フルネームとは
アラブ人名におけるフルネームの名称
アラビア語でフルネームは اَلِاسْم الْكَامِل [ ’al-’ismu-l-kāmil (厳密には’ali-smu-l-kāmil) ] [ アル=イスム・ル=カーミル (厳密にはアリ=スム・ル=カーミル) ](完全な名前、全部揃っている名前)と言います。
アラブ人のフルネームとそのパーツ数、長さ
基本的にはファーストネームの後に家名・名字相当パーツが来る
通常はファーストネームの後にラストネーム
アラブ人名のフルネームは基本的にファーストネームが先で最後に家名・名字・姓に相当するパーツが来ます。
ラストネームが先でファーストネームが後という日本風順序が並存しているアルジェリア
しかしアルジェリア発のニュース記事などを読んでいるとこれが逆の「家名・名字・姓パーツが先でファーストネームが後」になっていることが少なくありません。この場合は他地域のアラブ人名とは違って最後に来るのがファーストネームということになります。
このアルジェリア式のフルネーム表記をアラブ式の並び順にする際に混乱が生じることもあるようで、フルネームが3語以上になっている人の場合だと語順が入れ違ったりと日本語化する際には色々と注意が必要だと感じました。
アラブ人のフルネームは延々と続く?
日本のネット記事などでは「アラブ人は本人の名前、父の名前、祖父の名前…とたどれる限りの先祖の名前を並べたものすごく長いフルネームになる」と書かれていることがありますが、正確な説明ではありません。
というのも現代アラブ人のフルネームは「本人の名前(ファーストネーム)+ラストネーム(家名など)」の2つを並べておしまい、という非常に短いものが一般的になっているためです。
アラブ人の祖先と呼ばれる半ば伝説的な人物、そこまでとはいかなくとも預言者ムハンマドや彼の出身であるクライシュ族一門までずらーっと並べるような記述ともなるとそれは日常的に用いるフルネームとは言えず、家系図代わりの系譜表示である نَسَب [ nasab ] [ ナサブ ](ナサブ)の領域に含まれます。
創作でアラブ人名を設定する場合は、アラブ世界で常用されていないような長さのフルネームにしてしまうと不自然さが増してしまいます。
アラブ人キャラについては名前が原因で掲示板やSNSが荒れることもあるデリケートなポイントなので、商業作品で中東進出を予定している場合はフルネームのパーツ数や舞台となる地域に合わせたラストネームの創作などが必要となってきます。下手に長いフルネームを設定してアラブ人名としては違和感のあるものになるよりは、どの地域にもいそうなシンプルなフルネームにする方が無難だったりします。
歴史上の人物などに関して人名録風に色々な要素を詰め込んだ長いフルネーム
歴史上の人物「アブー・バクルのフルネームは何?」と聞いた場合は、ibn等を使った人名録風の長いフルネームを知りたい、という意味になるのが普通です。
一方、現代においては「フルネームを教えて」と言われてそうした系譜まで答える人はまずおらず、たいていは「自分・父・祖父」もしくは「自分・父・家名」のように名前を3つ並べる方のフルネームを教えてくれるのが普通だと思います。
そんな感じで一言でフルネームと言っても場合によって意図するものが違うので、ここでは場合別に見ていきたいと思います。
歴史上の人物の名前表記
本人の名前周辺に通称等を配置する際の順番
人名辞典などにおける配列順は以下の通りです。
ラカブ(1) + クンヤ + イスム + ナサブ + ニスバ + ラカブ(2)
これに順番をつけると
- ラカブ(1)(宗教・政治的褒賞として与えられた尊称)
- クンヤ(通称「~の父」「~の母」)
アブー・~(意味:~の父)
ウンム・~(意味:~の母) - 本人の名前(イスム)
- ibn / bint + 父親◯の名前↑(ibn / bintを用いたナサブ)
イブン・父◯(意味:◯の息子の)
ビント・父◯(意味:◯の娘の) - ibn + 父方祖父△の名前↑
イブン・祖父△(意味:5の息子の) - ibn + 父方曽祖父▢の名前↑
イブン・曽祖父▢(意味:6の息子の) - それよりも前の先祖も書くなら ibn ☆ ibn ◎ ibn ▲… と続ける
- ニスバ(出身地・部族・職業を示す形容詞など出自を示し、本人名部分にかかる)
- ラカブ(2)(本人の身体的特徴や特質からつけられた通称)
*ファーストネーム+ラストネームという概念に当てはめた場合、現代アラブ世界では本人のファーストネーム部分を اِسْم [ ’ism ] [ イスム ](英語のnameに相当)、ラストネーム部分を لَقََب [ laqab ] [ ラカブ ](英語のtitleに相当)と呼んで区別することが広く行われています。歴史上人物の人名録的なフルネームにおけるラカブ(通称・尊称)と違う用法なので混同しないよう注意が必要です。
本人のファーストネームの場所はどこに?
上の順番の全てが書かれる訳ではなく、尊称や通称が無い場合は1や9は省略されます。本人のファーストネームは1語もしくは2語なので、男性名ならAbu ◯◯(◯◯の父)という本人の通称部分と、英字表記において父の名前の前に来る1番左の位置にあるibnとの間にはさまれたもの、ということになります。
現代アラブ人でも有名人物の系譜を書く際にこの長い表記が出てきます。由緒ある家系の人ほどナサブが長くなります。近代以降の部分をibnを省略していることももあり、祖父や曽祖父の名前がどの部分か判別するのが難しい時があります。
現代アラブ人は使っていない長いフルネーム
よくWikipediaなどに中世アラブ人の名前としてものすごく長いフルネームが載っているので「創作の時にはアラブ人のフルネームを考えるのが大変だ」と悩んでしまう方もおられるようなのですが、これは人名録とかその人の出自表示をするための形式なので、現代アラブ人が実際に使っているフルネームとは違っています。
歴史上の人物の名前については、その人の通称・尊称・出自由来の形容詞などがずらりと並べられるため本人のファーストネーム部分がわかりづらくなっています。
たとえば(アル=)キンディーだと
أَبُو يُوسُفَ يَعْقُوبُ بْنُ إِسْحَاقَ بْنِ الصَّبَّاحِ بْنِ عِمْرَانَ بْنِ إِسْمَاعِيلَ اَلْكَنَدِيُّ
アラビア語での発音(口語寄り略式文語発音):
アブー・ユースフ・ヤアクーブ・ブヌ・イスハーク・ブニ・ッ=サッバーフ・ブニ・イムラーン・ブニ・イスマーイール・アル=キンディー(ュ/ィ)
一般的カタカナ表記:
アブー・ユースフ・ヤアクーブ・イブン・イスハーク・イブン・アッ=サッバーフ・イブン・イムラーン・イブン・イスマーイール・アル=キンディー
- 息子の名前:ユースフ
- 本人の名前:ヤアクーブ
- 父の名前:イスハーク
- 祖父の名前:アッ=サバーフ
- 曽祖父の名前:イムラーン
- 高祖父の名前:イスマーイール
- 出自表示:アル=キンディー(形容詞:キンダ族の)
のようになりますが、これは彼の社会的地位「キンダ族出身、ユースフの父こと、イスマーイールの息子のイムラーンの息子のアッ=サッバーフの息子のイスハークの息子のヤアクーブ」を明示するための長い言い方であって普段遣いのフルネームとは違っています。
現代アラブ人は上のパーツのうち2つ選ぶのが普段使い、3つ選ぶのが「フルネームは何?」と聞かれた時用のフルネームとするのが普通なので、創作キャラクター特に現代アラブ人の普通の登場人物に人名録のような長いフルネームをつけると逆におかしくなってしまうので回避した方が良いと思われます。
現代風の短いフルネーム:
- ヤアクーブ・アル=キンディー
- ヤアクーブ・イブン・イスハーク・アル=キンディー
- ヤアクーブ・イスハーク・アル=キンディー
部族民特有のフルネーム
ラストネーム・ファミリーネーム相当パーツが何個もある
『アラブ人の名前のしくみ~ニスバ(ゆかりのある出身地・部族・職業を示す)』に紹介を書きましたが、王族・首長一家どうかに限らずアラビア半島のサウジアラビアに住む部族民の丁寧なフルネームはラストネームに相当する部族名由来の形容詞部分(ニスバ)が何個も並んでいるなど、現代式のシンプルなフルネームとは異なる形式となっています。
ファーストネーム + ibn/bin + 父の名前+ al-△△ī + al-◇◇ī
◇部族△支族・分家出身であるところの、父某の息子~
(*文語におけるibnの正式な読みはbnuですが英字表記ではibn、日本語表記ではイブンに置き換わっているのが普通です。)
ファーストネーム + ibn/bin + 父の名前+ al-△△ī + al-☆☆ī + al-◇◇ī
◇部族の☆支族のそのまた分家△家出身であるところの、父某の息子~
などになっていることがあります。ibnやbin(ibnの口語バージョン)はある場合が多いですが無いケースも見かけます。
このような部族由来が複数並ぶ場合、最初に来るal-△△īが本人の所属している比較的小さく血縁関係が濃い同士の集団である分家枠由来のニスバで、枝分かれした途中の経路となる支族が☆で、最後に来るal-◇◇īがその元になった大部族枠(数百万人規模のこともあり)由来のニスバとなります。
◇部族 [ al-◇◇ī ]
└☆支族 [ al-☆☆ī ]
└△家 [ al-△△ī ]
ラストネームが複数あるため同一人物か判別しづらい
「全部を合計すると400万人ぐらいいる」と記している人がいるほどの超大部族であるハルブ族の中には非常に多くの分家があり、分家・支族の成員は普段「al-△△ī」という分家・支族由来のニスバを名乗っていても、そもそもは◇◇族という大きな枠組みの中の一員なので大元の部族の名前が由来になっている「al-◇◇ī」を名乗ることもできます。
そのため、同一人物でもフルネームにバリエーションが生じます。たとえば上の分家・支族関係図を作った人物の名前を検索した時もそうだったのですが、
- 本人名前+al-△△ī
- 本人名前+al-◇◇ī
- 本人名前+al-△△ī + al-◇◇ī
- 本人名前+父の名前+ al-△△ī + al-◇◇ī
- 本人名前+ibn/bin+父の名前+ al-△△ī + al-◇◇ī
といった何パターンもあるのに全部同じ人を指しているといった事態になります。
アラブ人の人名で「どう考えても同一人物のことを言っているようなのにファーストネーム以降が全然違う。フルネームが違う。」という場合はGoogleなどで検索して一番長いフルネームを探して照合するとわかりやすくて良いです。
現代~3つの名前を連ねたフルネーム
アラブ世界では昔のような「~の息子◯◯」という意味の اِبن [ ’ibn ] (イブン)、「~の娘◯◯」という意味の بِنْت [ bint ](ビント)を本人と父の名前の間に入れ、その後に祖父・曽祖父の名前と続けていく名乗りの方式は日常ではほぼ使われなくなっています。
代わりにイブンやビント無しで本人の名前以降を連ねていくのが主流です。
自分の名前の後に父親や祖父の名前を並べるだけでフルネームになるのですが、姓の制度がある国のラストネーム部分に相当するため一見名字に見える位置に男性名が入ることになります。「アラブ人やイスラーム教徒はムハンマドという名字が多い」としばしば言われるのもそのためです。(ムハンマドという名字があるのではなく、姓名表記の名字部分に自分の父親や祖父もしくはもっと古い先祖の男性名を入れることから。)
اِسْم ثُلَاثِيّ [ ’ism thulāthī(y) ](イスム・スラースィー)とは?
ネット上でフルネームを指す語としてよく見かけるのが اِسْم ثُلَاثِيّ [ ’ism thulāthī(y) ](イスム・スラースィー)です。ثُلَاثِيّ はtripleといった意味合いの語で、’ism thulāthīは英語でfull nameとかthree-word namesなどと書かれています。
フルネームとして3つのパーツを並べるタイプです。本人などのファーストネームが2語以上で1つの人名となっている複合名の場合、本人(2語)+父親(2語)+祖父(2語)=合計6語のように全体の語数がかなり多くなることも。
「本人-父-祖父」タイプのイスム・スラースィー
أَحْمَد مُحَمَّد أَحْمَدُ
[ ’aḥmad muḥammad ’aḥmad ]
Ahmad Muhammad Ahmad / アフマド・ムハンマド・アフマド
・1語目:本人の名前
・2語目:父の名前
・3語目:祖父の名前
この3語での名乗りが日本でアラブ人のフルネームとして広く知られている基本パターンになります。اِسْم [ ’ism ](イスム)というのは個人名のことで、この اِسْم ثُلَاثِيّ [ ’ism thulāthī(y) ](イスム・スラースィー)では「本人・父・祖父」の名前を書き連ねてフルネームとします。
ただ、この「本人・父・祖父の名前」をフルネームとする人の数は決して多くありません。ファミリーネームの使用が少ないエジプト辺りではこのルール通りの人も珍しくないのですが、部族名由来ニスバ利用が多い地域(アラビア半島やそれ以外の地域に住む部族成員)や職業名由来ニスバ利用が多いレバノンなどでは事情が異なります。
日本におけるアラブ人のフルネームの説明だと王族を除いてアラブ人には家名など無いように誤解されやすいのですが、実際にはそうではないので要注意です。
「本人-父-ファミリーネーム」タイプのイスム・スラースィー
ニスバなど由来のファミリーネームを持っている人は、3つめの名前部分で祖父の名前の代わりに家名を名乗ったりしているようです。
- 部族名由来のニスバ形容詞(al+~部族の)
- 先祖出身地名由来のニスバ形容詞(al+~の)
*エジプトの例を見ていると定冠詞「al-」をつけないこともある模様。 - 先祖の職業名(al+職業名)
ファミリーネームが少ないエジプトだと、地名由来の「◯◯ī」というニスバ由来のファミリーネームを名乗っているのは、かつてはその土地の所有者で有力者だった家系だったりするのだとか。
3つ連ねる名乗りと兄弟姉妹のフルネーム例
本人-父-祖父と書き連ねるタイプ
本人が男性であっても女性であってもパターンは同様です。兄弟姉妹であれば2語目・3語目は共通。また祖父が同じ従兄弟同士であれば3語目が共通ということになります。
父が مُحَمَّد [ muḥammad ](Muhammad、ムハンマド)、祖父が أَحْمَد [ ’aḥmad ](Ahmad、アフマド)という名前の兄弟姉妹がいたとします。その場合は1語目の名前だけが本人の名前で、その後の父・祖父の部分は共通になります。
長男=アフマド
أَحْمَد مُحَمَّد أَحْمَدُ
[ ’aḥmad muḥammad ’aḥmad ]
Ahmad Muhammad Ahmad / アフマド・ムハンマド・アフマド
おじいさんと同じ名前なので、1語目と3語目が同じアフマドになっています。アラブ世界ではフルネームの中がムハンマドだらけという人がいますが、そうした同名を祖父・父・子が名乗るケースは割合的には少ないそうです。
長女=ナジュワー
نَجْوَى مُحَمَّد أَحْمَد
[ najwā muḥammad ’aḥmad ]
Najwa Muhammad Ahmad / ナジュワー・ムハンマド・アフマド
男女関係なく、父・祖父の部分は同じです。
次男=アラーウッディーン
عَلَاء الدِّينِ مُحَمَّد أَحْمَد
[ ‘alā’u-d-dīn muḥammad ’aḥmad ]
Aladdin Muhammad Ahmad / アラーウッディーン・ムハンマド・アフマド
次男だけ عَلاء [ ‘alā’ ](アラー=高み、崇高さ)+ الدِّين [ ad-dīn ](アッディーン=宗教、信仰)=عَلَاء الدِّينِ [ ‘alā’u-d-dīn ](アラーウッディーン)という複合語のため、アラビア文字部分が4語になっています。この場合、本人の名前が最初の2語で、父・祖父の名前が3語目・4語目になります。父・祖父の名前部分が複合名のこともあります。
なお、複合名なのでAla al-Dinと書くこともできますが、アラーウッディーンについてはAladdinという英字表記の方が圧倒的にポピュラーだと思われます。(アラジンが元々はこのアラーウッディーンで、英字つづりがAladdinです。)
父方従兄弟1=ターミル
تَامِر أَحْمَد أَحْمَد
[ tāmir ’aḥmad ’aḥmad ]
Tamir Ahmad Ahmad / ターミル・アフマド・アフマド
上の3きょうだいに父方従兄弟のターミルがいるとします。この場合、祖父が同じなので3語目のアフマドおじいさんが共通しています。3きょうだいのお父さんがムハンマド、その兄弟であるアフマドがターミルの父ということがわかります。
現代~2つの名前での名乗り
現代風の短いフルネーム
اِسْم ثُنَائِيّ [ ’ism thunā’ī(y) ](イスム・スナーイー)は2語での名乗りを指します。thunā’īはdoubleといった意味の語で、’ism thunā’īは英語でtwo-word namesなどと書かれています。
本人の名前+父の名前などのように2パーツだけ並べるもので、日本人の姓と名に少し近いものがあります。
現代アラブ世界では海外のファーストネームとラストネームのシステムに影響を受け、こうした欧米風の2語名乗りが増えています。ただラストネーム相当に何が来るかは画一的ではありません。
→『アラブ人の名前のしくみ~西欧式名乗りとラストネーム、夫婦別姓問題とアラブ女性の家名・名字』
出身部族由来のラストネーム相当パーツが本当は2種類ある人
サウジアラビアなどの現代アラブ人だと、2パーツ構成ではない丁寧バージョンなフルネームに出身部族由来の「al-◯◯ī」が2つ連なった「ファーストネーム…中略…al-△△ī al-◇◇ī」が含まれていることがあります。
この場合、最初に来るal-△△īが支族・分家名由来のニスバ、al-◇◇īがその元になった大部族枠由来のニスバとなります。
同じ人名でも△△由来の部分をラストネームとして表記するか、◇◇由来の部分をラストネームとして表記するか場合・状況・使用シーンによって異なることがあります。△△が◇◇の分家だと知っている人は判別できますが、そうでないと「違う名字」「別人」と誤認識しかねません。
部族イベントなどの看板やパンフレットがこの部族名由来のラストネームであるニスバが2-3個並列になっていることが多いようです。いわゆるラストネーム箇所だけでも複数あるというパターンです。
こうした丁寧でフォーマルな感じのフルネームでは男性のファーストネームと父親の名前との間に بن [ bnu/bni/bna→口語ではbinなど ] [ (主格)ブヌ・(属格)ブニ・(対格)ブナ→口語ではビンなど ](~の息子 ibn [ ’ibn ] [ イブン ] が変形したもの) が入っていることが多く、普段の日常生活で名乗っているフルネームとはパーツ数が異なるため同一人物だと気付きにくいです。
*binが入っているフルネームだからといって王族といった元首一族や名家とは限りません。
パーツ数が少ない普段の短い2パーツ式フルネームだと、「ファーストネーム+al-△△ī」のみということもあり部族・支族名に詳しくない外国人がラストネームを見ただけではその人が大部族出身なのかわからなかったりします。al-△△ī部分の名前がマイナーだからといって弱小部族出身かというとそういう訳ではなく、よくよく聞いてみると名乗ろうと思えばal-◇◇īというニスバもあって実はアラビア半島最大の部族の家系だったということが十分にあり得ます。
現代~戸籍登録と4つの名前を連ねたネーム
اِسْم رُبَاعِيّ [ ’ism rubā‘ī(y) ](イスム・ルバーイー)は4語での名乗り(four-word names)を指します。rubā‘īはquadrupleといった意味の語です。いわゆるパーツを4個並べるタイプです。
4つも並べるのは主に日常生活でのフルネーム名乗りではなく戸籍上の登録目的によるもので、例えばエジプトでもこのシステムが採用されています。
この形式では
- 本人の名前・父の名前・祖父の名前・曽祖父の名前
- ファーストネームのみ並べる。ファミリーネームや通称は含めない。
- 「◯◯の息子/娘」という系譜を示す اِبْن [ ’ibn ](イブン)や بِنْت [ bint ](ビント)は使わない。
- 本人の名前・父の名前・祖父の名前・家名/部族名
等になるのですが、人によっては「ひいじいさんの名前って何だっけ?」となることもあるとか。
またエジプトでは戸籍情報管理の効率化ゆえらしいのですが、「◯◯ッディーン」のような複合名の新規命名が禁止されているとのことです。複合名はフルネームが長くなりパソコンの入力欄からはみ出るといった理由によるものらしいです。(アラブには2語1組のファミリーネームも少なくないので、本人・父・祖父・家名が全て複合名だと合計8語の長いフルネームとなってしまいます。)
なお、これらフルネームとファーストネーム・ラストネームとの対応関係については『アラブ人の名前のしくみ~西欧式名乗りとラストネーム、夫婦別姓問題とアラブ女性の家名・名字』を参照願います。
身寄りが無い子供のフルネームはどうなる?
身元不明な捨て子の場合
自分の名前の後に父や祖父の名前を続けて書かなければならないアラブ式の名乗りシステム。では、両親が不明ー مَجْهُول الْأَبَوَيْنِ [ majhūlu-l-’abawain(i) ] [ マジュフール・ル=アバワイン(/アバワイニ) ] ーで、系譜がわからないー مَجْهُول النَّسَبِ [ majhūlu-n-nasab ] [ マジュフール・ン=ナサブ ] ー子供の場合はどうなるのでしょうか?
アラブ世界でのニュースでは「モスク前で赤ちゃんの捨て子ー لَقِيط [ laqīṭ ] [ ラキート ] ー発見」などと報じられることが時々あります。調べてみるとその後の対応はどの国でもほぼ同じで、健康状態をチェックされた後に施設に入所し、成人する18歳までそこで過ごすのが一般的なようです。
子供はファーストネーム以外に、将来フルネームを名乗れるように架空の父・祖父の名前も同時に与えられるとのこと。ただ特定の人物との関連性を感じさせるような名前は不可。実在する部族名やファミリーネームを与えるのも不可という条件があるそうです。
孤児の子供につけられる名前はその場で考えたランダムなものにしてしまうと他とかぶってしまうため、同じフルネームの子が量産されないように考慮した上で命名されているそうです。例えばサウジアラビアについては王国全域で偏りや重複が出ないよう、戸籍登録情報をチェックした上で名付けを調整しているとのことです。
実父以外に養育される場合
近代的な法律により異なるルールを採用している国もありますが、イスラーム法では養子縁組 اَلتَّبَنِّي [ tabannī ] [ タバンニー ] は禁止されています。
篤志家なりが引き取って養育する、母親が再婚し新たな夫の元に連れ子として引き取る、といったケースでも新たな保護者の義子として戸籍を書き換えラストネーム(ファミリーネーム)をもらうとか相続権を得るといったことが起きません。
そのためその国の法律がイスラーム法と同じ方式の場合、連れ子がそのまま実父・母親の元夫から引き継いだラストネーム(ファミリーネーム、家名)を名乗りフルネームもそのままということになります。
アラビア語における匿名のフルネーム表現
日本語の「某」「名無しの権兵衛」や英語の「John Doe」「Jane Doe」に相当するアラビア語の表現は
-
- فُلَانٌ
[ fulān ] [ フラーン ]
男性:某 ♂ - فُلَانَةٌ
[ fulāna(h) ] [ フラーナ ]
女性:某 ♀
- فُلَانٌ
で、これらを組み合わせたりニスバ形容詞 فُلَانِيّ [ fulānī(y) ] [ フラーニー ](某の)を足したりすることで「某の息子某」「某の娘某」「某部族の某」という匿名・名無しフルネームを作ることができます。
- فُلَانُ بْنُ فُلَانٍ
[ fulān(u) bnu fulān ] [ フラーン・ブヌ・フラーン ]
男性:某の息子某男 ♂ - فُلَانَةُ بِنْتُ فُلَانٍ
[ fulāna(tu) bint(u) fulān ] [ フラーナ(トゥ)・ビント・フラーン ]
女性:某の息子某子 ♀ - فُلَانٌ الْفُلَانِيّ
[ fulān ’al-fulānī(y)/fulānu-l-fulānī(y) ]
*文語の語末まで読み上げる厳密な発音は [ fulānuni-l-fulānī(yu) ] [ フラーヌニ・ル=フラーニー(ュ/ィ) ]
男性:某(部族)出身の某男 ♂ - فُلَانَةٌ الْفُلَانِيّ
[ fulāna(h) ’al-fulānī(y)/fulānatu-l-fulānī(y) ]
*文語の語末まで読み上げる厳密な発音は [ fulānatuni-l-fulānī(yu) ] [ フラーナトゥニ・ル=フラーニー(ュ/ィ) ]
*アラブ人名ではター・マルブータがついた女性名は二段変化になるのですが、ここでは某という名詞と見て三段変化で記載しました。後から修正を入れるかもしれません。
女性:某(部族)出身の某子 ♀
有名になった人物のフルネームに関するあれこれ
有名人になるにつれてフルネームが短くなっていく傾向
アラブ世界では、本人の知名度が上がって有名人になることで、本当のフルネームとは違う名前で呼ばれる確率が高くなっていく傾向があります。(=شُهْرَة [ shuhra(h) ] [ シュフラ ] )
たとえばエジプト元大統領のホスニー・ムバーラク氏もこのパターンで、2語からなる「ムハンマド・ホスニー」が本当のファーストネームでした。(ホスニーは父親の名前ではありません。)
有名になったことで「ムハンマド・ホスニー」のムハンマドが省略され、ホスニー・ムバーラクがエジプト国内での通称 = شُهْرَة [ shuhra(h) ] [ シュフラ ] になった形です。現地のアラビア語記事でもホスニー・ムバーラクは通称(シュフラ)だと明記されています。
このような理由から、国家要人の名前について記事を書いたりする時には本当のフルネームが何なのかを確認してからの方が安心だと言えそうです。
ラストネーム・家名だけで「フセイン大統領」のように書くのはアラビア語を知らない人の間違い?
地名・部族名由来の形容詞、父や祖父の名前、家名といったラストネームで「鈴木大統領」的に呼ぶこともある
他のページにも書きましたが、大統領といった公人はニュースや新聞でラストネーム部分だけで呼ばれることもあります。
日本では「フセイン大統領やムバーラク大統領と呼ぶのはラストネーム・家名で呼んでいることになるのでアラビア語としては間違い。アラビア語やアラブ人の名前のシステムを理解していない日本人のミス。」という説明が一般的ですが、実際には現地でも見られる用法です。
これは複数の国に共通して見られる用法で、たとえばレバノンだと اَلرَّئِيس الْحَرِيرِيّ [ ’ar-ra’īsi-l-ḥarīrī(y) ] [ アッ=ライース・ル=ハリーリー ] のようにファミリーネーム部分だけ使って「ハリーリー首相」という意味で使われるなどしています。
アラブ人のラストネーム部分(2パーツ構成の短いフルネームの後半)は父親の名前、祖父の名前、家名(もっと昔の家長の名前)、先祖の職業名、地名・部族名由来の形容詞など色々ありますが、ラストネームだけで「鈴木大統領」的に呼ばれるのはラストネームがファミリーネームや地名・部族名由来の形容詞だけとは限らず、父や祖父の個人名になっている場合も含まれます。
日本語資料における誤った説明に要注意
https://eneken.ieej.or.jp/data/pdf/675.pdf
『米国の中東政策、対イラク戦争と新生イラク建設』
このPDFファイルは以前『アラブ人名の由来と正しい呼び方』を書かれた宮﨑和作氏による文なのですが、アラブ人名・家名に関する解説がここでも間違っており中東・アラビア語を専攻する方は鵜呑みにしないよう注意すべきだと思われます。
わが国報道機関をはじめ、評論家、学者、研究者などの多くが前イラク大統領に ついて『フセイン大統領』、『フセイン政権』などと呼び慣わしているが、これらはアラブ人名の呼び方としては正しいとはいえない。アラブ世界における人名はまず本人名(ファ ースト・ネーム)で始まり、その後に父親名、祖父名を付すのが基本であり、『サダーム・ フセイン』(Saddam Hussain)の場合は父親名の『フセイン』ではなく、本人名で『サダ ーム(サッダーム)大統領』、あるいは本人名の後に父名を付して『サダーム・フセイン大 統領』と呼ぶのが正しい。『フセイン大統領』、『フセイン政権』は便宜的呼称として日本国 内では通用しても、それらはあくまでも父名の誤用である。 |
この部分ですがおそらくは筆者の方の誤解であり、参考にしないよう呼びかける必要がある不正確もしくは全く誤りである記述が多かった『アラブ人名の由来と正しい呼び方』と同様アラブ諸国での実際の人名に関する慣習を十分に確認せず書かれた可能性が高いです。
「サッダーム・フセイン政権やサッダーム政権が正しくてフセイン政権という言い方はアラビア語として間違い」という認識は日本にある程度定着しているようなのですが、現地では数がそう多くないにせよ نِظَام حُسَيْن [ niẓām ḥusayn/ḥusain(口語発音はḥuseinやḥusēnなどでイラク発音だとḥusienも) ] [ ニザーム・フサイン(口語発音はフセインやフセーンでイラク発音だとフスィェンやフセェンに近いことも) ] とのみ書いてサッダーム・フセイン政権のことを指している表記になっていることがあります。
ただイラクの場合はフサイン(フセイン)という名前がファーストネームもしくはラストネームに含まれる人が非常に多く、サッダームの方がずっと少なくて特定の個人を識別するのに向いていることもあってか、彼の場合はサッダームとフセインのどちらかだけで呼ぶとしたらサッダームの方が一般的だと言えるかと思います。
ラストネーム呼びするケースの具体例
新聞・ニュースといった報道
イラクに限らずこのような用法は多く見られます。
レバノンでは「ハリーリー首相」「ハリーリー暗殺」のように(アル=)ハリーリー(日本で多いカタカナ表記はハリリ)という家名で政治家個人について書かれたり見出しになっていたりすることが日常的に行われています。
有名スポーツ選手も同様で、2パーツタイプの簡潔な氏名の場合ファーストネームとラストネームのうちラストネームの方でスポーツ記事の見出しになることが一般的に行われています。
テレビ出演
報道に加えテレビ番組での出演でもいったんアリー・アッ=ドゥライミー(口語発音はアッ=ドレイミー。イラクに多い部族名由来の定冠詞つきニスバ形容詞です。)さんという風にゲストのフルネームを紹介した後、「ではアッ=ドレイミーさん」のようにファーストネームを出さずに司会が呼びかけたり、画面にも「アッ=ドレイミー:「イラクの経済は危機的状況にある」」といった字幕が出されたりします。
論文中での言及
学者の名前もラストネーム(家名など)だけで呼ばれたりします。これは論文などで引用する際に起こるもので、フルネームをいったん述べたら後はラストネーム部分だけで呼んでいたりするのを見かけます。
最初に「ムハンマド・アル=カフターニーの◯◯論文」のようにフルネームで言及した後、「アル=カフターニー曰く」のように後はラストネームだけで主語を示すというものです。
女性なのに「◯◯の父」と呼ばれているケース
ニュースでは女性の専門家や出演者がテレビ画面に出ている場合は字幕(テロップで)「◯◯氏:~はーだ」のように本人の名前と発言内容が出たりしますが、「ザイナブ・アブー・ラバン」(直訳するとラバンの父ザイナブ)という人物がパレスチナ女性について語っているシーンでは
アブー・ラバン:パレスチナ問題は危機的状況にある
のようにファミリーネームが使われることは珍しくありません。というよりもファミリーネームの方が表示されるのが普通だと思います。
この場合は「ラバンさんの父親」とは訳さず「アブー・ラバン氏」となります。本人が女性であることに合わせて超訳してしまい「ラバンさんの母親」することは禁物です。
これは日本人にたとえると姓が太郎父・名前が花子・フルネームが太郎父花子という女性を、太郎父氏という呼び名で言及することに相当します。いわゆる鈴木花子さんを公的な場で花子さんと呼ばず鈴木さんと読んでいるのと同じような話になります。
アラブには先祖の通称が家名に転じた「アブー・◯◯(◯◯の父)家」「イブン・◯◯(◯◯の息子)家」がたくさんあるので、本人が男性であっても女性であってもその部分は全部そのまま「アブー・◯◯氏」「イブン・◯◯氏」とし「◯◯の父であるところの」「◯◯の息子であるところの」のような父子関係を示す系譜の表現に書き換えないよう要注意です。
個人を指している文脈では「アール・◯◯(◯◯家)曰く」は部族の声明ではなく、その家名を持つ人物1人の発言を意味し「アール・◯◯氏曰く」という訳に
アラビア半島にはファミリーネーム部分に آل [ ’āl ] [ アール ](家)を含め「アール・◯◯」(◯◯家)という複合語がひとまとまりでラストネームになっている人が結構います。
ムハンマド・アール・アッ=シャイフのようにムハンマドが本人のファーストネームで、アール・アッ=シャイフが「アッ=シャイフ家」という意味の複合ラストネームの場合、記事の中で既に一度フルネームを提示した後では長いフルネームを繰り返さずラストネーム部分だけを使って قَالَ آلُ الشَّيْخِ [ qāla ’ālu-sh-shaykh/shaikh ] [ カーラ・アール・ッ=シャイフ ](アール・アッ=シャイフは言った)とのみ記すことがあります。
この場合アール・アッ=シャイフ家が一族の総意として発表した声明ということではなく、フルネーム呼びを短くするためにからファーストネームという前半のパーツを落として省略したラストネーム呼びになります。
なので訳は「アッ=シャイフ家は言った」ではなく「アール・アッ=シャイフ氏は言った」になります。このような記事ではファーストネームだけで「ムハンマド氏」呼ぶのはむしろ奇妙で、フルネーム全部を書かないのであればラストネームの方を使い日本のような「鈴木氏」方式にする方が普通であるように思います。
元エジプト大統領の例
上で出てきたエジプトの元大統領のムハンマド・フスニー(/ホスニー)・ムバーラク氏ですが、有名人になったことでまず複合名だったファーストネーム「ムハンマド・フスニー(口語発音はホスニー)」からムハンマドが取れてフスニー(/ホスニー)・ムバーラクとなりました。
アラブ世界では元々3パーツタイプのフルネームを名乗っていた人でも、有名人になるにつれて2パーツのみの短いフルネームになっていく傾向があります。これについては以前アラビア語で「有名になると名前が短くなっていく」と書かれていたのを見かけたことがあります。
そして新聞やネット記事などではフスニー(/ホスニー)・ムバーラクというフルネームを使いつつも、人名を繰り返す中でムバーラクしか使わず اَلرَّئِيس مُبَارَك [ ’ar-ra’īs mubārak ] [ アッ=ライース・ムバーラク ](ムバーラク大統領)とのみ呼ぶような省略を行ったりすることがあります。
ファーストネームやファーストネーム由来の通称で呼び合う文化圏にラストネーム呼びが混ざっている理由とは?
アラブ世界では親しい者同士だとファーストネームもしくは本人もしくは息子・娘のファーストネームが由来の通称で呼び合うことが一般的です。そのような中にラストネームで呼ぶ上記のような言い方が混ざっている形となっています。
アラブ人男性はムハンマドやアフマドといった定番ネームの人が多くかぶりやすいため、有名人を一語で通じる短い名前で呼ぶ時に日本人の名字に相当するラストネーム部分が残されやすいということなのかもしれません。
西欧から伝わって一般化した用法である可能性も考えられますが、いずれにせよこうしたラストネーム呼び(日本でいうところの名字呼び)はアラビア語圏でしょっちゅう見かけるので日本人研究者・報道関係者側がアラブの名前システムを理解しないせいで犯した間違いとは必ずしも言えないように思います。
日本ではアラブ文化やアラブ人名に関する「日本ではこんな間違いをされているが実はこうだ」「そういう表記はアラビア語としてはおかしい」といった説明は、中東専門家として本を書いている仕事の方の発言であっても訂正が必要な内容を含んでいることがあります。
いずれも言語としてのアラビア語やアラブ人名ジャンルを本業とされていないがゆえの情報不足・調査不足から来る誤った解説であることが大半なのですが、よくよく読んでみると実情とは大きく違うことが書かれていたりもするので、転載・引用・創作利用の際には色々なソースで調べて事実確認されることをおすすめしたいと思います。