目次 | 日本でのイメージ | 比喩表現 | 製品デザイン | イスラーム | 多神教時代
「アラブでは太陽=死・悪・敵・憎悪の対象」は本当か?
日本で流布している都市伝説的なアラブの太陽観・月観
日本で出回っているアラブ世界と太陽・月にまつわる誤情報
アラビア語では太陽・月はほめ言葉として多用するのですが、日本では
- 「暑苦しい太陽はアラブ人は大嫌いでとにかく月が大好き。太陽は憎しみの対象でしかない。」
- 「砂漠の国では死を意味する呪わしい存在である。」
- 「砂漠において太陽はただ奪うだけの存在。」
- 「アラブ世界では太陽は悪魔のように忌避される不愉快な存在でしかない。」
- 「中東では月が崇拝対象になっている。」
- 「中東は殺人的な暑さなので太陽は人を殺すだけの嫌われ者・悪魔の代名詞。」
- 「アラブ世界においてあなたは太陽のようだは無慈悲・非情・冷酷・残酷・残忍という意味で、月のようだは慈悲深い・優しいという意味になる。」
- 「中東、アラブでは太陽は苛烈な人物をたとえるのに使われる。」
- 「太陽はけなし言葉・比喩だから使ってはいけない。女性をほめたい時は月のようだと言うべき。」
- 「中東・イスラーム諸国で月の模様の国旗が多いのは冷酷無情な太陽が嫌われていて優しい月が愛されているから」
という誤報が長い時間をかけ流布・定着している状況です。「教科書で読んだ」「国語のテストに出てきたから覚えている」という方も少なくないのではないでしょうか。
学校での勉強にも登場したことがあるというこの「アラブは砂漠だから月=慈悲、太陽=無慈悲」説。「教科書に載っているぐらいだからさすがに内容は正しいはず」「中東=アラビア=砂漠というイメージにぴったり」ということで事実確認をしないまま皆さん信じてしまわれるのですが、これらはアラビア半島において大昔から冬の寒さと旱魃で人が大勢亡くなってきた事実やイスラーム以前の太陽信仰をふまえない都市伝説の類で、実像とは大きく異なっています。
実のところ「アラブ世界では太陽は悪魔・死の象徴であるために強く憎悪されていて、悪口・けなし言葉になるので”あなたは太陽みたいだ”とは絶対に言ってはいけない」というのは正しいところが無く、想像と憶測から引き出された架空のアラブ的太陽観だったりします。
アラブ世界では「太陽は素晴らしい」という構図もあり「太陽みたい」はけなし言葉としては使われない
アラビア半島の砂漠地帯における盛夏の酷暑と容赦無い太陽光が嫌いな人が多く太陽よりも月・星の方が好かれていることなどは事実なのですが、比喩表現としてはとても良い使い方をします。なので「皆暑いのは嫌いに違いない、だから太陽はものすごく悪いたとえに使うに違いない」という発想とすると間違いになってしまいます。
「暑いから水・氷・雪は気持ちが良い、だから心が冷える・凍るは嬉しい・幸せという意味」という連想から来た慣用句もあるのですが、「太陽みたい」と直接たとえる場合はほぼ100%と言っても過言ではないぐらい称賛になるので要注意です。
アラビア語における「太陽のような」の主な意味
- (天空で最大・最高たる太陽のような)高い地位
- (諸王の中でもずば抜けた)王者、国王
- 卓越、非常にすぐれている様子
- (他の星々・惑星が全て消えて見えなくなるほどの)強い輝き
- (月よりも完璧度が強い)イスラームという光で人々を照らし導く存在・啓蒙の光
- (皆に対してあまねく、量を変えず絶えることなく常に与えられる無償の)寛大さ、恩恵、慈悲・慈愛
のように「太陽のような人」はもっぱらほめ言葉で、「あなたは私の太陽」も崇敬する指導者・恋人・大切な家族に捧げる定番フレーズとなっています。
預言者ムハンマド、聖地メッカなどアラブ・イスラーム世界で最上級の崇敬を受ける存在も太陽にたとえられるほどなので悪口とは受け止められませんし、「嫌な相手から口説くようなことを言われて気持ちが悪い」という理由以外で女性に「君は僕の太陽だ」と言って怒られるといったことも考えられないです。
冷酷非情は「石のような心」であって「太陽のように苛烈で無慈悲」とは言わない
現地では冷酷非情の象徴は「石」なのですが日本ではそのような紹介はされておらず、「アラブ世界では太陽が冷酷非情という意味だ」という話になっています。しかしながらアラビア語では「太陽みたい」という比喩は日本で思われているのとは全く逆の「無尽蔵かつ平等に寛大な」といった意味で使われているというのが事実になります。
アラブ世界ではイスラーム以前から太陽信仰が行われていましたが、太陽神は雨とセットで大地に草木を育み恵みをもたらす寛大な存在で、その光で闇という不正を取り払い正義と真実を明らかにする存在でした。この太陽観は現代のアラブ世界でも生きており、太陽は好ましく崇高なものであり続けています。
そのため「中東は暑い→太陽は嫌われ者で死をもたらす無慈悲な天体」という推論でアラブの太陽観を説明しようとすると本来とは真逆になってしまい、アラビア語圏における「太陽のような」という比喩表現の意味も大きく取り違える結果となっています。
アラビア語における太陽と月を使った比喩表現に関する誤解
「月のよう」は優しいのではなく美貌・かわいさのこと
コンパクトな学習者向け辞典だけを使っていると見かける機会も無いままになってしまうのですが、ネットで提供されている信頼性が高くて詳しいオンライン辞書には「月」の項目に「(非常に)美しい人のたとえ」「かわいい女の子や男の子に使う」といった説明が載っています。
- Reddit
『Is there a saying in Arabic that goes something like “you look like the moon”?』 - The National
『‘Qamar’: Arabic word for moon invokes beauty and beyond』
のようにアラブ人自身が発信している解説も複数あり、「アラビア語で月は美人を表すのに使う」という正確な情報が日本よりも出回っているように思います。
日本では「アラブ世界では月は優しさの象徴」と誤解されていますが、実際には見た目が良いのを見て「あなたってすごく美人さんだね」「君はすごくきれいだ」「あなたかわいこちゃんだね」「君ってとっても愛らしいね」という意図で多用される慣用表現となっています。
「太陽みたい=冷酷非情な」は「日本語では月がきれいですね=あなたが憎い、になる」と同じぐらいの誤り
「アラブではあなたは太陽のようだと言うと冷酷非情な人間だというけなし言葉になる」は、日本語での事例に置き換えると
日本語では本来「月がきれいですね=あなたを愛しています」なのに、海外で「日本語だと月がきれいですねはあなたが冷たくて憎らしい人間だという意味になるそうです。日本は太陽である天照大神を信仰していた国だけに月は嫌われ者だとか。太陽の敵だから日本人は月が大嫌いなのだとか。文化の違いって面白いですね。」と間違えて説明されている
といったケースに相当します。そのぐらいアラビア語の比喩表現の説明としては違和感があるということです。
アラブ世界では太陽を冷酷な人・憎い人のたとえとしては使わず、むしろ手が届かないぐらい高貴な人・大切な人・愛しい人を表したりするため日本で思われているのとは正反対です。
日本で上記のようなアラブ文化紹介がされていることを知ったアラブ人の方からは「太陽をそのように嫌うとかはないです。月は美の象徴、太陽は強い輝きの象徴です。アラブ文化に対する誤解の一つだと思います。海外ではアラブ文化について人々が自分の思った通りに理解してしまうことがしばしばあるので。」というコメントも寄せられました。
管理人自身「月は美貌の代名詞、太陽も高貴・輝きなどの良い比喩表現」と学んだだけに、「アラブでは太陽みたい=悪口、けなし言葉」説がどこから発生したのか気になり調べてみることにしました。
『日本語と外国語』
『日本語と外国語』
岩波新書・鈴木孝夫著
47~49ページ
学校の授業や国語テストの問題文などにも使われ、誤ったアラブや砂漠の太陽・月観が日本中に浸透してしまったきっかけとなった本の一つです。
本書のアラブ世界に関する文化・宗教解説ですが、残念ながら執筆にあたってアラブの文化・言語・宗教に関する文献を一切読まれなかったのではと感じさせられる内容になっています。
缶詰のくだりも元ネタを確認せずだいたいの記憶を頼りに書かれており、そこから引き出されたアラブ・イスラームに関する箇所のほぼ全部に関しても事実確認をしないまま話を発展させている可能性が非常に高いために正確とは言い難い解説となってしまっています。
思い込み・想像・推測がメインで信頼性が低いにもかかわらず「有名な先生の本なので書いてあることも事実だろう」と信じてしまう方が後を絶たず、「アラブ人は冷酷な人を太陽にたとえる」という情報が修正が不可能なレベルまで浸透してしまったように感じられます。
缶詰は太陽マークから月マークに変えたわけではない
日本の大手食品会社が缶詰を輸出した時の話が最初に紹介。ただし出典を見失ったので正確ではないかもしれないとの断り書きあり。
缶詰の売れ行きが悪かったので覆面テストをしたら評判は良かった。しかし調査員がマーケットに入って地元民に尋ねたら「太陽の印がついているからさ」という答えだった。 日本では朝日・旭、太陽・日の丸は商品名に好んで使われるしマーク・デザインにも多用される。 本文からの引用 |
このエピソードですが、ネットでは「缶詰のマークを月にしたら見事に売れるようになった」「太陽から月に変えたとたん急に売れるようになったことからもアラブ世界でいかに太陽が忌み嫌われ月が愛されているのかが伝わってくる」と紹介されていることが多いようです。
しかしこちらの本には月マークにしたとは書いてありません。元ネタとなったであろう『読むクスリ 6』では五つ星マークに変更したと紹介されています。
問題は太陽マークの缶詰を違うマークに変えた後に続く一連の文章です。著者の先生はアラビア半島周辺に元々あった太陽信仰や現代における太陽観や比喩表現のことを一切確認されずにこの缶詰や現地での夏の暑さに関するエピソードから「アラブ世界において太陽はただただ忌み嫌われる存在でしかない」と断定されてしまい、その憶測のまま後の文章をずっと書かれたように見受けられます。
当時でも調べればイスラーム以前の盛んだった太陽信仰や未だに最大級の賛辞に使われているアラビア語表現のことぐらいはわかったと思うのですが、本を読む限りそのような形跡が全く見られません。
「アラブはこうに違いない」「イスラームはこんな風だろう」で書かれてしまった感が非常に強い一節で、読んでいてかなり驚かされました。
アラビア半島の骨董品市場や展示館の缶詰写真やビデオを片っ端から調べたのですが、未だにそれらしき缶を見つけられていません。日本のポンジュースは本当に大人気だったため今でも空き缶や中身入りの缶をコレクターが取引をしており画像もあふれかえっているのですが、「よく売れるようになった」とされている太陽マークから五つ星マークに変えたニチロの商品はどこにも写り込んでおらず捜索が難航しています。
現地で大人気だったポンジュースの製造会社えひめ飲料さんに問い合わせた時には当時のことを覚えている方に詳しいお話をうかがうことができたのですが、マルハニチロに関しては「情報が無いのでわからない」との回答でした。事態を把握して調査を行ったという日本缶詰輸出組合は解散してしまっており、太陽マークの日魯漁業缶詰エピソードの詳細も真偽を確認することが難しい状況です。
アラブ世界で太陽の絵がついた缶詰や食品パッケージがあることを考えると、この一件について大きな解釈違いがあったのでは、話が本来とは違った形で拡散したのでは…という気がしないでもないです。
昔のアラビア半島には太陽神信仰があった
本文からの引用 日本人の持つ「初日の出」「御来光」「お天道さま」「お日さま」といった、信仰ともいえる肯定的な感情は、アラブの人々には全く理解できない。彼らにとってこのように忌まわしき存在である太陽は、(以下略) |
現在アラブ諸国になっている地域は太陽信仰が長い間行われており、太陽を忌まわしい存在どころか恵み・新生やあまねく正義をもたらす存在として尊敬されていました。
今のアラブ人の小児たちが歯が抜けた際に「お天道さま、このロバみたいな(ばっちい)歯をガゼルのような(きれいな)歯と取り替えてください」と太陽にお願いをするというのも、太陽を「太陽神様」と崇敬していた時代の名残りとなっています。
アラブ世界の宗教的マイノリティーには今でも残っている太陽信仰
イスラーム以前のアラビア半島には地域・部族ごとの神が林立する多神教・偶像崇拝が盛んで、御神体も天体・奇岩・隕石・樹木・動物など色々な形をとっていました。験担ぎや願掛けといった迷信も盛んだったといいます。
その中のひとつが太陽信仰で、アラブ人には「太陽神のしもべ」「シャムス神のしもべ」という名前を持つ人も少なくありませんでした。
現代でもイラクなどにはメソポタミア地域発祥の太陽信仰が残っているマイノリティーがおり、彼らは今でも太陽のマークやシンボルを大きくあしらった旗などを掲げています。
太陽信仰が残っているのはアラビア半島ではなくその北側一帯です。メソポタミア地域ということで川がありアラビア半島の砂漠地帯・土漠が多い高原地帯とは違いますが、アラビア半島のアラブ人たちにメソポタミア周辺の天体信仰がある程度伝播したこともあってか太陽信仰の内容としては類似性があります。
そうした現存する中東の太陽信仰を見る限り、アラビア半島のアラブ人たちの間で行われていた天体崇拝においても太陽はかなりの地位を占めていたことが推察可能かと思います。
初日の出・御来光に近い日の出信仰
アラブ世界では大昔から朝日や日の出には良いイメージがあります。現代でも「日の出」という意味の「シュルーク」さんという人名がありますし、恋人・家族・崇敬する人に送る「あなたは私の日の出(朝陽)」「君は僕の日の出(朝陽)」といったフレーズもプラスの比喩表現です。
『日本語と外国語』ではアラブ世界では「御来光」のような太陽にまつわる肯定的が言葉が生まれ得ないことになっていますが、存在します。多神教時代は日の出・日没が太陽神信仰と結びついており、日の出を崇め好む傾向すらアラブ人にはありました。
預言者ムハンマドがイスラームの教えを広め始めてからもすぐに太陽・月・星を信仰する宗教が廃れたわけではなく、信徒が次第に増えていった一方でまだ改宗せず多神教徒のままだった人々は太陽に向かって礼拝していたためクルアーンでも天体崇拝から足を洗うように唯一神アッラーが警告をしています。
またイスラーム教徒になった人でも自分のそれまでの価値観を支えてきた多神教的迷信を引きずっていたりもしていたことが伝えられており、預言者ムハンマドは太陽・月崇拝に関する考えを一神教的な認識に改めるよう促している言葉を残したほどでした。
日本の「お天道さま」「お日さま」と同じような使われ方があった
「太陽をお天道さま・お日さまといった信仰を込めた呼び方をするのは日本の特徴でアラブには無い」という部分ですが、アラビア語の太陽(シャムス)はメソポタミアの太陽神シャマシュと同じアッカド語に由来すると言われています。
アラブ人も意識しないような古い語源ですが、かつては太陽神信仰がありアラビア語の太陽にも「太陽神様」「お天道様」的なニュアンスが元来あったとも考えられる点では日本と共通しています。イスラーム教に切り替わったため今では禁止され見られなくなりましたが、多神教時代には「アブド・シャムス」(太陽(神)のしもべ)という名前の男性名はポピュラーでした。
また現代のイエメン付近にも「シャムス(太陽)」という名前を持つ女神がおり太陽神として信仰されていました。
砂漠のような厳しい風土では厳格な一神教がふさわしいという誤解
アラブ世界と太陽・月・星との古い関係性は上記のようなアラビア半島の古い宗教や神々のことを考慮に入れないと大きな誤解をしてしまう可能性が高いです。
日本では「アラブ人は砂漠で暮らしているから日本のような八百万の神という発想とは無縁」「自然を敬って神として信仰する気持ちなど分からない」「厳しい気候だとそういう文化も生まれない」という風土論的な推測から来る誤った説がしばしば紹介されるなどしています。
しかし北方からセム系一神教であるユダヤ教やキリスト教が入ってくるまで、アラビア半島周辺は近隣地域の影響も受けた多神教が盛んで「幸運が訪れるようにと石に祈りを捧げる」「旅行前に安全祈願のために偶像に祈る」「旅先ではその土地の神様に挨拶するという意味で参詣する」「鳥がどの方向に飛んでいくかによって吉凶を決める」「日蝕・月蝕は偉大な人物が亡くなるサイン」「多神教の神にあやかった名前を我が子につける」といった文化が浸透していました。
初期のイスラーム教徒らがマッカ(メッカ)クライシュ族の反イスラーム側に打ち勝ち偶像を破壊するまで、今よりも小ぶりでこじんまりとしていたカアバ神殿に360体もの偶像(人型から石やら色々)がびっしり並べられていたとされるほどで、実に多くの神が混在している状況でした。
日本の多神教的要素と似た部分もあり、「砂漠だから宗教観も◯◯に違いない」「砂漠の中東では厳しい一神教しか生まれなかった」という考えからスタートした推論が実際とはかけ離れた架空のアラブ文化像になる可能性が大きいことに対してはかなりの注意が必要だと思われます。
セム系一神教の基本的信仰の中にはバビロン捕囚やペルシア人から受けた影響なども関わっているので、アラビア半島や地中海東岸の環境だけを考えるのはちょっと違うのでは…という気がしないでもないです。
太陽は食品ブランドとして最悪な絵柄という訳ではなく、缶詰ブランドや調味料のラベルに使われている
本文からの引用 彼らにとってこのように忌まわしき存在である太陽は、食品のブランドとしては最も不愉快な、マイナスのイメージ以外の何物でもなかったのである。 |
こちらも「アラブの国は砂漠だらけでいつも暑くて人が度々死んでいるから、アラブ人は皆太陽が大嫌いに違いない」という思い込み・前提からさらに導き出されてしまった憶測かと思います。ふつうに食品やブランドのマークに太陽は使われています。
昔もあった太陽イラストつきの缶ジュース
日本のポンジュースが流行っていた1970年代頃の缶ジュース写真から、マンゴーの実の背景に大きな太陽が配置されたイラストの輸入ものマンゴー缶ジュース(メーカー名によるとタイ産のようです)が出回っていたことを当方で確認済みです。
ニチロの缶詰ほど目立つ太陽ではありませんが、画像は左下に暑そうなオレンジ色の太陽が描かれています。調べてみたところHOPEWELLというメーカーはタイ製マンゴージュースを各国に輸出していた会社らしいのですが、南国の熱い気候が熟したマンゴーを連想させるデザインを採用。
骨董品としてわざわざ空き缶を保存して写真に撮っているぐらいなので、普通に好まれて飲まれていた製品だったものと推察されます。
エジプトの有名缶詰メーカーは太陽マークがシンボル
また現在でも太陽の光を浴びてすくすく育つひまわりから取れる調理油は「シャムス(太陽)」や英語の「Sunny(サニー)」といった商品名がつけられ明るいお日様のイメージを強調したラベルがついていますし、エジプトにはサンシャインという太陽マークをでかでかと描いたメジャーな缶詰ブランドもあります。
上の写真はいずれもエジプトの有名缶詰ブランドサンシャイン製品ですが、ゆらめく太陽の強い光をイメージしたイラストで日本のニチロ缶詰の古いデザインと同じぐらいのサイズで缶に大きく配置されています。
アラブでは太陽は寒い冬に温めてくれる慈悲深い存在であり春に草木を育む生命の源として扱われる
本文からの引用 しかし一年中、砂漠の中で灼熱の太陽に苦しめられて生活するという文化を持つ人々にとって、太陽は日本人が考えるような、恵みを与える生命の源ではなく、まかり間違えば死を意味する呪わしき存在なのだ。 |
これは中東で数千年前からあった太陽・月・星(金星など)信仰のことを一切調べずに「砂漠だから太陽は嫌われているに違いない」憶測で話を広げて結論までのストーリーを全部自作してしまったものです。
現在アラブ諸国になっている地域では太陽は恵みと作物の実りを与える生命の源であり、皆に公平に正義をもたらす神様でした。恵み・寛大・草木の芽吹きと生長・正義・真実といった太陽のイメージは一神教信仰のイスラームに置き換わった今でも比喩表現としてアラビア語圏で使われています。
日本でのイメージとは違いかなり厳しいアラビア半島の冬
「一年中太陽に苦しめられる」とありますが、アラブ世界では「夏は暑くて太陽って嫌だなと思ってしまうけれど、寒い冬になると暖かい太陽が恋しくなる」という認識が一般的です。
「アラビアの砂漠=低地」だと思われやすいのですが、サウジアラビアやイエメンなどのアラビア半島内にある国は2000m~3000m級の山がいくつもあり山の中に小川や涸れ川があるという地形をしており、「見渡す限りまっ平らな砂の海で照りつける太陽と酷暑と365日戦い苦しんできたのアラブ人」というのは想像上の姿に過ぎません。
アラビア半島には夏冬もしくは春夏秋冬の季節があり、太陽の暖かさを恋しく思う季節や太陽の恵みを実感する春も存在します。サウジアラビア北部にはスノーリゾートがありストーブと分厚い毛皮のコート無しには過ごせないほどの厳しい冬があります。
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『アラブ世界における雪・雹・氷』
イスラーム以前から近代ぐらいまでのアラビア半島での冬の記録を読むとわかるのですが、生きるか死ぬかというレベルの低温や冬季の旱魃・飢饉が長く続くなど人々を凍えさせ苦しめていた様子がうかがえます。
雪の名所でなくとも冬はかなり肌寒いので、クウェート他の湾岸諸国なども含めアラブ世界では冬向けの電気ストーブ、石油ストーブ需要というものがあり、国によっては日本から仕入れた中古ストーブが店舗に並んでいることも。
アラブ人にとって冬は寒さ・苦しみの季節で、夏は貧者に優しい季節とされてきた
大昔のアラブ世界を舞台にしたドラマなどを見ればわかるのですが、アラビア半島の冬は寒く雨で体が冷え切ったり、植物の成長が進まず果実などもできないため死者がしばしば出るなどしていました。年によっては降雨に恵まれず寒冷と干ばつのダブルパンチに襲われることも珍しくなく、人々は非常に苦しい日々を過ごしていたといいます。
アラブ世界では冬は食糧不足と苦しみの季節だったことから「夏は貧者のための季節」などといった言葉が昔からあったぐらいで、太陽の光が照って食糧に恵まれる夏季が救いと生命の象徴でした。
そうした夏とはまた違ったアラビア半島における冬の苦しみについてはイスラーム以前のジャーヒリーヤ時代に作られた詩などにも織り込まれているほどです。
暑さと寒さ、水不足と水害が同居するアラビア半島
日本でもアラブのイメージとして思い浮かべられやすい「酷暑、渇水」と、その正反対である「厳寒、水害」という二つの気候を持ち合わせているのがアラビア半島特にイスラーム教発祥の地とされる現サウジアラビア周辺の風土です。
アラブ人が元々住んでいたアラビア半島の自然環境を反映したクルアーン(コーラン)でも、天国の楽園は(真夏の)酷暑や(真冬の)厳寒が無い快適な気候に恵まれているという描写があり、「一年中太陽に苦しめられて来る日も来る日も昼間が暑くて苦しくて、太陽が憎くてたまらない敵以外の何物でもない」という風土とは違っていたことがうかがえます。
アラブの古い文献でも
- 暑くて厳しい夏 ー 寒くて耐え難い冬
- 雨不足で雨乞いにすがる日々 ー 雨が振りすぎて道が寸断され、砂漠だった場所が湖のようになり家畜が皆溺死してしまう災難に見舞われ、いよいよ雨よ止んでくれと願う事態に発展する
といった具合に、「暑さ&寒さ」「渇水&水害」という両方のパターンで人々が苦しんでいたことがわかります。
『日本語と外国語』では「アラブの砂漠では365日年間を通じて酷暑に悩まされる」的な描写となっていますが、このアラブの地理に関する誤解が根底にあるために「アラブ人にとって太陽は好きになれる要素などどこにも無い」という誤った推測に結びついてしまったのではないでしょうか。
慈愛や生命を育むというイメージも持つ太陽
「太陽が死しかもたらさない呪わしい存在」とありますが、砂漠で熱中症と脱水で命を落とすことは事実です。ただアラビア半島に元々あった太陽神は日照りだけでなく豊穣や実りとも結び付けられることがありました。
多神教から一神教に転じたイスラーム以降も、「春に雨とともに生命を育み枯れ果てた砂漠の生気を蘇らせる存在」「寒い冬における救い」「無尽蔵の愛を皆に与えてくれる寛大な存在」としてしばしば描写されてきたほか、月と並んで太陽も美の比喩として用いられてきました。
なのでアラブ人にも「太陽は恵みを与える生命の源」「優しく慈悲深い太陽」という考えがある程度存在しています。シリア人難民キャンプを舞台にした絵本では太陽が温もりや空腹を満たしてくれる優しい存在として登場し子供たちが太陽探しの冒険をしたりするのですが、『日本語と外国語』では「そんな概念などある訳が無い」といったニュアンスです。
一神教化されるアラブ人の天体崇拝時代には月よりも女性神だった太陽神との関連からむしろ太陽を美人の比喩に使う方が多かったとする専門家もいるぐらいなのですが、この本では「アラブは砂漠だから太陽も美を意味する言葉になんてなり得ない」といった流れになっています。
アラビア半島は365日猛暑だという誤解から、『日本語と外国語』では冬の厳しさや春の太陽と降雨による大地の復活といった象徴的な季節の変遷について全く考えず最後まで推論を続けてしまっているように見受けられました。
アラブ世界において三日月国旗はオスマン朝旗が由来とされイスラームが月を絶賛しているからではない
本文からの引用(1) このようにアラブの人々が太陽を嫌うとすると、彼らの好む天体はなんだろうか。それは月である。世界を熱砂の海に変え、万物を干上がらせた恐ろしい太陽が沈むと、砂漠は突如として涼しくなる。人々は生気を取り戻し、ようやく人心地に返る。ふと空を見上げると月が冷たく美しく輝いている。月こそ美であり救いであり希望であるという月の美学は、まさにこのような状況で生まれたのである。 本文からの引用(2) だからこそ、アラブ文化に基盤を持つイスラム文明の中では、月が、それも特に三日月(新月)が賞揚されることになる。そしてそのことが、いま九つの、イスラム教を国教あるいは重要な宗教とする国々で、三日月が国旗の中に取り入れられている理由である。 |
砂漠の国では太陽は嫌われているからイスラームが月と星を旗をシンボルにしたというのはよくある誤解で、ずっと後になってからオスマン・トルコを経由して多神教的要素が混入したと言われています。
アラブ世界では月と星のシンボルはオスマン朝による支配の遺産という見方も強い
イスラームの象徴が三日月になったのは後代になってからで、アラブ世界ではオスマン朝旗が原因とされています。そのためアラブ人自身がアラブ発祥とは見ておらず、そもそもイスラームの公式シンボルですらないとする人すらいます。
要は「月が優しくて慈悲深いからとアラブ人が好きで決めたシンボルはない」ということです。
イスラーム諸国の国旗に多い三日月や星に関しては、「アルジェリアやチュニジアなど三日月が国旗についているのはオスマン朝の統治下にあった国々だから。なので独立後もくっつけている。」という認識が現地には存在します。
月と星のモチーフはイスラーム公式ではなく多神教的な天体信仰要素の移入だとする意見も
本の記述と違って、イスラーム世界には太陽が忌まわしい存在だから月を称賛しシンボルとして選んだという事実やその裏付けは無いというのがアラブ・イスラーム側における定説です。
アラブやイスラームの暦は太陰暦で新しい月の象徴が三日月(新月)です。宗教行事上新しい月の到来を目視で観測する必要があって三日月が非常に馴染み深く近代イスラーム世界におけるイスラミックなモチーフとして好まれてはいるものの、月が慈愛に満ちていて優しい存在だからとイスラーム自体が三日月をヨイショしている訳ではないです。イスラーム教が公式に三日月をシンボルと定めたこともありません。
月と星を組み合わせた月星旗の構図自体がイスラームが「信じてはいけない」「かつて信じていた太陽・月信仰は捨てるべき」と否定している天体信仰である月神信仰のあった文化圏からの移入である、トルコ系民族が中央アジアを移動してきた時に持ち込んだ非イスラーム的要素だ、という声がしばしば見られます。
元々オスマン朝旗経由で取り入れられたため、アラブ側の対オスマン朝感情も相まって「イスラームの統一された象徴ではない」として三日月シンボルを嫌がり使用を避ける人も多くはないですがいます。
『読むクスリ 6』
日本国内ではアラブと太陽の話を『日本語と外国語』で読まれた方が圧倒的に多いようなのですが、ネット上の記事などから判断した限り同書の著者の先生がどこで読んだか忘れたと書かれていたその元ネタが『読むクスリ』だった可能性が大きいようです。
『読むクスリ』は企業版いい話を集めた軽い読み物で、『週刊文春』で連載していたものをまとめた本です。
『読むクスリ PART6』
文藝春秋 文春文庫・上前淳一郎著
127~131ページ
『百聞は一見にしかずー異なる連想ー太陽に食べられる』要旨
『百聞は一見にしかずー異なる連想ー太陽に食べられる』と題したエッセイに、日本製の缶詰をアラブ諸国で売るようになった経緯や現地駐在員がすさまじい暑さに苦労させられた話が載っています。
- 「日本缶詰輸出組合がアラブ諸国と取引を始め、日本製の各種缶詰が砂漠の国々の店頭を飾るようになった。」
- 概して好評だったが、不思議なことに日魯漁業のものだけがどうしても売れずうず高く積み上がったまま残ってしまった。
- 組合の駐在員が首をかしげまずはメーカーを隠して地元民に食べてもらったが、パイナップルの缶詰も桃のシロップ漬けもニチロ製が一番美味しいという感想だった。
- 日本缶詰輸出組合は各メーカー共通の利益代表なのでニチロ製品だけ売れない状況を放置しておくことはできず、必死で原因探しをすることに。
- アラブ人が嫌いなイスラエル国旗と同じダビデの紋章(管理人注;カゴメの古いシンボルは六芒星そっくりだった)をつけた日本製ケチャップがアラブ諸国で散々な目に遭ったのでまたイスラエルのシンボルだろうかとラベルを隅々まで点検したがあるのは昇る太陽のイラストで全然違った。ニチロの社長が熱心なクリスチャンだという情報がイスラーム教国の現地まで流れてきて反感を招いたのでは?とすら考えるほどだった。
- 答えを見つけられない組合の駐在員が店頭まで出ていって缶詰を買いに来た現地人に直接「いったいなぜこのメーカーのを買わないのか」と質問したら、「ああ、太陽の絵が嫌いだからだよ」と答えた。
- 「砂漠の人びとにとって、太陽は美しくも、ありがたくもない。むしろ酷暑と耐えがたい乾きをもたらす、忌むべき存在だ。」「「神は、人間に自らの罪を思い知らせるため、太陽を創った」という神話がアラビア遊牧民の間にあるほどだ。その太陽をラベルに描いたのが、いけなかったのである。」
- 組合の駐在員から話を聞き、ニチロはアラブ向け商品のラベルを昇る太陽から五つ星のデザインに変更。缶詰が嘘のように売れ始めた。「各国の国旗に星があしらわれているが、月の方が太陽より美しいとされるこれらの国では、星もまた好ましいのである。」
- 第一勧銀の国際本部で課長補佐を務めていた人物はサウジアラビアに3年間出向。赴任前に現地事情を取材し、太陽のデザインが忌み嫌われることも学んだ上で現地に乗り込んだ。紅海に近いジッダの真夏は考えられない暑さだったが、彼は猛暑の中でも外回りに出かけており現地人スタッフから「太陽に食われないよう、気をつけて下さい」と心配されていた。
- 駐車場においておいた車のドアは火傷するほどに熱く、ハンドルも熱く冷房もなかなか効かない。走っているうちにくらくらしてきて事故を起こしそうになるほどで、現地人はうまいことを言ったものだと納得。こういう土地柄だから太陽ラベルの缶詰が売れないのだと実感として理解した。こっちを食い尽くしそうなほど恐ろしい敵が描いてある缶詰など食べようという気になれるはずがない。
- 同氏はその後外回りをやめ、現地人にならって午後2時から4時頃まで昼寝をし、夜はお茶とお菓子で月見を楽しむ生活に変えた。
『日本語と外国語』よりも詳しく、また多少ニュアンスが違っている部分もあるようです。
ネットでは「アラブ諸国で太陽は悪魔扱いだから太陽マークの缶詰が不買の憂き目にあった」的なストーリーが紹介されていたりもするのですが、実際にはそこまでの話ではなかったことがわかります。
売れなかったニチロの製品は魚だけでなく果物の缶詰もあった
ネットで紹介されているのは魚の缶詰だとか鯖缶だといった話だったのですが、実際には色々な種類の製品でパイナップルや桃も売っていたということのようです。
デザインは太陽から星に変更した
ネット記事などでは「ニチロの缶詰は太陽ラベルから月ラベルに変えたら大売れするようになり、アラブ世界における圧倒的な月人気の裏付けとなった」といった紹介をされてることがしばしばあるのですが、正確には五つ星マークに変更したということのようです。
管理人が個人的にニチロに問い合わせてみたのですが、「当時中東向けに売り出した缶詰製品が実際のところどんなマークをつけていたのかはもう資料が残っていないので回答できません。」とのお返事をいただきました。
イスラエルの国旗との類似性を疑った件
イスラエルのダビデの星とは違いますが、アラビア半島の真隣にあるイランではイスラーム革命前のパフラヴィー王朝時代にライオンと太陽をあしらった国旗を使っていました。隣国関係で太陽のシンボルがひっかかるとしたら、王朝時代のイラン国旗か周辺の太陽崇拝系マイノリティーのシンボルが考えられます。
社員の方はイスラエルばかりを気にしていて太陽マークを掲げている別の非アラブ国家やサウジアラビアでの対イラン感情のことまでは調べていなかったのかもしれません。
アラブ人が太陽マークを敬遠した理由
『読むクスリ』では聞き取りリサーチ相手のアラブ人本人が「どうして自分は太陽の絵がついた缶詰を嫌いと思ったのか」という理由を詳しく説明したかどうかという点までは言及していません。
暑い国、しかもまだ近代化途中でエアコンが十分に普及していなかったアラビア半島の真夏は相当きつかったらしく、そのような環境では太陽が好きな人は今よりもずっと少なかった可能性は非常に大きいです。
エアコンや冷房付きの高級自動車が普及した現代でも炎天下での熱中症・脱水症死は起こっており、砂漠で迷ったり車が故障したりしたために亡くなるケースがあります。夜間に井戸の場所が目立つようビーコンによる光の柱を出すことで対策が講じられたといったニュースが新たに紹介されるような土地柄です。
本分からの引用 砂漠の人びとにとって、太陽は美しくも、ありがたくもない。むしろ酷暑と耐えがたい乾きをもたらす、忌むべき存在だ。 |
ただアラビア半島ではイスラーム以前には太陽信仰がありましたし、現代でも比喩表現としては太陽を良い意味で使います。なので「砂漠の人びとにとって、太陽は美しくも、ありがたくもない。」「呪わしい敵でしかない。」と断定するのはちょっと違ったのではないか?という気がします。
現地の酷暑から連想する太陽のイメージから着想を得た「太陽光がきつすぎて人も亡くなるぐらいだから、比喩表現とかでも最悪な使われ方をしている」というあたりは日本人による推測部分で、もう少し検証が必要だった可能性が大きいです。
千数百年にわたってアラビア語やアラブ文学で絶賛に使われてきた太陽の地位を確認された形跡が無く、「太陽のことを大嫌いに違いない。だから太陽も悪い意味しか持っていないはずだ。」という前提の上で話を進めてしまったように思われます。
月と星についても、オスマン朝時代に月星旗がイスラームのシンボルのようなイメージで浸透したことからアラブ世界にも定着したと言われており、太陽が嫌われ者で月と星だけ愛されているかというと必ずしもそうとは言い切れず複数の要因が関わっている部分かと思います。
神が人間に自らの罪を思い知らせるため太陽を創ったという神話
本文からの引用 「神は、人間に自らの罪を思い知らせるため、太陽を創った」という神話がアラビア遊牧民の間にあるほどだ。その太陽をラベルに描いたのが、いけなかったのである。 |
それはないと思います。もしそうだとしたら太陽の名前を関した製品や太陽をラベルに描いたりボトルデザインに取り入れたりした製品が普通にアラブ諸国に存在することが説明できません。
イスラームでは太陽も月も唯一神アッラーが人間の役に立つように、この世を照らす明かりとなるように創造し定めた通りに運行させている天体という扱いです。
太陽自体はアッラーの徴とみなされ、イスラーム以前に太陽崇拝をしていた時のように太陽を神として崇めてはいけない、太陽に関して畏怖や感動をしてもひざまずき祈りを捧げる相手はアッラーにしなさい、という教えがあります。
預言者ムハンマドの言葉を伝える言行録ハディースによると、アッラーは信徒たちが自分が夜に犯した罪を昼間に悔悟し昼間に犯した罪は夜に悔悟するのを受け入れるべくその手を広げていて、それは最後の審判に伴う復活の日までずっと続くとあります。
ただこれは自分が犯した罪は後からきっちり悔いるべきだという意味の話だとか。専門家の解釈によると、夜に犯した罪は別に夜のうちに懺悔しても構わないものの、夜の後に昼が来るので「後から」「罪を犯した後に」という意味のたとえとして「昼に悔悟する」と表現しているだけのようです。
イスラームおいては悔悟(タウバ)しアッラーがお喜びになられるような信徒になるのが大切だという感じなので、アッラーが人間に罪を思い出させるために太陽を創って昼間の明るい時間帯ずっと試練を与えて苦しめている的なストーリーはイスラームではない他の宗教での話ということになります。
イスラームにおける太陽の位置づけとは違いしかも神話となると、複数の神々がいた時代=イスラーム以前のジャーヒリーヤ時代から続く民間伝承ということになるのですが、当時は太陽神信仰(地域により女性だったり男性だったりしたようです)があり太陽は創られたただの天体ではありませんでした。
多神教時代は神の結婚や神産み話があったので、「神が人間に罪を思い知らせるために太陽を創った」というよりは太陽神そのものがそういう事態を引き起こしている本人だという路線でソースとなった神話を探す必要があるような気もします。
ジャーヒリーヤ時代の太陽神を1つずつ調べていくと無事に同じ話に行き当たるのでしょうか。この神話の元ネタが気になるところです…
『日本人の知らない日本語 2』
『日本人の知らない日本語 2』
KADOKAWA・蛇蔵&海野凪子著
014ページ
*該当するアラブ関係の部分については、レタスクラブ『太陽は何色?国によって違う色のイメージ/日本人の知らない日本語2(2)』で読むことが可能です。
こちらの『日本人の知らない日本語 2』では「アラブ世界では女性の口説き文句に太陽を使ってはいけない」という話が出てきます。
- 「君は太陽のようだ」とヨーロッパ人男性に言われたアラブ人女性が怒って顔をそむけるイラストあり。
- イラスト横に「ちなみに色だけでなく意味も国によって違います」「アラブでは月のようだって言わないと誉め言葉にならないよ」「アラブでは太陽=非情、月=慈悲、雨=いい天気」との説明。
おそらくこの本を読んで「アラブ女性に太陽のようだと言うと怒られるらしい」「アラブでは太陽という比喩は冷酷非情な嫌なやつという意味になるらしい」と間違えて覚えてしまった方も多いのではないでしょうか。
この本もアラブと太陽・月の関係性についての都市伝説を流布する一因となってしまっています。
アラブ世界では「君は太陽のようだ」はほめ言葉にしかならず女性が怒って顔をそむけるということは考えられません。「月のようだ(美人だね)」と言うのが定番になっているナンパ時に「太陽のようだ」とは言わないので、言葉選び的に合っていないというだけの話です。
「あなたは太陽のよう」はお母さんや恋人に言えば喜ばれるような絶賛の言葉で、異性をほめて口説くような時にも「あなたは太陽そして月」と伝えることもしばしばです。
2024年1月、サッカーのアジアカップ開催中のカタール(カタル)ドーハにて。複数のゴールを決めたイラク代表のアイマン・フサイン(アイメン・フセイン)選手を囲んでの食事会で、イラク人女性詩人・ジャーナリストが「あなたは太陽にも月にも匹敵する」と称賛の言葉を贈っている様子です。異性から言われるには照れ臭い言葉なので、アイマン(アイメン)選手は手を頭に置いて気恥ずかしそうにしている様子がネット上でも話題になりました。
ところが、この本の漫画では「月みたい」と言わなければいけない理由を「月は慈悲だからほめ言葉、太陽は非情だから悪口になる」という誤った構図をアラブ的価値観として紹介しています。
害にならない程度の適度な雨が「素晴らしい天気」「また雨が降りますように」「神様からの恵み」と喜ばれる的な解説は正しいのですが、太陽と月に関する部分は現実のアラビア語表現における用法を十分に確認せず出版されてしまったと言わざるを得ません。
「月のよう=冷酷な太陽と違って慈悲深い」ではなく、美貌・色白・優美・輝かしさに対するほめ言葉
アラビア語の辞書にも載っている「月=美人、美男、かわいい子」
女性に対して「月のようだ」とほめるのは優しいとか慈愛に満ちているといった意味というよりは「月のように色白」「月のように輝いている」「満月のようにふくよか」などの美貌表現と結びついている部分が大きく、「冷酷非情な太陽野郎と違って月みたいに穏やかで優しい」という含みで使っているものではありません。
辞書にも
- reference to or description of someone beautiful
- often used to refer to a pretty girl or boy
- very pretty
- expression of admiration of beauty (to a person)
- (reference to) beautiful person, beauty (can be said of a man or woman)
と載っているぐらいに「美人」「美男」「とてもかわいい子」「かわいこちゃん」という意味で使う単語として定着しており、辞書を見ただけでも「優しい」という意味とは違うことが確認可能です。
夜の楽しいおしゃべりタイムを照らし、ほっと一息つくことを許してくれる月はたしかにアラブ人にとって好ましい存在・慰め・穏やかな光でもあるのですが、女性に「月みたい」と言うのは主に美しさのこと指しています。
アラブにおける月みたいな美しさとは?
月は中世でも美男美女の代名詞として使われるなどしていました。として現代の日常会話ではキラッキラしているとか(アラブ人が好む肌色である)色白だとか「かわいい」「べっぴんさん」「まばゆい美人さん」とかいった系統のフレーズとなります。
ちなみにダイエットの概念が広がってきた現代と違い、男性も女性もふっくらした色白な顔は好ましい美点で、満月の欠けることがないくっきりした円形と相まって「満月のよう」「月のよう」つまりは美貌を備えていることを示す表現となっています。
アラブの伝統的な価値観に基づいた男女の美貌の称賛だと以下のポイントが強調されます。
- 月のように輝かしい肌をしている
- 月のように色白だ
- 満月のように顔が丸みがありふっくらして肉付きが適度に良い
- 頬がほんのり赤く染まってバラ色になっている
「月=美」の理由は「太陽=死、憎い、醜い」という対比ではない
「太陽が暑苦しさ・非情・死の象徴として比喩表現になっている一方で月は穏やかで優しい→だから月はアラブ世界で女性のほめ言葉」という対比から来た称賛ではありません。
顔の形や肌色が月みたいで好ましいという月との類似性から直接作られたのが美貌をほめる際の「貴方は月のような人だ」というアラビア語における比喩となっている感じです。
そのため「あなたは月のように美しい」というアラビア語表現には「太陽は悪い・醜い・呪わしいけど君は違う」という意図は全く含んでいません。そのため太陽とセットで「あなたは月であり太陽である」「あなたは私にとって昼間を照らす太陽であり夜の闇を照らす月である」という称賛を女性だけでなく男性にも使います。
アラビア語圏におけるほめ言葉感覚は日本と大きく違うので要注意
日本では「闇 vs. 光」といった対になる存在があると創作などの設定では敵対し合う関係として描かれがちですが、詩を好むアラブ世界では身近な天体・自然を使って称賛するという習慣が古くからあり「晴れは憎い、雨だけが好ましい」「夜は嫌い、昼間が良い」「太陽は大嫌い、月は大好き」という対立関係が成り立ちにくいです。
イスラーム以前は太陽・月・星は神として崇拝されていたこともあって「太陽野郎」のようになじる表現も使われてきませんでした。
多神教時代には御神体のように大切にされていたナツメヤシやガゼルは今でもアラブ人にとって誇らしい存在ですが、ナツメヤシの木は高く育つので素晴らしい人物、ガゼルはそのうるんだ大きな目と愛らしさから美人の代名詞として多用されています。
現地では「我が太陽」「我が月」「我が星」「我が晴天」「我が曇天」「我が雨」「我が朝」「我が昼」「我が夜」などはほめ言葉としてよく使われます。対になる物に関しては並べた場合は「君は僕にとって太陽であり月である」という言い方をよくします。これは「嫌な部分と良い部分が同居している」という矛盾や二面性を表しているのではなく、種類が異なる長所を同時に持ち合わせていることを示すものです。
このように「アラブ人は月が好き。太陽は大嫌いで、死を意味する憎たらしい悪魔扱いする。」「水不足の砂漠だから雨は大好き。晴天を憎むから、晴天のようだというのが悪口になる。」という言説は現地における実際の価値観・比喩表現に合致しない調査不足の推測に過ぎないので要注意です。
アラビア語で太陽はほめ言葉で月同様に恋人の称賛に使える
あなたは太陽のように美しいという表現でも現役で使われている
アラビア語で検索するとわかるのですが、美人な女優・歌手や女性の写真に添えて「أنت جميلة مثل الشمس」[ アンティ・ジャミーラ・ミスラ・ッ=シャムス ](あなたは太陽のように美しい)と書いてある投稿などが複数存在。
アラブ世界では日の出の光の美しさを愛でる傾向が大昔からあるため、日の出の時の朝日のような美しさだと形容している表現も見られます。
「月のように美人だ」に比べると「太陽のように美人だ」とはまず言わないのでネイティブからは「間違っている」と言われることもあり得るのですが、一応ほめ言葉として昔から使われてきた言い回しで実在しており決してけなし言葉ではないこと自体は確認可能です。
恋人は月であり太陽である
本来アラビア語では月も太陽も恋人の美しさに対する称賛に使われていました。
現代では美貌については断然月が多いですが、イコール「太陽がけなし言葉」という風にはなりません。太陽は高貴・高い地位・強い輝き・寛大さ・慈悲・恩恵・母性愛父性愛に用いることが多いです。
いずれにせよ現地で女性を罵倒するつもりで「あんたは太陽みたいな女だ」と言っても通じず、ほめているとしか受け取られないものと思います。現地のラブソングにも『君は太陽』という題名のものが結構あり、恋人の女性は太陽の輝き・色・温もりといった色々な美点を引き合いに出して称賛しています。
子持ち・孫持ち世代の女性に「あなたは太陽みたいだ」と言ってもやはりほめ言葉にしかなりません。アラビア語的には「優しくて皆に愛情を一生ふりまいてくれるママ」という表現として受け取られます。
「お姉さん、月みたいですね」はナンパ文句「お姉さん、きれいですね」のアラブ版
気に入った女性に声をかける時に太陽ではなく月を使うのは外見の話をしているから
路上ナンパで「君は月のようだ」を使うのは月が美人の代名詞だからだと思われます。アラブ世界には女性が嫌いな言葉によるセクハラの定番フレーズがあるのですが、それらの代表格である「月みたい」「はちみつみたい」などは全て言った男性が「君って美人だね」と外見の称賛から入る際に使う表現となっています。
月のようだというほめ言葉は太陽に対する強い嫌悪感とセットになっているわけではないので、『日本人の知らない日本語 2』で描かれているような女性のリアクションはアラブ文化からすると正直あり得ない反応です。
月は美貌をほめるのに多用されるので、まだ良く知り合っていない女性を称賛するとなるとまずは「美人だね」といった外見から入るかと思います。なのでまず使うとしたら「月みたい」を。日本でもナンパの時に「お姉さんきれいですね」と言うのが定番ですが、それと同じ話です。現地のセクハラ調査結果において挙がっているナンパ・声かけ被害で使われた言葉も、月と同様に外見が気に入ったことを示す比喩表現ばかりです。
しかし付き合ってその優しさや温もりに感動した時点で「太陽のようだ」というほめ言葉も使うようになるといった感じで、順序とか文脈とかの違いで使い分けるという「月みたい」「太陽みたい」という称賛の慣用句がそれぞれ違う意味を持つこと・シチュエーションの問題だというのが実際のところです。
セクハラ常套句として嫌われてもいる「君は月みたいだ」
現地ではナンパ以外にもからかって面白がるという意味で女子・女性の外見をネタにした言葉をかけるという現象があり、赤の他人・身近な人物・街にいる警官など色々な人から「ヒュ~ッ、月みたい」などを声がけされて疲弊している人も少なくありません。
一定数のアラブ女性たちが、空手を習ったり、催涙スプレーを自作したり、頭を覆うヴェール(ヒジャーブ)の留めピンで痴漢の手を刺したり、セクハラ青年の顔をひっぱたいたり、様々な手段で対抗し戦う姿勢を示すなどしています。
「君は月みたいだね(君って美人だね)」を見知らぬ男性から言われることは嫌われる傾向にあり、言葉による性的嫌がらせ・セクハラの筆頭格に挙げられる慣用句としても有名なので、実際には親しくもない女性に「月みたい」と声をかけて不快感を持たれる・怒りを買う可能性があります。
月・太陽から宇宙まで何でも総動員するアラブの愛の言葉
大事なのは日本語の会話・作文においてもそうであるように、現代アラビア語における比喩の文法ルールや一般的な使われ方に基づいて誰が聞いても意味がわかる表現として使う点ではないでしょうか。
アラブ世界では大切な人に贈る言葉は日本のそれよりもずっと大げさで壮大です。月も太陽も同じようにほめ言葉に使い「太陽のように冷酷」のような言い回しは聞かれずむしろセットで出てくることが多いです。
- 君は僕の月、君は僕の太陽、君は僕の宇宙(≒君は僕にとってとても大切な素晴らしい人、僕の全てだ、この世の全てに匹敵するぐらい君は大切な愛しい人)
- 君は僕の夜の月、日の出の太陽(≒輝かしく僕と僕の人生を照らしてくれる光のような君)
- 君は僕の夜の月、昼の太陽(≒輝かしく僕と僕の人生を照らしてくれる光のような君)
太陽のみについても
- 君は僕の太陽、君の金髪はその光の色(*北方のアラブ諸国に多い金髪女性が恋人の場合)
- 君は太陽のようだ、沈まずずっとそばにいて(≒とても愛しく素晴らしい君とずっと一緒にいたい)
などと怒られるような要素は一切ありません。これらを組み合わせて
「君はまるで月のように美しく、太陽のように美しく輝いている。昼も夜も、好調で幸せな明るい時も暗く闇に包まれた辛い時も、そばに寄り添い僕の人生を照らしてくれる。寒い冬に僕に温もりをくれる優しく寛大な太陽のような君。君は僕の人生の全て。僕の瞳。僕の心。僕の命。まるで尽きることが無い愛の泉のようだ。ああ僕の太陽、どうか沈まないでずっとそばにいておくれ。」
といったフレーズにすればアラブ式ラブレターの出来上がりです。アラブ世界では恋愛事に関してはロマンチストが多く情熱的な恋文や恋愛詩を相手に贈ったりするので、詩の形式でプレゼントする男性も少なくありません。
太陽と月はそれぞれ明るく照らしてくれる存在なので「君は僕の太陽、夜の月」だと昼も夜も光を与え人生に彩りを与えたり闇の中で迷わないよう導いてくれたりする人であることなどを意味します。相手に対する憎悪と愛情という相反する気持ちが入り混じった葛藤を表すということは決してなく、昼間も夜中もずっと自分にとって非常に大切な素晴らしい存在だという称賛を表すフレーズとなっています。
太陽はむしろ逆に慈悲・慈愛・無償で尽きない愛や恩恵の象徴、冷酷・非情さは「石」で表現
アラビア語において冷酷非情さは石で表現する
「アラブ世界では太陽=冷酷非情の象徴」という誤情報が定着しすぎて思い違いをされている方が多いのですが、現地では単に「太陽みたいな人」と言った場合はを冷酷だとか非情だといった意味にはなりません。
容赦無いという意味で使いたい場合は「真夏の(照りつける)太陽のように容赦が無い」というようにどんな太陽かを明示しないと、突然相手に「あなたは太陽みたいだ」と言っても「え、ほめてくれてるの?」となりかねません。
アラビア語で心の冷たさ、冷酷非情さに関する比喩表現はクルアーン(コーラン)にも出てくるのですが、「石」時には「岩」を使って表現。「石のような心(=冷酷無慈悲・非情な心)」という言い方をします。
育み導く存在としての太陽
実際には太陽は良い意味で使われることが多く、慈悲・慈愛・恩恵のイメージでは雨や太陽が比喩として用いられる感じです。月は穏やかな光をくれるので静けさや安らぎの象徴と書かれていることは結構見かけますが、人々・動物を養う草木は育ててくれないため慈悲・慈愛・恩恵関連は太陽を使ってたとえている方が一般的です。
これに関してはメソポタミアの古代文明以来引き継がれアラビア半島でも信仰されていた太陽信仰の思想を残しているとされている部分で、アラビア半島南部のイエメン付近では女性神だった太陽が恵み深く公明正大で草木の生長や豊穣などを結びついていたことを考慮に入れる必要があり、「アラビ中東では太陽は死をもたらす悪魔」といった誤解からは全く想像ができない太陽像でもあります。
現代のアラブ・イスラーム世界では多神教的な太陽観が唯一神アッラーへの崇敬に置き換わっているため、この世にある存在全てが創造主たる唯一神アッラーが目的をもって設計し配置したとされ、太陽も人々の役に立つ機能を備えた良い存在という受け止められ方をされやすいです。
中東で古代から続いてきた「太陽は分け隔てることをしない」「太陽は慈愛・恩恵に満ちている」と唯一神信仰であるイスラーム的なとらえ方は童話・絵本といった児童書にも反映されており、児童文学では太陽が
- 太陽が無いと困ることだらけ、太陽はたくさんの恩恵をもたらす有用な天体
- 太陽の光は差別などせずこの世をあまねく照らし温めてくれる
- 太陽はお母さんにそっくりで分け隔て無く愛情深い
- そうした慈悲・恩恵に満ちた太陽を造ったのは神様
- 神様はどの被造物も意図をもって設計されいて、役に立つ数々の機能を備えた太陽もそうした神の徴
という描かれ方をすることが一般的です。
お母さん=太陽という比喩も使われている
日本の都市伝説的なアラブ太陽・月観ではこういう慈悲深い女性や優しいお母さんを「月のような人」と表現するということになりますが、実際には「月のように優しいお母さん」ではなく「お母さんは太陽のよう」「お母さんは太陽の光みたい」といった表現を良く見かけます。
分けへだて無く全員に愛をずっと注いでくれるお母さんは、月と違って形も光の強さも変わらず姿を消すこともしない暖かい太陽にそっくり。その温もりと強い光で皆の人生を照らし、導き、支えてくれるということで「お母さんは太陽」というフレーズが母に贈る言葉集や母を称えた歌などでも使われています。
ちなみにアラビア半島南部のイエメン付近でかつて行われていた多神教的天体崇拝では太陽は女性で、生み育てる「お母さん」の立場でした。
素晴らしく崇高なもののたとえとしての太陽~祖国は太陽のごとし
またアラブ世界ではその歴史的背景や愛国主義的傾向が日本よりも強いことから祖国や故郷をほめたたえる詩歌が多いのですが、そこでは何にも負けることが無い不動の地位を宇宙で有している太陽や燦然と輝く満月にたとえられていることが多いです。
祖国を太陽で表現している場合は「他の都市よりもはるかに素晴らしい」「温かく国民を包み込んでくれる包容力」「皆の母であるふるさと」の比喩などとして使われ、アラビア語における太陽の伝統的な使用方法を反映したものとなっています。
ネット記事「アラビア語では太陽=冷酷非情な忌まわしいやつ」
ネットで流布しているアラブの太陽観・月観から
有名書籍で紹介され流布してしまった太陽と月にまつわるアラブ文化解説ですが、転載されているうちに内容が激しくなったものもあるようで書籍に書かれた内容がネット上色々な記事に形を変え拡散しているようです。
その中からピックアップしたものが以下のような描写となります。
ネットで出回っている「アラブ諸国では太陽=最大級の悪」という誤情報例
- 「アラブ世界では太陽はただ暑苦しいだけの嫌われ者」
- 「太陽はアラブでは最大級の悪口」
- 「太陽みたい、はアラビア語で侮辱表現」
- 「太陽は残酷さや冷酷さの象徴なので「あの人は太陽のような人だ」「あなたは僕の太陽だ」というと「お前は最低最悪の冷血クソ野郎だ!」「お前は俺の宿敵だ!ぶち殺してやるから覚悟しろよ!」というような意味になりそれを知らない欧米人がアラブ人の女性を口説こうとしてうっかり「あなたは僕の太陽だ」などと言ってしまってトラブルになることがある」
- 「アラブでは太陽は冷酷非情という意味だから女性を褒めるのに使うのはマナー違反。」
- 「アラビアの国では太陽のような女性は非常に苛烈でやばい地雷タイプのことを指す。」
- 「あなたは太陽のようだというのはひどいけなし言葉で最低の冷血漢だという意味になる。」
- 「アラブ世界では太陽は傲慢さの代名詞」
- 「太陽は殺したいぐらい憎い敵のような存在という意味だから褒めているつもりで女性に使うと大変なことになる。」
- 「太陽のようだ、という表現は憎くてたまらないお前みたいな野郎どうなるか覚えてろよ的な意味で使う。」
- 「太陽は忌み嫌われているのでアラブ人は見るのも嫌だと思っている。日の出を見ると今日も嫌な太陽が昇ってきやがったと憎たらしい気持ちになる。」
- 「アラブ人は太陽を憎い悪魔だと思っているから、絵を描く時も真っ黒な色を塗る。」
ここまで来ると「アラブ文化とは違う別の文化圏の話をしているのでは?」というぐらいに話が飛躍してしまっているような気がします。
どれも誤った情報を元に書かれた本をベースに創作されたネット記事、もしくは本の誤情報に気付かないまま転載されかつ味付けされた内容となっています。現地における実際の認識と離れておりアラブ人に教えたらびっくり仰天するされる可能性が高い内容です。
太陽を真っ黒に塗るという話も尾ひれがついた創作である可能性が高いです。アラブ世界では太陽の色は一般的に黄色だと認識されています。太陽をテーマにした童話・絵本・アニメではいずれも黄色もしくはオレンジがかった黄色で塗られています。
実際のアラブにおける太陽観
繰り返し紹介していますが、実際のアラブ世界における太陽の扱いは以下の通りです。
- アラブ文化では太陽はとても良いほめ言葉
- アラブ世界では太陽は分けへだてなく愛情や慈悲を注いでくれる優しい人のたとえにも使う
- 愛情いっぱいで家族の皆を支えてくれるお母さんなどに贈る言葉の一つ
- アラブ文化では太陽の光は明白なる真実・事実の代名詞であり正義のイメージも与える
- イスラーム以前から太陽信仰はあったが、今でも特に朝日の光は好まれる
- 真夏の昼間の灼熱は嫌だが真冬は太陽光が弱まり作物が育たず飢饉を繰り返してきた土地なので、「暑い真夏は食べる野菜や果物がいっぱい実って価格も安いので庶民の味方の季節」と肯定的に表現されてきた
- アラビア半島の冬は寒いため、暖房など無かった時代は特に冷え込む夜間はたき火が重要な存在で「冬の果物」という別名をつけられたほどで、人々は春に向かって太陽光が強くなっていき雨の恵みで大地に草花のじゅうたんが広がる季節になるのを待ち望んでいた
- アラブ人の重要な保存食でもあるデーツ(ナツメヤシの実)は夏に暑くなるほど早く実り美味しさを増すので、ナツメヤシ農家たちにとってはじりじりと照りつける夏は待望の気候でもある
アラブ世界で太陽は日本で言われているのとは真逆の意味であることが多い
差別せず常に多くの恩恵を与える慈悲に満ちた存在
アラブ・イスラーム世界において太陽は悪魔や死の化身ではなく、皆に対して平等に熱と光という恩恵を与え続ける慈愛に満ちた存在で、創造主たる唯一神アッラーの絶妙な采配で造られた有用な天体という扱いです。
アラビア語という言語の比喩表現において、月ではなく太陽の方が天の恵み・恩恵・慈悲・慈愛の象徴として使われます。というのも月は静かで穏やかですが太陽の日照とある程度の降雨・気温が無いと草木が育たないためです。
あとアラブ文学の原点と言われるイスラーム以前のジャーヒリーヤ時代の詩が多神教時代のものなので、「太陽=慈愛・生長・命の源泉」とみなすことについては豊穣や生長を司る女性の太陽神の性質とも結び付けられて説明されることもあります。
アラビア半島の四季と太陽観
アラビア半島の砂漠には一面の草花に覆われる春がありアラブ世界で強く愛されている光景となっています。それらをもたらすのが雨と太陽だと認識されていることから、「雨と太陽が植物に生を与える」といった詩も作られました。
またアラビア半島にも寒い冬があるため、暖めてくれる太陽は尽きることが無い親の無償の愛とも結び付けられます。
「太陽=絶賛」と「暑いのは嫌だ」という2つの視点が混ざっているために誤解されやすい
アラブ世界では照りつける太陽の下で苦しむ民衆という描写がなされることもありますが、「太陽みたい」という比喩表現やシンボルとして用いられる太陽は良い意味ばかりです。
とはいえ「太陽・日光=暑くで嫌だ」という構図があり「心を冷たくする、心を凍らせる=喜ばせる、嬉しくさせる」「日陰=優しく守ってくれる癒やしの存在」という比喩表現もあり、2つの太陽イメージが並存した状況となっています。
「アラブ=砂漠、365日夏みたい、太陽=悪・死、月=善・優しい、アラブ人の宗教=厳しい砂漠が生んだイスラームという一神教」という風土論的推測や先入観だけで説明されているアラブ世界の太陽像がたいてい間違っているのもこのような事情によります。
決して単純ではない文化的・宗教的背景があることまできちんと把握していれば「月の方が好きだからきっと太陽は嫌いに違いない、太陽は冷酷で横暴なやつに対する嫌悪の表現なのだろう」「アラブ人に太陽みたいですねとほめたら絶対にだめだ」という結論には至らなかった訳ですが、「アラブは砂漠で暑い国」というイメージからつい納得してしまいやすく、都市伝説が拡大し続ける原因となっているように思われます。
「アラブでは太陽が悪で月が善」と紹介することについて
日本では有名な書籍における描写やそれらを転載したネット記事を通じて誤ったアラブの太陽観・月観がすっかり定着してしまっているように見受けられます。どこかで最初にそういう説明がされて色々な本やネット記事で再生産されているうちにいつの間にかアラブ文化ではそうなのだということになり、修正不可能なぐらいに浸透してしまったようです。
どこかの砂漠の国の話ということで創作物における架空のオリジナル設定とするのもアイデアの一つということで特に構わないと思います。日本国内でネタとして冗談半分に使う分には害は無いかもしれませんが、読んでアラブ世界とアラビア半島の砂漠文化のことだと勘違いして覚える人が出てくる可能性はあります。
個人的な意見になりますが、「砂漠舞台の創作物で描かれている太陽観・月観・砂漠観の大半は我々外国人が想像して設定した架空の内容であり、それが本当のアラブ・イスラーム文化を反映しているとは限らない」ことを前提に楽しんだ方が良いように思います。
灼熱の太陽と砂漠的な話としてはいかにもな感じで面白おかしいかもしれませんが、異文化や他国に関する正しい情報を伝えるという点においては大いに問題があるためです。日本国内で勝手に楽しむなら関係ありませんが、現地に渡航するとなると別になってきます。
書籍・ネット記事・創作物が原因で誤解したままアラブ世界に行って日本で覚えた通りの意味で「太陽のようだ(=悪いやつ・嫌われ者・悪魔・死)」「月のようだ(=優しい・慈悲深い)」という比喩表現を使うと意味が伝わらず正しい意思伝達の妨げになってしまいます。
なので「アラブ諸国では実際には日本で言われているのと違う。湾岸諸国辺りでは夏の暑さが嫌いな人が多いのは事実でも、太陽みたい・月みたいという定型表現は外国語の慣用句知識として別個に覚えておくべき。」ということは念頭に置いておくことをおすすめしたいと思います。(特に駐在や留学で実際に現地に渡航する予定のある方。)
アラビア語における月と太陽の比喩表現早見表
別のページを見なくても済むよう、最後にアラブ詩やアラビア語の一般的な文章で見かける月と太陽を使った比喩のパターンを一覧にまとめておきたいと思います。
修辞学(雄弁術)のスキルに含まれるものもあり全部が頻繁に使われている訳ではないのでネイティブにも馴染みが表現が含まれているかもしれませんが、いずれもアラブ文学の長い歴史を通じてテンプレ扱いされてきたものです。
なお日本では「アラブでは月のよう=優しいという意味になる。アラビア語では月=優しい=女性名詞らしい。昔のアラブ世界では月の神は女性の神だった。」といった具合で間違えて語られがちですが、実際には月が男性名詞で太陽が女性名詞です。
月~男性名詞
- (男性にも使いますが特に女性の)美貌
- 色白
- (満月のようにぷくっとした)ふくよかさ、丸み
- (他の星々よりも強い)輝き
- 闇の中での導き
- 長や大臣(←太陽を王にたとえた場合は月が大臣、星が貴人といった位置づけ)といった高い地位
- 満ち欠けのようなうつろい
- 新月のように姿を消す=離別
太陽~女性名詞
- (天空で最大・最高たる太陽のような)高い地位
- (他の星々・惑星が全て消えて見えなくなるほどの)強い輝き
- (月よりも無謬性が強い)宗教的な導き・啓蒙
- (諸王の中でもずば抜けた)王者、国王
- 卓越
- 寛大さ、恩恵、慈悲・慈愛
- 美貌
- 丸い形
- 日の出・日没=逢瀬・離別
太陽+月
- 太陽と月に共通する光のような強く輝き並び立つ者がいないような人
- 太陽と月が持つそれぞれ異なる美点を色々と持ち合わせている人
以上からも、日本語流布しているアラブの太陽観・月観に関する言説は「アラブ文化について語っているもっともそうな説明のようで実は事実と違う話」「一見本当に思えてしまい裏付けがされていない嘘だと見抜くのが難しい話」だということがお分かりいただけるかと思います。
ただこれらは形式化した比喩表現なので現実世界の現代アラブ人が感じる太陽・月像とは多少ずれているとも言えます。
過酷な生活を強いられる農民たちの生活を取り上げた小説や報道記事などでは照りつける太陽の下で苦しみながら労働する様子が描写されていることもしばしばです。これについては別のページにてコラム・小説・絵本などにおける描写を通した検証を行ってみたいと思います。
(2024年1月 女性から「あなたは太陽そして月」と言われ照れるサッカー選手の例)