネームメインのポジション表です。「.」ではさんで一文字だけ後ろに補足してあるのは区別のためラストネームの一文字目を添えたものになります。
一方、ラストネームメインのポジション表では名字に相当する部分を掲載。「.」ではさんで一文字だけ前に補足してあるのは区別のためファーストネームの一文字目を添えたものになります。
サウジアラビア、クウェート、カタール(カタル)、バーレーン(バハレーン)、オマーン、アラブ首長国連邦、イエメン、イラクといったアラビア半島近辺区域は部族出身者だらけなので定冠詞アルがついた「Al-◯◯」「アル・◯◯」「アル◯◯」という選手名がずらりと並ぶことになります。
ただこのアルは日本語化する際に省略することもあります。メディアによって定冠詞をつけた「アル・◯◯」「アル◯◯」と本体・メイン部分のみ残した「◯◯」で違っているのはそのためです。
サッカー等選手名のフルネーム構成
英語や日本語の記事そして例外的にアルジェリア等の記事だとラストネーム(姓、名字/苗字、家名に相当するパーツ)の部分が先頭に来ていることも少なくないのですが、アラブ人のフルネームは基本的に本人のファーストネームが最初に来ます。
フルネームは正式なものだと本人の名前+父の名前+父方祖父の名前+家名・出自表示といった具合に4パーツぐらい並べることもあり、最後の家名・出自部分で定冠詞の اَلْ [ ’al- ] [ アル= ](al-)が最も多く登場します。
現代アラブ人名では「~の息子」という意味のつなぎパーツである bin(ビン)などは使わないので、本人の名前の直後に父の名前や家名などが直結します。アラビア半島地域のサッカー選手だと
[ A:本人の名前 ] + [ B:父の名前 ] + [ C:父方祖父の名前 ] + [ D:al-出自表示 ]
が一番長いフルネーム表示だと考えて差し支えありません。
サウジアラビアの選手あたりになるとD部分はだいたい
- al-出身部族名/出身地名由来の形容詞(~出身の◯◯)
- al-一族の父祖ファーストネームや通称(◯◯家の)
のいずれかで、イー(ī)とかイ(i)の音で終わっている場合は「~出身の」という形容詞の方となります。
Al-Dosari(日本語記事ではアル・ドサリ、アッ=ドーサリーなどのカタカナ表記)がその典型例で、ドーサリーというのは「ダワースィル族出身の」という出自表示が前に来る人名に形容詞修飾でかかっているため定冠詞が必要になりアルとかアッが先頭にくっついているものです。
このような部族名はイスラーム以前つまりは千数百年前から続くものが多く、名乗っている人たちの遥か遠い先祖が親族だったことを示しているため現代では成員が数十万単位でいることも珍しくありません。そのためお互いに面識が無い同士ながら部族という紐帯で結ばれている同士が無数にいて、特に親しい親戚関係が無くてもアル・ドサリ(アッ=ドーサリー)だらけになりやすい背景事情が存在します。
[ A:本人の名前 ] + [ B:父の名前 ] + [ C:父方祖父の名前 ] + [ D:al-出自表示 ]
にあてはめると
- [ ムハンマド ] + [ アフマド ] + [ サーリム ] + [ アッ=ドーサリー ]
- [ スライマーン ] + [ ムハンマド ] + [ マフムード ] + [ アッ=ドーサリー ]
というフルネームの選手が2人いた場合、
- ラストネームのみの表示だとどちらも [ アッ=ドーサリー ]
- 区別するためにファーストネームの頭文字を添えれば [ M. アッ=ドーサリー ] と [ S. アッ=ドーサリー ]
シリア・レバノン周辺
シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダンのようなレヴァント地域ではサウジアラビア周辺とはまた違った感じの家名がポピュラーで、3パーツ目に祖先の職業名由来のニスバ、家長のあだ名由来のラカブ、アブー・◯◯の◯◯部分が農作物等の名称となるクンヤなどが来るケースが多くなります。
レバノンやパレスチナの人名録や資料を見ていると、こうした家業を家名にした時期はオスマン朝による統治の時代だったようです。元々はイスラーム遠征軍に加わってアラビア半島から出てきた部族民らがそのまま定着し他の家名を名乗っていたもののオスマン朝の時代頃にアラビア語やトルコ語由来の職業名を家名として入れ替えていった、という経緯だった模様。
ただ、そのような地域でもアラビア半島から移動してきた遊牧民の末裔や部族民は現代でも部族由来のニスバ(al-◯◯ī(y))が家名部分に来ることがあるので、同じ国の住民でもファミリーネーム部分に違いが見られます。
エジプト
アフリカ大陸の北にあるエジプトの場合は家名が無い人が多く、かつて荘園を持っていた貴族的一族やオスマントルコ支配下で役職を持っていた家系、出身地や一族の家業を示すような家名を持っている人などを除けば、オーソドックスな「本人の名前+父親の名前+父方祖父の名前」も多いです。
マグリブ諸国
北アフリカについてはBen◯◯やBou◯◯など、アラビア半島、シリア・レバノン、エジプトのいずれとも異なる家名が多く見られます。
また他の地域と似たファミリーネームであっても、現地方言やフランス語をベースにしたラテン文字表記になっていてつづりが異なるため、他地域にも見られる家名・人名と一緒であっても気付きにくいという傾向があります。
ラストネームと社会的地位
父方の家名・部族名を何代にもわたり引き継いでいく
アラブ人名のラストネーム部分は父親・父方祖父・父方先祖(家長)のファーストネームがただ入るだけでないことが多いです。日本で言われているような「本人・父の名・祖父の名を並べておしまい」とはかなり違う状況です。
アラブのラストネームは父親に認知されている以上全て父方から引き継ぎます。選択制ではないので母方を選んで名乗るということは基本的にしません。
その人のバックグラウンドを物語るラストネーム
アラブの家名は父祖の出身・職業・特徴・通称から取られることが多いため。日本の「佐藤」「鈴木」といった姓・名字・家名よりもその人の社会的なバックグラウンドを特定しやすいと言えます。
ラストネームの種類によってはどの部族の出身か・どこの地域に多い何家の人間か・統治者一族の縁者かどうかがラストネームから簡単に知られてしまうため、アラブ世界では地域によってファミリーネーム・ラストネームがその人に対する差別などを生むことも。
また先祖のおかしなあだ名や職業名がそのまま家名になったために周囲にいじめられる事案もしばしば起きており、日本でイメージされている「父称しかないアラブ」「姓が無いアラブ」「夫婦別姓問題や名字の足かせから自由なアラブ」とはかなり違った現状となっています。
千年以上前の先祖の所業を家名として背負っているケースも
アラブ首長国連邦からオマーンにかけて住む部族は「けち・吝嗇」が由来の部族名を名乗っているのですが、それも他者からつけられた蔑称に近いあだ名が家名として定着してしまった一例です。祖先が正統カリフの時代に起きたリッダ戦争に伴い喜捨の支払いを止めた上に家長が新たな預言者を自称したことが原因だと言われています。
先祖が犯した千数百年前の所業を現代でもファミリーネーム(ラストネーム)として背負っているケースで、アラブ世界における家名の影響と重さを物語る典型例となっているように思います。
Al ◯◯ [ アール・◯◯ ](◯◯家)
部族の分家に多く見られる آل [ ’āl ][ アール ]
آل
[ ’āl ] [ アール ]
Al ◯◯
【名詞】(男性の)家族、子供たち;付き従う者たち、援助者たち
「◯◯家」とそのものズバリなわかりやすい例です。部族から枝分かれして家名の元になった先祖の名前をとって家名としている場合などがこの「アール・◯◯」に当たります。
アラビア語辞書だと家族・一族以外にもいわゆる郎党も含んだ定義になっていますが、ファミリーネームとして使う場合は「一家」「一族」を意図していると言えます。辞書によっては「栄誉ある一家にのみ使う」「たいていの場合は栄誉ある一家に用いる」と書いてあることも。
ネット上で「アル」と書いてあったり「定冠詞のAlがついた家名」と誤って説明されているものの多くがこの名詞アールで、混同される傾向が強いです。英語でAlと書かれるためアラビア語の定冠詞al-と間違われがちで、カタカナ表記もアルが多めです。
しかし実際には定冠詞アルの仲間ではなく、名詞 أَهْل [ ’ahl ] [ アフル/アハル ](家族、親族)との関連が強い名詞です。この آل [ ’āl ] [ アール ] 自体の語源が أَهْل [ ’ahl ] [ アフル/アハル ] だとされており、真ん中の文字 ـهْـ [ h ] が同じ声門で出す ء [ ’ ](ハムザ)に転じて أَأْل すなわち آل になったのだとか。(*ハムザに関する専門書の記述より。)
アラビア半島の元首ファミリーは定冠詞アルではなくこちらの名詞アールが多い
なお「サウジアラビア王家などの家名には全部定冠詞のアルがつく。アルは王家の家名の印。」と覚えてしまわないようご注意ください。
昔ジェトロから出たアラブ人名解説にそのようなことが書かれていましたが、筆者の方はアラブ人名・家名に関して多くの誤解をされたまま執筆された形跡がありアルがつくのは王家・名家だけ的なくだりもあまり正確ではありません。
『アラビア語ハンドブック』という文法書には”威厳のاَلْ”という項目でファーストネームにつく冠詞「アル=」が歴代カリフや国王の名前につけ威厳や権威を与えるためにつけられたものだという説明がありますが、複数のアラブ人向け大型文法書で確認しましたがそのような解説を見つけることはできませんでした。該当項目はアラビア語で書かれた大型文法書の記述と合致しない部分が多く、アラブ式文法書の専門用語を読み違えたと思われる説明も混ざっているなど人名・家名に後付けされる「al-(アル=)」に関する情報としては信頼性に欠けると言わざるを得ません。
アラビア半島の王族にアール・サウード、アール・サーニー、アール・マクトゥームのようなファミリーネームがあるため「アール(Al)で始まるのは王族の家名」と間違えられがちですが、部族の分家を示す一方式なので一般国民でも「アール・◯◯家」がラストネームの人は少なくありません。なので「アールがついているイコール全ての家が王族や豪族だ」と言い切れないように思います。
王族でなくても「一族、家」の意味でアールをラストネームで名乗っているケースも少なくない
家名につくアールに関しては国・地域・部族(/大部族連合)によって違いがあり、王族の家名に定冠詞アルがついている国もあれば名詞アールがついている国もあり、名詞アールつきの家名持ちがたいてい有力者一族な地域もあればそうでない家でもアール◯◯を名乗る地域もあったりと、家名に関する傾向や法則はまちまちだと言えます。
西洋の王室名に使われるアール
ちなみに欧州の王族(ブルボン家)などをアラビア語訳する時もこのアールが使われ「アール・ブルボン」という風に表現されます。
アールがついた分家と定冠詞「アル」つき形容詞化出身部族名の違い
アールは分家、アル=△△イーは大元の部族
たとえば同じ部族名al-△△ī由来のニスバを持つ成員らの中にそれぞれの家名の元になった人物A、B、Cがいて、その一族・子孫らが「アール・A」(A家)、「アールB」(B家)、「アールC」(C家)という風に枝分かれして家名を名乗るようになる、といった感じです。
△△族
ニスバ:al-△△ī [ アル=△△イー ]
└ Aの分家:Al A [ アール・A ] / Al A al-△△ī
└ Bの分家:Al B [ アール・B ] / Al B al-△△ī
└ Cの分家:Al C [ アール・C ] / Al C al-△△ī
それぞれが名乗ろうと思えば「al-△△ī」という部族名由来の形容詞であるニスバを後に添えることができるけれども、普段は分家のファミリーネームとして「アール・◯◯」を名乗っているという形になります。
実際には分家名はアール、アル=、その他が混在
分家が全部 Al ◯◯(アール・◯◯)になるかというとそうでもなく、同じ有名大部族の傘下にある分家でもAl ◯◯(アール・◯◯)と定冠詞に個人名をつけたAl-◯◯(アル=◯◯)が混在しており、特定部族の分家が全部同じ方式の命名規則に従っているというわけではありません。
昔アラブの書店で購入したアラビア半島の部族名と分家の大辞典を見てみましたが、タミームのような大部族には数百の分家がありアール・◯◯やらアル=◯◯やらが入り混じっている状態でした。
Al ◯◯(アール・◯◯)の実例
ちなみにこの「アール・◯◯」、首長ファミリーに限らずアラビア半島地域にちょこちょこ存在するファミリーネームです。
サウジアラビア王族、アラブ首長国連邦の主要首長一族、カタール首長一族などが家名として使っているのでロイヤルなファミリーの特徴だと感じられる方も多いようですが、元々は大部族の分家を名乗るための名詞なので元首一族と同じ部族から枝分かれした親戚の家名や、イラクあたりの普通の部族分家とかでもフルネームにもアールが出てくるなどします。
アールを名乗っている元首がいる地域だとアール◯◯さんがお偉いさんの一族出身である確率が高くなるため「Al ◯◯さんはいいとこのお坊ちゃん/お嬢様」と感じることが多くなるかと思いますが、実際にはそれ以外の部族民たちもフルネームなどで使ったり自分たちの大部族分家を述べる時に「うちらの◯◯家」と言ったり親戚用のFacebookグループに「◯◯家(アール◯◯)のサイト」と命名してあったりするので、名詞Al(アール)自体に特別性は無いです。
元首一族や彼らの親戚である違う分家ぐらいしかアールを名乗っていない地域であればアール◯◯さんイコール自動的に有力者家系ということになりますが、そうでない場合はアールの後に来る◯◯部分を見てどの一族か確認してから自分の家との上下関係やら友好・敵対関係やらをはかることができるといった感じになるかと思います。
こちらのアールですが、英字表記上でそっくりなため混同されがちな定冠詞「al-」[ アル= ] と違いAlの後をハイフンで結ばないのが特徴です。
- آلُ مُحَمَّد عَلِيّ [ ’āl muḥammad ‘alī(y) ][ アール・ムハンマド・アリー ]
Al Muhammad Ali、ムハンマド・アリー家
クウェートに実在するファミリーネムだとのこと。 - آل ثَانِي [ ’āl thānī ][ アール・サーニー ]
Al Thani、サーニー家
カタールの首長一族。サーニーという名前の人物の子孫であることから。- آل ثَاني التَّمِيمِيّ [ ’āl thānī at-tamīmī(y) ][ アール・サーニー・アッ=タミーミー ]
Al Thani al-Tamimi、タミーム族の サーニー家
タミーム族の分家ということで、家名に部族名由来ニスバを添えたバージョンもあるようです。
- آل ثَاني التَّمِيمِيّ [ ’āl thānī at-tamīmī(y) ][ アール・サーニー・アッ=タミーミー ]
- آل مَكْتُوم [ ’āl maktūm ][ アール・マクトゥーム ]
Al Maktoum、マクトゥーム家
ドバイの首長一族。マクトゥームという名前の人物の子孫であることから。マクトゥーム家はアラビア半島海岸部の有力部族 بَنُو يَاس [ banū yās ] [ バヌー・ヤース ](Bani Yas、バニー・ヤース) の系統で、その支族である آل بُو فَلَاسَة [ ’āl bū falāsa(h) ] [ アール・ブー・ファラーサ ](bū=口語で「~の父」) のさらにまた支族・分家という系譜だとのこと。
ちなみに大元の部族の名前に含まれる يَاس [ yās ] [ ヤース ] は大御先祖である男性 إِلْيَاس [ ’ilyās ] [ イルヤース ](=預言者イルヤース(エリヤのこと)の名前) なんだそうです。 - آل سَعُود [ ’āl sa‘ūd ] [ アール・サウード ]
Al Saud/Saoud、サウード家
サウジアラビアの国王一族。サウード家は元をたどれば بَنُو حَنِيفَة [ banū ḥanīfa(h) ] [ バヌー・ハニーファ ](ハニーファの子孫たち)という名前の部族の系譜で、そこの成員であったサウードが家長である分家が枝分かれして「アール・サウード」と呼ばれるようになったものです。
アールの英訳
アラブのファミリーネーム「アール・◯◯」は通常「House of ◯◯」と英訳されているかと思います。House of Maktoumはマクトゥーム家、House of Saudはサウード家となります。
この場合のhouseは「~家」という意味なのでマクトゥーム一族の邸宅といった物理的な建物を示しているわけではありません。
先祖の誰かの名前に定冠詞をつけた「al-人名」
定冠詞アルはラストネーム部分に来る出自由来の形容詞を限定したり家名になった祖先名や職業名を限定したりするためにつけるので、名詞アール(Al)よりももっとありふれていて部族社会ではない各地でも使われ登場頻度が高いです。
外国人や出稼ぎのアラブ人が非常に多い地域では上のアールやこの定冠詞アルがついている家名を持っている人たちが部族出身のローカル国民であることを見分けるある程度の参考になるかもしれませんが、定冠詞アルがついた家名の方は他の国でも多く見られるのでアル◯◯家イコール名家のように判断することはしない方が良いように思います。
家名「アル◯◯」
اَلْــــــ
[ ’al- ] [ アル= ]
al-◯◯
【定冠詞】英語のtheに相当
*学術書などの方式では通常「アル=◯◯」としますがそれ以外の日本語の文章だとアル・◯◯やアル◯◯になっていることもあります。
ニスバと違って定冠詞「al-」(アル)がついているのに語末が「ī」(通常の英字表記では横棒が無いただのiになります)でないパターンです。
اِسْم ثُلَاثِيّ [ ’ism thulātī(y) ] [ イスム・スラースィー ] three-word namesの最後の部分がどう見ても形容詞由来の人名で、しかもイマーム アル=ハサンやアル=フサインにあやかって命名したのでも無さそうな普通の男性名だったりする場合がこれに相当します。
代を遡っていくと◯◯という男性がいて、その人の名前をニスバのような変形も何もしないまま定冠詞「al-」とくっつけて家名にしたのがこの方式らしいです。上のアールとは違って「家」という意味の名詞は使わず、定冠詞のみで◯◯の家族・一族という限定性を持たせている感じです。
家名の元になったご先祖の名前ですよ、昔いた特定の人物である◯◯じいさんが家名になってますよ、ということでtheという意味の定冠詞「al-」で限定して区別してある感じです。
定冠詞アルがついた家名の例
- أَحْمَد مُحَمَّد الْعَمْرُو [ ’aḥmad muḥammad al-‘amr ]
Ahmad Muhammad al-Amr、アフマド・ムハンマド・アル=アムル
アル=アムル家、アムル家、the Amr familyのアフマド・ムハンマド
アムルというご先祖を家名として定冠詞「al-」をつけたパターン、かつ3つの名前を並べる名乗りイスム・スラースィーです。アフマドが本人のファーストネーム、ムハンマドが父の名前、アル=アムルが何代前かは判別できませんが昔大部族もしくは大部族の支族から枝分かれして分家を作った際の家長のファーストネームになります。- أَحْمَد الْعَمْرُو [ ’aḥmad al-‘amr ]
Ahmad al-Amr、アフマド・アル=アムル
本人のファーストネームであるアフマドの後にすぐ家名を置く、2つの名前だけで名乗りをするイスム・スナーイーです。上のフルネームから父親ムハンマドの名前が省略されただけで、全くの同一人物です。
- أَحْمَد الْعَمْرُو [ ’aḥmad al-‘amr ]
- فَاطِمَة مُحَمَّد الْعَمْرُو [ fāṭima(h) muḥammad al-‘amr ]
Fatima(h) Muhammad al-Amr、ファーティマ・ムハンマド・アル=アムル
アル=アムル家、アムル家、the Amr familyのファーティマ・ムハンマド
上のアフマド氏に妹ファーティマがいたとします。アムルというご先祖を家名として定冠詞「al-」をつけたパターン、かつ3つの名前を並べる名乗りイスム・スラースィーです。ファーティマが本人のファーストネーム、ムハンマドが父の名前、アル=アムルが何代前かは判別できませんが昔大部族もしくは大部族の支族から枝分かれして分家を作った際の家長のファーストネームになります。- فَاطِمَة الْعَمْرُو [ fāṭima(h) al-‘amr ]
Fatima(h) al-Amr、ファーティマ・アル=アムル
本人のファーストネームであるファーティマの後にすぐ家名を置く、2つの名前だけで名乗りをするイスム・スナーイーです。女性の場合も男性と同様です。現代の「アル+人名」家名においても性に合わせてどこかを変えることはしません。
- فَاطِمَة الْعَمْرُو [ fāṭima(h) al-‘amr ]
定冠詞を含む人名英字表記はバリエーショがたくさん
定冠詞「al-」はハイフンありで書かれたり、そうでなかったり、とにかく英字表記におけるバリエーションがとても多いです。詳しくは『英字表記されたアラビア語の名前とカタカナ化~定冠詞al-(アル)と複合名』と『英字表記されたアラビア語の名前とカタカナ化~(口語編)定冠詞el-やil-』をお読みください。
カタカナ表記の際にアルが抜けることが多い件について
日本語のカタカナ表記にする際、ファミリーネームに含まれる定冠詞al-は省かれ、原語では「アル=◯◯」と読んでいるにもかかわらず、日本語では「◯◯家」としか書かれないことがしばしばあります。
اَلْـ ــ [ ’al-◯◯ ] [ アル=◯◯ ]
→ 日本語のカタカナ表記:◯◯家
家長の名前が元になっているファミリーネームだとその大御先祖◯◯氏のファミリーという意味が「アル=◯◯」というアラビア語になっているので、日本語にする際「◯◯の一族」「◯◯家」という意味にするためアル部分を取り除いたりしているようです。
元のアラビア語については定冠詞アルが書かれている以上読まずに省略することはしないのですが、日本語でカタカナ表記をする場合には省略することが多いという点に留意して扱う必要があります。◯◯に人名が入る家名の場合は下手に定冠詞アルを外すとファミリーネームの起源になった家長のファーストネームと全く一緒になってしまいます。
個人的には次のような使い分けが良いような気がします。
- アラビア語での元の読み方
اَلْـ ــ [ ’al-◯◯ ] [ アル=◯◯ ] - 日本語でカタカナ化して~家をつけた場合
アルを抜いて「◯◯家」、もしくはアルつきの「アル=◯◯家」 - 日本語でカタカナ化して「~家」無しに家名として呼ぶ・ファミリーネームを指す場合
「アル=◯◯」
創作物における設定に関して
ツイステッドワンダーランド(ツイステ)というゲームの設定では、「アルは~さんちの息子という意味」「男児はアル+家長名から転じた家名を名乗る」となっており、その影響かウェブ百科のアラビア語関連項目でファンの方が追記されたと思われる「アルはアラビア語で~の息子を意味する」といった一文が見られたりもしました。
そこにジェトロで長年公開されていたal-に関する誤った解説が加わり、公式設定から派生する形で「アラビア語のアルは名家につく」といった考察・認識が広がっているようです。
しかしながら「アル=息子」はアラビア語の名前の法則ではないオリジナル設定であり、定冠詞「al-」部分に「◯◯家の息子の」という意味は無く、王族かどうかといった家の格を示すこともしません。
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スカラビア寮のアラビア風なカリム君とジャミル君の名前にまつわる考察用資料です。検索で当サイトに来られる方が多かったので作成しました。
ニスバ由来の形容詞形をラストネームとする場合
ラストネームとして元々ニスバ名を名乗っている場合
元々ラストネーム(ファミリーネーム相当のパーツ)としてニスバ名を持っている人は、それを海外における姓・名字のように使っています。
- 部族名由来のニスバ形容詞(al+~部族の)
- 先祖出身地名由来のニスバ形容詞(al+~の)
- 先祖の職業名(al+職業名)
職業名由来の家名については同じ家名を名乗っていてもお互いに血縁関係が無いケースも多く、イスラーム教徒の一族だったりキリスト教徒の一族だったりと宗教自体が異なる場合もしばしばです。
職業名由来の家名と同じ語形と母音であっても由来が地名であることもあり、実在する家名の由来については郷土史的なサイトや資料を参照することで確認が可能です。
ニスバ由来ラストネームの定冠詞「al-」有/無
エジプトでニスバ由来のラストネームに定冠詞「al-」(エジプト方言では「el-」)がついている場合とそうでない場合とがあるようなので、メモしておきたいと思います。
- حُسَام بَدْرَاوِيّ [ ḥosām badrāwī ](ホサーム・バドラーウィー)
Hossam Badrawi
医師・政治家。
Hossamのoは口語においてuがoに変わるため。またssはホッサームと促音にするためのものではないので注意。 - حُسَام الْبَدْرّاوِيّ [ ḥusām el-badrāwī ](フサーム・エル=バドラーウィー)
Hussam el-Badrawi
元オリンピック射撃選手。
同じバドラーウィーでも、冠詞「el-」(エル)がついているケース。
出身部族由来のニスバが2つ連なっているフルネーム
サウジアラビアなどの現代アラブ人だと、2パーツ構成ではない丁寧バージョンなフルネームに出身部族由来の「al-◯◯ī」が2つ連なった「ファーストネーム…中略…al-△△ī al-◇◇ī」が含まれていることがあります。
この場合、最初に来るal-△△īが支族・分家名由来のニスバ、al-◇◇īがその元になった大部族枠由来のニスバとなります。
部族イベントなどの看板やパンフレットがこのニスバ並列になっていることが多いようです。こうした丁寧でフォーマルな感じのフルネームでは男性のファーストネームと父親の名前との間に بن [ bnu/bni/bna→口語ではbinなど ] [ (主格)ブヌ・(属格)ブニ・(対格)ブナ→口語ではビンなど ](~の息子 ibn [ ’ibn ] [ イブン ] が変形したもの) が入っていることが多く、普段の日常生活で名乗っているフルネームとはパーツ数が異なるため同一人物だと気付きにくいです。
*binが入っているフルネームだからといって王族といった元首一族や名家とは限りません。
パーツ数が少ない普段の短いフルネームだと、「ファーストネーム+al-△△ī」のみということもあり部族・支族名に詳しくない外国人がラストネームを見ただけではその人が大部族出身なのかわからなかったりします。
al-△△ī部分の名前がマイナーだからといって弱小部族出身かというとそういう訳ではなく、よくよく聞いてみると名乗ろうと思えばal-◇◇īというニスバもあって実はアラビア半島最大の部族の家系だったということが十分にあり得ます。
ラカブ(通称)由来
先祖のあだ名(ラストネーム・ファミリーネームの意味の方ではなくて通称という意味でのラカブ)がファミリーネーム・家名として定着したパターンはシリア~レバノン周辺の地中海東側の沿岸地域などでしばしば見られます。
- اَلْأَطْرَش [ ’al-’aṭrash ][ アル=アトラシュ ]
al-Atrash、耳が聴こえない、聾者の
シリア南部に居住するドゥルーズ(ドルーズ)派の有力一族です。領主もしくはその兄弟が聾者であったことからこの名前で呼ばれるようになったそうです。その後ただのあだ名からファミリーネームとして定着。
- اَلْأَسَد [ ’al-’asad ] [ アル=アサド ]
al-Asad(アル=アサド)、獅子
シリア大統領一族の家名として有名です。元々祖先が強く猛々しい男性だったので اَلْوَحْش [ ’al-waḥsh ] [ アル=ワフシュ ](野獣)という通称がつけられ家名として使われていたそうですが、途中からもっとマイルドで無難な獅子という意味のアル=アサドに改名したとのこと。
「でぶっちょ」など地元における家長の呼び名がそのままファミリーネーム・ラストネームとして定着したパターンで、彼以降の代・子孫らが姓のようにして引き継いでいくものです。
ナサブから抜き取った感じのクンヤ形式「◯◯の息子」形式
家長の通称「◯◯の息子」がそのまま家名になったり、日本の名字呼びに近い「◯◯の一族の者」的に使われるなどするものです。欧米にも「◯◯の息子」を意味する姓Mc◯◯、Mac◯◯、◯◯sonがありますがそれと似たような感じだと言えばわかりやすいでしょうか。
アラブの場合は父子関係のある親子同士の名前を◯◯・ビン・△△・ビンという風に連ね父方の系譜を示すナサブがあるため家名部分に「ビン」が含まれると区別がつきにくく、パーツ数が多くて長いフルネームの最後部分にこうしたファミリーネームが来た場合は区別がつきにくいので要注意です。
なお家名なのでファーストネーム部分が女性でも性の一致は行わず、「◯◯の娘」であるbint / Bint(ビント)に入れ替えることはしません。フルネームが長くても短くても、ファミリーネーム・ラストネーム部分に来る「ビン・◯◯」の類は家の始祖となった男性の通称とかなので気を利かせたつもりでビント(娘)に書き換えたり超訳したりしてしまうとおかしなことになってしまいます。
文語と同形のIbn [ イブン ]
フスハーの文語で用いる「◯◯の息子」という意味の اِبْن [ ’ibn ] [ イブン ] と人名を組み合わせたファミリーネームがアラビア半島地域などで見られます。
系譜を表すナサブの用法では
- 息子と父の名前をつなぐのに用いる。
- その際 [ ’ibn(u) ◯◯ ] の イ [ ’i ] が抜けて ブヌ [ △△ bn(u) ◯◯ ] という発音になる。
*厳密に言うと、主格の時は母音uを伴って(’i)bn(u)、属格(一部は所有格に相当)の時は母音iを伴って(’i)bn(i)、対格(一部は目的格に相当)の時は母音aを伴って(’i)bn(a)と発音されます。
という規則がありました。
しかし家名として使う場合は、家長となったムハンマドなりアフマドなりがその父親の名前で「イブン・◯◯」(◯◯の息子)という通り名(クンヤ)で知られていてそれがファミリーネームに転じたものなので、
- 本人のファーストネームの後方に父親の名前でもなんでもない「イブン・◯◯」という家名が来る。
- [ ’ibn(u) ◯◯ ] の イ [ ’i ] が抜けて ブヌ [ △△ bnu ◯◯ ] という発音になったりせず、そのまま「イブン・◯◯」のまま用いる。
という違いがあります。かいつまんで言うと ابن のようにアラビア語表記で縦線がある方がクンヤ形式の家名、それ以前に来る縦線抜きの بن でつないでいる範囲がナサブとなります。
- اِبْنُ زَيْدٍ [ ’ibn(u) zayd/zaid ] [ イブン・ザイド ]
Ibn Zayd/Zaid、イブン・ザイド(家名) - اِبْنُ عَلِيٍّ [ ’ibn(u) ‘alī(y) ] [ イブン・アリー ]
Ibn Ali、イブン・アリー(家名)
なお文語的に発音すれば「イブヌ・ザイド」となるとは思うのですが、アラビア半島の人名や家名はやや口語より発音にした方が自然なことが多いので、「イブン・ザイド」と読み上げ・カタカナ表記するのが無難だと思われます。
イエメンのBin [ ビン ]
بِنْ ــ [ bin — ] [ ビン・– ]
Bin ◯◯、ビン◯◯
アラビア半島特にイエメンなどには「◯◯の息子」という意味のファミリーネーム بن ــ / Bin ◯◯ がしばしば見られます。クンヤの口語的表現とも言えるかと思いますが、アラビア語表記で ابن の ا を書かずに全部 بن になるので系譜を示すナサブと見た目上は全く同じになってしまいます。
なおアラビア文字では切り離して書きますが、Bin部分と◯◯部分の2語で1かたまりです。この場合
- بِنْ لَادن [ bin lādin ]
Bin Ladin、ビン・ラーディン
サウジアラビアのゼネコンであるBin Ladenグループ。日本語ではビン・ラディンというカタカナ表記が多いかと思います。Ladenは口語風にiがeに転じ文語のラーディンが口語でラーデンに近く発音されることに基づいた英字表記です。
現地では「ビン・ラーディン ファミリー」(ビン・ラーディン家)と呼ばれ「ビン・ラーディン」の一まとまりで家名として扱われています。日本では「ラーディンが家名」「アラブ人だから家名は無くてラーディンの息子という意味しか持たない」と説明されることがありますが誤りです。
元々一族はイエメンのハドラマウト地方出身で、このBin ◯◯形式のファミリーネームなのもそのためなようです。元々 اَلْقَحْطَانِيّ [ ’al-qaḥṭanī(y) ] [ アル=カフターニー(アル=カハターニー) ] という部族名由来の定冠詞つきニスバ形容詞をラストネームとしていた لَادِن [ lādin(口語発音はlāden) ] [ ラーディン(口語発音はラーデン) ] がウサーマの何代が前のご先祖様にいたものの、「ラーディンの息子」「ラーディンの息子のところの家」「ラーディン一家」のような感じで次第に家名として定着し過去に名乗っていたラストネームのアル=カフターニーに取って代わった形となっています。
その後実業家として成功した一族は代が変わってもこの家名を名乗っており、人名「◯◯・ビン・ラーディン」は「ビン・ラーディン家の◯◯」というファーストネーム+ラストネームとして通るようになりました。
そのためウサーマ・ビン・ラーディン(=オサマ・ビンラディン)はイコール「ラーディンの息子ウサーマ」ではなく「ビン・ラーディン家のウサーマ」という意味に取る必要があります。ヨーロッパ風に置き換えると「MacLaden」「McLaden」「Ladenson」となるような家名で、GHQ最高司令官だったダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)や彼の実父アーサー・マッカーサー(Arthur MacArthur)のようにフルネームを「アーサーの息子ダグラス」や「アーサーの息子アーサー」とわざわざ訳さないのと同じような事情となっています。 - بِنْ شَمْلَان [ bin shamlān ]
Bin Shamlan、ビン・シャムラーン
イエメンにあるファミリーネームだとのこと。こちらもナサブ形式。
マグリブのBen[ ベン ]
بِنْ ــ [ ben — ] [ ベン・– ]
Ben◯◯、ベン◯◯
マグリブ地方のアルジェリアやモロッコ辺りのファミリーネーム。BenはBinのiがeに転じたもので、意味自体は上で挙げたものと同じです。
アラビア文字では切り離して書きますが、Ben部分と◯◯部分の2語で1セットです。なお、英字表記ではくっつけて1語のように書いたりするようです。
- بِنْ قُرِينَة [ ben gurīna ]
Bengrina、ベングリーナ
アルジェリアにあるファミリーネームだとのこと。イエメンのBinに対してアルジェリアはBenとなっていて、かつ後ろの語とつなげて英字表記することが多いようです。
アル=アンダルス方式の家名
ナサブのページでも紹介しましたがイベリア半島やモロッコ付近に住んでいたアラブ人はこの「◯◯の息子」タイプの熟語が家名を示すパーツとして使われていました。
フルネームが
(1)本人の名前+(2)ビン/イブン・父の名前+(3)ビン/イブン・父方祖父の名前+・・・+(4)[ ここだけ家名部分:ビン/イブン・家名の元になった父祖名 ]
となっている場合は [ ] でくくった「ビン/イブン(bin/ibn)・家名の元になった父祖名」のかたまりが家名を示すパーツになります。祖父の名前の後にビン/イブンが続きますが、曽祖父から家名の元になった遠いご先祖までのファーストネームが省かれている場合は(3)の男性と(4)の男性との間には父子関係は存在しないので(4)部分だけ家名として切り離して考えます。
アル=アンダルスでは「イブン・ハルドゥーン」「イブン・バットゥータ」といった人名は家名で鈴木とか佐藤などと呼んでいるのと同じなので、イベリア半島に住んでいたアラブ系もしくはアラブ化した家系の有名人の名前を見てハルドゥーンやバットゥータが彼らの父親の名前だったと勘違いしないよう注意が必要です。
クンヤ「◯◯の父」方式
Abu ◯◯ [ アブー ]
أَبُو ــ [ ‘abū — ][ アブー・◯◯ ]
Abu ◯◯、アブー・◯◯
サウジアラビアの人名リストにで複数見かけたクンヤ形式のファミリーネーム。調べてみるとこの「◯◯の父」方式のファミリーネームは結構あるみたいです。
長男なりの名前でアブー◯◯と呼ばれていた男性の一家がその名前で広く周囲に認知され、いつの間にかファミリーネームになって後代に引き継がれたパターンのようです。
アラビア文字上では切り離して書きますが、2語で1かたまりのファミリーネームになります。
- فَوْزِيَّة أَبُو خَالِدٍ
[ fawzīya(h) / fauzīya(h) ’abū khālid ][ ファウズィーヤ・アブー・ハーリド ]
Fawziyya Abu Khalid
サウジアラビアの女性詩人だとのこと。
Abu Khalid Family、アブー・ハーリド・ファミリー- أَبُو ذِيَاب [ ‘abū dhiyāb ][ アブー・ズィヤーブ ]
Abu Dhiyab Family、アブー・ズィヤーブ家
サウジアラビアの人名録から拾ったファミリーネームです。ذِيَاب [ ズィヤーブ ] はオオカミという意味の ذِئْب [ ズィッブ ] の複数形 ذِئَاب [ ズィアーブ ] の複数形をハムザでは無くヤーで表記したもの。
エジプトの大御所歌手アムル・ディヤーブの دِيَاب [ ディヤーブ ] もこれと同じ語で、エジプト風にdhがdに転じてつづりが変化したパターンになります。
- أَبُو ذِيَاب [ ‘abū dhiyāb ][ アブー・ズィヤーブ ]
なおシリア・レバノン周辺では◯◯部分にその家の特徴である農産物や商品の名称が入って「◯◯屋」のような意味になることが多いです。
- أَبُو لَبَن [ ’abu laban ] [ アブー・ラバン ]
Abu Laban、アブー・ラバン家
パレスチナ系ファミリーネームの一つです。グレンダイザーのアラビア語版を制作した会社のトップでもあるアラブ-レバノン放送界三巨頭の一人がこのファミリーネームでした。ラバンはヨーグルトやミルクの意味で使われている名詞で、「アブー・ラバン」でラバンの父すなわちラバン屋を意味します。このことからアブー・ラバン家は祖先がラバンを商っていたことが推察できます。
アラビア半島のBu [ ブー ]
بُو ـــ / بُوـــ [ bū — / bū— ] [ ブー ]
Bu ◯◯ / Bu◯◯、ブー
文語における أَبُو ــ [ ‘abū — ][ アブー・◯◯ ](Abu ◯◯、アブー・◯◯)に対応する口語表現です。
こちらはアラブ首長国連邦やオマーンの元首ファミリーにゆかりのある家名でも見られる形式です。マグリブ地方のBu◯◯と違い、アラビア文字表記上においてスペースを空けるケースと後ろの語とスペース無しでくっつけて書くケースとまちまちのようです。
- آل بُو فَلَاسَة
[ ’āl bū falāsa(h) ] [ アール・ブー・ファラーサ ]
Al Bu Falasa、ブー・ファラーサ家(ファラーサの父ファミリー)
ドバイ首長マクトゥーム家はアラビア半島海岸部の有力部族 بَنُو يَاس [ banū yās ] [ バヌー・ヤース ](Bani Yas、バニー・ヤース) の系統で、その支族である آل بُو فَلَاسَة [ ’āl bū falāsa(h) ] [ アール・ブー・ファラーサ ](ブー・ファラーサ家) のさらにまた支族・分家という系譜だとのこと。 - آل بُو سَعِيد
[ ’āl bū sa‘īd ] [ アール・ブー・サイード ]
Al Bu Said、ブー・サイード家(サイードの父ファミリー)
オマーン国王ファミリーであるサイード家の元をたどるとブー・サイード家になります。ここではBu部分とSaid部分にスペースが空いています。- آل الْبُوسَعِيد
[ ’āl sa‘īd ] [ アール・ル=ブーサイード ]
Al Al-Busaid、アル=ブーサイード家(theサイードの父ファミリー)
上とは違い、Bu部分とSaid部分にスペースを空けずひとかたまりとして扱い、しかも先頭に定冠詞 al- [ アル ]をくっつけたものです。オマーンのブーサイード朝という王朝名はここから来ています。
- آل الْبُوسَعِيد
イエメンのBa [ バー ]
بَاــ [ bā– ][ バー◯◯ ]
Ba◯◯、バー◯◯
イエメン ハドラマウト地方の家名だそうです。読みが [ bā ] になっていますが、これも「◯◯の父」シリーズです。
アラビア文字上では「父」部分と「◯◯」部分の2つを切り離さずにくっつけて書きます。英字表記でもスペースは無し。
- بَاجَمَّال [ bājammāl ] [ バージャンマール ]
Bajammal、バージャンマール(家)
イエメンの由緒ある部族キンダ族の系統で、ナサブ(系譜)を أَحْمَد بْنُ سَالِم بْنِ سَعِيد بْنِ أَبي جَمَّال [ ’aḥmad bin sālim bin sa‘īd bin ‘abi jammāl ] のようにたどっていくと「ジャンマールの父」と呼ばれた人物に行き着くそうです。ナサブ(系譜)に含まれるAbu Jammalというクンヤ部分が家名に転じたものらしいです。
学者や法学者が多い家系として有名で、現代になってからは首相を輩出。- آل بَاجَمَّال [ ’āl bājammāl ][ アール・バージャンマール ]
Al Bajammal、バージャンマール家
「◯◯家」という意味のアールを組み合わせた表現です - ــ بَاجَمَّال الْكِنْدِيّ [ ◯◯ bājammāl al-kindī(y) ] [ ◯◯バージャンマール・アル=キンディー ]
◯◯ Bajammal al-Kindi、キンダ族出身 バージャンマール家の◯◯
名乗りや人名表記の際、キンダ族の系統ということでバージャンマールの家名の後に部族名由来のニスバを足すケースもあったようです。
- آل بَاجَمَّال [ ’āl bājammāl ][ アール・バージャンマール ]
- بَاعَبَّاد [ bā‘abbād ] [ バーアッバード ]
Baabbad、バーアッバード(家)
イエメン ハドラマウト地方 وَادِي لَحْج [ wadī laḥj ] [ ワーディー・ラフジュ ] Wadi Lahjという地域の部族から分かれた家だそうです。
マグリブのBu/Bou◯◯[ ブー◯◯ ]
بُوــ [ bū — ][ ブー◯◯ ]
Bou / Bu◯◯、ブー◯◯
アルジェリアをはじめとする北アフリカ西側諸国(マグリブ地方)の人名・地名に出てくる BuもしくはBou(いずれもブーと発音)。
文語のアラビア語では 「◯◯の父」という意味の أَبُو ــ [ ’abū — ] [ アブー◯◯ ]と同じなので、クンヤ形式の名前がラストネームとして使われている例になります。
アラビア文字上ではBu/Bou部分と◯◯部分をスペース無しでくっつけて書くのが通例のようです。
- عَبْد الْعَزِيزِ بُوتَفْلِيقََة
[ ‘abdel-’azīz būtaflīqa ] [ アブデ・ル=アズィーズ・ブーテフリーカ ]
Abdelaziz Bouteflika
日本語ではアブデルアジズ・ブーテフリカ、アブデルアズィーズ・ブーテフリカ、アブデラジィズ・ブーテフリカなどとカタカナ表記されています。