YA’ABURNEE(ヤーアブルニー) / 姉妹表現集 | GURFA(グルファ) | SAMAR(サマル) | 掲載語句考察
- はじめに
- ネイティブが「聞いたことが無い」「実在しない」としており抗議・削除要請も起きたことがある表現
- 実在はするが言語・直訳・意味などが違うケース
- ネイティブや話者が「そういう使い方は知らない」としている表現
- 実際にネイティブが使っていた/いるのか、本来はどういう意味なのか十分な確認が取れないもの
- 原語表記・読みガナ・品詞・直訳・意味説明・使い方のいずれもが違っている例
- 元がどの語のことなのかネイティブに最終確定されていないが、原語表記・英字表記・読みガナ・意味が違っていることはわかっている例
- 本来の意味・使い方とは違う説明をされている例、『翻訳できない世界のことば』などが原因で誤解されている例
- 実際の語義が少し違う/非ネイティブ創作設定・追加解釈が含まれている/解釈について誤解し得る例
- GLAS WEN(グラスウェン)【ウェールズ語】
- TÍMA(ティーマ)【アイスランド語】
- UBUNTU(ウブントゥ)【ズールー語】
- GURFA(グルファ)【アラビア語】
- PORONKUSEMA(ポロンクセマ)【フィンランド語】
- WARMDUSCHER(ヴァルムドゥーシャー)【ドイツ語】
- SZIMPATIKUS(シンパティクシュ)【ハンガリー語】
- FORELSKET(フォレルスケット)【ノルウェー語】
- NAZ(ナーズ)【ウルドゥー語】
- LUFTMENSCH(ルフトメンチュ)【イディッシュ語】
- COTISUELTO(コティスエルト)【カリブ・スペイン語】
- WALDEINSAMKEIT(ヴァルトアインザームカイト)ドイツ語
- CAFUNÉ(カフネ)【ブラジル・ポルトガル語】
- KALPA(カルパ)【サンスクリット語】
- 英語原作では原語に近い語義説明だったが和訳によりずれが生じた/違う説明に置き換わった/誤解を招く表現になった例
- 記載言語固有ではないもの(同族言語との語源共有・輸入語・翻訳借用)、同時期に複数言語で使用が始まっており発祥との確定が難しいもの
- 語義説明文章内の該当言語表記にスペルミスが含まれているもの
- 実際の発音と読みガナとのずれや慣用的カタカナ表記の使用について
- 特に説明間違いは無いものの語義理解には補足情報が必要だと思われる例
- 最後に
はじめに
こちらは関連情報をできる限り集めることを目的とした身も蓋も無い考察のページとなっております。
『翻訳できない世界のことば』に含まれる誤情報・欧米における翻訳困難語ブームにより追加された二次創作な解説と本来の意味との違い・実際の語源について延々と語っている記事なので、本のファンの方は目次から内容を判断して読む/読まないを決めていただければと思います。
欧米における外国語表現紹介雑学本と転載・引用記事について
欧米では以前から人気の”翻訳が難しい外国語の単語”と情報の広がり
日本ではあまり盛んではないジャンルですが、英語圏などでは翻訳が難しい各国語表現を集めた本やウェブページが以前から人気で、過去20年ぐらいの間に数多くの本・記事によって色々な言葉たちが時にはイラストつきで紹介され、多くの人々の関心を呼び知的好奇心に応えてきました。
ところがそのような本・記事は、ネイティブや専門家ではない人物が既存の辞典や書籍から引用したために余分な説明や誤りが加わってしまった先行書籍とそれらの引用・孫引き、映像作品などに利用したことによる独自設定追加が起こっている事例が大半を占めているとの印象です。
転載を繰り返すうちに異国情緒を求める読み手のニーズに合わせた改変や「自分たちの言語には無いその土地特有の言葉ならではのストーリー」というものが添えられるなどしたことで元の意味や使い方とは大きく違っている、品詞やつづりが間違っている、といった具合に伝言ゲームの終点のようになっていることが多いことから、言語学者らの批判が出ているなど欧米では賛否両論である様子。
翻訳困難語ブームの一つとしての『翻訳できない世界のことば』と先行書籍との関係
新聞・書籍・雑誌やネット記事・SNSで度々取り上げられている『翻訳できない世界のことば』(エラ・フランシス・サンダース著、前田まゆみ訳、創元社刊)は語学に関心がある方が背景にある文化・歴史を探求できる本として販売されてはいるのですが、実際には上記のような翻訳困難語ブームを牽引してきた先行書籍がベースになっており収録語のほとんどは外国語表現雑学本の人気シリーズ『The Meaning of Tingo』(2005年刊)、『Toujours Tingo』(2007年刊)などと同じつづり・同様の説明文となっているとの印象です。
Tingoシリーズはイギリスで数々の外国語関連雑学本を発表してきた Adam Jacot de Boinod 氏の代表作なのですが、彼はBBCの有名娯楽クイズショー QI (Quite Interesting) の制作メンバーだったジャーナリスト兼作家で言語学の専門家として活動している人物ではないせいか、欧米のブックレビューで「信頼性が低い」「間違いが多い」という指摘が寄せられるなどしてきました。
ところが現在欧米で出回っている”翻訳が難しい外国語表現セレクション”系書籍・記事の大半は先行書籍となったこのTingoシリーズを参考にしていることがわかる英字表記・内容・説明文となっており、元の意味とは違っている解説や誤字脱字などを全て引き継いでいたり、誤解が追加されて先行書籍よりも間違いの数が多めになっていたりするとの印象です。
Tingoシリーズと多くの収録語がかぶっている『翻訳できない世界のことば』についても元ネタの間違いがそのまま継承され、かつ絵本に取り入れられた時点で意味の調べ直しをされた形跡が無いためさらに語義の誤解が進んだ状態になってしまっており、日本語化の時点で誤訳や誤字脱字・誤読が起こっていることもあって、アラビア語以外の収録語についても元の言語における意味とのずれ・読みガナ間違いの指摘や「辞書で探してもそういう意味は載っていない」といった英語投稿や日本語投稿を結構見かけるように思います。
記事作成にあたって
作成の意図
このページは『翻訳できない世界のことば』においてアラビア語語句に関する和訳・説明・表記・読みガナなどに複数の誤りがあったこと、ネット上で他の言語の語句についても色々な指摘が出ていることから、
- 各語の本当の意味や由来は何なのか?
- 大元になったソースではどういう語義説明だったのか?
- 欧米で最初に紹介されてから、伝言ゲームのように引用されていくうちに説明文がどう変わっていったのか?
- 実際に使う目的で正確に和訳するとしたらどう訳すべき語なのか?
が気になり調べてみた結果をまとめたものになります。
なお当コンテンツは考察という手段を使ってのひけらかし、不当評価による人気書籍バッシング、出版社の対応告発を行おうといった悪意や否定的な動機から作成・公開したものではありません。誤解の無きよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます🙇🏻
現地ソース確認と情報確認手段
メモ作成にあたっては各国語-英語のオンライン辞書と紙の辞書(Googleブックス検索を利用)、Wiktionary、その言語のネイティブにより書かれた記事、ネイティブによるネット投稿・ウェブフォーラム書き込み、その言語を理解している非ネイティブによる記事・投稿などを参照。
英語とアラビア語以外は守備範囲外なのでソースを選んだ上で極力多くの情報を確認。機械翻訳(日本語に翻訳すると訳が崩れるので対象言語→英語のみ使用)はGoogleとDeepLでのダブルチェックとし、語義などの重要箇所は機械翻訳結果を参考にしつつ当該言語-英語/日本語辞書を参照するようにしました。
絵本の見開き両方の文章を引用するとイラスト以外をほぼ丸ごと転載することになってしまうので、考察に必要な場合を除き片側ページのメインとなるイラスト内意味説明のみ「『翻訳できない世界のことば』での意味解説」欄で引用しています。
また辞書での語義と本の説明が一致しており特記事項が無い外国語表現と日本語表現は除外し、考察記事には含めてありません。
このページは2ヶ月かけて作成したもので文字数もかなり多いのですが、追加情報が見つかればその都度更新する予定でいます。
ネイティブが「聞いたことが無い」「実在しない」としており抗議・削除要請も起きたことがある表現
PISAN ZAPRA(ピサンザプラ)【マレー語】→【マレー語+タミル語】
実際の表記
海外の知恵袋サイトQuoraにおけるネイティブや専門家らのやり取りによると、マレー語では語尾にgのついた「pisang」がバナナの正しいつづりだが雑学本における誤字が原因で pisang ではなく pisan という英字表記で有名になったのこと。
『翻訳できない世界のことば』が英語原作から引き継いだイラスト部分で PISAN、日本語版ページ右下の小さな文字部分が pisang と違っているのは単なる表記揺れによる偶然ではないらしく、専門家から「そういう言葉はマレー語には無い」「バナナの部分のつづりが違う」という指摘を受けた後、実在しないピサンザプラのページ自体の差し止めをしないままページ右下のみ英字表記を修正したことによるものだという。[ ソース ]
また「zapra」はマレー語には存在せず、タミル語の「食べる(saapidu)」ないしは「食べること(sapudura)」がスペルミスか耳で聞いたままに当て字をしたことによる変形で zapra となり欧米で記事化されたことが原因である可能性が高いとのこと。
そのため PISAN ZAPRA 全体につづり間違いや聞き間違いによる誤字が複数含まれている状態だという。
この言葉を広めた外国語表現雑学本の人気書籍『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズはマレーシアのニュース記事で「マレー語についてはおおむね正しい内容だが一部のつづりがおかしい」と指摘されているが、書評などでもスペル間違いを指摘されており後続書籍・記事の誤字脱字の原因にもなっているため、ピサンザプラだけでなく欧米で紹介されている「翻訳ができない世界の言葉」記事における誤字脱字の多くはこの本が原因になっていることがしばしばあるとの印象。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
バナナを食べるときの所要時間
*見開きの反対側に「一般にはだいたい2分ぐらいとされています」との説明文あり。
実際の意味
英語圏での紹介事例
英語圏など欧米の外国語表現雑学本やネット記事で「バナナを食べる時に必要な時間」「何かを短時間ですること」「あっという間の時間」「普通はだいたい2分ぐらい」として広く紹介されているものの、マレー語としては実在せずマレー語話者のマレーシア人たちが一様に「知らない」「聞いたことが無い」「ネイティブは使わない」「出所は一体どこなのか?」「ザプラはマレー語辞典にも載っておらずマレー語でないのか明らか」としている言葉。
そのため「マレーシアでは皆の間にバナナを食べる時間は2分ぐらいだという暗黙の了解がある」「マレーシアというバナナの国ならではの時間単位がある」といった説明などは、ネイティブや専門家に確認を取ったりマレー語辞書で調べたりせずに伝聞や想像による補足から作られた欧米生まれの架空のストーリーに当たる。
マレーシア人たちに嘘雑学判定されたピサンザプラとその出所とは?
マレーシア出身のタミル系人物らがネット上で寄せた情報によると、マレー語の「バナナ(pisang)」とタミル語の「食べる(saapidu)」ないしは「食べること(sapudura)」を組み合わせた pisang saapidu や pisang sapudura が語源で、その聞き間違いとつづり間違いが pisan zapura だったのではないか、とのこと。ただどの語が元になっているかは見当がつくものの、自分たちが口にしているわけではないため「日常会話で使っている」との報告は見られない。
マレーシア新聞社のニュース記事によると、記者の身近にいるタミル系マレーシア人たちはマレー系が使わないマレー語・タミル語混ざりの俗語(バナナに似た男性の身体部位に対する口での性的行為・口淫を意味する暴言)だと意味を考察・回答したそうで、猥褻な言葉を侮蔑ないしはからかい半分に教えられた人物(おそらくはピサンザプラを広めたであろう雑学本の著者)が「バナナを食べる時間」という意味だと真に受けたまま面白いマレー語の言葉として書籍化したのが原因なのではないかとの憶測もし得るとか。
語源が何であるにせよ、何らかの形で欧米人の耳に入った言い回しがマレー語の面白い時間単位として広まってしまい、『翻訳できない世界のことば』原作者氏が書籍やネット記事で見かけるなりして「バナナを食べるときの所要時間」として掲載した可能性が高いという。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』の前に発売された外国語表現雑学本の人気書籍『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズに「the time needed to eat a banana」(バナナ(1本)を食べるのに必要な時間)として pisan zapra が登場すること、Googleの指定日以前検索(before: )では『The Meaning of Tingo』(2005年刊)発売以前の2005年ぐらいまではGoogle検索の記録に残っていないことから、同シリーズが大元の情報源だったとの意見・説に合致した形となっている。
いずれにせよマレー系・タミル系両方のマレーシア人にとっては「聞いたことが無い」「慣用句として使っていない」「仮に実在するとしてもマレーシア以外で使われているんじゃないか?」と感じる表現らしく、ネットを検索しても pisang saapidu や pisang sapudura の用例が全くヒットしないことからマレーシア以外でも使われていない可能性がかなり高いのでは…と思われる。
英国にある翻訳・ローカライゼーション(ローカリゼーション)専門会社SOFTtalk Translations投稿によると、英国のトリビア番組がピサンザプラを紹介したこともあったがマレーシア人たちは皆口を揃えて欧米の書籍で出回っているけれども聞いたことが無いと言っており、同社はこの件を一つのソースに頼って情報を広めたことで引き起こされた事態だと見ているという。
Malay Mail 記者やマレーシア人たちの当時のやり取りやリアクションは記者氏のX(Twitter)スレッドで見ることができるが、記事を書くきっかけになったのはBBCのコメディークイズ番組QI*の公式アカウントが2020年2月20日付でピサンザプラを
*このQIについては、2011年に日本の二重被爆者男性を取り上げ「世界一運が悪い男」とジョークを交えて紹介、日本側から多数の抗議が寄せられBBCが謝罪するという出来事も起こっている。
PHRASE OF THE DAY: PISAN ZAPRA – a Malaysian phrase meaning “the time needed to eat a banana”.
今日のフレーズ:PISAN ZAPRA – “バナナを食べるのに必要な時間”を意味するマレーシアの言葉
と掲載したのがきっかけだった様子。
BBCがマレー語ネイティブたちが知らない嘘雑学を掲載した件については
- 「今まで一度も耳にしたことが無い」
- 「この言葉、何?」
- 「QIってオリエンタリスト的なことを時々するね」
といった否定的なツイートが複数あったこと、また番組側にMalay Mail 記者が指摘メールを送ったことからBBC側はツイートを削除。
Malay Mail 記者はピサンザプラがマレー語表現として紹介されている件について「こういう言説はだいたい白人の人たちがやっている」と批判。ツイートの閲覧者らが
- 「白人の人たちは愛好している”翻訳できない言葉”に異国情緒を求めた挙げ句、存在しないフレーズにまで事が及んだ。」
- 「マレー語の古語なんじゃないかと思っている人もいるようだけれど違う。マレー語には z の音が存在しないから。」
- 「日本人の友人にこれが載っている本を見せられて困惑した。」
- 「批判するのではなく、むしろいっそのことジョークとしてマレー語に取り入れて使ってしまったらどうか。」
といった意見を投稿。欧米で流行している翻訳できない言葉ブームが抱えている異なる文化・社会・言語へのステレオタイプ視や情報を精査しないままでの流布といった問題点にネイティブたちが嫌悪感や疑問を感じた事例の一つとなったと言える。
Malay Mail 記者はネット検索でピサンザプラを広めた大元がBBCのQI番組スタッフだった人物の著書である『The Meaning of Tingo』(2005年刊)だと知ったようだが、QIからの問い合わせ返信によるとTwitter(現X)で嘘雑学ピサンザプラを掲載した時のソースは『翻訳できない世界のことば』英語原作である『Lost in Translation』だったという。
記者は絵本が発売されから6年の間嘘雑学が放置されていた件について疑問を感じるとともに『Lost in Translation』をきっかけにピサンザプラとネット上で紹介されている民話に触発されて書かれた英語の二次創作的ストーリーがあることやピサンザプラが日本などでネーミングにも使われている現状などを問題視。ネイティブチェックを受けずにピサンザプラを掲載した理由について『翻訳できない世界のことば』原作者氏らにメールで問い合わせたものの、回答は得られなかったという。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』に関しては翻訳困難外国語表現ブームに特有の誤情報が掲載されているとの旨が各言語関係者から指摘されるなどしているが、英語版・日本語版ともに内容の大幅訂正等が行われるといったことは今のところされていない模様。
『翻訳できない世界のことば』各国語版や元ネタとなった『The Meaning of Tingo』(2005年刊)を読んだ人々がピサンザプラが実在すると誤解してしまい引用・転載し時には有名メディアがトリビアとして取り上げる事例が依然として続いている。
『翻訳できない世界のことば』日本語版でイラスト内は PISAN、見開き右下が pisang 表記になっている理由とマレー語専門家からの指摘
英語の知恵袋サイトにはマレー語などを研究されている日本人言語学者ご本人の投稿が残されており、『翻訳できない世界のことば』日本語版制作にあたって出版社から読みガナのカタカナ表記監修を依頼された際に PISAN 部分が誤字である件の指摘とマレー語表現としては実在しないという情報提供をされたとのこと。しかし本は英語原作の内容を保持したまま、(ページ右下英字表記の)スペルを語末 g ありに修正した pisang zapra に変更するという対処をするのみで出版。
不正確ではあるものの一般受けする本ということでよく売れ、ピサンザプラの情報が流布してしまいネット上で多くの人々がピサンザプラについて投稿するに至ったことを心苦しく思っている件などが明かされている。
同氏の投稿内容からすると日本語版出版社は発売前からピサンザプラが実在しないことを知っていたようだが、もしそうだとすると、その上で本を発売、公式イベントでピサンザプラのボードを展示したり各メディアが「マレーシアならではの面白い時間単位」として紹介することを許容してきたことになってしまうかと。
これについては
- 専門家から指摘はあったもののベストセラーにもなった本に間違った情報が複数掲載されていることは珍しいだろうと考え、知らない人が多いだけで一部のネイティブは使っており実在ぐらいはしているだろう、もしくは今は使われていない古語か何かだろうと判断した。
- 日本語版だけピサンザプラのページを削除できないため、承知の上で発刊し誤字のみ修正した。
- マレー語の専門家から「実在しない」という情報提供があった件の引き継ぎがなされておらず、出版社の担当編集者氏が販売書籍に嘘雑学が含まれていることに気付いていない。
といった経緯などが考えられる。
欧米ではネイティブ側が発信したピサンザプラ嘘雑学判定に対して「マレー語の古語とかでさすがに誰かは使ったことがあるのでは?」といった意見が出るなどしており、日本語投稿でも時折見られる「ピサンザプラは古語なだけで実在したのではないか」のような反応は各国で共通となっている様子。ピサンザプラがメディアで紹介され話題になる→マレーシア人たちが否定する→非ネイティブが嘘雑学判定に疑問を呈する→マレーシア人たちが根拠を挙げて説明する、といったやり取りが見られるなどする。
日本における紹介事例と解釈・用例説明の発展
日本ではこれまでに複数の有名メディアで『翻訳できない世界のことば』紹介が行われてきたが、ピサンザプラという慣用句がマレー語話者によって使われていないことの確認が行われないまま
- マレーシアっぽい
- 東南アジアの国柄がうかがえる
- マレー人の間ではこのくらいの時間だという共通の時間感覚がきっと存在するのだろう
といった感想とともに情報が流布。
海外にも、その国でしか使われないような奇妙な単位が、日本以上に存在する。 東南アジアに位置する熱帯の国、マレーシア。ここは栽培バナナの起源地のひとつとされている。それゆえ、バナナは生活に密着した果物だ。
そんなマレーシアの公用語・マレー語には、バナナにまつわる単位がある。「ピサンザプラ」、意味は「バナナを食べるときの所要時間」だ。 バナナを食べる時間など、人やバナナの大きさによって当然違うはず。そう思うのが普通だが、マレーシアでは「だいたい2分くらい」という共通認識があるそうだ。 例えば職場で「ピサンザプラもかからない仕事だから、先に早く終わらせてしまおう」というように、ちょっとした短い時間を表す際に使う。あるいは、家で冷凍食品をレンジで温めるとき、「ピサンザプラ2回分」と、目安のように使うなど、用途は意外にも広い。 引用元:週刊現代『「バナナを食べるときの所要時間=2分」?マレーシアの単位がヘンテコすぎる』 |
のように、実在しない言葉が実際にマレーシアで広く使われているかのように説明されるだけでなく、マレーシア人たちがどのようにピサンザプラを日常会話に取り入れているのかという用例・用途も考案され、都市伝説の内容がさらに具体化している事例も見られる。
ケース分類
ピサンザプラ(ピサン・ザプラ)はマレー語としては存在しない言葉で、マレーシア人たちに「聞いたことが無い」「マレー語じゃない」と言われる表現としても知られている。過去にはBBCのクイズショーQIが紹介ツイートを行い、ネイティブたちの指摘・抗議により取り下げ削除されるという事例も起きている。
口での行為を意味するマレー語・タミル語混じりの性的表現をいたずらで「バナナを食べる時間」と教えられたBBCのQI制作チーム出身雑学本著者が情報源になったとも考えられており、何らかの勘違い・手違いゆえに「バナナを食べるときの所要時間」として欧米で紹介。雑学本などからの引用・転載を経て『翻訳できない世界のことば』にも掲載された模様。
「PISAN」「ZAPRA」はどちらも誤字で前半のマレー語部分は正しくは PISANG。後半のタミル語部分 ZAPRA は空耳的なつづり間違いで本来は saapidu か sapudura かもしれないとのこと。
なお『翻訳できない世界のことば』日本語版でイラスト部分が PISAN、ページ右下の表記が pisang になっているのは、出版前に日本人専門家から「そういう言葉はマレー語には無い」「バナナの部分のつづりが違う」という指摘を受けた結果ページの差し止めはせず表記の訂正のみ行ったためだという。
実在はするが言語・直訳・意味などが違うケース
TIÁM(ティヤム)【ペルシア語】→【ロル語】
実際の表記と発音
تيام(tiyām、ティヤーム) [ Forvo ]
英語圏ではペルシア語(ペルシャ語)の言葉で表記は تيام だとか تيم だといったネット情報が出回っているが、イラン系ネイティブによる投稿や記事を見る限り تيام というつづりで良い模様。
TIÁM は中東系固有名詞で -iyā- というラテン文字表記(英字表記、ローマ字表記)から y を抜いて -ia- という当て字に置き換える慣例的・便宜的なつづりが本に収録され、特に必要の無い「ــَ」が a の上についた TIÁM になったものと思われる。ペルシア語圏では Tiám ではなく Tiam という英字表記が一般的らしく、á の使用は必要無い様子。
tiám のような英字表記は中国福建省で話されている閩南語における「點」の発音を表すのに使われていることから、『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』制作時のネット検索で tiam 違いが発生しペルシア語圏で流通しているロル語表現ティヤームへの当て字 tiam と「點」の福建省付近発音 tiám が混同され掲載された可能性も考えられるように思われる。
またカタカナ表記「ティヤム」だが、長母音「ー」部分を抜くという外国語単語の慣例表記などのため日本語版出版時にティヤームではなくティヤムとなったか、充分な情報確認が行われず原語発音がティヤムではなくティヤームである件が見落とされてしまったかのいずれかだと考えられるかと。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
はじめてその人に出会ったときの、自分の目の輝き。
実際の意味
『翻訳できない世界のことば』に書かれている「はじめてその人に出会ったときの、自分の目の輝き。」のうち、「自分の目」部分しか情報が合っていないというパターンに該当。
元ネタとなった تيام [ tiyām ] [ ティヤーム ] だが、イランの一部で話されているロル語における名詞「目」の複数形(tiyā)+ 一人称単数属格(所有格)「私の~」(-m)から成り、直訳は「私の両目、両眼」で英語の my eys に対応。ته が1個の目、تيا が複数の目、最後の م が「私の~」という意味だとか。
中東ではイランに限らずアラブ圏でも「私の(両)目」はそれぐらいとても大事な人という意味で呼びかけなど多用するが、ペルシア語圏でも「私の愛しい人」(darling、my beloved)という意味で使われ、人名(主に男児名としてだが女児に使われることもあるとか)としても用いられているという。
ペルシア語辞典を調べても「目」という意味で見つからないのはこの語がペルシア語ではなくイラン南西部~南部に広がる山地帯で暮らすロル族のロル語が由来であるためらしく、ペルシア語辞典に載っていないがペルシア語で書かれたイラン人向け赤ちゃん命名サイトでは「ロル語の名前」「発音はtiyām」「直訳は私の両目だが親愛なる人・愛しい人という意味で使う」といった詳細を確認することがでいる。
ネットで検索したところ、イラン付近では眼科や目に関連した店舗・商品ネーミングにも使われており、イラン軍の戦車型式名 Tiam になっていたりもすることがわかった。
英語の既刊書籍で TIÁM という英字表記と『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』の説明文「The twinkle in your eye when you first meet someone.」(誰かに初めて会う時の自分の目の輝き。)のように目の輝きをからめて解説したものが見当たらないことから、『翻訳できない世界のことば』に収録される前の時点で元の語義・情報から何らかの変化があったものと思われる。
現時点では原作者氏が参照した情報源は不明。ペルシア語・イラン関係のソースには「はじめてその人に出会ったときの、自分の目の輝き。」と意味説明を行っている記述は無かった。また英語圏も含めた先行書籍で似た解説をしたものは見当たらず、Googleの特定時期以前結果サーチ「before:年月日」『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』出版時期以前に元ネタらしき情報が流通していた形跡は残されていなかった。
それらの情報を総合すると、ペルシア語判定や語義説明などの間違いは『翻訳できない世界のことば』原作者氏の誤解や元ネタとなる情報源が複数揃っていなかったことから生じたのでは、とも考えられる。
なお、تيام [ tiyām ] [ ティヤーム ] の本来の意味と流通している誤情報については海外の言語関係情報交換フォーラムでやり取りがなされており「ペルシア語の辞書を調べても載っていませんでした。本当にペルシア語なんでしょうか?」という質問に対して「ペルシア語ではなくロル語。”私の(両)目”という表現を”私の愛しい人”という意味で使うもので、初めてその人に出会ったときの自分の目の輝きというような意味は無いと思う。」との回答が寄せられている。
ケース分類
元の表記と発音は tiyām(ティヤーム)だが、イラン人がしばしば使う y を抜いた英字表記 tiam に何らかの事情で不要な「ــَ」が a の上に足されて TIÁM となり、日本語版のカタカナ表記では長母音の「ー」が抜けたティヤムになっている。
実際にはペルシア語ではなくロル語由来の言葉で、直訳は「私の目たち」すなわち「私の両目」。中東一帯には家族・恋人などを「私の目、私の両目」と形容したり呼んだりする文化があるが、ティヤームも「愛しい人、とても大切な人(darling、my beloved)」の意味で使用。イラン人名では特に男子名として使われているとのこと。
「はじめてその人に出会ったときの、自分の目の輝き。」という意味で説明している記事は英語圏にもペルシア語圏にも特に無いように見受けられ、どういう雑学ネタ・誤情報が元になったかの確認もウェブ検索や書籍検索だけでは不可能な状況。
外国語表現雑学本の先行書籍にも見当たらないことから、『翻訳できない世界のことば』原作者氏がどこかで見かけて意味を誤解したまま掲載したものと思われる。
ネイティブや話者が「そういう使い方は知らない」としている表現
VACILANDO(ヴァシランド)【スペイン語】
実際の発音
vacilando(バスィランド)[ Wiktionary | Forvo ]
vacilando 自体は動詞 valiciar の現在分詞。ポルトガル語では歯を唇に当てたヴァ(va)の発音をするので「ヴァスィランド」(慣用表記的カタカナつづり:ヴァシランド)で良い一方、スペイン語だとヴァ(va)ではなくバ(ba)になるのでスペイン語表現として掲載する以上は「バスィランド」(慣用表記的カタカナつづり:バシランド)とカタカナ表記する必要があるとのこと。
また ci の部分はスペインだと舌を歯ではさむ θi、ラテンアメリカでははさまない si になるそうで、原音に最も近いカタカナ表記は「バスィランド」、スィ音のシ音置き換えがある日本語カタカナ化時の慣用を加えた表記が「バシランド」ということになるかと。
この語についてはSNS上などでも「『翻訳できない世界のことば』に載っている VACILANDO はそういう使い方もしない単語だし、va はスペイン語だとヴァではなくバという発音なので読みガナも間違っている。」といった指摘が複数見られる。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
どこへ行くかよりも、どんな経験をするかということを重視した旅をする。
実際の意味
スペイン語辞書に載っている語義
この語についてはネイティブに聞ける知恵袋・質問サイトの HiNative に「旅行に関する意味では使わないです」という回答があるなど、スペイン語話者たちから「どこへ行くかよりも、どんな経験をするかということを重視した旅をする。」や有意義な旅といった意味があるというのは誤解だ、というリアクションが寄せられている。
海外の書評サイトにはネイティブたちが「そういう意味は全く無い」と投稿したりもしており、英語圏に住むスペイン語話者たちが英語で書かれた外国語表現紹介雑学本を見て疑問に感じているらしいことがうかがえる。
色々なオンライン辞書を回ってみた結果、スペイン語の能動分詞 vacilando(バスィランド)の意味としてはいくつかあり「ためらっている、迷っている、躊躇している」「不安定でぐらついている、揺らいでいる」などが基本の語義で、口語・俗語的な意味として「からかう、冗談を言う」といった使い方もするとか。
辞書によっては各地域に散らばっているスペイン語圏において同じ動詞 vacilar でもスラング的な用法として「楽しんでいる」「どんちゃん騒ぎをしている」といった意味を使っている国もあると記載。
しかしながら「どこへ行くかよりも、どんな経験をするかということを重視した旅をする。」に類した語義はどのスペイン語辞典も掲載していないらしいことが改めてわかった。
ネイティブたちが知らない意味説明が英語圏で広まったきっかけは米国人作家ジョン・スタインベック
ネットで古いソースを遡った結果、英語圏でこの表現が広まったのはメキシコ生活で知ったというスペイン語表現「vacilando(バスィランド)」をアメリカ人作家ジョン・スタインベックが自著で紹介したのがきっかけだったらしいことが判明。
元々英語圏では『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』よりも前に
- 「vacilando, ” a Spanish word having no exact translation but meaning, according to Steinbeck, having more or less a destination」
(1977年 Washington State University 刊『Research Studies』) - 「vacilando – where the process of travelling is more important than the destination – and the quirky experimental」
(Charles Landry 著『The Art of City Making』2012年 Taylor & Francis 刊) - 「vacilando, which means to travel with no particular destination in mind」
(Patsy J. Daniels 著『The Power of the Word: The Sacred and the Profane』2015年 Cambridge Scholars Publishing 刊)
という情報が出回っており、古いソースを通じてアメリカの作家ジョン・スタインベック著書『チャーリーとの旅: アメリカを求めて』が英語圏においてこの表現が広まったきっかけだったことがわかる。
スタインベックが1960年9月~12月に愛犬チャーリーを連れてピックアップトラックのロシナンテ号でアメリカ各地を周遊した時のことをまとめた『チャーリーとの旅: アメリカを求めて』には
In Spanish there is a word for which I can’t find a counterword in English. It is the verb vacilar, present participle vacilando. It does not mean vacillating at all. If one is vacilando, he is going somewhere but doesn’t greatly care whether or not he gets there, although he has direction.
とあり、「目的地はあるものの、そこにたどり着けるかを大して気にもかけずにその目的地へと向かっている」様子・状態を vacilando(バスィランド/バシランド)と紹介。vacillating(目的・行動に関して不確かで揺らいでいる)とは全然違うと説明。
英語圏の専門書・書籍などでは
『Long Way Home: On the Trail of Steinbeck’s America』
Bill Barich 著
2010年 Skyhorse Publishing 刊
Steinbeck used the Spanish term vacilando to describe a peculiar kind of wandering. “If one is vacilando, he is going somewhere but doesn’t greatly care whether or not he gets there, although he has direction.”
スタインベックはスペイン語の用語 vacilando を特有の種類のそぞろ歩きを表すのに使用。”vaclando というのは、目的地はあるもののそこにたどり着けるかを大して気にもかけずにどこかへと向かっていることを表す。”
『Steinbeck Quarterly 1987, Vol. 20, No. 03-04』p.78
John Steinbeck Society of America 刊
he hints at the form his traveloge will take by revealing that his itinerary derives from his Spanish word, vacilando, meaning to wander with announced direction, not caring greatly whether one holds the course (p. 63). “I was born lost,” Steinbeck tells us, “and take no pleasure in being found” (p. 70). Reflecting this, in his darker moods Steinbeck calls Travels a “formless, shapeless, aimless . . . haphazard thing.”
・ジョン・スタインベックが vacilando(バスィランド/バシランド)という語を使ったのは自身の旅と旅行記についての形容。目的地は予告されるが経路通りに進むことは大して気にかけずにそぞろ歩きをするという意味でスペイン語の vacilando を用いた。
・スタインベックは自身を「迷える者として生まれた」ので「見つかることに喜びを見出さない」と説明。そのため自分にとって旅とは「形が無く、目的が無く、行き当たりばったりのもの」なのだと語った。
と解説されているが、スタインベック自身は『チャーリーとの旅: アメリカを求めて』において
And all plans, safeguards, policing, and coercion are fruitless. We find after years of struggle that we do not take a trip; a trip takes us.
・計画を立てるというのは無益
・我々が旅をするのではなく、旅が我々を連れ出す
I know people who are so immersed in road maps that they never see the countryside they pass through
・道路地図に没頭しすぎて通り過ぎる田舎の光景を全然見ない人たちがいる
と書いており、旅に連れ出されるようにして行き先を目指すが計画などは立てたりせず地図も見ずに途中の地をあれこれと楽しんで回るといった様子を意図していた模様。
また彼に関する記録や書簡集などではスタインベックが「そこにたどり着けるかも不明なままどこかの地へと向かっている者」を vacilador(バスィラドール/バシラドール)と呼んでいたという。彼は vacilador というのはただの放浪者とはまた違うと説明していたこと、vacilador という表現を滞在していたメキシコで知ったことなどもわかった。
メキシコのスペイン語辞書では vacilador を「迷う人、躊躇する人」「よくジョークを言う人」「他人をからかう人物」といった語義で掲載。スタインベック本人の説明からするとメキシコのスペイン語が持っている「迷っている」という語義が由来だったものと思われる。
引用・転載による意味説明の変化とスタインベック流定義との違い
翻訳困難外国語表現として流布している vacilando の説明「行き先よりも旅をするという行為自体に意味がある」や「どこへ行くかよりも、どんな経験をするかということを重視した旅」は本来の姿と全然違っているわけではないが、スタインベック自身は「旅に誘われるようにして出立し、行き先は決まっているものの経路を決めて計画通りに進むのではないそぞろ歩き・逍遥をするという迷子の旅をしている」を意図しており、そうした本来のニュアンスが薄まってしまっているように見受けられる。
スペイン語話者が「”どこへ行くかよりも、どんな経験をするかということを重視した旅をする。”という使い方は無いと思う」とネット上で回答しているのも、翻訳できない外国語として紹介・引用されているうちに vacilando がスタインベックにより英語圏に持ち込まれたことや”迷子(vacilador)の旅”をした彼の旅行記と関連があることが忘れられ「行き先よりも体験そのものが重要な旅」となり、元になったスペイン語の語義の推定が難しいレベルまで変化してしまったことが原因だった可能性が高い。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「Traveling when the experience itself is more important than the destination.」(行き先よりも体験そのものが重要な時に旅をすること)とあり、旅の質を重視しているというよりは「行き先云々よりも旅に出ること自体が大事だから出かける」といったニュアンスだったが、和訳によって変化が加わり「どこへ行くかよりも、どんな経験をするかということを重視した旅をする。」となった。
vacilando に関する誤解については引用を経るうちに「一応目的地らしきものは設定されているが、そこにたどり着けるかどうかをあまり考えずにふらっと出発して道中を移動しているという、放浪ともまたちょっと違う様子」「行き先は決まっているそぞろ歩き」「形が無く、目的が無く、行き当たりばったりの旅」→「目的よりも経験が大事」「経験重視の旅」といった紹介に海外で置き換わっていたようだが、日本語版での和訳のニュアンスが英語圏とも多少違っていることから日本で「ぶらりと出かけて有意義に過ごす旅」のような誤解がされやすくなっているとも言えるかと。
日本には『翻訳できない世界のことば』の影響を受けて旅行関係の施設に VACILANDO と命名してしまった事例が多数あるが、スペイン語話者には通じないネーミングをした形となっている模様。
ケース分類
特殊な使い方がアメリカ人作家ジョン・スタインベックの本を通じて英語圏で広まり、「旅に誘われるようにして出立し、行き先は決まっているもののそこにたどり着けるかを大して気にもかけない。計画や経路を決めず途中の光景や体験を楽しみながらそぞろ歩きをするという行き当たりばったりな迷子の旅をする状態」だった語義説明が転載・引用を経て意味説明が変化した後に『翻訳できない世界のことば』に掲載。
英語圏の作家スタインベックがメキシコで取り入れたスペイン語能動分詞「vacilando」(迷っている)を迷子の旅・そぞろ歩きの旅をモットーとする自分の旅行記や旅の描写に応用したのが原点だったが、引用・転載されているうちに vacilando(バスィランド/バシランド)に対応する迷子の旅要素が抜けてしまい「行き先よりも体験そのものが重要な旅」に変化したことでネイティブたちが「そういう使い方は知らない」というリアクションを返す結果となった。
『翻訳できない世界のことば』英語原作では「Traveling when the experience itself is more important than the destination.」(行き先よりも体験そのものが重要な時に旅をすること)という説明文で目的地自体は決まっていることがわかる言い回しだったが、日本語版は「どこへ行くかよりも、どんな経験をするかということを重視した旅をする。」と目的地を設定しない可能性を含んだ感じの表現になっている点で微妙に違っており「行き先は決まっている」という前提の上で vacilando を定義したスタインベックの意図とずれた誤解をされる可能性があるとも言える。
なお日本語版『翻訳できない世界のことば』ではスペイン語表現として紹介しているもののスペイン語発音(バスィランド、≒バシランド)ではないポルトガル語発音(ヴァシランド)のカタカナ表記がついており、スペイン語界隈から誤読だとの指摘が出るなどしている。
実際にネイティブが使っていた/いるのか、本来はどういう意味なのか十分な確認が取れないもの
‘AKIHI(アキヒ)【ハワイ語】
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
だれかに道を教えてもらい、歩き始めたとたん、教わったばかりの方向を忘れたとき、「’AKIHIになった」と言う。
*見開き反対側に「名詞」との記載あり。
実際の意味
ハワイ語辞書に載っている語義
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「Listening to directions and then walking off and promptly forgetting them means that you’ve gone “akihi.”」(行き方/道順を聞いてそれから歩いて行ったのにすぐにそれを忘れてしまうことが、”‘akihi”になった、という意味。)で、イラストでの大文字は「’AKIHI」、英語本文中は ‘ 無しの「akihi」という表記となっている。
Ulukau Hawaiian Dictionariesによると、「ʻakihi」自体は「鳥たち(birds)」という意味の名詞ないしは山の名前・地名(’Akihi、アキヒ)だとのこと。『Hawaiian Dictionary: Hawaiian-English, English-Hawaiian』(1986年University of Hawaii Press刊)にも同じく「birds(鳥たち)」と書かれている。
一方『Treasury of Hawaiian Words in One Hundred and One Categories』(1986年 Masonic Public Library of Hawaii 刊)は「To walk off without paying attention to directions」(行き先に注意を払わず立ち去ること)という語義を載せている。
英語圏における紹介と意味説明の変遷
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』の前に発売された外国語表現雑学本の人気書籍『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズには「to walk off without paying attention to directions」(行き先に注意を払わず立ち去ること)となっており、人に道を尋ねたのに直後にど忘れするというストーリーにまではなっていなかったことがわかる。
『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズの元ネタはおそらく先述の『Treasury of Hawaiian Words in One Hundred and One Categories』で説明文も全く同じであることから、Tingoシリーズは先行書籍の記述をそのまま転載していることが確認可能。
「行き先に注意を払わず立ち去ること」という語義を載せた『Treasury of Hawaiian Words in One Hundred and One Categories』は「鳥たち」といった意味とはまた別に『QUALITIES: Human, Negative(性質:人間、否定的)』という項目で ‘akihi を上記の通り「To walk off without paying attention to directions. (CMH.)」(行き先に注意を払わず立ち去ること)と定義。
「CMH.」 (=Hyde, Charles McEwen. Missionary in Hawaiʻi, 1877–1899. Author of many periodicals, articles, and books in Hawaiian and English.)という略号があることから、この本での語義説明も1800年代後半に宣教師としてハワイに滞在した Charles McEwen Hyde(チャールズ・マキューエン(/マッキュアン)・ハイド)が残した記録からの転載であり丸写しだったらしいことがわかる。
1800年代後半に宣教師によって作られた辞書が起点となり引用・転載が繰り返され、翻訳困難語ブームの牽引役ともなった雑学本にピックアップされ、インターネット全盛期に突入したことでそこからまた数多くの書籍・記事・ウェブサイトに引用・転載されていくに次第にストーリーが付け足されて「だれかに道を教えてもらい、歩き始めたとたん、教わったばかりの方向を忘れること。」や「go akihi」という熟語的なものが加わるに至ったものと思われる。
しかしネットを検索してもハワイ人たちが「go ‘akihi」「gone ‘akihi」といった表現を実際に使ったり用法解説をしたりしている記事・形跡は見当たらず、外国語表現雑学本『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズや『Lost in Translation』からの引用・転載ばかりがヒットする程度となっている。
そもそも『翻訳できない世界のことば』では名詞と書かれており「アキヒになった」という言い方をするという説明になっているが、元ネタだと思われるTingoシリーズでも大元のハワイ語辞典でも「to+動詞~」の形 to walk off で語義が説明されていることから、「アキヒになる」ではなく「アキヒする」と言うべき動詞として紹介されてきた語だったのではという気も。『翻訳できない世界のことば』原作『Lost in Translation』に載った時点で noun(名詞)に切り替わっている。
『翻訳できない世界のことば』英語原作よりも前の2013年2月5日にリリースされたブログ記事『Tingo Tuesday: Have You Ever Gone ‘Akihi?』があることから、『The Meaning of Tingo』(2005年刊)の後に go ‘akihi や gone ‘akihi という表現が生まれ、『Lost in Translation』はそうした言い回しを使い出した記事の内容を取り入れたことで動詞ではなく名詞との表記が添えられることとなったものと思われる。
「鳥」「ハワイの地名」以外の ‘AKIHI の語義「行き先に注意を払わず立ち去ること」がネット上の情報だけでは確認できない件
旅行情報サイトTripadvisorには『Help with a word. Any Hawaiian speakers?』という知恵袋的ページがあり「鳥たちという意味ではなく、道案内をしてもらったのに聞いてすぐにどうやって行くのか忘れることをアキヒと表現するというのは本当か?」と質問が寄せられていたが、これには回答がつかないままとなっている。
結局のところ、150年前にハワイで20年余り暮らしていた米国人宣教師のもたらした情報が全ての源となっているらしいことはわかったが、「鳥たち」という意味の名詞を「行き先に注意を払わず立ち去ること」と比喩的に用いた表現だったのか、行き先をあまり考えず出かけたせいでアキヒ山まで行ってしまったという意味が元になっていたのか、本当にハワイ人たちがそういう意味の言葉を使っていたのかは十分な確認が取れなかった。
ケース分類
150年ほど前に宣教師としてハワイにいた人物が作った資料に「行き先に注意を払わず立ち去ること」とのみ書かれていた説明が転載・引用を繰り返すうちに設定・ストーリーが追加され「だれかに道を教えてもらい、歩き始めたとたん、教わったばかりの方向を忘れたとき、「’AKIHIになった」と言う。」という具体的な解説文に変化。
「誰かに道を聞いて教えてもらった」「歩き始めたとたんに教えてもらった行き方を忘れた」「”アキヒになった (go ‘akihi)”という言い方をする」という部分は想像から補われた創作である可能性が高い。
実際そういう使い方があったのか、「鳥たち」という意味の名詞や山の名前である ‘akihi が使われているのはどうしてなのかなどは資料不足のため不明。ハワイ語ネイティブによる解説と情報の確認が必要な事例だと思われる。
なお大元のハワイ語辞典や英語の先行書籍では動詞として紹介されてきた語だったが『翻訳できない世界のことば』に掲載された時点で名詞に変わっており、原作者氏が品詞を取り違えた情報を元にイラストを作成した可能性が高い。
原語表記・読みガナ・品詞・直訳・意味説明・使い方のいずれもが違っている例
YA’ABURNEE(ヤーアブルニー)【アラビア語】
伝える相手に合わせた語形変化
『翻訳できない世界のことば』で名詞となっているのは誤りで、正しくは主語を含んだ動詞未完了形+目的語。
誰に愛を伝えるか(あなた/彼/彼女など)に合わせて毎回語形変化させる必要があるため「私は彼を愛している」という意味の YA’ABURNEE 1個だけを使い回すことはできない。
英語圏の外国語表現紹介本・記事では当初「彼が私を葬ってくれますように(YA’ABURNEE)」「あなたが私を葬ってくれますように(TA’ABURNEE)」を区別していたりもしたようだが、転載されているうちに混同されてしまい TA’ABURNEE は淘汰され、彼相手に言う時の YA’ABURNEE だけが普及し TA’ABURNEE につけていたはずの「あなたが私を葬ってくれますように、(May) you bury me.」という訳がつけられ広められることとなった。
この件については翻訳できない外国語表現ブームとその実像を検証した『Don’t Believe A Word: The Surprising Truth About Language』も文法に関する勘違いがあると指摘し tu’burni がより正確な英字表記であるとの情報を提供しているが、YA’ABURNEE に間違った直訳「You bury me(あなたが私を葬る)」を組み合わせた情報が世界各国に拡散してしておりもはや追加での修正が難しい状況となっている。
実際のつづりと発音
彼/男性名詞単数の動物や物事相手:
يقبرني / يؤبرني / يئبرني / يأبرني
ユッブルニ(ー)/ヨッボルニ(ー)/ヨッボルネ [ サンプル音声:Forvo – يقبرني ]
「彼♂が私を葬ってくれますように」
「それ♂が私を葬ってくれますように」
*これが『翻訳できない世界のことば』に出てくるヤーアブルニー(YA’ABURNEE)に該当
*この語形を「あなたを愛してる」の意味で使う場合があるが少数派で慣用句として定着したことによるイレギュラー用法
男性のあなた/彼女/女性名詞単数の動物や物事相手:
تقبرني / تؤبرني / تئبرني / تأبرني
トゥッブルニ(ー)/トッボルニ(ー)/トッボルネ [ サンプル音声:Forvo – تقبرني ]
「あなた♂が私を葬ってくれますように」
「彼女♀が私を葬ってくれますように」
「それ♀が私を葬ってくれますように」
*これが『翻訳できない世界のことば』でヤーアブルニー(YA’ABURNEE)の英訳だとされている「You bury me.」に該当
YA’ABURNEE として知られる語はアラビア語では يقبرني などと書いてユッブルニー、ユッブルニ、ヨッボルネなどと発音。
ヤーアブルニーという読みガナは YA’ABURNEE の現地発音を把握していなかった『翻訳できない世界のことば』出版元が和訳時に誤読したであろう読み間違いがそのまま日本国内での公式カタカナ表記として定着したため、現地のサイトや動画を探しても「ヤーアブルニー」の通りに発音している音源は見つからないため聞くことは困難。
「’」は声門閉鎖音/声門破裂音といって発音の途中で一瞬息を完全に止めることを意味。また「’A」だと力強くしゃきっと母音の「ア」と発音することを意味。YA’ABURNEE をアラビア語式に読むと
- YA / ‘ / A と区切った場合
「ヤ・アブルニー」と聞こえるヤッアブルニーのようなヤァアブルニー - YA / ‘A と区切った場合
ヤアブルニー
となりヤーアブルニーとは決して発音されないが、和訳時に「YA’」が長母音の「ヤー」と誤解され YĀABURNEE と同等だと判断された模様。
ただ YA’ABURNEE は現地の標準発音に即していない当て字であるためネイティブが通常使わない英字表記。アラビア語としては A が1文字余分で「YA’BURNEE」(ヤァブルニー/ヤッブルニー)にしないとアラビア語発音に無い音が余分に入ってアラビア語らしい語形が崩れるため間違いとも言えるが、元ネタになった英語の記事・本が「YA’ABURNEE」という A 1個余分なが表記だったことから欧米や欧米経由でこの語が知られるようになったため、非アラブ諸国の翻訳困難語紹介書籍・記事では原語発音と微妙に違っていてかつネイティブが通常使わない YA’ABURNEE 表記が圧倒的に多い。
『翻訳できない世界のことば』日本語版ページ右下にはアラビア文字表記も添えられているが、元になった慣用句を知らない人物により YA’ABURNEE から再度アラビア語表記に戻された・強制変換当て字されたらしき يا اقبرني となっており、ネイティブからも誤表記だとの指摘が出ている。ゆる言語学ラジオさんツイート経由でネットに拡散した يا أبرني も当時Google機械翻訳が提示していた結果をペーストしたと思われるつづり間違いで誤字に当たる。
なお、カタカナ表記ヤービュルニー、ヤー・アバーニー、ヤアブァールネは欧米で出回っている英字表記 YA’ABURNEE の誤読。 トクボルネ、トク-ボル-ネ、トク・ボル・ネなどはオックスフォードの辞典が「あなたが私を葬ってくれますように」を音節ごとに分けた上で現地で発音しない q を含めた「toq-bor-neh」で語を収録したことが原因で発生した分かち書き・誤読。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
直訳すると「あなたが私を葬る」。その人なしでは生きられないから、その人の前で死んでしまいたい、という美しく暗い望み。
実際の意味
正しい解釈と和訳
『翻訳できない世界のことば』原作者氏側の誤解と日本語版出版時の誤訳・誤字・誤読が重なったためにアラビア語表記・カタカナ発音表記・直訳・意味・使い方説明の全部が要修正な事例。
非常に勘違いしやすい慣用句であることから意味や使い方が誤解され、文語アラビア語(現代標準アラビア語、正則アラビア語)とは違うシリア・レバノン方言発音が含まれることから読み間違いが誘発され、欧米で引用・転載を繰り返すうちに色々な部分に誤情報が入り込んでしまった状態。
直訳については、「あなたが私を葬るのです」「私を葬る人はあなたです」と断定・宣言した上で自分の葬儀の執行人を唯一無二の愛する相手に依頼するような言い回しではなく、希望・願望を表す祈願文の「彼が私を葬ってくれますように」の方。
元シリア空軍軍人で宇宙飛行士にもなったムハンマド・ファーリス氏の葬儀・埋葬の様子を報じたニュース映像。アラブの葬儀は火葬で非イスラーム式の日本と色々と違っており、「私を葬ってくれますように、私を埋葬してほしい」が複数の親族・知人が集まっての土葬であることが見落とされやすく「あなたと私二人きり、生かすのも殺すのも埋葬するのも全部あなたの手で」的な誤った YA’ABURNEE の世界観考察を生みやすいとの印象。
アラブの葬儀・埋葬は人が大勢参加すること、(特に女性の)死後の遺体処理や埋葬は親等の近い身内が行うこと、誰か一人を選んで伝える言葉ではないこと、葬儀執行者を指定するための表現ではなく死ぬなら自分が先で相手は土葬に立ち会う一団に含まれる存在であってほしいという願いが原点であることから、実際には日常生活で「愛してる」「ダーリン」「かわいい」といった意味で色々な人に言って回り、多用する女性などだと一生涯に通算で数え切れないぐらいの相手に使うことにもなり得る。
息子への愛を表現した現地のポップソングより。「ユッブルニー」と聞こえるのが”ヤーアブルニー”という誤読で紹介されている語の現地発音。こうした乳幼児を愛でてかわいがるというのが代表的イメージ。
「その人がいない人生は辛くて生きられないから自分が先に死に彼が葬儀に参加して埋葬してくれるという順番になってほしい」「今こうして共にいられることがすごく幸せだからずっと続いてほしい」「愛してるからこれからもずっと一緒にいたい」「元気で健康に長生きしてほしい」という優しい気持ちや、「自分よりも相手の長生き・幸せの方が大事だ」という優先順序の差が相手をヨイショして甘やかすおべっかに通じるという発想が原点となっている。
一方「君のためなら死ねる」という意味で使っているネイティブも一定数存在するが、自分の看取りや死後の葬儀・土葬の約束のために言っていない点では同じ。
実際の使い方
「とても愛している」「相手が大事」「長生きや健康を願う」という思いや「自分より相手の方が大切」という自分を下げて相手も持ち上げる的な関係性から発展して、実生活での意味は「愛してる」「ダーリン」「あなた」「すごい、すごくいい」「おおせのままに」など。
夫・我が子・孫や身近な人そしてほめたい物事を主語にして「◯◯が私を葬ってくれますように」という言い回しをする。
現地では愛しい我が子を抱きしめたりしながら言うことが多いほか、夫や恋人をほめたり甘やかしたりするための呼びかけ代わりに使ったり、家族・知人に呼びかけたり物事をほめたりする時に多用。込められた思いは深いもののとても優しい、おばあちゃんやお母さんの愛情の象徴のような言葉とされている。
また「愛してる」といった呼びかけの一種なので、既に亡くなった故人に対しても使われる。
YA’ABURNEE(アラビア語本来の発音:ユッブルニ(ー)/ヨッボルニ(ー)/ヨッボルネ)の典型的な使い方事例
ドイツ生まれの孫を初めて抱きしめる喜びや久々に合う娘に対する愛・心配・思いやりが入り混じった気持ちを「トォビリーニー」(あなたが私を葬ってくれますように≒愛してる、愛しい子)を連呼して表現するレバノンの女性。
彼女には6人子供がおり孫も既に7人生まれているが、全員がレバノンにいていつもそばにいてくれることが幸せなので、海外在住で娘が遠くにいる状況は常に何かが欠け物足りない寂しさを感じているという。「大好きなみんな、ずっと元気で私のそばにいて」という家族愛がこの慣用句の原点だと実感させるコメント。
同等表現の大量使用
そもそもシリアやレバノンのネイティブも元々の意味が「その人がいない人生は辛くて生きられないから自分が先に死に相手が葬儀に参加して埋葬してくれるという順番になってほしい」(=愛してるからこれからもずっと一緒にいたい、元気で健康に長生きしてほしい」だと考えずに使っている人が多く、そのことを知らずに使っている人すらいる状況だという。
英語圏での紹介記事ではこうした肝心な部分の説明や日常生活でどういう意味になるかという用例が抜け落ちており、相手の手による看取り・埋葬・葬儀の執行を願う重くシリアスで軽々と口にしてはいけないような言葉として誤解される結果となった。
実際には本場シリアには類似表現が多数存在。
- あなたが私をお墓に埋葬してくれますように
**人称間違いを含む”YA’ABURNEE”として海外に輸出されたものがこちら。 - ああ、私を墓に埋葬する人よ
- あなたが私に死装束を着せてくれますように
- あなたが私を死装束で包んでくれますように
- あなたが私の死装束(遺体袋)の端を結んで(縛って)くれますように
- あなたが私の骨に死装束を着せてくれますように
- あなたが私の骨をお墓に埋葬してくれますように
- あなたが私の心をお墓に葬ってくれますように
- あなたが私のお墓の上に立ってくれますように
- あなたが私のお墓の上を歩いてくれますように
- あなたが(私のお墓参りをして)銀梅花の花をお供えしてくれますように
などが同時利用されており、多用する年配女性などだと何種類も組み合わせるため一度の会話で10回、20回と言いまくることもあるなど「自分の死や葬儀に関するとっておきの大切な約束」とはかけ離れており、「愛してる」「ダーリン」というだけの言葉にしては生々しすぎる葬式・墓地招待状だとして茶化される原因ともなっている。
例文
- すごく愛してる、超愛してる、大好き【愛情を伝える】
(I love you so much)- 「”私を葬って”ママ」=ママ愛してる
- 愛しい人、ハニー、ダーリン【呼びかけ語】
(my love、my dear、honey、darling)- 「“あなたが私を葬ってね”、寝てちょうだい」= 愛しい子よ寝てちょうだいな、いい子ねねんねしてね
- 「”あなたが私を葬って”、このゴミ捨ててきて」=ダーリン、このゴミ捨ててきて
- 訳せないぐらいに同じ相手に向かって10回、20回と繰り返す場合は ❤(ハートマーク)をたくさん散りばめた会話に近い。シリアは姉妹慣用句が10種類ぐらいあり、他のほめ言葉や愛情ワードも総動員して会話に詰め込む。
- 「あら”あなたが私を葬ってくれますように”おかえりなさい、”あなたが私の骨を埋めてくれますように”、お疲れさま”あなたが私のお墓の上を歩いてくれますように”」=あらあなた❤おかえりなさい❤おつかれさま❤
- あなた、君、親愛なる君、親しい友よ【呼びかけ語】ー 親族・親友間やSNS上のやり取りで相手を呼ぶ際に使う例が多い
(you、Hey pal)- 「ありがとう、”私を葬って”」=ありがとうハニー、君ありがとね
- 「平安があなたたちの上にありますように。調子はどう?”あなたたちが私を葬ってくれますように”」=「こんにちは。みなさん、調子はどう?」
*「みなさん」「みんな~」という意味で「あなたたちが私を葬ってくれますように」を使っており、呼びかけている人々に暴力をふるわれて死んでしまいたいとか、そろそろ自分は死去するので皆に葬儀に出てほしいと願っているのではないことは明らか。
- すばらしい、すごい、すげえ【称賛・感嘆】
(How ~ ◯◯ is!、What a ~ ◯◯!)(◯◯はなんて~だろう!)- 「彼の美が”私を葬ってくれますように”」=彼ってすごい美男!なんというイケメン!
- 「笑顔が”私を葬ってほしい”」=すばらしい笑顔だね!
- あなたのおおせのままに【相手を持ち上げる】
(as you wish)- 「君が望む物なら何でも買ってあげよう、ああ”僕を葬って”」=愛しい君のおおせのままに、ほしい物は何でも買ってあげるよ
我が子に長生きしてほしいという親の愛や「あなたが私を葬ってくれますように」という慣用句の元々の願いが登場する切ないポップソング。(歌詞はアラビア語と英語との歌詞対訳サイトで確認可能。)
ただし「愛するあなたがいない人生なんて考えられないから、あなたよりも先に死にたいと願っている」という本来の意味で使う場合も。特に親子間の愛情に関してはそのようなケースがしばしば見られる。
3:33頃に تقبرني(تؤبنري) ― トゥッブルニー(トゥッブルニ)という男性単数の「あなた」相手の時の語形「あなたが私を葬ってくれますように」(愛してるよ;ダーリン;あなた)が登場する上記動画では
息子のことを心から愛している。どんな怪我も害も受けませんように。息子がいない寂しい日を過ごすなんてできないので、自分の元から去ってほしくないし、神には相手よりも先に天に召されたい。自分に対して「あなたが私を葬ってくれますように」(愛しているからあなたより先に死にたい)なんて絶対に言わないでおくれ。
という父親の気持ちが歌い上げられているが、動画ミニストーリー内では父親が難病に犯された息子に臓器を提供。息子の延命と引き換えに神に召され願い通り先に亡くなるという全身全霊をかけての親の愛が示されている。
言われた側の反応
「あなたが生きているうちに死んでしまいたい」「自分が死んだらあなたの手で墓に埋めてほしい」と本気で頼む死にまつわる願望の宣言・表明としては使わないので、言われた側が真に受けて額面通りに理解して「この手で愛するあなたを葬ってあげる」「君が先に死ぬというのなら」という前提で会話を進めるのは相手の早死にを肯定する失礼な解釈に当たるためNG。
約束を守って文字通り相手を墓に埋葬する情景描写はこの慣用句を使うシリアやレバノンでは「この慣用句をそんな意味で使う人はまずいない」ことが前提のギャグネタにもなっている一方、使わない地域の人側からは「シリア人・レバノン人は先に死にたいとか土葬に立ち会ってとか思って言っていないので、知らずに願い事に同意する時の言い回しで返事をしたら”私に先にさっさと死ねというのか!”と怒られた」という失敗談が聞かれることも。
夫婦・恋人間などでは「自分こそ先に死ぬ」「そっちこそ元気に長生きすべき」というのを押し付け合う形で「あなたが私を葬って♥」「いや君こそ俺を葬って♥」と言い合い、いちゃつくなどするのがよくあるパターンとされる。
親子間では「親の自分が愛しているよという意味で”私を葬っておくれよ”と声をかけた我が子が、こんな風に先に亡くなってしまうなんて」といった感じで、由来となった元の意味が引き合いに出されることが多めで、歌の歌詞などでも「愛しているからといって、親の自分より先に逝きたいという言葉は使わないで」的なフレーズが登場したりも。
よくある誤解
「暗い望み」「陰鬱」「死の願い」といったダーク系の説明はこのフレーズが本気で「死にたい」「あなたの手で絶対に土葬して」と思って言っている重たいとっておきの言葉だと誤解した非ネイティブたちによって追加された概念で、ネタの大元になったであろうブログ記事や本で紹介された時に加わったものであることから、アラブ世界における用法や理解との間にずれがある。
本来の優しく陽気な(そして時には切ないまでの)家族愛という雰囲気を失い耽美・悲恋・実らない恋といったイメージに変化しているため、シリア系・レバノン系ではない非ネイティブによって英語で書かれた説明記事は基本的にこの慣用句の実際の使い方を説明しておらず、転載・引用を繰り返すうちに「こういうシーンでも使えそう」という二次創作的要素が公式解釈として加わったり、「本来なら願ってはいけないような激重で特大の感情」「人前で公言できない望み」「愛する相手にそっと伝える想い」「愛する側の身勝手」といった非ネイティブ製設定・誤解が追加されたりしていった。
「アラビア語で最も重たく切ない、美しき愛の言葉」といった評価も非ネイティブ間で広がったものに当たる。
また『翻訳できない世界のことば』日本語ではそうした誤解に加え「その人の前で死んでしまいたい」という和訳時の誤訳が発生しており、英語版にも無かった日本語版オリジナル設定が派生する原因となっている。改訂時に修正が必要だと思われる重大な和訳誤りに該当するが、日本語版『翻訳できない世界のことば』に関してはヤーアブルニーという読み間違い同様そのまま未修正になっている模様。
日本で流通している「唯一の片割れと定めた愛する人に自分の命も死も委ねる」「私を生かすのも殺すのもあなただけ」「あなたに死に様を見せつけて記憶に刻みつけたい」については誤訳を元に出版社担当者氏が実際のアラビア語とは無関係なオリジナル世界観を自作したことが由来で、激重感情・病的執着・共依存・自傷・自殺・血だらけ・死・遺体・葬儀・墓・猟奇性・ゴシック・ホラーといったイメージは『翻訳できない世界のことば』日本語版や日本国内での広報活動がきっかけで流布した形となっている。
中には自殺や無理心中の象徴として使う二次創作的事例も見られるが、アラブ世界では本来自死が宗教的禁忌(宗教的な罪)であり自殺・心中・後追い自殺・一緒に死にたいといった発想は日本と違って本来一般的ではなく、この慣用句の文化・宗教的背景に反した解釈。
アラブ圏では『翻訳できない世界のことば』を参考に YA’ABURNEE のアラビア語表記を取り入れたらしき日本の漫画作品を見たネイティブたちが「つづりが間違っていて意味が通じないから作者に訂正した方がいいと連絡しよう」「たぶん”私を葬ってくれますように”の慣用句のことだと思うけど、使い方が間違っておりイラストの内容・キャラ設定に合っていない」と反応する出来事も発生した。
なお、ユッブルニ(ー)/ヨッボルニ(ー)/ヨッボルネはアラブ諸国の中でもシリアとレバノンという限られた地方でのみ使われている慣用句で、他の国では「私の命日があなたの命日よりも先になりますように」といった同等表現が存在。相手の長生き・健康祈願を兼ねた愛情表現や呼びかけとして主に家族間で使われている。そのため方言が異なるアラビア半島地域の王子様キャラに言わせたりする描写は誤りに当たる。
ケース分類
どの慣用句のことを指しているのかはすぐにわかるものの、アラビア語表記・読みガナ・直訳・意味や使い方の説明文が全て間違っており、その上に日本語化の際に前置詞 before を「先に」ではなく「(目の)前で」と取り違えるという誤訳が重なっている事例。
このうち”ヤーアブルニー”という日本語版出版社側による読み間違い、その誤読を元に再変換したらしき يا اقبرني というアラビア語表記、「目の前で死にたい」という誤解釈は日本語版のみに見られる誤りとなっている。
アラブ人以外にはわかりにくい愛情表現「愛するあなたとずっと一緒にいたいから先に死なないで」や尊敬・謙譲「大切なあなたはいつまでも幸せに長生きして死ぬとしたら自分が先になるべき」が原点だが、日常会話では元の言い回しからは想像が難しい「愛してる」「ダーリン」「愛しい、かわいい」「素敵」「すごい」「おおせのままに」などの意味で使われているため、非ネイティブに「暗い」「重い」「怖い」と誤解されることで有名。
『翻訳できない世界のことば』英語原作自体は元の使い方とは離れた説明をしていた欧米の先行雑学本の内容をほぼそのまま継承していたが、日本語版になった時点で追加の変化が発生。
日本語版出版社が独自世界観を考案し昏い激重執着として広報しヤンデレ言葉としての使用を促したことで、日本において欧米圏よりも激しい誤解・解釈が流布し本来の用法とは全く異なる陰惨なイメージで創作に利用されるに至った。
元がどの語のことなのかネイティブに最終確定されていないが、原語表記・英字表記・読みガナ・意味が違っていることはわかっている例
IKTSUARPOK(イクトゥアルポク)【イヌイット語】
つづりと発音
『翻訳できない世界のことば』や書籍・ウェブ記事の表記と読みガナ
Wiktionaryでは ᐃᒃᑦᓱᐊᕐᐳᒃ(iktsuarpok)となっているが、これは雑学本をきっかけに広まり元ネタとなったイヌイット語-英語辞書の間違いをそのまま継承していると指摘がある iktsuarpok をイヌイット語への強制的な再変換により当て字をしたものに過ぎず、正しいイヌイット語つづりではないものと思われる。
Wiktionaryは手軽で使いやすいがボランティアが編集しているため、この語に関しては間違った英字表記と語義を収録している辞書の情報が登録されたついでに編集者が ᐃᒃᑦᓱᐊᕐᐳᒃ を書き足し、実在しているかどうかをイヌイット語関連ソースで調べずに立項・登録したものだと考えられる。
日本語のネット記事では IKTSUARPOK ないしは iktsuarpok に対応した当て字として「イクツアルポーク」「イクツアルポック」とのカタカナ表記を用いているケースも。『翻訳できない世界のことば』日本語版とは別ルートで英語などの翻訳困難外国語表現紹介書籍・Webページを経由して日本で紹介されたことによるものだと思われる。
また『翻訳できない世界のことば』の右下には IKTSUARPOK の原語つづりとして ᐃᒃᑐᐊᕐᐳᒃ が記載されているが、海外サイトでは全くヒットしないこと、ᐃᒃᑦᓱ(iktsu)とすべき部分を ᐃᒃᑐ(iktu、イクトゥ)と取り違えているつづりであるらしいことから、カタカナ表記の「イクトゥアルポク」をイヌイット語表記に再変換したものだった可能性が考えられる。
*アラビア語のユッブルニ(ー)もヤーアブルニーとして掲載される際に、本来のアラビア語表記ではなくカタカナ表記をアラビア語に再変換したらしき يا اقبرني という実在しない言い回しになっていたことから、イクトゥアルポク(ᐃᒃᑐᐊᕐᐳᒃ)も同様の事例だと思われる。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では IKTSUARPOK となっていることから、イクトゥアルポクと読みガナをふって ᐃᒃᑐᐊᕐᐳᒃ を併記しているのは日本語版のみでの手違い・誤読・誤記だったのでは、との印象。
本当はどういうつづり・意味の単語だったのか?
「iktsuarpok」はイヌイット語-英語辞書で検索しても出てこず
- ウェブ検索してもイヌイット関係のサイトに載っておらずネイティブが使っている形跡が無い
- Facebookでイヌイット語話者たちが自分たちの方言に該当する語があると報告しているがいずれも英字表記・発音が異なる
- ネイティブたちが iktsuarpok を見て「自分たちのところで使っている」とは言わず「キヴァリク方言とかなの?」という疑問形でコメントしている
- ウェブ上で「イヌイット語としては iktsuarpok という語形はおかしい」といった指摘がある
ことなどから、雑学本の元ネタだとされている辞典『English-Eskimo, Eskimo-English Dictionary』(Arthur Thibert 著)に収録された時点で記載に何らかの不備があったとも考えられる。
そのため Wiktionary の「ᐃᒃᑦᓱᐊᕐᐳᒃ と書いて iktsuarpok と当て字をする」という情報自体がそもそも間違っている可能性が高く、ネイティブ情報からすると iktsuarpok の2文字目のkは不要で、語末については書字法によって k になるか(itsuarpok)/ q になるか(itsuarpoq)の違いがあるらしいものの現在では q を当てる方が一般的になっているといった感じである模様。
グリーンランド・アラスカ・カナダからのイヌイットたちから iktsuarpok の本来の英字表記として挙げられ辞書・文献にも実際の使用報告がある itsuarpoq / itsuarpok(/itsuarpuk) やその類が「IKTSUARPOK」として出回っている語本来の発音・英字表記*だったとも推測し得る。
*イヌイット語のローマ字表記による書字ルールの名称は Roman Orthography (Qaliujaaqpait)
本来の英字表記が itsuarpoq / itsuarpok などと仮定した場合の発音だが、トロント大学のイヌイット語プロジェクト Inuktitut Project : LICG – Grammar : Writing System の解説と音声ファイルによると子音連続 ts 部分のIPA発音表記は [ts](いわゆるツの音)として読むという。
-tsuar- 部分の発音だが、イヌイット語のネイティブ音声を提供している Inuktut Tusaalanga : Inuktut Glossary、Forvo のイヌクティトゥット語(イヌクウティトット語 )発音辞書、グリーンランド語発音辞書、イヌイット語の発音・音節・文法解説(uqausiit 他)などによると、「IKTSUARPOK」の元ネタとなったカナダ側のイヌイット語だと
- ローマ字つづりでは「r」で表記するが英語の r の発音とは発音が違っておりずれがある。フランス語のパリの r(ʁ)、アラビア語の غ の発音の一つと同じガの響きで、有声口蓋垂摩擦音。舌の根元をのどひこ(のどち◯こ)に寄せて摩擦を起こしガと読む。ri・ru・ra はそれぞれリ・ル・ラというよりはギ・グ・ガに聞こえる。実際の音声ファイルでは -ar- となっている部分はアグと聞こえるなどするとの印象。
→ Inuktitut r is not English r but is pronounced more like a France French r in the middle of words. [ ソース ]
→ usually written as ‘r’ when spelling Inuktitut words in the standard roman orthography, but has certain characteristics that distinguish it from the English /r/. For example, it seems to be produced further back in the mouth and generally with more frication than English /r/. A question to be addressed in this paper is whether the ‘r’ is really an approximant or is it just a regular fricative. [ ソース ] - 単語の先頭に来ることができるのは i / u / a / p / t / k / m / n / s / q で、単語の最後に置けるのは i / u / a / p / t / k / q でかつ直前に母音を1個伴うというのが基本ルール。[ ソース ]
- 現代のヌナヴィク(ヌナビク)では語末の子音の混同がしばしば起こっている。(例:◯ qimmiq / ✕ qimmik)[ ソース ]
- -ua- 部分はウア的な響きで、直前の子音と連続的に発音する模様。
- 語末の -puq(-pok)は3人称単数(he, she)を表すパーツなので、まとまりとしては itsuar と puq(poq/pok)という切れ目になる。[ ソース1 | ソース2 ]
という感じらしいので、itsuarpoq / itsuarpok はイツアルポクでもイトスアルポクでもなく、イツァグポクに聞こえるようなイツァルポクなのでは?と管理人的には推察。
残念ながらこの語の音声ファイルがネット上で見つからなかったため、正確な読みガナをつけるにはネイティブか専門家の意見・知識が必要だと判断し情報集めはひとまずこれで終わりとした。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること。
実際の意味
英語圏での紹介事例
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』の前に発売された外国語表現雑学本の人気書籍『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズなどでも「to go outside often to see if someone is coming」として登場するなど、英語圏でしばしば紹介されている外国語表現の一つ。
動詞として紹介されているこの語だが、『翻訳できない世界のことば』では名詞という表示になっており、原作者氏が文法的に何らかの誤解をしていたものと思われる。
「iktsuarpok」の元ネタは何だったのか?~ネット上の指摘とネイティブ情報からの推測
GoogleのWeb検索でもGoogleブックスの書籍検索でも、複数の雑学本には収録されている一方でイヌイット語関連の書籍やウェブサイトの一部として登場している事例を確認できないが、Wiktionaryに「iktsuarpok」のページがある原因でもあり同ページに参考文献として記載されている Arthur Thibert著『English-Eskimo, Eskimo-English Dictionary』(数十年前に出版)には iktsuarpok として載っていた模様。
これが元ネタとなり英語圏に iktsuarpok が広まったものと考えられるが、『English-Eskimo, Eskimo-English Dictionary』よりもはるかにページ数が多いMemorial University of Newfoundland – Digital Archives Initiativeの『Eskimo-English dictionary [volume 1 : Inuktitut to English]』には全く同じ語は見当たらなかった。
ネイティブ情報を求めてウェブ検索を続けたところ、イヌイット団体 Inuit Circumpolar Council Canada のFacebook投稿に『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』原作者氏によるウェブ記事バージョンの IKTSUARPOK イラストに対するネイティブたちのコメントが見つかった。各地居住のイヌイットらによると、
- グリーンランドでは Itsuarpoq(グリーンランド在住者)
- 自分の方言では Itsuaqtuq(カナダ在住者)
- Ittuaqpuq(カナダ在住者)
- で、これはQivalliq(*カナダのヌナブト準州にあるKivalliq(キヴァリク))方言ってこと?
- これって言い換えると nigirqtuq のことですか?(おそらくカナダ・ヌナブト準州在住者)
- 自分たちだったら ittuarqpuq って言うと思う(カナダ・ヌナブト準州キヴァリク付近在住者)
とのこと。
イヌイット語-英語辞典で探しても iktsuarpok が見つからなかったのも、
- ネイティブが使っているどの地域の発音とも違うから
- よくある発音・表記と違うどこかの方言を収録したから
- 元ネタとなった Arthur Thibert著『English-Eskimo, Eskimo-English Dictionary』が多少間違った形で掲載したから
といった理由によるものだった可能性が考えられる。
この語については reddit 『TIL 11 untranslatable words (that are translated in the same link)』に情報が寄せられており、書き込みからは
- 「だれか来ているのではないかと期待して何度も何度も外に出て見てみること」といった複雑な意味を持った語ではない。
- イヌイット語としては Iktsuarpok のような当て字・英字表記はしない。
- カナダの Kivalliq(キヴァリク)や Aivilik 方言が元ネタ。
- グリーンランド Kalaallisut 方言の動詞としては itsuarpoq で単に「窓越しに見る」という意味しか無い。
- カナダの Ulirnaisigutiit 方言だと ᐃᑦᓱᐊᑐᖅ(itsuatuq)という語があるが「ずっと続けて見ようとする、何度も見ようとする」を意味する。
- 翻訳できない世界の言葉ムーブメントにより元の語義から飛躍した紹介がなされている。
ことがわかった。
なお同じ人物は別の投稿『What are some words that don’t exist in the English language?』、『“Untranslatable” words from other cultures』、『BBC.com article “Lost in Translation: The world’s most unique words?” (featuring the Inuit noun [sic] Iktsuarpok)』でも情報を寄せており、
- 「the feeling of anxiously waiting for someone and running to check the door constantly」(誰かが来るのを心配しながら待ってドアのところまで駆け寄って何度も繰り返し確かめてしまうこと)的なストーリーは都市伝説的な説明。
- 情報源となった Arthur Thibert著『English-Eskimo, Eskimo-English Dictionary』はカナダの Kivalliq(キヴァリク)や Aivilik 方言語彙を収録したものだったが、そこに載っていたのは「iktortok — goes out to see if someone is coming.」(誰かが来るかどうか確かめるために外に出る)と「iktsuarpok — often goes out to see if someone is coming.」(誰かが来るかどうか確かめるために頻繁に外に出ること)だった。
- 外国語表現雑学本の人気書籍『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズに載った際に「The frustration of waiting for someone to turn up is beautifully encapsulated in the Inuit word iktsuarpok ‘to go outside often to see if someone is coming’.」となり、引用・孫引きされているうちに「期待」「不安」「戸口に駆け寄って外を確かめに行く」といったストーリーが加わっていった。
- 元ネタの辞書『English-Eskimo, Eskimo-English Dictionary』自体はカナダのイヌイットの言葉を多数収録していると自負しているものだったが、複数の不備が見られるとの評がある。
といった投稿内容から、元ネタが不正確だったことからイヌイット自身が使っていない当て字「iktsuarpok」の使用が広がり、語義についても英語の書籍で紹介された時点で不正確だったことから引用・孫引きをした書籍や記事にもそれらが引き継がれてしまったことがうかがえる。
Wiktionaryフランス語版にはこの語に関する議論が残っており、
- 情報源の『English-Eskimo, Eskimo-English Dictionary』は言語学者ではなく宣教者たちが作った辞書だったため正確とは言えなかった。
- iktsuarpok は現在使われているイヌイット語の英字表記ルールに沿ったものではない。
- グリーンランドでは itsuarpoq で、「窓越し・鏡越しに見る」という意味。
という書き込みが見られる。
X(Twitter)にはカナダ在住のイヌイット男性に「would you care to weigh in on the word Iktsuarpok? Is it a word? Which Inuktitut dialect does it belong to?」と質問した投稿が残っており、
- 意味は「のぞく」「見る」
- つづりは Itsuarpuk などとした方がいい
との回答がなされていた。
イヌイット語ネイティブたちが挙げた正解候補とその語義
ネイティブたちが挙げた語をイヌイット語-英語辞書で探したところ、
グリーンランドにおける itsuarpoq
peeps after something (through a window or through the ice or the water)
(窓越し・氷越し・水越しなどで)何かをのぞき見る
『Greenlandic to English Dictionary』p.181
グリーンランドにおける itsuarpoq
kigger ud ad vinduet, kigger ind ad vinduet
窓の外を見る/窓の中を見る
kalaallisut-qallunaatut(カラーリット語-デンマーク語)オンライン辞書
グリーンランドにおける Itsuarpok
要旨:もはやほぼ廃れてしまったが、2人で組んで行う Itsuarpok(のぞき見)というアザラシ猟の方法がある。氷に2箇所穴を開け、片方は海中を確認しアザラシが来たら相方に知らせ、長い銛(もり)を使って仕留める。
Hinrich Rink 著『Danish Greenland, Its People and Its Products』(1877年H.S. King & Company刊)pp.117-118
アラスカにおける itsuarpoq
he looks through an opening wall of house
彼は家の穴開き壁越しに見た
『Notes on the Phonology of the Eskimo Dialect of Cape Prince of Wales, Alaska』p.178
カナダにおける Itsuarpok(itsuarpuk)
・er sieht zur offe nen Thüre oder Fenster hinein
・er ist im Boot und sieht ins Wasser
・auf dem Eis und sieht nach dem Grunde(Googleブックス検索による文字読み取りなので誤字脱字がある可能性あり)
→ ドアや窓越しに見る
→ ボートに乗っている時に水の中を見る
→ 氷の上にいる時に下の方を見る
Freidrich Erdmann 著『Eskimoisches Wörterbuch』(1800年代刊行)
アメリカやカナダにおける Itsuarpok
he looks
彼は見る
『Eskimaux and English Vocabulary』p.129
カナダにおける itsuarpok
peep
のぞく、のぞき見る
F.W. Peacock 著『Eskimo-English dictionary [volume 2 : English to Inuktitut]』p.297
カナダにおける itsuaqtuq
Qui cherche à regarder
見ようとする
『Archibald L. Fleming, un observateur intéressé ? Entre christianisation et chamanisme, le recensement des Inuit du sud de la terre de Baffin en 1913-1914』p.39
カナダにおける ittuaqpuq
look(into)
~(の中)を見る
『YouVersion』各言語版聖書表示・対訳表示サイト
などの情報が見つかった。
また1927年に言語学専門ジャーナル『International Journal of American Linguistics』に掲載された『Notes on the Phonology of the Eskimo Dialect of Cape Prince of Wales, Alaska』によると、イヌイットの各方言では語形や発音に差異があり、この語に関しては ts や tc が s や c に置き換わる現象が見られ
- アラスカ Cape Prince of Wales(プリンス・オブ・ウェールズ岬)方言:is’uaqtuq
*「’」は本では上付きのピリオド風の・形状 - アラスカ Barrow(バロー)/現ウトキアグヴィク方言:itcoaqtɔq
- グリーンランド方言:itsuarpoq
という違いが出るという。
ネット上の様々な投稿や辞書などでの情報からすると、イヌイットの言語にも複数の方言があるとはいえ IKTSUARPOK(iktsuarpok)自体はおそらく方言差とはまた違った要因による不正確な英字表記(ただし記事を読み発音を聞けばネイティブが何の単語かわかる範囲内)だったと判断せざるを得ないようである。
しかも本来の意味も「(住居の壁の穴なり窓なりから外を)見る/のぞく」というニュアンスで、それが「家から外の様子を見る」→「誰か来ないかなあと外を見る」→「来るかな、来ないかなと不安・期待を抱きつつ何度も戸口に駆け寄り家の外に出る」と次第に付加されるストーリーが具体化していき発展したのでは…との印象。
ケース分類
語義が本来の「のぞく」「(窓越しなどに)見る」とは違う形で紹介されており、不正確な箇所が色々とあると評されている辞書を元にした英字表記や外国語表現紹介雑学本で付加されたストーリーを継承している形となっている。
ネイティブ情報によると本来の英字表記は2文字目のkが要らない itsuarpoq / itsuarpok である可能性が高いという。
『翻訳できない世界のことば』日本語版に関しては、英字表記は IKTSUARPOK でありながら IKTUARPOK に対応したカタカナ表記「イクトゥアルポク」とそれをイヌイット語での表記に機械的に変換したと思われる ᐃᒃᑐᐊᕐᐳᒃ(おそらく単語としては実在しない)が組み合わせられているという手違いらしきものも見られる。
本来の意味・使い方とは違う説明をされている例、『翻訳できない世界のことば』などが原因で誤解されている例
SAMAR(サマル)【アラビア語】
実際の表記と発音
سمر(発音記号あり:سَمَر、samar、サマル)[ Forvo ]
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
日が暮れたあと遅くまで夜更かしして、友達と楽しく過ごすこと。
実際の意味
「夜更かしして友達と楽しく過ごすこと」ではなく「晩・夜に話すこと」。
典型的なサマルの様子(サウジアラビア)
サマルの元々の基本語義は「晩・夜の語らい、晩・夜の会話、晩・夜に話をすること(evening chat、night chat)」で日本語表現「夜話」に対応。砂漠や荒野での生活で退屈な夜におしゃべりをするといったイメージが原型。
「友達」「楽しく過ごす」「飲食・飲酒」「宴会」「ダンス」などは元々のサマルの定義に直接関係の無い要素で、過ごす相手は友達限定ではなく家族(夫婦・親子・祖父母と孫など)・知人・ご近所さん・集まりに参加したそれまで面識の無かった他人など様々。
現代の辞書には「夜の遅い時間まで(إلى ساعة متأخِّرة من الليل)」「寝ずに、夜更かしして」と意味説明に書いてあるものもまれにあるが古くからの各時代のアラビア語辞典では単に「夜に」としかなっていなかったりで、日没が早い冬に早めに会話を始め夜更かしせずに早めに寝てもサマル、学術セミナーにしか見えないような宗教講話や文学者対談会でも日没以降に集まって会話することからサマルないしはサマルと同様の意味を持つ مُسَامَرَة [ musāmara(h) ] [ ムサーマラ ] と呼ばれるなどしてきた。
後代になってからは詩歌や音楽演奏を伴う夜の語らいの集いなどもサマルと呼ばれるようになったことから、今では「楽しい」「集い」「歌や踊り」というイメージと結び付けられることも少なくない。
『翻訳できない世界のことば』では「とくにたいした話もしていないけれど、人生の意味について考えたり、ちょっと飲みすぎて、翌朝何をするつもりだったか忘れたりするときのこと。」というシチュエーション説明がされており、語らうことがメインであるはずのサマルに合致しない「たいした話もしない」や飲酒が禁止されているイスラーム圏ならではのサマルとは異質な「飲みすぎて翌朝の予定を忘れる」といった要素が混入。「夜更かしして友達と遊ぶこと」「友達とワイワイ飲み会やパーティーをして楽しく過ごし徹夜・オールすること」という誤解が日本でも広まる原因となっている。
英語圏の書籍ではサマルの意味として night conversation(夜の会話)を挙げているが、それとあわせて حَفْلَة [ ḥafla(h) ] [ ハフラ ](パーティー)を付した حَفْلَة سَمَر [ ḥaflat samar ] [ ハフラト・サマル ](サマルパーティー)を night party(ナイトパーティー)も紹介するなどしており、雑学本やネット記事で転載されているうちにナイトパーティーのイメージが強まりそれが『翻訳できない世界のことば』に収録された可能性が考えられる。
アラビア語圏で夜更かし・徹夜・寝ずの状態は سهر(発音記号あり:سَهَر、sahar、サハル)という別の語で表されるが、日本では『翻訳できない世界のことば』の影響からこのサハルが表す「夜更かししてワイワイ」とサマルとが混同されるなどしている状況だと言えるかと。
ちなみにアラブ式サマルにおける飲み物の定番はコーヒーやお茶となっている。
ケース分類
本来の語義は「夜話」という対応語が日本語にもあり簡単に訳せる言葉。アラビア語の素敵な言葉として海外で紹介されることが多かったことから『翻訳できない世界のことば』に掲載されたものと思われる。
現代では親族・知人らが集まって会話以外の詩歌・民謡を楽しむこともサマルと呼ばれるため「日が暮れたあと遅くまで夜更かしして、友達と楽しく過ごすこと」が全くの間違いとは言えないが、夜更かし・徹夜しての友達と過ごす楽しいパーティーという意味ではないので、やはり「実際とは異なる」という判定になるかと。
MAMIHLAPINATAPAI(マミラピンアタパイ)【ヤガン語】
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
同じことを望んだり考えたりしている2人の間で、何も言わずにお互い了解していること。(2人とも、言葉にしたいと思っていない)
実際の意味
世界的に知られている意味と『翻訳できない世界のことば』説明文との違い
ヤーガン語(ヤガン語)はアルゼンチンとチリにまたがる南米南端ティエラ・デル・フエゴ(フエゴ諸島)に暮らしてきた先住民ヤーガン族(ヤガン族)の言語で、多くの住民がスペイン語で生活するようになったことで話者が減少。最後の話者だった女性が2002年に死去したため、現在話者数はゼロとなり消滅した形となった。
mamihlapinatapai(マミラピンアタパイ)はギネスブックにより「most succinct word(最も簡潔な言葉)」と認定。翻訳が難しい言葉としてネット記事でもしばしば紹介されてきた。
mamihlapinatapai 自体はいくつものパーツから構成されている名詞で、英語での直訳は「to make each other feel awkward」(お互い面倒だと感じさせる)などになるという。
Wikipediaの英語版や日本語版などでは「”a look that without words is shared by two people who want to initiate something, but that neither will start」「looking at each other hoping that the other will offer to do something which both parties desire but are unwilling to do」「双方がしたいと思いながらも自らしようとはしない事をどちらかがし始めるのを望んで互いに見ていること」のような説明がなされている。
上記の理由から、以心伝心的な説明をしている『翻訳できない世界のことば』の「何も言わずにお互い了解していること」は少しニュアンスが違い、特に「2人とも、言葉にしたいと思っていない」の部分は合致していない形となっている。
MAMIHLAPINATAPAI(マミラピンアタパイ)の本当の意味とは?
BBCの記事『Mamihlapinatapai: A lost language’s untranslatable legacy』によると、この語は19世紀に欧米へと紹介された後、転載・引用を繰り返すうちに本来の意味とは違う姿に変わっていってしまったという。
この言葉を聞いて広めた側の解釈とその後の変化により世界各国で誤解されることになったが、地元で博物館ガイドをしている Victor Vargas Filgueira というヤーガンの男性は mamihlapinatapai について、「火を囲みじいさんばあさんたちが若者たちに話を伝え聞かせている間、皆が話さなくなりしんと黙って考えにふけっている様子を表す言葉だ」と説明。
ところが現地に長く住みヤーガン語-英語辞書を編纂した英国人の宣教者・言語学者 Thomas Bridges(トーマス・ブリッジズ)が辞書の第3版になってから mamihlapinatapai を加えた際に「To look at each other, hoping that either will offer to do something, which both parties much desire done but are unwilling to do.」(どちらの側も実行されることを大いに望んでいながらもやりたいとは思っていないことを、相手の側がしてくれますようにと望みながら、お互いに見合うこと)と語義を解説。
これは元々多用されていなかった言い回しをおそらく数回聞いただけだったこと、またそれが通常使うシチュエーションではなかったこと、さらには彼自身が正確な訳をしない癖が加わって、一般的ではなかった語義が不正確な形で広まり、世界中に知られてしまった可能性が考えられるという。
英語圏で転載・引用を重ねて人気を博したのはヤーガン族が普段使っている意味の方ではなくトーマス・ブリッジズが辞書に掲載した「To look at each other, hoping that either will offer to do something, which both parties much desire done but are unwilling to do.」(どちらの側も実行されることを大いに望んでいながらもやりたいとは思っていないことを、相手の側がしてくれますようにと望みながら、お互いに見合うこと)という定義の方で、欧米では2人の間で視線を交わし合うシチュエーションとして知られるようになり、とりわけ恋人同士によくあるシチュエーションという設定で流布し映画などにも取り入れられたのだとか。
欧米では色々なジャンルの作品で用いられネットでも広まり恋愛関係に多用する慣用句というイメージが定着したが、言葉は交わさないもののじっと視線が合い見合うような状況を表す言葉だったのではないかと考えている研究家もいるという。
ちなみにヤーガン語最後の話者となった女性が存命中に聞き取り調査に訪れた人物が mamihlapinatapai(マミラピンアタパイ)について質問したところ、彼女はこの語を知らなかったという。彼女は同族とヤーガン語で話していなかった期間が長かったことが原因だと思われるが、結局のところ本当の意味はもはや確かめる手段も無くなってしまっており謎に包まれたままとなっている。
ケース分類
欧米で出回っている語義と『翻訳できない世界のことば』との間でずれがあり、以心伝心のような説明に置き換わっている。
この語の意味は英国人宣教者・言語学者が広めたもので、欧米では「どちらの側も実行されることを大いに望んでいながらもやりたいとは思っていないことを、相手の側がしてくれますようにと望みながら、お互いに見合うこと」として恋愛ものの作品でも利用された。
しかし実際にはそういう意味で使うための慣用句ではなく、本来は違う用法(例:目線は合うもののお互いに言葉は交わさない)が標準的だった可能性が高いという。
GOYA(ゴーヤー)【ウルドゥー語】
実際の表記と発音
گویا(/go:jɑ:/、ゴーヤー)[ rekhta | rekhta | Forvo ]
『翻訳できない世界のことば』ではページの下に گویا ではなく كويا と書かれている。厳密にはスペルミスに相当するかと。
なお英字表記で当て字をする場合は goyaa もしくは goya となっていることが多い模様。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
信じ切ってしまうこと。すばらしい語りを聞いて、「まるで」ではなく、全ての真実に感じられることを言う。
*隣のページには「今いるところや、やっていることもみんな忘れてしまうほど、すごい物語のなかに自分がいるような気持ちになること」といった追加説明あり。
実際の意味
『翻訳できない世界のことば』と英語原作『Lost in Translation』での意味説明
英語原作『Lost in Translation』では日本語版と説明文の言い回しが大きく異なっており、「the transporting suspension of disbelief that can occur, i.e in good storytelling」(≒そんなの起こるなんて信じられないという気持ちを一時的に捨て優れた物語りの世界に入り込むこと)つまりは優れた語りが「フィクションだからと疑ってしまい、いまひとつのめり込んで楽しめない」という気分を忘れさせ物語の中に引き込むことと形容している。
英語表現「suspension of disbelief」は日本語で「不信の停止」「不信の宙吊り」と訳されている表現で、物語や劇といったはフィクションを楽しむ際に「嘘っぽい」「あり得ない」「現実ではそんなことある訳が無いのに」といった疑う気持ち・信じがたい気持ちを抑制しストーリーの世界に入り込む様子のこと。
そのため日本語版『翻訳できない世界のことば』のような「全て真実だと感じて信じ切ってしまう」とは説明しておらず、不信の停止と呼ばれる「物語・劇を存分に楽しむため鑑賞中に非現実的な設定や描写も許容してストーリーに入り込んで展開を味わう」といった内容となっており、日本語版と英語原作との間でニュアンスに差があるように見受けられる。
ウルドゥー語辞典にペルシア語からの外来語として載っているゴーヤーとその語義
各種ウルドゥー語-英語辞典(例:Rekhta Dictionary)によると گویا はウルドゥー語特有ではなくペルシア語由来の単語で、ヒンディー語などとも共通。語義は「まるで、いわば、あたかも、~かのように」「雄弁な、弁が立つ、言葉巧みな」「話している(人)、話し手」などとなっている。
このことからウルドゥー語本来では「(物語・話・話者の側が)雄弁(で聞く人を引き込む巧みさを持っている)」という意味だったのが、『翻訳できない世界のことば』では「物語を聞いた側が全部本当だと感じて信じ切ってしまう」という能動/受動の置き換わりと「雄弁である」→「まるで現実であるかのように錯覚して完全に信じ切ってしまう」「今いるところや、やっていることもみんな忘れてしまうほど」という意味の置き換わりや追加設定・ストーリーの付加とが重なっていることがわかる。
ウルドゥー語で「雄弁な、話が巧みな」という意味で辞書に載っているこの言葉。欧米の外国語表現紹介本・記事で「物語・劇の話運びが優れているために設定の非現実感を忘れ心から楽しみストーリーにしばしの間没入する」的な意味にまで発展している件については海外の翻訳関連情報交換掲示板などでもやり取りがあり、「まるで~」「雄弁な」といった意味は持つが物語に魅了され引き込まれた感情・様子そのものを形容するのに使われるわけではないという回答が寄せられている。
欧米における翻訳困難語としての紹介と意味説明の変遷
David Shariatmadari著『Don’t Believe a Word: The Surprising Truth About Language』では goya がインターネット上で流布している”翻訳できない外国語の言葉”として本来の意味から離れた内容と間違った品詞で紹介されている、追加のストーリー付けが行われた事例だと指摘している。
GOYA(goya)をこうした意味で紹介することについてはGoogleブックス検索では『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』よりも先行の書籍群で多数掲載されていたことは確認できなかったが、Google検索の「before:」による日時指定検索で見る限り、原作者エラ・フランシス・サンダース氏のイラスト付きでNPRウェブページで紹介された頃から転載が増加したようにも見受けられた。
なおNPR『Parallels MANY STORIES, ONE WORLD』というページでは記事本文は同社のライターが担当していたようで、その時点では「This particular Urdu word conveys a contemplative “as if” that nonetheless feels like reality and describes the suspension of disbelief that can occur, often through good storytelling.」という具合に、” ” で囲むことによってウルドゥー語では as if(あたかも、まるで、いわば)という語義であろうことがある程度察せられるようになっており、また「巧みな語りによって起きたりする不信の停止により、現実であるかのようにリアリティーをもって感じられる」と理解できるような説明となっていた。
絵本に収録されたイラストでは説明文が短かったこと、また日本語版では語義説明の本文が和訳により「信じ切ってしまうこと。すばらしい語りを聞いて、「まるで」ではなく、全ての真実に感じられることを言う。」と変化したことから、日本では GOYA の意味が「嘘松」「釣り」「ネタ創作」であるといった理解も生じた。また他のネット情報経由らしき「いい話ではあるが信じられないという気持ち」「いい話だけど本当の事だとは思えない」といった紹介投稿も見られる。
ケース分類
ウルドゥー語では「まるで、いわば、あたかも、~かのように」「雄弁な、弁が立つ、言葉巧みな」といったシンプルな意味で使う単語が、翻訳のできない外国語として紹介された時点で本来に無いストーリー性を与えられ広まったケース。
また『翻訳できない世界のことば』日本語版では英語原作が明言していない「フィクションだとわかってはいるものの話に引き込まれて没入するだけでなく、それがフィクションだということすら忘れて全ての真実に感じられ本当のことだと信じ切ってしまう」と誤解され得る強めのニュアンスが加わっている。
SGRÌOB(スグリーブ)【ゲール語】
実際の表記と発音
sgrìob ないしは sgriob [ Wiktionary | LearnGaelic ]
ゲール語辞典・学習書・発音解説記事によると「ìo」部分の発音は長母音 ī(イー)である /iː/ で間違いない模様。
問題なのは g と b の発音で、多くの辞書やサイトでは /s̪kɾʲiːp/(スクリープ)/ [skriːp](スクリープ)となっているもの、/sgrʲiːb/(スグリーブ) 、skrēbb(リンク先書籍冒頭にēは英語seemのeeの発音と明記されているのでスクリーッブを意図しているかと)なども混在。
スコットランド北東部にある Cairngorms National Park(ケアンゴーム国立公園)のゲール語紹介ページには『翻訳できない世界のことば』英語原作の画像つきで sgrìob にスクリーブと読ませることを意図しているであろう「skreeb」という英字表記が使われている。
スコットランドのゲール語としてはどうなのかを専門書やまとめ記事で確認してみると、
『Memoirs of the Geological Society of Great Britain』
(1911年 Geological Survey of Great Britain 刊)p.106
pronunciation nearly equals “skreep”
“スクリープ”とだいたい同じ発音
『The Gaelic-English Dictionary』p.xxvi
Colin Mark 著
2003年 Routledge 刊
sgrìob /skrʲiːp/ trip
sgrìob スクリープ 旅
*「rʲ」は英語の tree の r に近いという。
unilang
Pronunciation Guide for Scottish Gaelic (Gàidhlig)
-
- B = “b” as in “bat” at the start of the word, and becomes like “p” in the middle or end of a word
B = 語頭では bat の b、語中と語末では p に類似 - G = “g” as in “goat” at the start of a word, and “k” as in “kettle” in the middle or end of a word
G = 語頭では goat の g、語中と語末では kettle の k のようになる
- B = “b” as in “bat” at the start of the word, and becomes like “p” in the middle or end of a word
Cambridge University Hillwalking Club
The Unofficial Guide to Pronouncing Gaelic
B, D and G; as in English only at the beginnings of words. Elsewhere they sound like English P, T and C respectively.
B、D、G は単語の始めに来る時だけ英語のような発音に。他の位置では英語の P、T、C のように聞こえる。
スグリーブと読めそうなつづりなのにスクリープ的な発音をされるのも上記が理由である模様。LearnGaelic のサンプル音声が発音表記通りのスグリーブそのものといった感じではなく「スクリープ」にしか聞こえないような読み上げをしているのも、実際の発音がスグリーブではなくスクリープに近いかららしいと思われる。
そのため『翻訳できない世界のことば』に掲載されている g と b がつづりそのままな「スグリーブ」という読みガナが適切なのはどうかは、ゲール語単語のカタカナ表記という日本国内ゲール語学界の慣例(例:つづりと発音がずれている場合にカタカナ表記をどうするか)などについても調べる必要があるものと思われる。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
ウイスキーを一口飲む前に上唇に感じる、妙なムズムズする感じ。
実際の意味
sgrìob は中期アイルランド語 scrípaid(ひっかく、こする)が語源のスコットランド・ゲール語で、動詞や名詞として使用。
動詞としては「ひっかく、こする」、名詞としては「ひっかき、こすり」「散歩、歩き」「(小)旅行」「畝間、あぜ溝」といった語義があるという。たとえば名詞としての意味は
-
- (short) walk, stroll((短い)散歩)
- excursion, jaunt(小旅行、遠足)
- journey, trip(旅)
- score, scrape, scratch(こすり、ひっかき)
- furrow, line (in agriculture)((農業の)畝間、あぜ溝)
- track(わだち)
- dash (in typography)((タイポグラフィの)ダッシュ)
など。
英語圏で紹介されている語義の出所と本来の意味
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「ムズムズする感じ」の部分は itchiness(かゆみ、かゆさ、掻痒感、むずむず)という名詞で、sgrìob の基本的な語義である「ひっかき、こすり」と結び付けての表現だったものと推察できるような語が使われている。
元々「ウイスキーを一口すすって飲む直前のかゆみ・むずむず」という使い方は外国語表現雑学本の人気書籍『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズの記述「the itchiness that overcomes the upper lip just before taking a sip of whisky」(ウイスキーを一口飲む直前に上唇をおそうかゆみ)などを通して広まったものだが、大元の情報自体はゲール語辞典に上記の基本語義とあわせて掲載されているもので
『A Gaelic Dictionary』
Robert Archibald Armstrong 著、1825年刊
an itching of the lip, superstitiously supposed to precede a feast, or a kiss from a favourite
ごちそうや好きな相手からのキスの前よりも先に起こると迷信的に考えられている唇のかゆみ
└ sgriob dibhe:(ウイスキーを一口)飲むことの(前兆として感じる唇の)かゆみ
└ sgriob poìg:キス(ができること)の(前兆として感じる唇の)かゆみ
『A Pronouncing Gaelic Dictionary』
Neil McAlpine 著
1845年 MacLachlan, Stewart 刊
itchiness about the lip, portending a kiss, or a swig of whisky
キスやウイスキーを一口飲むことの前兆である唇のかゆみ
『A Dictionary of the Gaelic Language』
Norman Macleod、Daniel Dewar 著
1831年 Bohn 刊
an itching of the lip, superstitiously supposed to potend a kiss, or a dram
キスやウイスキーを一口飲むことの前兆であると迷信的に信じられている唇のかゆみ
という風に、情報源とされる1825年刊行の辞書では上唇にまで限定はされていなかったこと、またウイスキーをすする以外にもごちそうやキスなどの前に起こる前兆だと迷信的に考えられていた各種唇のかゆみ・むずむずを表すと定義されていたこと、「飲むこと」「キス」といった単語を添えることで何の前兆の唇のかゆみなのかを表すことなどがわかる。
外国語表現雑学本・記事で各種辞書に書かれていたような唇(lip)ではなく特に上唇(upper-lip)に限定した説明文に置き換わっている理由だが、雑学本ではない資料を書籍検索で探したところケルト研究関連書籍に
『Lochlann: A Review of Celtic Studies 2』
Alf Sommerfelt 著
1962年 Oslo University Press 刊
itchiness of the upper lip foretold a dram
上唇がかゆくなるのはウイスキーを一口飲めることの前兆
や手がかゆくなるとお金が手に入ることの前兆とされていたことなどが紹介されており、欧米で現在雑学ネタとして出回っている sgrìob(sgriob)の説明「ウイスキーを飲む(直)前に上唇がむずむずする感覚」は意味合いやシチュエーションこそ間違ってしまっているものの、元となったゲール語辞書やケルト文化紹介本・記事の要素が残っていることがわかる。
唇のかゆみをウイスキー・キス・ごちそうの予感と考える古い迷信
気になるのが「前兆」「迷信」という説明文だが、英語で書かれたゲール人・アイルランド・スコットランドの迷信に関する色々な書籍を英語キーワードの入力によりGoogleブックス検索で参照してみると、身体のかゆみが物事の前兆であるという民間信仰の一種と関係していることを紹介している書籍が複数見つかった。
アイルランドとスコットランドとではかゆみの部位と前兆の内容との結び付けに差異があるらしいものの、鼻や口など体の部位がむずがゆくなるのは何かの予兆だと考える風習自体は共通しており、「鼻がむずがゆくなるのは手紙をもらえる前兆」など色々とあるうちの一つが「唇がかゆくなるのは近々ウイスキーを一口飲めることの前兆」だといった情報が得られた。
この手の迷信はゲール語圏に限らず英語圏などにも古くからあったとのことで、14世紀にチョーサーが書いた『カンタベリー物語』の粉屋の話(粉屋の物語、The Miller’s Tale)にも
My mouth hath icched al this longe day;
(=My mouth has itched all this long day;)
この長い一日のあいだずっと口がむずかゆかった
That is a signe of kissyng atte leeste.
(=That is a sign of kissing at the least.)
これは少なくともキスの予兆だ
というくだりがあり、「口や唇がかゆいのはキスをできることの前兆」という考えが西暦1300年代には既に存在していたことがわかるという。
「ウイスキーを一口飲む前に上唇に感じる、妙なムズムズする感じ。」という説明文が理由で日本でも
- 「強いアルコール濃度のせいでウイスキーのグラスを口に近付けた瞬間唇がピリピリすること」
- 「度数の高いウイスキーを口に含む際に上唇が感じる特有の感触」
- 「ウイスキーを飲み慣れていない人がグラスを口につけた際うぇっとなること」
- 「本格的に酔いが回ってきて唇の感覚が怪しくなりだした状態」
といった誤解がされているようだが、色々と調べた結果ウイスキーを手にしてもいない状態で使っていた言葉で、現代であれば「なんか唇がかゆいな~」「乾燥してるみたいだからリップクリーム塗らないと」「アレルギーかな」的に普通に唇がかゆくなっただけの事象として片付けられてしまいそうな出来事を「今日は唇がむずがゆいから、きっと近々ウイスキーを飲めるに違いない!」として期待をもって受け止めるというゲールの迷信のことだとわかった。
なお「右手がかゆくなるのはそのうちお金が手に入る前兆」「左手がかゆくなるのはそのうちお金を失う前兆」「鼻がかゆくなるのはそのうち喧嘩が起こる前兆」のような種々の「◯◯がかゆいと~の前兆・しるし」というのは昔は世界各地にあった迷信だとのこと。
日本に関しても同様で、エドワード・S・モースが著書『日本その日その日』において「右耳がかゆければいいことを聞く」「頭がかゆいのは幸福のしるし」といったかゆみに関連した古い迷信があることを挙げている。
体の各部位のかゆみと特定の事象とを結び付ける迷信はヨーロッパ各地や彼らの移民先であるアメリカなどでも見られたことから英語圏では迷信百科(The Encyclopedia of Superstitions)的な本 [ 一例 ] にまとめて掲載されるなどしており、ネット記事なども存在。
それらの記事を見る限り、sgrìob については翻訳困難語紹介雑学本を通じてウイスキーとの関連性だけがクローズアップされただけで、迷信としての唇のかゆみ自体はキスの前兆として扱われることの方が一般的だったらしいように見受けられる。
翻訳困難語としての紹介とかゆみの理由の誤解、語義説明の変遷
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では感じる唇のかゆみが「before taking a sip of whiskey」(ウイスキーを一口飲む前に)となっており、見開き反対側のミニストーリーからしても、原作者氏が英語圏の翻訳困難語ブームで発生していた誤解「ウイスキーのグラスを手に持って飲む直前の状態」をそのまま継承して絵本を作成した可能性が高いものと思われる。
英語記事によっては「right before sipping a glass of whisky」「just before taking a sip of whisky」のようにグラスに入ったウイスキーをちびりと飲む直前の現象だと誤解していることが明確にわかる説明文になっているものも見られる。これは多くの本・記事の元ネタとなった有名雑学本『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズがウイスキーを飲む直前の唇のむずむず感だと書いていたことが原因だと思われる。
また sgrìob の本来の定義からすると日常生活で乾燥なりの理由で普通に感じるかゆみを何かの前兆だと判断するという迷信のことを表していたため、普通のかゆみとは違う特殊な感覚を指していたとは考えにくい。
しかしながら『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では元ネタには存在しなかった追加要素である「特有の」「妙な」という形容詞によってかゆみの性質・種類を特殊化した the peculiar itchiness(特有のかゆみ/妙なむずむず)という表現を使っており、ウイスキーが唇の近くにあったり飲んだりする状態下でのみ生じるような独特の感覚だと受け止められる説明になっている。
今では多くの人が忘れてしまったようだが昔は英国や米国などにも色々な種類の「◯◯がかゆいからそのうち~が起こるかも」という迷信があったとか。sgrìob(sgriob)も毎日は味わえないキス・ウイスキー・ごちそうにそのうち恵まれるという期待を示すラッキーサインとしての唇のかゆみが本来の意味だった訳だが、その手の迷信が各国ですっかり廃れてしまったこともまた誤解が修正されないままになってしまった理由の一つだと言えるかと。
なお、翻訳できない外国語表現ブームとその真実を指摘・検証した本『Don’t Believe A Word: The Surprising Truth About Language』はこの sgrìob について取り上げ「ゲール語にはウイスキーを飲む前に感じる唇のかゆみ・むずむずを表すためだけのたった6文字の単語があるなんて驚きだ」といった記事が書かれた件などを紹介し翻訳困難語ブーム特有の言説を否定。
結局のところ sgrìob(sgriob)自体は「ウイスキーを飲める/キスができる/ごちそうを食べられるという出来事が起こる予兆とされる唇に感じられるかゆみ・むずむず」だけを表す特別な単語ではなく、基本語彙「ひっかき、こすり」の発展形として扱うのが適切だと思われる。
ケース分類
昔の日本にもあった吉兆の迷信「右耳がかゆくなるのは良いことを聞く/いいことが起こる予兆」類のスコットランド版。『翻訳できない世界のことば』はウイスキーを飲む直前にだけ感じる特有なむずむずだと説明しているが、実際は日常生活でウイスキーが口元に無い時に唇に起こる普通のかゆみのことだとか。
sgrìob 自体は「ひっかき、こすり」「散歩、歩き」「(小)旅行」「畝間、あぜ溝」という意味で使われている単語だが、「唇がかゆくなったから近々好きな相手とキスができるだろう」「唇がかゆくなったからそのうちウイスキーを一口飲めるかも」と考えるスコットランドの古い迷信に関して「(唇などの)かゆみ、むずむず」を表すこともしていたという。
1800年代の辞書にも掲載されていたこの語義が面白い単語として雑学本などで取り上げられたようだが、基本語義やスコットランドの迷信であるという情報が抜けた紹介に置き換わり「近々誰かとキスできるとかウイスキーが飲めるといったことの前触れとされる(上)唇のかゆみ」→「ウイスキーを飲む時、口に含む直前に上唇がむずがゆくなること」と変化、アルコールやウイスキー成分が引き起こす独特の感覚だという誤解が広まった。
『翻訳できない世界のことば』にはスグリーブという読みガナが載っているが、ゲール語辞書類には「スクリープ」という発音が示されていることが多い。発音解説によると、単語のつづりに含まれる語頭以外の g(グ音)は英語の c / k(ク音)、b(ブ音)は英語の p(プ音)と同じ感じで読まれるといいスグリーブは原音発音とずれたカタカナ表記である可能性も。
実際の語義が少し違う/非ネイティブ創作設定・追加解釈が含まれている/解釈について誤解し得る例
GLAS WEN(グラスウェン)【ウェールズ語】
実際の表記と発音
glaswen / glas wen / glas wên / glas-wên 等 [ Forvo ]
*Forvoのアップロード済み音声ファイルはウェールズ語語彙を多数登録しているユーザーによって作成されたものだが、ウェールズ語ネイティブによる吹込みかどうかは不明。
現在流通しているオンラインウェールズ語-英語辞典だと glaswen のようにつなげ書きしているとの印象。
glas wen と分かち書きをして「blue smile(青いほほえみ)」という直訳を添えているものは人気翻訳困難外国語紹介本を複数刊行した元BBCコメディー番組スタッフ著述家による『The Meaning of Tingo』(2005年刊)と『I Never Knew There Was a Word For It』(2010年刊)の特徴で、年月日指定検索やGoogle書籍検索などで比較する限り、同様の表記や説明文をしている書籍・ネット記事は基本的にこれらの本からの引用や孫引きであるものと思われる。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
直訳すると「青いほほえみ」。皮肉であざ笑うようなほほえみを指します。
実際の意味
意味が多様すぎてかなり扱いが難しそうな glas の語義
1800年代前半の古い辞書に「glas-wén(grin / ニヤリと笑う)」「glàs wen(half a smile、faint one、forced one)(半笑い、薄笑い、無理矢理の作り笑い)」などと掲載されていたりする語。
現代の詳しいオンライン辞書だと
GPC (Geiriadur Prifysgol Cymru)
A Dictionary of the Welsh language
└ glas(青い;かすかな、わずかな)+ gwên(微笑、ニタニタ笑い)
faint or sickly smile, smirk, simper, derisive smile.
かすかなほほえみもしくは生気の無いほほえみ、ニヤニヤ笑い、ニタニタ笑い、嘲笑的な微笑
との語義説明になっている。
各種ウェールズ語オンライン辞書によると、glas の意味としては
Geiriadur
Geiriadur Ar-lein Cymraeg-Saesneg / Saesneg-Cymraeg
Welsh-English / English-Welsh On-line Dictionary
-
- sky n.(名詞:空)
- blue adj.(形容詞:青い)
- pale adj.(形容詞:青白い、蒼白な)
- grey adj.(形容詞:灰色の)
- green adj.(形容詞:緑色の)
- young adj.(形容詞:若い)
- raw adj.(形容詞:未熟な)
Gweiadur
A Welsh-English / English-Welsh on-line dictionary
-
- blue(名詞:青色)
- break (of day)(名詞:夜明け)
- azure(形容詞:空色の、紺碧の)
- green(形容詞:緑色の)
- slate grey(形容詞:濃青灰色の)
- grey(形容詞:灰色の)
- silver(形容詞:銀色の)
- raw(形容詞:未熟な)
- complete(形容詞:完全な)
- utmost(形容詞:最大の、極大の)
- slight(形容詞:わずかな)
GPC (Geiriadur Prifysgol Cymru)
A Dictionary of the Welsh language
-
- blue, azure, sky-blue, greenish blue, sea-green
青の、紺碧の、空色の、緑がかった青の、海緑色の - green, grass-coloured, bluish green, verdant; unripe (of fruit); covered with green grass, clothed with verdure or foliage
緑色の、草色の、青がかった緑の、青々とした;(果物が)熟していない、まだ青い;緑の草で覆われた、青草や群葉をまとった - light blue, pale-blue or pale-green, greyish-blue, slate-coloured, livid, pallid, pale; ?transparent (of water, glass, rain), crystal grey (of frost and ice), grey
ライトブルーの、薄青もしくは薄緑の、グレーがかった青の、石板色の、青ざめた、青白い、蒼白な;(水・ガラス・雨が)透明な、(霜・氷が)クリスタルグレーの、グレーの - silver or silver-coloured
銀色の、銀色をした - greyish white, steel-coloured, iron grey
灰色がかった白の、鋼鉄色の、鉄灰色の - grey, holy (of clergymen or clerical garb)
灰色の、聖なる(聖職者や法衣の) - wan, pallid, causing pallor and loss of life (of death, &c.); mortal, deadly
青ざめた、生気の無い、顔面蒼白や生命の喪失(死)を引き起こすような;致命的な、致死的な - slight, partly, half, cool; faint, feeble; jeering, scornful, sarcastic
かすかな、いくぶんか、半~、そっけない;かすかな、弱々しい;あざけるような、さげすむ、皮肉めいた - early, dawning, grey (of dawn or morning); young, raw, immature; new, fresh; untamed, not broken in
早い、夜明け(の)、(夜明けや朝の)薄暗い;若い、未熟な、未成熟の;新しい、フレッシュな;飼いならされていない、未馴致の - thorough, complete, utter
完全な、全部の、全くの - tough, fit
丈夫な、健康な - extraordinary; fine (ironically)
異例の;(皮肉的に)見事な - bright, refulgent
明るい、光り輝く - break or dawn (of day); verdant growth, greenery, grass-land; a green; blue colour, blue dye; blue material; the blue or azure (of the sky); pallor; fig. death
(日中の)夜明け、あけぼの;新緑の生長物、青葉、草地;緑;青色、青色染料;青い素材;(空の)青もしくは紺碧;蒼白;【比喩】死 - vein of light-coloured slate
明るい色をした粘板岩の石目 - woad (the plant), Isatis tinctoria
(植物の)ホソバタイセイ*
*細葉大青。インディゴ染料の材料として広く用いられた欧州原産の植物。
- blue, azure, sky-blue, greenish blue, sea-green
のように青色以外の色を表したりと非常に幅広い語義を持つという。
ウェールズ語以外の言語で対応する訳語は見つけらるようだが、glas の語義があまりに多すぎて充分に慣れていないと適切に翻訳できないという意味で難しい事例であるようだとの印象。
翻訳困難語紹介本・記事では glas wen の訳が「blue smile(青いほほえみ、青い微笑)」として説明されているが、ウェールズ語辞典を見る限り glas が持つ複数の意味のうち「かすかな、いくぶんか、半~、そっけない;かすかな、弱々しい;あざけるような、さげすむ、皮肉めいた」が適用されている事例で、「嘲笑的なほほえみ、冷笑的なほほえみ、薄ら笑い」と直接訳すべきケースであるようにも見受けられる。
glas をどのように訳すべきなのかに関連して glas wen と同じ語義を使った複合語をウェールズ語辞典で探してみたところ、glas wen 以外にも以下のような表現が見つかった。
- glasresawu(glas+resawu)
to welcome coldly, entertain half-heartedly
冷淡に迎える、いい加減にもてなす - glaswawd(glas+gwawd):
affected praise, satire
不自然な称賛、当てこすり - glaschwerthin(glas+chwerthin ):
to laugh quietly or privily, simper, smirk, smile feebly, pretend to smile; laugh sardonically (cynically or sarcastically)
静かにもしくはひそかに笑う、ニタニタ笑う、ほくそ笑む、かすかに笑う、笑うふりをする;小馬鹿にしたように笑う(冷笑的もしくは皮肉的に)
ウェールズ語の glas 自体はケルト祖語(Proto-Celtic)の glastos(緑、青)が語源だとといった説があるそうで、ネット上ではケルト系言語における色の概念について論じた『The Early Concept of the Celtic Colour Term glas in Welsh and Irish and its Later Semantic Diversification』などで情報を確認することが可能。ケルト語学専門ジャーナル『Journal of Celtic Linguistics』に掲載された上記論文では glas が元々持っていた語義やウェールズ語とアイルランド語の間にある共通点や相違点を扱っており、先行研究も複数挙げられている。
*参考サイト:論文冒頭に出てくるケルト諸語分類と専門用語については英語史研究家である堀田隆一先生の『hellog~英語史ブログ』内『#778. P-Celtic と Q-Celtic』に説明文あり。
同論文によると
- ケルト諸語に含まれるアイルランド語やウェールズ語が成立する前の古い時代、glas は青-緑-灰色をカバーする色合いを意味。また色の明暗をも示し、「明るい」「輝く」といった概念と結び付いていた。そのため現代における緑と青を違う色として切り分ける区別と合致しない部分がある。
- 「青」「緑」「灰」「明るい」「輝く」といったイメージは自然界に存在する海・空・草木の形容に glas が用いられる原因となった。
- ケルトの言語が古アイルランド語と古ウェールズ語などに分かれていくと、語義に差異が生じ古ウェールズ語では早い時期に「明るい色」「輝く色」という明暗表示の要素が失われていった。
- 顔面蒼白や死者の顔色の連想は glas が表す色合いから生まれた。
- 「透明な」という語義は「明るい」「輝く」という概念から派生した。
- ケルト語として元々含んでいた「青」「緑」「灰」「明るい」「輝く」からは「海」「空」「草木」といった自然だけにとどまらず「再生」「若い」といったイメージと結び付き人間の青少年や動物の幼体を表すに至った。
- glas は色々な比喩としても用いられ、普通よりも少ないこと・小さなことを表す縮小化・矮小化の用法が派生。特にウェールズ語で多用されることとなった。
glaswenu:(to) smirk 薄ら笑いを浮かべる、にやりと笑う
└ glas(少し、薄っすらであることを示す縮小化・矮小化用法) - ウェールズ語では glas を時間の概念にも使用。早い時間や初期といった表現で用いられている。
- 現代では「アイルランド語だと glas は緑、ウェールズ語だと glas は青」という風に分けられしばしば訳の際の誤解の原因にもなっているが、glas を緑と訳すようなケースはウェールズ語でも残っており、地名などがその代表例となっている。
とのこと。
青と緑を区別しないという部分については古い日本語でも同様で現代でも「青信号」という表現が残っているほか、若いことを「青」の字で表現する点もよく似ていると言えるが、「わずかな笑み、薄ら笑い、微笑、半笑い」(→あざけり笑い、冷笑)といった「わずか、薄ら~、微~、半~」という語義は日本語話者にはピンとこない用法だと言えるかと。
日本語の「青二才」という時に青い色をわざわざ思い浮かべないのと同様、おそらく glaswen(glas wen)についても青い色をイメージしながら使うのではなく直接「薄ら笑い、半笑い」=「小馬鹿にしたような笑い、冷笑」という連想で理解するような事例では…という気も。
英語圏の雑学本・翻訳困難語紹介記事では「ウェールズ語 glaswen / glas wen の直訳は blue smile(青いほほえみ)」と紹介されているが、
- The Meaning of Tingo』(2005年刊)や『I Never Knew There Was a Word For It』(2010年刊)よりも前の日付指定でGoogle検索しても glaswen / glas wen を「blue smile(青いほほえみ)」という意味・直訳だと説明している書籍やウェブ記事が見つからず、ウェールズ語の glaswen / glas wen という語を取り上げた雑学本やウェブ記事自体もヒットしない。
- ウェールズ語文法解説・辞典などでは青いほほえみという言い回しは登場していないように見受けられる
- glaswen / glas wen の glas は縮小辞的な用法「普通よりも少ないこと・程度が小さなことを表す縮小化・矮小化」である
- glaswenu:薄ら笑いをする、にやりと笑う
glasweniad:薄ら笑いをすること、にやりと笑うこと
glaswen:薄ら笑い、ニヤニヤ笑い
のように動詞でも名詞でも常に先頭に同じ語形のままくっついてただの形容詞「青い」として「青い笑いをする」「青い笑いをすること」「青い笑い」と表現しているのとは違う働きをしている
といった点をふまえると、「グラスウェンは青いほほえみ」という現在定番になっている説明文は雑学本著者がを広めただけで、glaswen / glas wen直訳はそのままな感じの「青い笑い」ではなく「少しの笑い、うっすらな笑い、かすかな笑い、薄ら笑い、ニヤニヤ笑い、ニタニタ笑い」とし、訳についてもウェールズ語辞書に載っている意味をそのまま転載して「smirk、simper(半笑い、薄ら笑い)」などと訳す方が適切であるようにも感じられる。
それについてはウェールズ語研究の専門家の見解がどうなっているかを別途詳しく調べる必要があるということで、今回はひとまずこれにて調べ物は終了とした。
欧米における翻訳困難語紹介本・記事として
この glas wen 自体は英語圏で人気を博し『翻訳できない世界のことば』も含めた多くの書籍・記事の元ネタになっている外国語表現雑学本『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズで紹介された表現の一つで、
『The Meaning of Tingo: and Other Extraordinary Words from Around the World』
Adam Jacot de Boinod 著
2005年 Penguin Books 刊
glas wen (blue smile), a smile that is insincere and mocking. In Welsh literature, glas is a colour that is somewhere between green, blue and grey; it also has poetic meanings of both youth and death.
不誠実であざける笑い。ウェールズ文学において glas はだいたい緑・青・灰色な色のことで、若さと死の両方を表すという詩的な意味も持つ。
と解説されていた。
過去の書籍や記事を検索してみるとこの glas wen を「blue smile」という直訳だとして一般に広めたもう一冊の雑学本としては上の『The Meaning of Tingo』(2005年 Penguin Books Limited 刊)と同じ作者による類似書『I Never Knew There Was a Word For It』(2010年刊)があり、
The Welsh for blue is glas, as in the expression yng nglas y dydd, in the blue of the day (the early morning). But it’s also used in the expression gorau glas (blue best), to mean to do one’s best, and, changing tack rather dramatically, it appears as glas wen (blue smile), a smile that is insincere and mocking. In Welsh literature, glas is a colour that is somewhere between green, blue and grey; it also has poetic meanings of both youth and death.
のようにウェールズ語の glas を含む複数表現の glas 部分を語義の違いにかかわらず全部 blue(青い)で揃えて直訳して説明。
glas が持つ多彩な語義を区別せずに全部青で統一した紹介を行ったこの本の説明が後続書籍・ネット記事のソースとなり、ウェールズ語界隈ではそれまで行われていなかったらしい「青いほほえみ、青い微笑」という語義解説が各国に流布したという可能性が考えられるように思われた。
なお glaswen / glas wen という表現は同書を引用・転載した翻訳できない世界の言葉系のサイトや書籍に多出である一方、ウェールズ関係の普通のサイトでの登場は少ないらしいとの印象。おそらくネイティブ話者が今でも日常会話で多用しているわけではない言葉が1800年代の古い辞書を通じて翻訳困難語紹介本により発掘され海外で有名になったという、他の語でも見られるパターンである可能性もあるように感じられた。
ケルト諸語における glas の意味が幅広く訳が難しいこと、元ネタとなった雑学本の作者が英国人でウェールズ語については参考資料にアクセスしやすい環境にあったことから、翻訳が容易ではない英語以外の単語を紹介する書籍に向いている語だとして着目され取り上げられたのでは、との印象。
『The Meaning of Tingo』作者の Adam Jacot de Boinod 氏はマレー語として実在しない pisan zapra(ピサンザプラ)を世界中に広めるきっかけになってしまった人物でもあるが、glas wen の項目についてはウェールズ語の辞書や書籍を参照したらしく比較的文字数が多く専門書の類で確認したとわかるような解説がついている形となっている。
ケース分類
ケルト諸語では元々 glas は青-緑-灰にまたがる広範囲な色や明るい色・輝きを意味。そこから「若い」「早い」「透明な」といった意味が派生。ウェールズ語では語頭に接頭し「程度が少ない、弱々しい、うっすらな~、半~」する機能も生まれたという。
翻訳困難語紹介本・記事では glaswen / glas wen の訳が「blue smile(青いほほえみ、青い微笑)」として説明されているが、ウェールズ語辞典や文法解説・論文などでは glas が持つ複数の意味のうち「かすかな、いくぶんか、半~、そっけない;かすかな、弱々しい;あざけるような、さげすむ、皮肉めいた」を直接適用し「かすかな笑い、弱々しい笑み」や「simper、smirk(薄ら笑い、ニヤニヤ笑い、ニタニタ笑い、嘲笑的なほほえみ、冷笑的なほほえみ)」という語義を載せている。
そのため「blue smile(青い微笑)」ではなく「薄ら笑い」として理解するのが適切なのでは、と思われる。
TÍMA(ティーマ)【アイスランド語】
実際の表記と発音
tíma(ティーマ)[ Wiktionary | Forvo ]
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
時間やお金があるのに、それを費やす気持ちの準備ができていない。
実際の意味
「tíma」自体は英語の「time」に対応し時間を意味する言葉で、慣用表現の中で用いる動詞ないしは名詞「tími」(時間)の文中での格変化形・活用形だとか。
元は単なる「時間」という意味なのでティーマ単体は「時間やお金があるのに、それを費やす気持ちの準備ができていない。」を表すために作られた語ではないらしく、否定表現で使われることによって動詞用法「しぶしぶである、気が進まない、そのような気になれない」を形成したり、肯定で使われることによって「たまたま~する」といった意味の表現を形成するとのこと。[ ソース1 | ソース2 | ソース3 ]
そのためティーマ単体で「時間やお金があるのに、それを費やす気持ちの準備ができていない。」というのは誤解を生じやすく、またアイスランド語辞書の定義からしても本来の「否定語と組み合わせて”しぶしぶする、気が進まないがやる”になる」(≒そういうことをしたくないという意向が自分的には固まっていたのに仕方がなくそうする)との間にニュアンスのずれがあるように思われる。
ケース分類
ティーマ単体では単に「時間」という意味で掲載されているニュアンスは否定文の一定表現の中で表れることに言及されておらず、誤解を生じやすい。
またアイスランド語辞書では否定語とtímaとを一緒に使った時のみ「しぶしぶである、気が進まない」という意味になるとしており、tíma単体の語義が「時間やお金があるのに、それを費やす気持ちの準備ができていない。」であるというのは誤りに近いものと考えられる。
UBUNTU(ウブントゥ)【ズールー語】
実際の発音
ubuntu(/uɓúːntu/、ウブーントゥ)[ Wiktionary | isiZulu.net | Forvo ]
英語圏では /ʊˈbʊntuː/(ウブントゥー)という発音、日本語ではパソコンのオペレーティングシステム Ubuntu はウブントゥとカタカナ表記されているものの、ズールー語では途中を長く伸ばす「ウブーントゥ([uˈɓuːntu])」なのだとか。
そのため『翻訳できない世界のことば』では実際のズールー語発音ではなく、外国語由来単語の長母音「ー」を抜くことを慣用的に広く行ってきた日本語カタカナ表記の慣例的つづりだと思われるウブントゥが読みガナとして掲載されている形となっている。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
本来は、「あなたの中に私は私の価値を見出し、私の中にあなたはあなたの価値を見出す」という意味で、「人のやさしさ」を表す。
実際の意味
ubuntu はズールー語の金言「Umuntu ngumuntu ngabantu」(Person is a person through other persons / I am because we are / 人は他の人がいるからこそ人である / 自分は自分たちがいてこその自分である)が由来で、他人あってこその自分という発想と結び付いた人道的精神・人間らしさ・社会の絆を表す名詞なのだとか。
周りがあるからこその自分という気持ちが同情・赦し・協調・他者の受容・友愛・優しさを生むということで、ズールー語のオンライン辞書などには ubuntu の語義として「思いやり、人間性」「人類、人間」「公共心、連帯感」などが掲載されている。
ケース分類
「あなたの中に私は私の価値を見出し、私の中にあなたはあなたの価値を見出す」が ubuntu の由来になった言葉の一般的な訳「人は他の人がいるからこそ人である」「自分は自分たちがいてこその自分である」と異なっており、少々わかりにくい可能性あり。
GURFA(グルファ)【アラビア語】
実際の表記
غرفة [ ghurfa(h) ] [ グルファ ]( Wiktionary日本語版 | Wiktionary英語版 | Forvo )
文語アラビア語には g の音は存在せず、のどひこ(のどち◯こ)の上の柔らかい部分(軟口蓋/口蓋垂)に舌の奥を接近させて出すこすれた音を出すという、英語や日本語の「グ」よりも奥まった感じの発音をする غ(gh)を含む「GHURFA」ないしは語末の黙字的な h を含む「GHURFAH」がアラビア語発音に即した標準的な英字表記。
GHURFA だとアラビア語を知らない人はグフルファと読んでしまいやすいこと、ラテン文字転写の方式によっては ghurfa ではなく ḡurfa になっている場合もあることからか、英語圏では先行して刊行され人気を博した外国語表現紹介本『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズでも gurfa と書かれていた。『翻訳できない世界のことば』の GURFA 表記もそれら元ネタの方式を踏襲した形となっている。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
片方の手の平にのせられるだけの水の量。
*見開き反対側には「はっきりしない量だけれども海辺で砂の城の周りにお堀を作るとなると意味をなす」との説明文あり。
実際の意味
アラビア語での語義と海外における解釈との違い
水が貴重なアラブ世界ならではの特別な概念ということはなく、実は翻訳可能なシンプルな単語で日本語における「ひとすくい」、英語の handful、scoop、ladleful、spoonful に該当する。
手やひしゃくといった道具を川・泉・井戸・水道水などに入れてすくい取った水1回分の分量だけでなく、料理用おたまで取った汁料理の1杯分を表したりもする。液体が集まっている場所に手や道具をバサッと入れてすくい取る動作を伴うことが必須なので、空から降ってきた雨やごく少量の水滴を受けて広げた手の平に集めてためたものはグルファとは呼ばれない。
動詞に含まれる文字群(語根)を1回分の動作で得られる分量を表す語形に当てはめて作っただけの名詞であるため語源に関してアラブ世界特有のストーリーは一切無く、アラビア語の辞典・書籍にも
- 渇水、水不足の中手で飲み水をかき集める
- ごくわずかな水を意味する
といった定義は全く載っていない。
アラビア語は全く同じ語形 ◯u△◇a(h) にあてはめた1回分を示す単語が多数あり、素材の形状に応じて異なる「ひとすくい」「片手の平1杯分」が存在し、「砂ひとすくい」「麦ひとすくい」のように表現。
- غُرْفَة
[ ghurfa(h) ] [ グルファ ]
【名詞・上の動作1回分で得られる量を示す語形・女性扱い】
غَرَفَ [ gharafa ] [ ガラファ ](水などを手を使ってすくい取る、水などを手やひしゃくを使ってすくい取る;水やスープをすくって口にする)行為1回分から得られた分量 - حَفْنَةٌ
[ ḥafna(h) ] [ ハフナ ]
【名詞・動名詞に1回分であることを意味する ة を足したもの・女性扱い / 名詞・上の動作1回分で得られる量としても使用】
(麦・ナツメヤシの実・砂・銀貨などを)(片手もしくは両手の平で)すくう行為の1回分(から得られた分量);少数、少人数、小集団 - حُفْنَةٌ
[ ḥufna(h) ] [ フフナ ]
【名詞・上の動作1回分で得られる量を示す語形・女性扱い】
(麦・ナツメヤシの実・砂・銀貨などを)(片手もしくは両手の平で)すくう行為1回分から得られた分量
*1すくい量としての意味ではあまり使われない模様。上のハフナの方がメジャーとの印象。 - كَبْشَةٌ
[ kabsha(h) ] [ カブシャ ]
【名詞・動名詞に1回分であることを意味する ة を足したもの・女性扱い / 名詞・上の動作1回分で得られる量としても使用】
(片手の平で取った)(米や豆などの)ひと握り、ひとつかみ1回分(から得られた分量);鍋から料理をすくい取る金属製ないしは木製の器具 - كَمْشَة
[ kamsha(h) ] [ カムシャ ]
【名詞・動名詞に1回分であることを意味する ة を足したもの・女性扱い / 名詞・上の動作1回分で得られる量としても使用】
(片手の平で取った)(米やナッツなどの)ひと握り、ひとつかみ1回分(から得られた分量) - قَبْضَةٌ
[ qabḍa(h) ] [ カブダ ]
【名詞・動名詞に1回分であることを意味する ة を足したもの・女性扱い / 名詞・上の動作1回分で得られる量としても使用】
(片手で取った)(金・ナツメヤシの実・砂・塩などの)ひと握り、ひとつかみ1回分(から得られた分量) - قُبْضَةٌ
[ qubḍa(h) ] [ クブダ ]
【名詞・動名詞に1回分であることを意味する ة を足したもの・女性扱い】
(片手で取った)(金・ナツメヤシの実・砂・塩などの)ひと握り、ひとつかみ1回分から得られた分量
のように何種類もありグルファはそうしたシリーズの一つで水や汁物を手や道具ですくい取った時に使う表現であるだけだったはずが、翻訳の難しい単語として「砂漠ならではの発想」「たったひとすくいの水を大事に飲む」という解釈をつけられてしまったものだったりする。
むしろ実際のアラビア語の資料・辞典・専門書からは
- まとまった量の水がある場所からすくい取る時に用いられている [ 典型的な用例:イスラームの聖典クルアーンに登場する川で皆が水を飲むシーン ]
- 飲用にできる真水かどうかは問わないため、海の塩水や鍋のスープを手や道具ですくったものもグルファと呼ばれる
- きれいな水でも汚い水でも手やひしゃくなどですくえばグルファとなるので、グルファという単語を多用する宗教書の礼拝前洗浄項目には「便所の水」をすくい取るといった描写も出てくる
*便所用の水というのは礼拝前の清めに使っても良いかどうかはっきりしない清潔さを欠いていそうな水の例として登場する。 - 手に取った水以外の水が無く手でかき集めないと片手にたまらないような極度の渇水状況で使っている事例が見当たらない
- 辞書の定義としてもすくい取る動作をして手に取った水でなければグルファとは呼べないと明記されている [ ソース ]
- 渇水や水不足に悩まされていたアラブならではの環境から生まれた特殊な語であることを示す記述・考察は存在せず、むしろアラビア語にある動詞に含まれるアルファベットのセット(語根)を特定の語形に当てはめて作っただけの単純な由来である
ことが理解でき、翻訳できない外国語表現紹介で登場するような「雨水を手で受ける」「一定量の水すら手に入らない状況でなんとか手のひらにかき集めて入れた」といった意味説明・状況描写は誤りであることがわかる。
『翻訳できない世界のことば』ページ見開き反対側には「はっきりしない量だけれども海辺で砂の城の周りにお堀を作るとなると意味をなす」という説明文がついているが、アラビア語のグルファの使用シーンとしてはずれており、原作者氏がグルファの本来の意味や用法を確認せず欧米で出回っている雑学本やネット上のブログ記事のみを参考にイラストや文章を作成したことが影響しているものと推察される。
「グルファはアラビア語の言葉=砂漠だらけのアラビア半島で生まれた特殊な意味」という先入観が生んだ誤解
そもそもグルファという語を形成する動詞自体がアラム語・シリア語・ヘブライ語といった先に使われていた同族言語から引き継いだものから派生したという。[ Johann Buxtorf、Bernh Fischer 著 『Lexicon Chaldaicum, Talmudicum et Rabbinicum』第1巻 p.246 ]
グルファの元になったガラファ(すくう、すくい取る)という語がアラブ人独自の概念・動作から誕生した動詞ではないことも確認できるためアラビア半島ならではの厳しい環境が生み出した言葉だと解釈するのは不適切であるはずだが、翻訳できない外国語表現として紹介されたことにより「翻訳できない言葉として紹介されているからその土地ならではの環境が関係しているはずだ」→「砂漠ならではの言葉」というエキゾチックなイメージに基づく想像による解説が生まれ「水が貴重な地域特有」「降雨が少ない土地で片手に乗せることができたごく少量の水」「やっと手に入れたわずかな水を大切そうに飲む砂漠の民」という創作ストーリーが付加されていった形となっている。
また飲用にできない海水や汚れた水も手や道具ですくえばグルファとなるが、海外での紹介記事では「砂漠」=「飲み水が無い、渇水」というイメージがあるせいか人が飲める真水を必死で手に集めるイメージが強めで、アラビア半島を取り囲む海やアラビア半島のすぐ外にある大河川や湿地帯に行けば岸辺や船上からグルファと呼べるような量は取りたい放題であったという環境が想定されていないように見受けられるものが多い。
アラブ人たちは大昔から人と家畜が生きていくための水源を部族で確保・守備、また他部族から戦争で略奪するということもしていた。湧き水・地下水脈を掘り出した井戸・小川なりの水源を持っていたためグルファという語はそうした水が集まっている場所から手ですくう際に使う語だと考えるべきケースだが、翻訳困難語ブームで紹介されるグルファ考察では「水が全く無い砂漠をさまよい歩いた末にようやく手に入れた手のひらたった一杯の水を呼ぶためにグルファという語が生まれた」といった創作ストーリーが正解同然に扱われてしまっている状態となっている。
英語圏における紹介事例と意味説明の変遷
多くの外国語表現紹介本の元ネタなった人気雑学本『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズでは「the amount of water scooped up in one hand」(片手ですくった水の量)と正確な説明がされていた。
アラビア語学習者の間で定番の辞書『A dictionary of modern written Arabic』では「the amount of water scooped up with one hand」となっていることから、『The Meaning of Tingo』(2005年刊)説明文の直接の元ネタはそうしたアラビア語辞書類で、前置詞 with を in に書き換えただけの違いのみとなっている。
欧米での翻訳困難語紹介本・記事では gurfa という表記と前置詞 in を使ったバージョン「the amount of water scooped up in one hand」が出回っていることから、英語圏での元ネタはおそらく『The Meaning of Tingo』だと推察される。
それが『翻訳できない世界のことば』の原作『Lost in Translation』では「The amount of water that can be held in one hand」(片手で持つことのできる水の量、片手に入れられる水の量)に変化。
さらに和訳によって「手」が「手の平」に、「持つ、入れる」が「乗せる」に置き換わって「片方の手の平にのせられるだけの水の量」となり、英語版と同じようで微妙に違う感じの説明になっている。これについては手の平を広げている絵本のイラストが和訳に影響した可能性も考えられる。
「ひとすくい」という意味はほぼ死語に近く「部屋」という意味でばかり使われているグルファが欧米で有名になった理由とは?
欧米では外国語表現紹介の雑学本に先立ちイスラームの聖典クルアーン(コーラン)に登場する語彙としてグルファを掲載している専門書が複数出回っていた。
今のアラブ世界ではひとすくいの水という意味では日常的に使用せず、宗教書で礼拝前に右手で水をすくって口に含んだり手足にかけたりする身体洗浄に必要な水量として登場する程度なので、宗教用語に近い扱いとなっている。
現代でもグルファという語が現役で使われ得るほぼ唯一のシチュエーションの実例~かつて預言者ムハンマドも使っていたとされる井戸で礼拝前の洗浄をしていると思われる男性(サウジアラビアのマディーナ(メディナ)にある有名な井戸)
現代は「部屋」という意味でしか使わないグルファが1400年近く昔の聖典がもたらされた時期の古典的語彙だった「ひとすくいの水」という意味で広まったのも、英語などで書かれた宗教関連の資料や語彙集が元ネタだったためだとも考えられる。
おそらく『翻訳できない世界のことば』原作者氏はアラブ人の日常会話では死語同然になっていることは把握しておらず、雑学本の類からひとすくいの水を意味するグルファを選んだ可能性が高いものと思われる。
ケース分類
名詞としての定義が「片手」「水」以外の細かい部分で違っており、欧米で紹介や引用を繰り返した結果「水・汁物に片手や器具を入れてすくう動作で取れる1回分の分量」→「片手ですくえる水の量」→「片方の手の平にのせられるだけの水の量」と変化。
さらに『翻訳できない世界のことば』ではアラビア語における定義と使い方を確認しないまま英語の雑学本やウェブ記事を参考にページを作成した可能性が高く、
・すくい取る動作を伴わずグルファとは呼べない「雨を手で受けて手の平にためた水の量」も語義に含まれる
・本来の用法や由来とは無関係な説明文「はっきりしない量だけれども海辺で砂の城の周りにお堀を作るとなると意味をなす」
といった誤解を招く内容になっているとの印象。
元は1回の動作で取ることができる分量を表す単純な語で複数存在する「ひとすくい」「ひと握り」シリーズの一つに過ぎない語だが、翻訳できない外国語表現として紹介されたことにより「砂漠ならではの言葉」というエキゾチックなストーリーが付加。翻訳できない外国語を扱った記事に多く見られる「原語のソースを当たってみるとそういうことはどこにも書かれていない」「元の語義にはない物語が足されている」ケースに該当。
加えてグルファは現代ではもっぱら「部屋」という意味で使われ「ひとすくいの水」としてはほぼ死語となっているが、クルアーン(コーラン)語彙集やアラビア語辞書などを経由して外国語表現雑学本・翻訳困難語紹介ネット記事で取り上げられ欧米で広がった情報である可能性が高く、「古いソースから情報を得たために現地ではもはや使っていない語が欧米で流行している」という翻訳困難語ムーブメントでしばしば見られる事例の一つに当たる。
PORONKUSEMA(ポロンクセマ)【フィンランド語】
実際の発音
poronkusema(/ˈporonˌkusemɑ/、ポロンクセマ)[ Wiktionary ]
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
トナカイが休憩なしで、疲れず移動できる距離
実際の意味
ポロンクセマはトナカイに排尿休憩させる間隔を距離単位としたもの
直訳は「トナカイのおしっこ」で、本に書かれているような「疲れて休むまでの距離」「疲れず移動できる距離」ではなく「トナカイが排尿を我慢できる走行距離」「(走りながら用を足せず過度に我慢させると健康被害が発生する)トナカイに排尿させるために止まる距離」という意味だとか。
poronkusema(ポロンクセマ)自体は「トナカイのおしっこ」という言い回しによりトナカイが排尿せずに移動できる距離つまりはトナカイのトイレ休憩地点間の距離を表現。フィンランド北部のサーミ人が使っていた既に廃れた古い単位で、正確な距離の定義は無いものの最大約7.5kmぐらいとされる。
フィンランドでも北部のサーミ人(サーミ族)が使っていたメートル法導入前時代の古い距離単位であるため他地方のフィンランド人にはそもそも馴染みが無いらしく、日常的にネイティブが使っていないのに海外で広く紹介されている言葉に相当。
そのため通常ネイティブが「ポロンクセマ」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは「トナカイの尿」だとのこと。日本語の例に置き換えると「馬尿」「馬糞」的なイメージに近くなってしまうようなので店名や商品名にネーミングする際には注意が必要かと。
なお、サーミ人(サーミ族)の距離単位 poronkusema(ポロンクセマ、トナカイのおしっこ)の下には「犬」「聞こえる」という2語を組み合わせた peninkulma(ペニンクルマ)も存在。「犬の吠え声が聞こえる距離」ということでサーミ式では5.5kmぐらいまでの距離、フィンランド式では10~11km前後の距離を表していたのだとか。
小便休憩が『翻訳できない世界のことば』で「疲れず移動できる距離」に置き換わった背景とは?
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』の前に発売された外国語表現雑学本の人気書籍『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズでは「the distance equal to how far a reindeer can travel without a comfort break」(トナカイがトイレ休憩無しにどのぐらい遠くまで移動できるかに相当する距離)と説明されていた。
一方後発の『Lost in Translation』では「The distance a reindeer can comfortably travel before taking a break」(直訳:トナカイが休憩を取る前に楽に/快適に移動できる距離)となっていることから、婉曲表現の comfort break(トイレ休憩)を原作者氏が誤解をしたためなのか遠回しにトイレに行くと表現している言い回しをやめて「快適に(~する)」という副詞的意味に変更した comfortably travel (快適に移動/進む)と書き換えたことで語義説明が変化してしまった可能性が考えられる。
ケース分類
元ネタになったであろう有名本での婉曲表現「comfort break(トイレ休憩)」という肝心の由来部分が『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「快適に移動(comfortably travel)できる距離」と置き換わっており、原作者氏が comfort break が小便休憩だという意味であることに気付いていなかった可能性が考えられる 。
またネイティブのフィンランド人が普段使っていない距離単位なので、現代ではポロンセクマと聞くと「トナカイのおしっこ」というイメージを連想しやすくなってしまっている模様。
WARMDUSCHER(ヴァルムドゥーシャー)【ドイツ語】
実際の発音
Warmduscher [ Wiktionary | Forvo ]
└ warm([vaʁm], [vaɐ̯m], [vaːm])[ Wiktionary | Forvo ]
Wiktionary「Warmduscher」ページに載っているIPA発音表記 /ˈvaʁmˌduːʃɐ/ の通りであればヴァグムドゥーシャに近いヴァルムドゥーシャになるはずだが、ドイツ語の r は子音としては歯茎ふるえ音だったり口蓋垂ふるえ音だったり母音の後には口蓋垂摩擦音になったりと発音に差があり統一されていないようで地域・個人差もあり、「[ʁ], [ʀ] など、いくつかの発音のバリエーションがあるが、辞書などでは簡略化して [r] と表記されるのがふつう」であるとのこと。
実際のネイティブ発音サンプル音声視聴サイトなどで確認してみるとヴァームドゥーシャやヴァールムドゥーシャに近く聞こえたりするファイルが多かった。
warm の発音がネイティブ発音サンプル音声ファイルで「ヴァグムのようなヴァルム」「ヴァルム」ではなく「ヴァーム」などに近く聞こえるのは「rの母音化」(R-Vokalisierung )と呼ばれる現象のことらしく、現代ドイツ語話者は ar を「アル」ではなく「アー」などと発音する人が多くなっているからである模様。時代の経過により古めかしいと感じられるようになっている発音かつr部分をかすれた摩擦で発音するバリエーションに即して記事編集ボランティアが表記したものが /ˈvaʁmˌduːʃɐ/ で、音声ファイル公開サイトで実際に聞かれる発音が今どきの方式だということかと。
また最後の -er はIPA発音記号による表記だと長く伸ばさずにアとすることを示していると思われるが、日本のドイツ語教育・解説Webページ類にはアーと読むという解説以外にも「語末や音節末に来るr・erは軽い「ア [ɐ]」の音で発音します」と書いてあるものが見られたりもするので、ネットで出回っているIPA表記 /ˈvaʁmˌduːʃɐ/ の ʃɐ 部分のようにシャーではなくシャとなるような発音表記で構わないらしい様子。
なので『翻訳できない世界のことば』でのカタカナ表記「ヴァルムドゥーシャー」は日本語での当て字としては標準的ではあるもののややつづり寄りの方式で、現行のネイティブ発音を聞くと少し違っているのもそのためかと。
ドイツでは現代になってから r の発音が変化。歌曲・舞台での発音が昔のままの方法を維持している一方、日常会話では母音化が進んだのだとか。「warm」についても母音化が進む前に当て字の方式が定着したカタカナ表記「ヴァルム」と実際の発音とがずれてしまっている状態で、WARMDUSCHER のネイティブ発音見本を試聴してもヴァルムドゥーシャーと聞こえない理由になっている模様。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
冷たい、または熱いシャワーをさけて、ぬるいシャワーを浴びる人。「少々弱虫で、自分の領域から決して出ようとしない人」を言う。
実際の意味
Warmduscher がドイツで流行したきっかけ
warm(温かい;ぬるい)+ duscher(シャワー(duschen)を浴びる人、シャワーをする人)=「温かいシャワーを浴びる人」の意。
「温かいシャワーを浴びる人」という文字通りの意味で使わない場合は人を弱虫・意気地なし・臆病と形容する時に使う嘲り・からかい表現で、いわゆる俗語・スラングに該当。1990年代以降に使用が広がり『Duden』の辞書に収録されたのは2000年だったとのこと。
2000年に書かれたドイツの記事『Kaltduscher! Warmduscher!』(冷たいシャワーを浴びる人!温かいシャワーを浴びる人!)では1998年サッカーワールドカップの際に Harald Schmidt(ハラルト・シュミット)がテレビ番組内でサッカー選手をこの語で非難したのを機に、ドイツ社会特にドイツの男性社会で二手に分かれがちなタイプをそれぞれ「冷たいシャワーを浴びる人(Kaltduscher)」と「温かいシャワーを浴びる人(Warmduscher)」と呼ぶことが広まった紹介。他のドイツ系記事でも「Harald Schmidt(ハラルト・シュミット)が使ってから流行りだした」と書かれていることが多い。
「温かいシャワーを浴びる人」の意味と『翻訳できない世界のことば』説明文との違い
『翻訳できない世界のことば』には「少々弱虫」「自分の領域から決して出ようとしない人」とあるが、ドイツ系の非ネイティブ向けドイツ語表現紹介記事によると「自分の快適ゾーンから出ようとせず、不快・嫌なことをしたがらない人」「ぬくぬくとした快適さを好みいつも先のことを考えてあらゆるリスクを避けようとするタイプ」という意味があるなど本での説明文と同じである一方、あざけりとしてはは”少々”ではなくはっきり「弱虫野郎」「臆病者」「女々しいやつ」認定するレベルということらしく辞書で示される英語の訳語も「wimp」(軽蔑を込めての「弱虫」「意気地なし」「怖がり」)、「mollycoddle」(甘やかされて育った人、女々しい男性、意気地なし)などとなっている。
『翻訳できない世界のことば』では「熱いシャワーを浴びる人」「ぬるいシャワーを浴びる人」「冷たいシャワーを浴びる人」と三分類されているが、ドイツ語オンライン辞書の用例からすると男性社会を「冷たいシャワーを浴びる人(Kaltduscher)」(=男らしい、masculine / 温かいシャワーを浴びる派がやらない・やりたがらないようなことを色々とする)か「温かいシャワーを浴びる人(Warmduscher)」と二分する時の用語であり、「熱い派」「ぬるい派」「冷たい派」に分けるものではないことがわかる。
「温かいシャワーを浴びる人」と「冷たいシャワーを浴びる人」は男性社会を二分する対極的なタイプの比較から
2000年に書かれたドイツの記事『Kaltduscher! Warmduscher!』などによると、世間で男らしいと評されるようなタイプが自分たちとは対極的なタイプの同性を弱虫・意気地なしとあざける時に使うのが「温かいシャワーを浴びる人(Warmduscher)」(男らしくない弱虫、女々しいやつ)であり、女性がこの表現を使われることは少ないのだとか。
典型的な”男らしさ”を誇り思い切り良く活動的に生活する硬派な「冷たいシャワーを浴びる人(Kaltduscher)」は悪く言えば向こう見ず・強気で無茶もする一方、穏やか系で派手な冒険はしない「温かいシャワーを浴びる人(Warmduscher)」は良く言えば慎重派ということになるようで、ドイツでは「温かいシャワーを浴びる人(Warmduscher)で何が悪い?」と反論するということもあるのだとか。
なお、ドイツのメディアを通して具体的な「冷たいシャワーを浴びる人(Kaltduscher)」(男らしい)像と「温かいシャワーを浴びる人(Warmduscher)」(弱虫、女々しいやつ、軟弱者)像は
- 冷たいシャワーを浴びる(=男らしい)↔温かいシャワーを浴びる
- 塩気の多い朝食を食べる↔甘みのある朝食を食べる
など。また「冷たいシャワーを浴びる人(Kaltduscher)」が「温かいシャワーを浴びる人(Warmduscher)」を責める内容としては
- 男らしくない、軟弱、女々しい
- 規律社会やキャリア不安、フェミニストたちの影響を受けていつも考えてばかりで用心深すぎる
- 男らしさ、男の本質に反している
など。
「温かいシャワーを浴びる人(Warmduscher)」は「男らしくない、女々しい」「(ドイツ人)男性なら本来そんなことしない」というイメージから作られた語で、
- Sockenschläfer(靴下をはいて寝る人)
- Damenradfahrer(女性向け自転車に乗る人)
- Zebrastreifenbenutzer(横断歩道を使う人、横断歩道を渡る人)
- Beckenrandschwimmer(プールの端っこを泳ぐ人)
- Beckenrandschwimmer(女性の気持ちがわかる人、女性に理解がある人)
- Rückspiegelpolierer(バックミラーを磨く人)
- Backofenvorheizer(オーブンを予加熱する人)
- Sitzpinkler(座って小便をする人)
- Schattenparker(日陰になっている場所に駐車する人)
…などと同じく1990年代以降に色々と生み出された「弱虫、女々しいやつ、意気地なし、臆病者」を意味する数あるドイツ語の(元)新造語・(元)流行スラング群の一つだという。[ ソース1 | ソース2 | ソース3 ]
「冷たいシャワーを浴びる人(Kaltduscher)」については
- 短く刈ったざらっとした髪型
- 体は鍛えていてがっちりしている
- よく寝て早朝5時半にしゃきっと目覚める
- 運動やジョギングをしたら音楽をガンガンかけながら冷たい水シャワーを浴びる
- 考える・熟慮するなんて意志が弱いことの表れだと思っている
- 硬派、強硬派
などで、「冷たいシャワーを浴びる人(Kaltduscher)」が悪く描かれる場合には「自分をいじめるのが好き」「独善的」「男性的な短慮」などと結び付けられたりもするらしいことがわかった。
*現地ニュース記事などの議論を英訳を見ながらまとめたものなので「男らしくない」「女々しい」といった表現は管理人自身の見解ではありません。あしからず。
ケース分類
『翻訳できない世界のことば』での説明が元々のドイツ語での定義・意味合いと少し違っているケース。熱いシャワーも冷たいシャワーも避けて真ん中のぬるいシャワーを選ぶ人ではなく、男性社会を二分する冷たいシャワー派(良くも悪くも男っぽい)vs. 温かいシャワー派(リスクを避け冷たいシャワー派が好むようなことをやりたがらない、ドイツ人男性なら本来そんなことはしないはずだ)という対立的する構図になっているという。
実際には男性が同性に向かって「弱虫」「意気地なし」「女々しいやつ」とあざける時に使う俗語で、1990年代以降に次々と新造された「男らしくない、弱虫」を表す種々のドイツ語表現の一つだとのこと。
SZIMPATIKUS(シンパティクシュ)【ハンガリー語】
実際の発音
szimpatikus([ˈsimpɒtikuʃ]、スィンパティクシ(ュ))[ Wiktionary | Forvo ]
本でのカタカナ表記「シンパティクシュ」は実際には「スィンパティクシ(ュ)」と発音するような外国語単語のスィ音をシ音に置き換えて当て字をする日本語カタカナ化時の慣用表記を適用した読みガナだと思われる。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
だれかと初めて出会って、直感的にその人が良い人だと感じる時、その人はSZIMPATIKUSだと表現する。
実際の意味
István Tótfalusi著『IDEGENSZÓ-TÁR : Idegen szavak értelmező és etimológiai szótára』によるとハンガリー語独特の単語ではなくフランス語由来の外来語。フランス語の sympathique、ドイツ語の sympathisch などに対応、周辺諸語に訳語が存在する翻訳可能な比較的シンプルな語義の単語となっている。
ただ英語は sympathetic があるものの、上に対応する sympathic はフランス語経由で西暦1600年代半ば以降使用された後に現在では既に死語となっていることから、同じ語源で同じような意味を持つ欧州諸語のうちハンガリー語の szimpatikus が英語話者には珍しいように感じられ、たまたま外国語表現雑学本著者の目に留まり収録されたものと推察される。
オンラインや紙媒体の各種ハンガリー語-英語辞書によると szimpatikus には
- 好ましい、感じのいい、好感が持てる(=nice、likable、pleasant)
- (医学用語などとして)交感の(=sympathetic)
といった意味があるといい、フランス語やドイツ語などにおける「好ましい、感じのいい、好感が持てる」「フレンドリーな」といった語義とほぼ同じだと思われる。
また日本で過去に発売された岡本真理著『CD付ゼロから話せるハンガリー語』(2016年三修社刊)には「感じのよい」という意味で掲載されている。
本での記述「だれかと初めて出会って、直感的にその人が良い人だと感じる」は外国語表現として紹介される時に足されたもので、ハンガリー語における用例を辞典や対訳サイトなどで確認した限り
- 感じのいい若者(szimpatikus fiatalember=nice young man)
- 彼は顔がいい(Szimpatikus arca van=He has a nice face)
となっており「初めて出会う」かどうかは問わないことがわかる。
そのため szimpatikus の長く詳細な語義説明についてもおそらく翻訳困難外国語表現雑学本に多いと言われる「その言語・言葉だけが持っている特別なストーリー」付加が起こった事例だと思われる。
『翻訳できない世界のことば』の語義解説「だれかと初めて出会って、直感的にその人が良い人だと感じる時、その人はSZIMPATIKUSだと表現する。」も、szimpatikus の直接的な意味説明になっている箇所は赤字の「良い」付近のみということになるかと。
ケース分類
ハンガリー語特有の言葉ではなく周辺諸語と共通のフランス語由来外来語だが『翻訳できない世界のことば』として掲載された事例。日本語でも「感じのいい」といった翻訳が可能。
初対面に限らず使われるが、日本では本の説明文ゆえ初対面での直感・本能といったドラマチックなイメージが加わって一目惚れ的な解釈もなされている。
FORELSKET(フォレルスケット)【ノルウェー語】
実際の発音
forelsket(/fɔˈɾelskət/、フォレルスケト)[ Wiktionary | Cambridge | Forvo ]
『翻訳できない世界のことば』でフォレルスケットになっているのは、日本語における外国語単語のカタカナ化に際する慣例表記(例:英単語 book は英語ではブクと発音するのにカタカナ表記ではッを足したブックになる)が原因だと思われる。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
語れないほど幸福な恋におちている。
実際の意味
各種オンラインノルウェー語-英語辞典によると、形容詞として働く場合の意味は「愛している、恋している(in love)」「恋していて、惚れていて(amorous)」「首ったけで、惚れ込んでいて(have a crush (on 人))」「夢中になった、のぼせ上がった(infatuated)」といった意味を持つとか。
ノルウェー語のブークモール特有の言葉ではなくデンマーク語と共通。またスウェーデン語においては förälskad が対応する訳語だという。
本では「語れないほど幸福な恋におちている」となっているが、翻訳できない言葉というほどではないらしく辞典でも簡潔な形で英語での訳が列挙されている。
Quora の『Does “forelsket” mean “the euphoric feeling you experience when you’re falling in love with someone” in Norwegian?』(フォレルスケットはノルウェー語で”誰かを愛した時に体験する多幸感”を意味するんですか?)という質問に対する回答によるとノルウェー語使用者の理解・印象としては
- ある程度正しい。ただ、ノルウェー語には英語の crush に対応する「首ったけだ、ぞっこんだ」を表す言葉が無いので、代わりに「愛している、恋している」という普通の意味を持つ forelsket を使って表現する。
- 恋愛で付き合い始めの時のすごく幸せな気持ちを表すのに使える。
- forelsket は恋愛関係が始まった最初の頃(いわゆるハネムーン期)に使うのが普通。
- 多幸感という部分は余分で、正確な訳は単なる「愛している、恋している(in love)」だと思う。
であることがわかった。
ケース分類
多幸感を伴う首ったけ・ぞっこん状態を表すのにも使われるが、元々の語義としては単なる「愛していて、恋していて」という通常レベルの恋愛状態を指すという。
周辺諸語にも対応する訳語があったり英語にも翻訳されたりしているため、実際には翻訳できない言葉ではないものと思われる。
NAZ(ナーズ)【ウルドゥー語】
実際の表記と発音
ناز(/nɑːz/、ナーズ)[ Wiktionary | rekhta | Forvo ]
絵本右下には ناز との記載あり。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
だれかに無条件に愛されることによって生まれてくる、自信と心の安定。
実際の意味
日本語版と英語原作との違い
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「The pride and assurance that comes from knowing you are loved unconditionally.」(自分が無条件に愛されていると知ることによってもたらされる自信と確信(/自負心))といった言い回しになっているが、日本語版では assurance(確信、自信)が「心の安定」と訳されており説明文のニュアンスが変化している。
英語の assurance の意味は「確信、自信」「あつかましさ、ずうずうしさ」などであり心の安定や安らぎとは異質であることから、”心の安定”はいわゆる誤訳に当たるものと思われる。
絵本の見開き反対側には「世界の果てまでも一緒についてきてくれる人がいると、足取りにも弾みがつき、笑顔がうまれます。」とあるが、英語版では「Knowing there are people who would follow you to the ends of the earth and back again puts a certain spring in your step and a certain kind of smile on your face.」(直訳:地の果てまで自分についていってまた戻ってくれるような人々がいるとわかっていると、足取りも弾み顔には笑顔が浮かびます。)となっており、無条件に愛してくれる人が一人ではなく複数いるとわかる書き方になっており、日本語版が与える「誰か特定の一人から受ける愛」という印象との間に違いがある。
ちなみにこのナーズ(naz)自体は英語圏で『愛にまつわる各国の翻訳できない言葉たち』といった記事で紹介され、愛されることによって高まる自信であるという説明が行われるなどしている。
ウルドゥー語での意味
ウルドゥー語-英語辞典(Hawramani.com等)によると ناز(nāz、ナーズ)自体はペルシア語由来で、ウルドゥー語としては
- お世辞、へつらい、甘言
- (女性が男性に対して行う)媚び、しな
- 愛情を込めた戯れ、愛撫
- 誇り、自信、自尊心
- うぬぼれ、自負心
- 気取った態度、上品ぶった態度、もったいぶった態度
- 柔和、繊細
- 優美
といった意味があるという。語義自体はペルシア語辞典にも掲載されているものとかぶっており、ウルドゥー語で独特に発展した語義やイラン付近における社会事情との際の反映などは特に無いように見受けられる。
『翻訳できない世界のことば』日本語版では「だれかに無条件に愛されることによって生まれてくる、自信と心の安定。」という”心の安定”という余剰要素が加わった誤訳的な説明になっているが、英語原作の説明文の最後部分「自信と確信」がナーズの数ある語義の一つということに該当する部分となっている。
「The pride and assurance that comes from knowing you are loved unconditionally.」(自分が無条件に愛されていると知ることによってもたらされる自信と確信(/自負心))というのは人間の自信がどうやって育つのか、自負心・自尊心がどうやって肥大するのかに関する付加説明であり、ナーズの意味としては直接関係が無い箇所に当たるかと。
ウルドゥー語-英語の例文対訳サイトなどを見ると、自分が他者に愛されて育つ誇りとは違う「私はあなたのことを誇りに思う」といった家族のことを誇る気持ちや成し遂げた偉業を誇りに思うという、人から自分が無条件に愛され自信を持つのとは全く異なる文脈で多用されているのがわかる。
ナーズについては他者から愛される立場である自分という設定とは真逆で自分の方が愛想良く夫や異性に対してしなを作るといった意味などでも使われているということで、「自信」以外の説明文は欧米で紹介されてから創作された余剰の後付けストーリー部分に当たると言える。
unilang というサイトのフォーラムには『“Untranslatable” Urdu word』(翻訳できないウルドゥー語の言葉)というスレッドがありナーズが本当に「The pride and assurance that comes from knowing you are loved unconditionally.」(自分が無条件に愛されていると知ることによってもたらされる自信と確信(/自負心))という意味を持っているのかどうか・情報の出所はどこなのかソースを尋ねる質問が寄せられているが、それに対する回答は「そういう定義とは程遠いと思う。」「ナーズは息子のことが誇らしい、祖国のことが誇らしいといった具合に自分以外が関係した誇りを表す言葉だ。」といったものとなっている。
ナーズは「だれかに無条件に愛されることによって生まれてくる、自信と心の安定。」という長い内容を表すためだけに生まれた特別な名詞ではないが、自信・誇り以外にもマイナスな意味のうぬぼれ、妻が夫が喜ぶような言動をすること、人を喜ばせるようなへつらいといった様々な語義があり、「一言で表せないから翻訳が難しい」のとはまた違う「語義が多いので意味の説明が難しい」という観点から扱いが容易ではない名詞だと言えるため、ウルドゥー語に習熟し各パターンを覚え文脈に合った解釈と訳を行うことが重要であるものと思われる。
語源であるペルシア語での語義と大元の由来
大元の語源であるペルシア語の ناز [ nāz ] [ ナーズ ] については現代での意味が「栄光、賛美」「自慢」「気取った態度」「しな、こび」「愛情を込めた戯れ、愛撫」「へつらい、お世辞」「優美」「繊細、柔和」だが、その由来・起源や古い語義についてははっきりしたことはわかっていないという。
ただ古い資料を通じて語義・由来を研究した『Etymological Dictionary of the Iranian Verb』(2007年 Brill 刊)の著者 Johnny Cheung によると、中期ペルシア語(パフラヴィー語)や中期イラン語であるパルティア語に見られたナーズの原型らしき語 nʾz が意味していたのは「喜ぶ、楽しむ」「勝ち誇る、勝利する」「自慢する」「柔和である、繊細である」といった概念だったという。
結局のところ、ナーズには「だれかに無条件に愛されることによって生まれてくる」「他者から無条件で愛され世界の果てまででもついてきてくれるような真の愛を捧げてくれる人のおかげで得られる自信」という細かい設定までは含まれず、語源としても「無条件に愛される」というのは無関係だったらしいことから、ナーズの理解からは外すべき解釈だと思われる。
ケース分類
ナーズ自体はペルシア語起源の外来語で単語の意味としてもほぼ同じ。複数の語義があるため翻訳が容易ではないが訳語自体は「自信」「うぬぼれ」「しな、媚び」「甘言、へつらい」とシンプルに済ませられる模様。
本の説明文「だれかに無条件に愛されることによって生まれてくる」やミニストーリー「世界の果てまでも一緒についてきてくれる人がいると、足取りにも弾みがつき、笑顔がうまれます。」は欧米で紹介された後に加わっていったいわゆる後付けの余剰部分で、ナーズ本来の意味説明自体は絵本本文のうち「pride and assurance(自信と確信(/自負))」の部分だけで、かつナーズには他にも色々な語義がある。
また日本語版では英語原作の assurance(確信、自信;あつかましさ、ずうずうしさ)が「心の安定」と訳されたことで英語原作の「自信と確信」から「自信と心の安定」へと語義説明が置き換わっており、愛によって自信だけでなく安らぎを得ると誤解され得る内容に置き換わっている。
LUFTMENSCH(ルフトメンチュ)【イディッシュ語】
実際の表記と発音
לופֿטמענטש
イディッシュ語としての表記:luftmentsh
英語での外来語としての表記:luftmensch
イディッシュ語発音:/ˈɫʊftmɛnt͡ʃ/(ルフトメンチ(ュ))[ Wiktionary | Forvo ]
英語発音:/ˈlʊftˌmɛnʃ/(ルフトメンシ(ュ))ないしは /ˈlʊftˌmɛntʃ/(ルフトメンチ(ュ)) [ Jewish English Lexicon | Collins | Oxford English Dictionary | Forvo ]
元々はイディッシュ語だが、ユダヤ系住民がいる英国や米国でも外来語として使われるなどしてきたという。
またイディッシュ語から輸入された外来語として使っている英語に関してはルフトメンシュとルフトメンチュ2通りの発音があるようで、Oxford English Dictionaryではイギリス英語発音として /ˈlʊftmɛnʃ/(ルフトメンシ(ュ))、アメリカ発音として /ˈlʊftˌmɛn(t)ʃ/(ルフトメンシ(ュ)もしくはルフトメンチ(ュ))であるとしている。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
夢見がちな人のこと。直訳すると、「空気の人」。
実際の意味
類似表現
直訳は「空気の人(man of the air / air person)」。luft- はドイツ語の Luft(空気)、-mentsh はドイツ語の Mensch(人、人間)が由来。
ドイツ語には「Von Luft und Liebe leben」(=live from air and love、愛と空気で生きる)という表現がありWiktionaryなどではイディッシュ語の luftmentsh(ルフトメンチュ)の類似表現として挙げられるなどしている。
Von Luft und Liebe leben については「十分な食事をとらない;全然食べない」という俗語表現として使われているとの情報に加え、ドイツ語-日本語辞典では「霞を食って生きる」などと載っている。
DWDSオンラインドイツ語辞典によると Von Luft und Liebe leben には口語・俗語表現として
- (恋愛・多幸感などから)食欲が全然わかない、全然食事を食べない
- 乏しい収入で、多くを求めず慎ましく自然愛好といった暮らしを送る
という意味があるとしており、以下に挙げるルフトメンチュと比較すると「収入が乏しい」という点で共通している一方で異なる部分もあると言える。
イディッシュ語「luftmentsh」(ルフトメンチュ)としての定義
この語に関しては元々のイディッシュ語としての語義と英語圏での語義とが少しずれているようなので、まずはイディッシュの世界でどのように生まれ定義されていたのかを見てみたい。
ResearchGate
『The Luftmentsh as an economic metaphor for Jewish poverty: a rhetorical analysis』
論文要旨
・”ルフトメンチュ”は直訳すると”空気人間”となるが、物乞い・小商人・行商人といった様々な貧困層を指すイディッシュ語の単語。
・この語がイディッシュ文学に初めて登場したのは1860年代で、1880年代~1890年代には政治や経済関連の言説でも用いられ始めた。
・ルフトメンチュはユダヤ人たちの貧困を比喩的に表現する単語だった。
ユダヤ系書評サイト Jewish Review of Books
『Requiem for a Luftmentsh』
・イディッシュ語のルフトメンチュは直訳すると空気人間(air-man)だが実際にはあほんだら(airhead)と訳せるような言葉で、侮蔑的。
・東欧のユダヤ人社会においてルフトメンチュというと必ず男性で、壮大な志は持っており自分が本当にそれを実現できるのだと信じ切ってはいるものの夢想に過ぎないような人間のことを指した。
・イディッシュ文学の中で最も有名なルフトメンチュといえば Sholem Aleichem(ショーレム・アレイヘム)の作品に出てくる Menahem-Mendl(メナヘム・メンデル)で、自分の成功に揺るぎない自信を持っているせいで色々な資金計画を立てては失敗するも、逆に奮い立って再挑戦するという人物だった。
・ルフトメンチュはそうした現実的な実業向きではなく、知識人たちのいる文芸の世界でやっていけるタイプの人間。
『Inventing the Modern Yiddish Stage』p.221
Barbara Henry、Joel Berkowitz 著
2012年 Wayne State University Press 刊
ルフトメンチュは直訳すると”空気の人”だが、生計を立てる手段に関して壮大な計画を立てるにもかからわず衣食の道(=職業)として形にできていない人間のことをいう。
『Yiddish: A Nation of Words』
Miriam Weinstein 著
2012年 Steerforth Press 刊
このイディッシュ語の用語は”空気を食べて暮らす人”という意味で、仕事や商いをすることの無いユダヤ人をさげすむ言葉だった。
『The Yiddish Stage as a Temporary Home』p.204
Diego Rotman 著
2021年 De Gruyter 刊
ルフトメンチュは東欧ユダヤ人社会で生まれた表現で、ユダヤ人差別やユダヤ人に関するステレオタイプなどと関連して皮肉的な自嘲・メタファーとして発展した。
My Jewish Learning
『The Shlemiel of Chelm and Other Yiddish Characters』
ユダヤ人式のユーモアとイディッシュ文学の典型的な人物像「シュレミエル」(無能、馬鹿、(善良な)愚者)や「シュリマズル」(不運な人間)は、ユダヤ人に対する経済的差別や不条理な世界の中で誕生。ユダヤ式ジョークもその中で育まれ、シュレミエルについては現実を曲解する Chełm(ヘウム:ユダヤ民話で愚者の住まう地の定番とされた)住民として登場するなどした。東欧のシュテットル(*ユダヤ人コミュニティー、ユダヤ人小都市/村)に暮らす人々はシュレミエルだったと言えるが、空気を食って生き(live on air)何の実体も伴わないような計画を絶えず考えついているようなタイプがルフトメンチュと呼ばれるようになった。
YIVO Institute for Jewish Research
『The YIVO Encyclopedia of Jews n Eastern Europe : Family』
19世紀に始まった同化政策によりユダヤ人家庭の子供たちはポーランドの学校で新しい価値観を学び、イディッシュ語を話す親たちとの間に共有点がほぼ無くなってしまい家庭内での対立が深まった。経済的差別ゆえに下層階級のユダヤ人男性らが無職である点は変わらなったこともあり、貧困家庭では父親の地位・権威が失墜。ルフトメンチュ呼ばわりされることも少なくなかった。
ルフトメンチュについては西成彦著『イディッシュ』p.180で「定職を持たず、霞を食って生きる宙ぶらりんの存在を定義するイディッシュ特有の表現である」と簡潔に説明されており、ヨーロッパのゲットーなどに暮らしていたユダヤ人男性の多くが仕事らしい仕事をせず、その地に住みながらも部外者であり続けた様子を表した言葉だったことがわかる。
また東欧におけるユダヤ人に関する解説では無職の夫を支える妻たち、無職で働かない父親といった描写も見られ、これらを総合した結果イディッシュ語としての「ルフトメンチュ(空気の人、空気人間)」というのは
- 空気を糧に生きている人や空気を食べて生きている人、つまりは日本語でいうところの「霞を食う」(浮世離れしていて、生活の手段を持たず食べるものも無いような暮らしをする)ような暮らしをしている人を指す。
- 就職機会に恵まれず父として働き妻子を養うこともできないにもかかわらず語る夢だけは豊富で現実を直視していないような起業計画を立ててばかりいるが、収入には全く結び付かないという近代頃のユダヤ人父親像と結び付いている。
- その地に暮らしながらも東欧においては異質で根を持たない存在であるユダヤ人として雲のように浮動・流動・漂流している様子を指す。
のような背景事情をふまえた上で理解すべき語であると思われる。
『翻訳できない世界のことば』見開き反対側には「あなたの頭は雲の中。なかなか地上に降りてきません。夢の世界に生きて、9時から5時までの時間や、ペーパーワークはこの高度には存在しないのです。現実味がなく、実際の役には立ちません。」とあるが、ルフトメンチュ(ルフトメンシュ)が本来持っていた語義とは直接関係が無いミニストーリーとなっている。
むしろルフトメンチュ(ルフトメンシュ)は定職を持たず言うことだけは立派で実際にはそうした大言壮語に見合わない仕事をするか無職かのどちらかで収入は全然無かったような世事に疎い愚者としての典型的ユダヤ人像を指す自嘲の言葉だったとのことなので、『翻訳できない世界のことば』での説明・形容とは大きく違っていることがわかる。
英語圏ユダヤ系住民が使用するイディッシュ語由来の「luftmensch」(ルフトメンシュ)としての定義
英語圏でのユダヤ人によるルフトメンシュの使用例や英語-英語オンライン辞書には
Jewish English Lexicon
n. An impractical dreamer without a definite income
【名詞】一定の収入も無いのに実際的でなく夢見がちな人
例文:
Yiddish teacher is a luftmentsh job.
イディッシュ語の教師というのはルフトメンチュ(ルフトメンシュ)な職業だ。
例文:
My wife is such a luftmensch she missed our anniversary dinner because she was too busy reading her books!
私の妻はたいそうルフトメンチュ(ルフトメンシュ)なので、本を読むのに忙しくて我々の記念日ディナーのことを忘れた!
Merriam-Webster
an impractical contemplative person having no definite business or income
決まった職業や収入を持たない非実際的(/非現実的)・瞑想的な人物
*英語圏では英国のユダヤ系作家 Israel Zangwill(イスラエル・ザングウィル / イズレイル・ザングウィル)著『Ghetto Comedies(ゲットー喜劇集)』(1907年刊)で初出。
Collins
an impractical, unrealistic person
非実際的・非現実的な人
などと簡潔な意味説明のみが載っているが、上で挙げたイディッシュ語における定義との間にずれがあることがわかる。これについては
『Dictionary of Jewish Usage』p.100
Sol Steinmetz 著
2005年 Rowman & Littlefield 刊
何の仕事・商売もしていなかったり生計手段を持っていなかったりし、霞を食って生きているように見える人間のこと。ルフトメンチュのような人々は東欧のシュテットル(*ユダヤ人コミュニティー、ユダヤ人小都市/村)によくいた。英国や米国のユダヤ人たちの間では夢想家・空想家を見下すような言葉として使われるようになった。
と専門書で理由が述べられている。
イディッシュ語としての語義は東欧に暮らしていたユダヤ人であるアシュケナジム(アシュケナージム)たちの民族性・暮らしぶり・思考回路を自嘲するというユダヤ式ジョークの要素は薄れ、夢想家を指すもっと普通の表現に変化。女性に対しても使われるようになった模様。
以上から『翻訳できない世界のことば』ではイディッシュ語の言葉として紹介されているものの、載っている意味解説については英語圏における変化後の用法である「夢見がちな人」となっていることがわかった。
ケース分類
イディッシュ語として紹介されているが、イディッシュ語での表記「LUFTMENTCH」ではなくイディッシュ語由来英単語としてつづる時の表記「LUFTMENSCH」が載っている。また日本語版では英語語形に英語発音のルフトメンシュではなくイディッシュ語発音のルフトメンチュという読みガナを組み合わせており英字表記と発音とが一致していない。
本では「夢見がちな人」とのみ紹介されているがそれは英語圏での使われ方で、元のイディッシュ語圏でのニュアンスは異なっていた。
東欧などにおけるユダヤ人男性たちの経済的・社会的状況や「理想や見る夢だけは壮大でしかもそれが上手くいくと信じ切っている夢想家だが、実際にはちゃんと仕事に就けておらず収入も得られていない」といった生き様、不器用な愚者・社会不適合者としてのイディッシュ文学での定番人物像、祖国を持たない根無し草としての生き様を自嘲的に表現した言葉であるとともに「物乞い・小商人・行商人といった様々な貧困層」を意味するなど、東欧ユダヤ人たちを象徴する言葉だった。
COTISUELTO(コティスエルト)【カリブ・スペイン語】
実際の発音
cotisuelto([ko.t̪iˈswel̪.t̪o]、コティスウェルト) [ Wiktionary | Forvo | tureng ]
suelto(スペイン語で「ゆるい」の男性形)は実際に読むと /ˈswelto/(スウェルト)となるようだが、日本語記事ではつづりにカタカナをそのまま当て字した感じのスエルトを用いることが多い様子。
絵本そのものでは COTISUELTO(ページ右下の小さな表記では小文字の cotisuelto)と書かれているが、なお日本語版出版元である創元社の書籍紹介ページ目次では「COTISELTO コティスエルト/カリブ・スペイン語」とUの抜けた脱字になっている。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
シャツの裾を、絶対ズボンの中に入れようとしない男の人。
実際の意味
スペイン語辞書やプエルトリコ関連書籍における語義説明
スペイン語のオンライン辞書で検索してみるとこの語を載せていないサイトが多かったが、掲載があるスペイン語辞書には
tureng
young man who is accustomed to wearing his shirt untucked
裾をたくし込まないでシャツを着るのが習慣になっている青年
Asociación de Academias de la Lengua Española
Diccionario de americanismos
PR. Muchacho que suele llevar la camisa por fuera de los pantalones
【プエルトリコ】いつもシャツをズボンの外に出して着ている男子
とあり、何らかの事情でシャツの裾をいつも出している青少年を指す言葉であることが示されている。
過去の英語書籍をさかのぼってみると、Charles E. Kany 著『American-Spanish Semantics』(初版:1960年 University of California Press 刊)に PR(プエルトリコ)方言である複合名詞として載っており「boy whose shirts (cota) is not tucked into his trousers」(着ているシャツがズボンにたくし込まれていない男の子)と説明されていた。
プエルトリコ方言に関する複数ソースから cotisuelto は以下の2語
Asociación de Academias de la Lengua Española
Diccionario de americanismos
cota
-
- 【プエルトリコ方言】新生児が着るロングシャツ
- 【プエルトリコ方言】子供が着るナイトガウン
- 【プエルトリコ方言】男性用のルーズフィットなジャケット
- 【プエルトリコ方言】男物シャツ
tureng
suelto
-
- ゆるい、ゆったりした、ほどけた
- ルーズフィットな
- 個別の、孤立した、独立した
- スムーズな、なめらかな、敏捷な 等…
から成る複合語で、シャツがぴしっと体にフィットしていない、ズボンからはみ出ているといった意味、おそらくは「シャツはみ出しをしている人」「シャツがだぼっとしている人」「シャツがずるっとしている人」といったニュアンスだと推察される。
プエルトリコのスペイン語に特化したオンライン辞書 Tesoro lexicográfico del español de Puerto Rico によると、cotisuelto は「Se dice del muchacho que suele llevar la camisa por fuera de los pantalones(シャツの裾をいつもズボンから出している男の子)」という意味で Manuel Alonso(マヌエル・アロンソ) 著『El Gíbaro』(1849年刊)にも出てくる名詞だという。かつ語義説明の前に「despect.」とついているが、これはスペイン語辞書での略語で despectivo(軽蔑的な、さげすみの)という意味だとか。
また、Flavia Lugo de Marichal 著『Belaval y sus Cuentos para fomentar el turismo』(初版発行:1946年)には「Cuando habla de los cotisueltos se refiere a los niños campesinos de la escuela de Isabelita Pirimpín*」という記述があり、学校に通うプエルトリコの小作農の家の子たちの服装を指すのにも使われていたらしいことがわかる。辞書で侮蔑語とあることから、おそらく通常はシャツの裾出しをしない階層と比較して「シャツの裾をいつも出している」という含みがあったものと考えられる。
*Isabelita Pirimpín は女性教師の名前。どうやら話の中で田舎の学校に赴任した模様。
以上から、cotisuelto 本来のニュアンスはファッションとしてこだわってシャツをズボンにインしないというポリシーを貫いている人のことではなく、シャツインをしないような暮らしぶりをしている人々の服装を指す語だったものと思われる。
先述の Tesoroオンライン辞書で cotisuelto が出てくる著作として挙げられていたプエルトリコ人著作家 Manuel Alonso(マヌエル・アロンソ) の『El Gíbaro(エル・ヒバロ*)』(1849年刊)はプエルトリコ人の暮らしぶりや農民らの様子を記録した貴重な作品だとのことだが、作中では催し物に参加する人々の一団の形容として cotisueltos という複数形で登場。
*ヒバロはプエルトリコ農民を指すスペイン語名称。プエルトリコの山あいに暮らすスペイン系農業移民(やその血を引く混血の農民)らのことだという。一般的なつづりは Jibáro で本題名の Gibáro は古い別形だとか。彼らは伝統農法による自給自足的な暮らしを送っていた人々で、彼らが歌い奏でてきた音楽はヒバロ音楽として知られているとか。[ Wikipedia ]
ただしズボンからシャツがはみ出ているという意味ではなく馬を駆って疾走するヒバロの集団に比べいまいち統率とスピードに欠ける動きを見せる都市民や労働者たちの参加者らを指しており、シャツが旗のようにふわっと浮いていた外見から cotisuelto と呼ばれていたと説明。情景描写からシャツはズボンにたくし込んではいたが風を受けて膨らんで体に密着していない状態だったようにも受け取れ、スペイン語辞典に載っているような「いつもシャツをズボンの外に出して着ている男の子」とは異なっているらしいことがわかる。
作中挿絵では当時のプエルトリコ人の小児の様子も描かれているが、ヨーロッパ系移民家庭の子らしき男児がきっちりした洋装をしているのに対し農家の子育てと教育に関するくだりで出てくる少年の服装はシャツをズボンにしまっていない状態となっており、これが『Belaval y sus Cuentos para fomentar el turismo』に出てくる「小作農の家の男児らを cotisuelto と呼んでいた」という描写と一致。おそらく右側の男児のシャツ出し服装が辞書における cotisuelto の意図しているものだと考えられる。
なお1800年代~1900年代のプエルトリコにおいて男性ないしは男児のシャツ出しスタイルが日常茶飯事だったかどうかについては米国議会図書館(Library of Congress)写真検索で確認してみたが、労働者や農民も含め成人も子供も長ズボンの中にきっちりシャツをしまうという服装が広く浸透していたようでシャツをわざと出したファッション・おしゃれという概念が今のようには存在していなかったことがうかがえる。
一方スラム街などの記録写真では乳幼児の男子が全裸、シャツのみで下は無し、ズボンをはいているがシャツがしまわれておらずお腹や胸が出ていたりする様子が写っており、スペイン語辞書の cotisuelto の語義説明に despectivo(軽蔑的な、さげすみの)と記載されていたのも、シャツをズボンにたくしこむスタイルが当然だった1800年代~1900年代前後のプエルトリコで貧しい暮らしを送っていた階層に生まれた男児たちの服装を指していたのがこの語だったためなのでは…と思われる。
英語圏での紹介事例
英語圏では外国語表現雑学本の人気シリーズ『The Meaning of Tingo』(2005年刊)、『Toujours Tingo』(2007年刊)によって紹介されるなどした表現。Tingoシリーズではカリブ・スペイン語だとして「one who wears the shirt tail outside of the trousers」(シャツの裾をズボンの外に出して着用する人)と説明。
この言葉を広めた大元であると思われる外国語表現雑学本『The Meaning of Tingo』(2005年刊)では単に「シャツの裾をズボンの外に出して着用する人」で年齢も性別も限定していなかった。
その後書かれた2011年のブログ記事では「アメリカの40歳未満(under 40)の間で流行っているファッショントレンドを表すのに使えそうな語(A word that would aptly describe the prevailing fashion trend among American men under 40)」という紹介に変化。
「アメリカで今流行っているシャツ出し男性”にも”使えそうだ」というコメント的な一文が「40未満でシャツ出しにこだわっている成人男性のこと」のように語義説明の一部として誤解され取り入れられた後、『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』にも収録されたという流れだったものと思われる。
プエルトリコでは侮蔑語であったとされおそらくはシャツインの一般的服装から外れた貧困層男子らを指していた(「シャツ出し少年」「シャツがずるっとしてる子」的な意味?)らしき cotisuelto だが、英語圏で翻訳困難語として紹介されたことでそうした要素がまず除外され、こういうシチュエーションにも使えそうだという非ネイティブによる語義の拡張・二次創作的な利用が本来の語義と置き換わり、最終的には「シャツ出しにこだわるアンダー40男性のポリシー」にまで変化した、ということだった模様。
本来の語義と『翻訳できない世界のことば』意味説明との違い
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「A man who insists on wearing his shirt tails untucked.」(シャツの裾をたくし込まないで着ることにこだわる男性。)という表現で、先行書籍では性別を問わない感じの言い回しが男性のみに限定した言い回しになっているほか、本人のこだわりゆえにシャツインを断固拒否してシャツ出しファッションを常に死守しているといったニュアンスに変化している。
本来の語義としては「少年、男子、青年」と比較的低めの年齢でしかも侮蔑語だったようだが、『翻訳できない世界のことば』では「男の人」となっているほか、見開き反対側にスクールボーイのだらしなさというよりは40代以下の男性のファッションポリシーのことを指すといったコメントが添えられているなど、イラストでかなり体格の良い男性が描かれていることからもすっかり大人になった成人男性というイメージを与えやすい描写になっている。
そのため日本では『翻訳できない世界のことば』からの引用という形でこのコティスエルトを紹介している『東京新聞』2018年8月30日筆洗「だらしないなどの悪い意味ではないらしい。「人生も着るものもリラックス」した人。そんな前向きなニュアンスがこの短い言葉には含まれているそうだ」のような解釈にも発展。「男の美学」「男の信念」に近い形容をしている記事・投稿も見られるなどする。
『翻訳できない世界のことば』日本語版ではスクールボーイのだらしないシャツ出しも含むというニュアンスだったが、引用後の紹介文では「いつもシャツ出ししている少年」という低年齢男子についての形容である点が否定され青年男性のこだわりを表すフレーズだといった誤解に変化している例なども。
しかしプエルトリコの辞書・本での用例などを見てみると「スクールボーイのだらしなさというよりは、40代以下の男性のファッションポリシーのことを指す」というのは元々の語義におそらく反しており、実際にはむしろその逆の「学校に通っているような年代の男児・青少年でいつもシャツの裾を出している子」という、そういう装いをしないシャツイン階層が下の階層を見た際に感じるだらしないといったニュアンスも込めて使われていた語だとの印象。
cotisuelto は今でもプエルトリコ人たちが日常的に使用している語なのか?
なおこの語がカリブ海地域で今も多用されている語なのかは不明で、ネットを検索しても「翻訳できない外国語」「奇妙な外国語」を紹介する記事や辞書での見出し語としてのページばかりがヒットしプエルトリコ人が現役で多用している形跡を確認することはできなかった。SNSでもスペイン語圏で cotisuelto を含むポストが行われている実例がほぼ無い様子。
cotisuelto 自体は1943年刊の辞典『Diccionario general de americanismos』などに掲載があり1950年代に刊行された複数の書籍に載っていることからその時点ではまだ現役の表現だったようだが、そうした古い資料に載っている造語が『The Meaning of Tingo』(2005年刊)、『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズに拾われ、それが『翻訳できない世界のことば』にも転載され世界的に知られることとなった一方、今から170年前小説で使われたりしていた言い回しということで現地のネイティブがあまり使わなくなっているのに海外で有名になったケースである可能性も考えられる。
書籍検索などに多数残っていないことからすると、もともとあまり使われていなかった語でプエルトリコという局地的な狭い地域でのスペイン語方言だったため他地域のスペイン語話者にもあまり知られないまま廃れたにもかかわらず、翻訳できない世界の言葉ブームで数十年の時を越えて発掘され有名になったのではという気も。
そのため cotisuelto もはや誰も使わない死語なのか、現役で使っても不自然でないのかはネイティブのプエルトリコ人たちに確認する必要があるものと思われる。
ケース分類
『翻訳できない世界のことば』や英語圏の紹介記事ではだらしのないスクールボーイの格好ではなく40代未満(under 40)の男性(man)のシャツ出しファッションへのこだわりのことだと説明しているが、元々のプエルトリコ方言としてはそうしたシャツアウトスタイルが世界的に定着するよりもずっと前の古い時代(1800年代)に使われだしたらしい語で男児・少年・若者などと低めな年齢の設定だった模様。
プエルトリコスペイン語辞書や専門書によると元々はファンションとしてのこだわりというシャツ出しとは無関係な侮蔑語で、いわゆる労働階級・小作農民階級の男児らの服装を指す表現だったものと思われる。
翻訳困難外国語表現ブームではそうした背景事情が省略され転載を繰り返すうちに、語義が「日常的にシャツの裾をズボンの外に出している男子」→「シャツの裾を頑としてズボンに入れたがらない男性」に変化。『翻訳できない世界のことば』において現代の若者が好むシャツアウトファッション的な服装・スタイルのこだわりや好みを表すものとして紹介されるようになったものと推察される。
さらに解釈は発展し「人生も着るものもリラックス」「ゆったりした好ましいファッション・ライフスタイル」「男の美学・信念」といった内容に変化している事例も見られる。
WALDEINSAMKEIT(ヴァルトアインザームカイト)ドイツ語
実際の発音
Waldeinsamkeit([ˈvaltˌʔaɪ̯nzaːmkaɪ̯t]、ヴァルトアインザームカイト)[ Wiktionary | Forvo ]
└ Wald(/valt/、ヴァルト):森
└ Einsamkeit(/ˈaɪ̯n.za(ː)mˌkaɪ̯t/、アインザ(ー)ムカイト):孤独、ひとりきりであること
ザームと伸ばさずザムと発音することもあるようで、日本語カタカナ表記としてヴァルトアインザームカイトとヴァルトアインザムカイトの両方が出回っている模様。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
森の中で一人、自然と交流するときのゆったりとした孤独感。
*見開きページには「市街地の公園には森とよべるようなものはなく、わたしたちはこんな気持ちをなかなか味わえなくなっています。ふだん、自然以外のほとんどのものと交流していますが、自然に触れると、枝のすきまからそんな現実が去っていくような気がします。魂が、きっと木々のめぐみに感謝したくなるでしょう。」とのコメントあり。
実際の意味
ドイツでの使用状況
Wald(森)と Einsamkeit(孤独、ひとりきりであること)からの合成語。既存の単語を組み合わせて作ることが多く長い造語ができがちなドイツ語における複合語の典型例だという。
ドイツ語オンライン辞書 DWDS によると、この語が使われだしたことが確認できるのは1700年代末期以降。1880~1900年頃にピークとなり1950年過ぎには使用例がかなり減少。
redditの質問スレッド『TIL the German word, waldeinsamkeit, has no equivalent in English, and means “the feeling of being alone in the woods”.』によるとドイツ・ロマン主義の時代に流行した複合語で、現在のドイツにおける日常会話ではめっきり使われなくなったという。ドイツ語ネイティブに対する質問が書き込まれている HiNative『ドイツ語の”Waldeinsamkeit”という言葉は、どんな気持ちや状態を表しますか?また、どのくらいの頻度で使われますか?』でも「現在の時代全然使われていない言葉」という回答となっている。
DUDENのオンライン辞書によると「dichterisch」(詩的、poetic)な用法だとのこと。その他の記事からも、元々ドイツ人が日常会話で多用する言い回しではなく文学界で生み出された造語で文学作品向けだったらしいことがわかる。
HiNative『ドイツ語の”Waldeinsamkeit”という言葉は、どんな気持ちや状態を表しますか?また、どのくらいの頻度で使われますか?』では不自然な言い回しと形容されていることから、おそらく日常会話に取り入れにくい流行語・造語だったため、普及せずに終わったものと思われる。
ドイツ語文における実際の用例とニュアンス
ドイツ語オンライン辞書のうち Waldeinsamkeit を収録していないものも多かったが、掲載辞書で紹介されている意味は「他の人々から隔絶して森にいること」「森の中に隔離されていること」「森に隠遁すること」(≒他の人たちから離れて森で過ごすこと)など。
非ネイティブがドイツ人に具体的な使い方を聞いている reddit スレッド『What part of speech is “waldeinsamkeit”? I’m curious of how to use that in a sentence.』では「ドイツで一度も聞いたことが無い。アメリカのブログで紹介されているのを読んだことがあるだけ。」「めったに使われない言葉。修道僧が森の中で世間から隔絶した暮らしをすることなどを表したりする。」といった情報や「”森の中でひとり物思いに沈んだ”、”彼は森でひっそり一人暮らしをしている”といった文章で使える」という使い方の提案などが寄せられている。
『翻訳できない世界のことば』では単独で過ごすことを意味する「森の中で一人」という表現になっているが、ドイツ語オンライン辞書サイトの例文では
- Zwei Stunden weilten wir in schweigendem Schauen in dieser tiefen Waldeinsamkeit.(1926年)[ DWDS用例 ]
意訳:我々は自分たちきりが深い森に包まれ静かに瞑想して2時間を過ごしたのだった。 - In weltferner Waldeinsamkeit lebten die Meister mit selten mehr als zehn Arbeitern und ihren Familien.(1991年)[ DWDS用例 ]
意訳:親方はめったに10人を越えない働き手と彼らの家族とともに人里離れた森にひっそりと暮らしていた。 - In der Waldeinsamkeit sollte die leninistisch‑marxistische Doktrin und ihre Praxis diskutiert werden.(1962年)[ DWDS用例 ]
意訳:人気が無い森のただ中でマルクス・レーニン主義とその実践について議論が行われた。
のように一人だけでなく集団にて他の人々から離れて森で過ごすことも含まれており、必ずしも自然と交流して大地の恵みに感謝するような気持ちで森林浴を味わうというシチュエーションで使われる語だとは限らないことがうかがえる。
ドイツ文学のロマン主義と造語 Waldeinsamkeit の誕生
ドイツのロマン主義における代表的作家ルートヴィヒ・ティーク(Ludwig Tieck)は1797年に民話集を発表したが、森の奥深くが登場する空想的物語メルヘン(メルヒェン)である創作童話『金髪のエックベルト』で Waldeinsamkeit という語が複数回使われている。
『金髪のエックベルト』は精神錯乱、殺人、兄である主人公と異母妹が本人たちの知らぬまま結婚するといった悲劇が起きるなど作者が好んで読んでいたジャンルでもある怪奇小説的を思わせる不可思議な筋運びとなっているというが、森といってものどかで癒やされる牧歌的な存在ではなく恐怖などを連想させるものとなっており、孤独な主人公を取り巻く鬱蒼とした不気味でもある森や不安の象徴として Waldeinsamkeit という語がからんでくるのだという。[ 同志社大学学術リポジトリ『ティークとロマン派』]
ヴァルトアインザームカイト(ヴァルトアインザムカイト)という造語を広めたティーク自身は大都市ベルリンの育ちだったが青年時代に発狂の恐怖から山中をひたすら歩き続けることを複数回経験。のんびり過ごす癒やしの場所ではなく恐怖や狂気との戦いの場所としての森という姿はそうした実体験から得られたものだったようである。『金髪のエックベルト』では歌の歌詞として Waldeinsamkeit が登場するが、小鳥が歌う森で独り暮らすことの幸せ、森暮らしがもたらした罪悪感・不安・疑心暗鬼などとからんでおり、ティークの創作メルヘン(メルヒェン)に登場する人物らが向き合う内面世界と森とが関連しているという。[ 大阪市立大学文学研究科『内なる異界』]
当時のドイツ文学作品を考察した論文などから、Waldeinsamkeit という造語は現在紹介されている姿とは違い、森でひっそりと過ごすことをプラスに描いた明るくのどかな側面と不安・恐怖・狂気といった人間の内面といった暗い側面をそれぞれ体現した文学的で非常に深い意味で使われているらしいことがうかがえる。
その後 Waldeinsamkeit という語はドイツの作家たちに広まり、「他には誰もおらず自分たちだけ」「美しい自然に囲まれる」といった当初のニュアンスとは異なったロマンチックな情景描写で使われたりもするようになったという。またこの語はアメリカの Ralph Waldo Emerson(ラルフ・ウォルド・エマーソン/ラルフ・ウォルドー・エマーソン/ラルフ・ウォルドー・エマソン)にも取り入れられエマーソンは『Waldeinsamkeit』と名付けた詩も発表。森に包まれて過ごすひとときや静謐な自然を描写したとされる。
なおドイツ語版Wikipediaには牧歌的で理想的存在として描かれるようになったロマン主義以前の Waldeinsamkeit 的イメージについて触れ、人里から離れた森の奥での生活というのが禁欲的な修道生活を表していたことを紹介。文学的なニュアンスが少なめな「森で外界から隔絶されている様子」を表現するのに使われ得ることがわかる。
日本語や英語における訳語
Waldeinsamkeit はティークが多用して以降ドイツ・ロマン主義のシンボル的な用語となったことから日本でも複数のドイツ文学関連の論文で考察され、主に用いられてきたらしい和訳は「森の孤独」。詩や文の雰囲気に合わせて「森の寂寞」「森の寂寥」「森の静寂」「独り森の中」「森の中で感じる孤独」「森の寂しさ」「森の如き場所に独り取り残されたかの如き孤独」といった訳語や説明になっている例なども過去100年ほどの間に刊行された書籍・論文から確認できる。
またこの語に対応する英訳としては forest solitude、solitude in the forest、woodland solitudeなどが確認できた。
ケース分類
本の説明はこの語が持つイメージの一端を示したもので間違いではないようだが、必ずしも「一人」「自然と交流」「ゆったり」「自然・木々の恵みに感謝」とは限らず、複数人の時にも用いられ、森の奥深くで暮らしていたり他の人々から離れ自分たちだけで森で過ごす様子などを示したりもするとのこと。
この単語自体はロマン主義の流行に伴い作られ、単なる牧歌的な静けさ・安らぎに留まらない人間の内面に表れる不安・恐怖・狂気と結び付いたキーワードなどとして文学作品にしばしば登場。その後美しい自然に囲まれるといったロマンチックな意味合いや幸せで穏やかな心の安らぎにも変化。1880~1900年頃がピークで、その後使用頻度が減少。今のドイツ人にとっては言い回しが多少不自然に感じられるほか、日常会話で使う言葉でもないという。
英語圏で紹介されている翻訳困難語は18~19世紀の書籍・辞書が元ネタになっていることが多くネイティブが既に使わない死語が有名になることもしばしばだが、Waldeinsamkeit もそれに近い事例だと思われる。
CAFUNÉ(カフネ)【ブラジル・ポルトガル語】
実際の表記と発音
cafuné(/ka.fuˈnɛ/、カフネ)[ Wiktionary | Forvo ]
*最後のネの部分にアクセント。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
愛する人の髪にそっと指をとおすしぐさ。
*見開き反対側は「感情と官能をふんだんに持った人たちがひしめきあう国で、恋人たちらしいこんな行動を言い表す言葉があるのは、おどろくことではないかもしれません。その人の髪のシャンプーの香りで愛を実感することもあるし、自分の髪に信頼する人の指がからまるのは、とても安心できることです。」という追加説明的な文章となっている。
実際の意味
ポルトガル辞書における語義説明
オンラインのポルトガル語-英語辞書もしくはポルトガル語辞書に載っている定義ではブラジルで使われている単語として
MICHAELIS
Moderno Dicionário Inglês
-
- a soft scratching or stroking on the head (to lull somebody into sleep).
(誰かを寝かしつけるために)頭を優しくかいたりなでたりすること - scratching behind the ear (dogs, cats).
(犬や猫の)耳の後ろをかくこと
- a soft scratching or stroking on the head (to lull somebody into sleep).
MICHAELIS
Dicionário Brasileiro da Língua Portuguesa
-
- Ato de coçar levemente a cabeça de alguém, produzindo estalidos com as unhas, como quem cata piolho.
シラミ取りのように爪でカリカリしながら誰かの頭を軽くかく動作 - Afago ou carícia com a ponta dos dedos no couro cabeludo
【付随的語義】頭皮を指先でさすったりなでたりすること - Peteleco dado na orelha.
【ペルナンブ(ー)コ地域】耳をつつくこと - Pessoa baixa, atarracada e franzina.
【スラング】背が低くずんぐりしてひ弱な人 - Dendezeiro baixo e mirrado entre os demais da plantação ou que cresceu no meio dos outros.
プランテーション農場に生えている背が低く育ちの悪いパームやしの木、ないしは他の木々に囲まれて生えているもの
- Ato de coçar levemente a cabeça de alguém, produzindo estalidos com as unhas, como quem cata piolho.
Dicionário Priberam da Língua Portuguesa
-
- Acto de coçar ou afagar a cabeça de alguém, para fazer adormecer.
寝かしつけるために誰かの頭をかいたりなでたりする行為 - Carícia feita com os dedos, sobretudo no couro cabeludo.
指で特に頭皮を愛撫すること - Criança, menino.
【ペルナンブ(ー)コ地域】小児、少年 - Pancada, geralmente com a cabeça do dedo médio ou indicador, curvando-o até apoiar a unha sobre a cabeça do polegar e endireitando-o de repente.
【ペルナンブ(ー)コ地域】強打。通常、親指の先に曲げて当てておいた中指と人差し指の爪先を急に伸ばすことで行う。
- Acto de coçar ou afagar a cabeça de alguém, para fazer adormecer.
infopédia
Português – Inglês
to stroke somebody’s hair
誰かの髪をなでること
infopédia
Língua Portuguesa
-
- ação de afagar suavemente a cabeça de alguém para o adormecer
the action of gently stroking someone’s head to put them to sleep
寝かしつけるために誰かの頭を優しくなでる動作 - carícia (em especial, se feita com os dedos na cabeça de outrem)
愛撫(特に指で誰かの頭を(*管理人による補足:愛情を込めて優しくなでること)) - menino; criança
【地方方言】男の子;小児 - piparote dado no lóbulo da orelha; peteleco
【地方方言】耳たぶをはじくこと;パチンと叩くこと
- ação de afagar suavemente a cabeça de alguém para o adormecer
-
- Estalído, que se dá com as unhas sôbre a cabeça de alguém, para o adormentar.
寝かしつけるために誰かの頭を爪でカリカリすること。 - Pequeno dendê, intercalado nos grandes.
他の大きなものの間に生えている背丈の低いパームやし
- Estalído, que se dá com as unhas sôbre a cabeça de alguém, para o adormentar.
といった意味を持っていることを紹介。
またネットで提示されている例文からは親(父親・母親)などの大人が子どもの頭をなでたりする時に使ったりもすることがわかるが、これについては reddit などで「必ずしもロマンチックな恋愛的なものとは限らない」「性的なものではなく相手を喜ばせるために行う仕草」といったネイティブ説明がなされるなどしている。
英語圏での紹介事例
外国語表現雑学本の人気書籍『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズにもこの語が掲載されているが、Tingoシリーズの中では「the loving, tender running of one’s fingers through the hair of one’s mate (from the act of a favoured slave who picked lice out of the slavemaster’s child’s hair)」(愛を込めて優しく相方の髪を指ですくこと(お気に入り扱いされていた奴隷が主人の子どもの髪にいるシラミをつまみ取る動作が由来))と説明され、ブラジル・ポルトガル語辞書で説明されているような「頭をなでる」「頭皮を爪でカリカリする」から「愛しい相手の髪を手櫛ですく」に変化したことがうかがえる。
Tingoシリーズの作者は英国人だが、この時点ではイギリス英語で仲間や相棒といった意味合いも持つ mate という語が使われており、指で髪に触れる相手が恋人や配偶者であると限定した感じの言い回しにはなっていなかった。
また「お気に入り扱いされていた奴隷が主人の子どもの髪にいるシラミをつまみ取る動作が由来」というくだりは、コロニアル時代のブラジルでは cafuné というのは白人の主人側がお気に入りの奴隷女性の膝の上に頭を乗せて彼女の指先で髪の毛の間にいるシラミを取ってもらっていた、シラミ取りで頭を触られているといい気分になって眠くなった、といったカフネの元々の姿を紹介した書籍なりを参考にしたものと思われる。
cafuné(カフネ)の原点は頭髪のシラミを取る作業
バントゥー語群キンブンド語が語源*とされるのも、このシラミ取りを行っていたブラジル北東部の奴隷たちの大半がアンゴラ出身だったからだという。主人の家の子らの哺乳・読み聞かせ・シラミ取りなどは彼女たちアンゴラ系女性奴隷の担当で、シラミ取り作業は cafuné(カフネ)と呼ばれていたとのこと。[ ソース ]
*ソースによってはヨルバ語が語源だとしていることも。
コロニアル期のブラジルとアフリカ系女性奴隷の労働内容について触れた書籍にはしばしばこのカフネという語が登場。ある程度成長した雇用主一家の白人女性の場合は髪を下ろして横になり、奴隷女性がその髪を指先ですきながらシラミを探しては爪先で退治するということを行っていたが、この作業が cafuné という名称で呼ばれていたという。[ ソース ]
Deonísio da Silva(*ブラジルの研究者・小説家・ラジオ出演者・ライター)著『De Onde Vêm as Palavras: Origens e Curiosidades da Língua Portuguesa』p.478では「元々は頭をつかんでひねることを意味していたが、後に頭皮を優しくカリカリすることを表すように。ブラジル人の頭髪にシラミがいるというのはよくあることで、注意深く除去しなければいけなかったことから cafuné(カフネ)が親愛行為を意味するようになった。」という説明がなされるなどしている。
それが『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「somebody you love」(直訳:あなたが愛する誰か≒愛する人)、「sensuality」(官能)、「quintessential lover’s act」(恋人による典型的な行為)という説明に発展しており、性愛のニュアンスを帯びた恋人間限定の仕草というイメージに変化した形となっている。
シラミ取り作業 cafuné(カフネ)と性愛イメージ
Ian Merkel 著『Terms of Exchange: Brazilian Intellectuals and the French Social Sciences』(2022年 University of Chicago Press 刊)では、ブラジルを訪れたフランス人社会学者ロジェ・バスティード(Roger Bastide)の目にも印象的に映り「アンゴラ奴隷たちがアフリカから持ち込んだシラミ取りの習慣がカフネの原型であるものの、指先を髪の生え際に入れてカリカリする動作は衛生のための単純作業やヘッドマッサージ効果以外にも白人の女主人がお気に入りの奴隷女性から快感を与えられるという同性愛的性的ニュアンスを持つ仕草に変化するなどした」という考察をしたことが紹介されている。
『Terms of Exchange: Brazilian Intellectuals and the French Social Sciences』などの記述からすえると、カフネの原型がアフリカのアンゴラであったという説やお気に入りの奴隷の膝の上でシラミ取りされる喜悦といった構図はバスティードが提示したブラジル文化考察の影響を受けたものである模様。
これに対して、ブラジルで1940年に刊行された資料『Revista do Arquivo Municipal de São Paulo』はカフネと呼ばれるようになったグルーミング行為がブラジルの原住民の間で実践されていたブラジル土着の風習由来だったという説を提示。親しい者同士が行うシラミ取り作業の延長として、恋人や夫婦などの間の性的行為の一環という意味合いを持っていたであろう点に触れている。
ただし、現在のブラジルで家族やペット相手にも使われる cafuné が引用・転載を経て情熱と官能という連想から恋人・夫婦限定の行為を表す言葉という解釈になっていったことについては、そうした社会学・人類学的な研究とは特に関係無く、翻訳困難語ブームに関して各地域の言葉の理解がステレオタイプ的な民族性イメージ(例:“ラテン系は情熱的”)に引っ張られがちであることが影響したようにも見受けられる。
ブラジル国内でも古くから議論があったカフネと性的快感・性的行為との連想と欧米におけるここ20年ほどのカフネのロマンチックな解釈がたまたま類似したとはいえ、おそらく翻訳困難語ブームでは”情熱的なラテン”と恋愛表現という理解がなされたであろう一方、現実のカフネはシラミ取りの気持ち良さが性的な意味を帯びるようになったという経緯であるためラテン的な民族性とは特に関係が無いように思われる。
語源は奴隷の出身地アンゴラの言語キンブンド語説など
語源は確定していないもののバントゥー語群キンブンド語の kifunate(ひねる、ねじる)説などが知られているほか、ポルトガル語の記事がアンゴラ起源説以外にもブラジルの原住民の習慣と言葉が由来だという説もあると紹介。親近感を込めて相手を心地良くさせるこの仕草がカフネの原型になったと説明するなどしている。
バントゥー語群キンブンド語由来説では kifunate(ひねること、ねじること;捻挫)が由来だとの説などが知られているという。
そのため「情熱と官能のラテン民族ならではの発想」「愛情を込める仕草を意味する言葉として生まれた」といった理解は誤解釈である可能性が高いかと。
日本で流通している意味説明・解釈
日本では「子供、恋人、家族など、愛する人の髪にそっと指をとおすしぐさ 頭をなでて眠りにつかせる、穏やかな動作」「誰かやペットなどを撫でたり、髪に指をからめて触れたり、気に掛けること」「夜寝る前やテレビを見ながら、家族やカップル同志で撫でたりすること」といった説明になっている記事がある一方、英語圏での紹介を経由した影響だと思われる「恋人の髪を撫でること」「恋人の髪の毛で遊ぶ動作」「恋人の髪の毛で遊ぶしぐさ」「愛しい人の髪に指を絡める仕草」といった説明も。
これらは現在のカフネ像に即したものであり、マイナー言語の翻訳困難語でしばしば見られるような大きな飛躍や実像に即していない説明文とは異なっている。ブラジルのポルトガル語は日本に話者が多く英語圏でもネイティブによる有名ワードの詳細説明が多数情報が出回っているせいか、全体的に見ると他のマイナー言語に比べ本来の用法との間に大きな差が発生しづらいのでは、との印象。
ケース分類
現在のブラジルでは寝かしつけや家族・恋人・動物をかわいがったりするために頭をなでたり、シラミ取りや寝かしつけのために爪先で相手の頭をカリカリしたりする動作を指す単語だとのことだが、英語圏では「愛しい相手の髪を手櫛ですく行為」として紹介。
動作の対象が髪も含む人間の頭や毛の生えた動物の体から人間の髪のみに変わり、もっぱら恋愛関係のロマンチックな行為だと解釈される原因となったものと思われる。
引用・転載を繰り返した結果『翻訳できない世界のことば』では官能や性愛をイメージさせる恋人限定の愛情表現というイメージが強まり、「恋人同士の優しい仕草を表すために生まれた言葉」といった印象を与えやすくなっていると言える。
実際のところは爪先を使ってシラミを取る作業が由来だそうで、髪の間に指を入れられカリカリされていると気持ちが良くなって眠くなってくるというのが「寝かしつけのために頭をなでる」「親愛などから身近な人の髪や頭皮をいじる」という現在のカフネの姿になったとのこと。
ラテン系ではなくアフリカもしくはブラジル原住民の習慣や言葉が由来とされているが「さすがラテンの国。情熱と官能の民族だけあって、恋人同士が愛情を込めて髪をすく動作を呼ぶ名称をわざわざ作った。」といった誤解がされがちでもある。
KALPA(カルパ)【サンスクリット語】
実際の表記と発音
कल्प(/ˈkɐl̪.pɐ/、カルパ)[ Wiktionary ]
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
宇宙的なスケールで、時が過ぎていくこと。
実際の意味
本に書かれていないが、日本では仏教用語の「劫」(こう/ごう)のこと。梵語(サンスクリット語)のカルパに漢字で当て字をした「劫波」(こうは)のうちの一文字目だけを残して「劫」として日本語に定着したもので、「永劫」「億劫」のように日常的に使われる言葉にもなっている。
日本の辞書などでは劫(こう/ごう)ことカルパの一般向け説明・定義は「非常に長い時間」「極めて長い時間」「極めて長い宇宙論的な時間の単位」「古代インドにおける時間の単位のうちで最長のもの」など。
カルパが非常に長い時間を表す単位であるのは仏教に限らずヒンドゥー教なども含めたインド哲学に共通の考えで、世界の生成から消滅に関わる非常に壮大かつ途方も無いスケールでの時間の流れを示す単位として用いられているという。[ ソース ]
『翻訳できない世界のことば』では長い時間や時間単位ではなく「時が過ぎること」という説明になっており、本来の語義との間にずれが見られる。
*英語原作『Lost in Translation』では「The passing of time on a grand, cosmological scale.」(宇宙論的な壮大なスケールでの時の経過)という表現で、日本語版では grand(壮大な)が省かれた訳になっている。
また見開き反対側には「わたしたちは、実際にそれを見ることはできないけれど、イメージすることはできます。惑星はわたしたちが走るよりもずっと速いスピードで動いているし、夜空に輝く不変に見える星は、じつは、永遠にそこにあるわけではないのです。」と書かれているが、カルパ本来の語義とは特に関係が無いと思われる記述となっている。
これについては原作者氏が宗教用語としてのカルパの定義をあまり把握しておらず「世界の誕生から終焉・消滅・破壊というインドの宗教にある宇宙論的な概念で用いられる時間単位のカルパ」という中に含まれる「宇宙論的(cosmological)」という表現から、「惑星や星」「長い時間をかけて変化する宇宙にある天体の営み」といったイメージを持ったことによる描写だった可能性があるものと思われる。
ケース分類
『翻訳できない世界のことば』では「時間の経過、時が過ぎること」といった現象・変化そのものを指した言葉として説明されているが、実際の語義は「きわめて長い時間」「インドの各宗教で用いられる最も長い宇宙論的な時間単位」となっており多少のずれが見られる。
英語原作では原語に近い語義説明だったが和訳によりずれが生じた/違う説明に置き換わった/誤解を招く表現になった例
COMMUOVERE(コンムオーベレ)【イタリア語】
実際の発音
commuovere( /komˈmwɔ.ve.re/ ) [ Wiktionary | Forvo ]
『翻訳できない世界のことば』では「ve」をヴェではなくベ(be)と同じカタカナ表記とし「コンムオーベレ」としているものの、実際の発音表記やネイティブ発音音声ファイルからすると com | muo | ve | re と区切るらしく、音声ファイルなどを聞いてもコムムォーヴェレやコンムォーヴェレに近いとの印象。
なお、コンムオーヴェレとしているイタリア語-日本語オンライン辞書あり。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
涙ぐむような物語にふれたとき、感動して、胸が熱くなる。
実際の意味
イタリア語辞典での語義説明
本での解説だと物語などに触れた人間の心が感動して胸が熱くなるという自動詞の意味で受け取れるが、実際のイタリア語動詞としては他動詞「~を感動させる、~を感激させる、~を感動させ涙ぐみそうにさせる」つまりは感動させる・感動を与える側について形容する時に使う模様。
そのためオンラインのイタリア語-英語辞典類には英語において「~を感動させる」という意味でも使われる move、affect、touch といった語が訳語として挙げられていることが多い。
Internazionale
Dizionario italiano De Mauro
-
- emozionare o turbare suscitando forti reazioni o sentimenti di pietà o di affetto
【Alto uso(頻用)】強いリアクションや哀れみ・愛情といった感情を引き起こすことにより興奮させたり心を乱したりする - turbare, impensierire
【Letterario(文学的)】困惑させる、動揺させる、不安にさせるagitare, perturbare
【Letterario(文学的)】かき乱す、動揺させる - indurre, persuadere
【Letterario(文学的)】説得する、説き伏せる - suscitare un atto, una reazione
【Obsoleto(廃れた語義)】行為や反応を引き出す
- emozionare o turbare suscitando forti reazioni o sentimenti di pietà o di affetto
コトバンク
『伊和中辞典 2版』
-
- 感動させる、感激させる、心を動かす;動揺させる
- ⸨文⸩ 揺する、激しく動かす
- ⸨古⸩ 反乱をかき立てる
イタリア語-日本語辞典でも簡潔な訳語が載っており、「揺り動かす」といったニュアンスに近いことがわかる。
また、感動させる原因となる主語部分としては、物語以外にも人・物事・出来事など色々と用いられることがオンライン辞書や「Reverso」サイトの用例から確認可能。
日本語版『翻訳できない世界のことば』と英語原作との違い
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「Often taken to mean “heartwarming”, but directly relates to a story that moves you to tears.」(直訳:しばしば”心温まる”を意味するとされますが、直接的にはあなたの胸を熱くさせ涙させる物語と関係しています。)となっており、物語などを主語にした「~を感動させる」という他動詞であることが説明されていることから、和訳される時点で意味が書き換わった模様。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』ではイタリア語本来の語義と他動詞である点に即した説明文になっており
- しばしば使うのは「heartwarming(心温まる、ほっこりさせる)」という意味である
- 直接的には、人の胸を熱くさせ涙させる物語のことを指す
と理解できる表現になっていた。
しかし和訳によって原作者氏が他動詞用法として書いていた語義「心温まる」が「胸が熱くなる」という自動詞用法に置き換わっているほか、語義のメイン部分が「心温まる、ほっこりさせる」だった言い回しが「涙ぐむような物語にふれたとき、感動して、胸が熱くなる」という全体をひっくるめたものになっている。
ともあれ、他動詞を自動詞と取り違えている点についてはいわゆる誤訳の部類に入るものと思われる。
また英語原作も感動させる物語以外にも使う言葉だということを説明文に載せておらず、特に日本語版『翻訳できない世界のことば』では「涙ぐむような物語にふれた時に感動して胸が熱くなる」全体が語義の説明だと受け取られやすい言い回しになっているため、日本では「物語や映画に感動してぐっとくること」をピンポイントで意味する言葉として紹介されていることが多いとの印象。
ヨーロッパの複数言語に同一語源を共有する対応語・訳語が存在
語源についてはラテン語の commoveo(con-(ともに)+moveo(動かす))や commovēre だといった説明がなされているが、はるか昔のラテン語の時点で「(物事を)激しく揺り動かす」「(心を)激しく揺り動かす(≒動揺させる、感動させる)」という意味で使われており、語源的にも物理的運動なり人の心なりを揺らすことをまとめて表現する動詞だったことがうかがえる。
ラテン語の時点で今のイタリア語の commuovere とほぼ同じ意味を持っていたことから、イタリア語が今の形になってから以降の時代にイタリア人たちの手で「涙ぐむような物語にふれた時に感動して胸が熱くなる」ことだけを表現するために作られた言葉ではない点に注意が必要だと思われる。
また同じラテン語の語源を共有するヨーロッパの複数言語にラテン語の commoveo / commovēre の子孫に当たりイタリア語の commuovere と語形もよく似ている語があり、英語にも commove(激しく揺り動かす;~に強い感情を引き起こす;興奮させる)という commuovere と同じ先祖を共有する親戚に相当する他動詞が存在するため、他言語に翻訳できず対応語が見つからないケースではないものの『翻訳できない世界のことば』に収録された語の一つとなっていると言えるかと。
ケース分類
commuovere 自体は「~を感動させる」といったシンプルな意味だとのことだが、『翻訳できない世界のことば』では「涙ぐむような物語にふれたとき」という説明文になっているため感動的な物語限定の表現と誤解されやすいとの印象。
訳せない多くの要素が詰まっているというわけではなさそうなので、訳せる言葉ながら『翻訳できない世界のことば』に掲載された例に該当するものと思われる。
また英語原作と日本語版とでは意味説明が多少異なっており、原作英文の忠実な訳にはなっていない日本語版では元々の他動詞的語義「~を感動させる」が感動した側の気持ちを表すと受け取れる自動詞「感動する」としての意味に置き換わっているため、その部分については誤訳に当たるかと。
KILIG(キリグ)【タガログ語】
実際の発音
kilig(/kiˈliɡ/、キリグ)[ Wiktionary | TAGALOG.COM | Forvo ]
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
おなかの中に蝶が舞っている気分。たいてい、ロマンチックなことや、すてきなことが起きたときに感じる。
実際の意味
タガログ語辞書における語義説明と語源
タガログ語(フィリピン語)のオンライン辞書に載っている語義は以下の通り。
-
- giddiness
くらくらすること、めまいがすること - thrilled
興奮している、ワクワクしている(こと) - shiver / shuddering
身震い、震え - romantic excitement
ロマンチックな興奮 - butterflies (in one’s stomach)
*注:「お腹の中に蝶」は英語の熟語。緊張・不安で胃がシクシク、胸がドキドキすること。
緊張で胸が高まること、緊張・期待でドキドキすること - exhilaration (from an exciting or romantic experience)
(ワクワクドキドキもしくはロマンチックな体験により)ウキウキした気分になること、気分が浮き立つこと、高揚すること、快活・愉快な喜びを感じること
- giddiness
kilig 自体は元来は「震え」という意味の語だそうで、恐怖や寒さから身を震わせることを表すのに使ったり、古い語義としては「ヘビに噛まれてブルブル震えること」もあったとか。
タガログ語よりも前にさかのぼると、元になったのはマレー・ポリネシア祖語(Proto-Malayo-Polynesian)だとか。オーストロネシア語族語彙比較サイト Austronesian Comparative Dictionary では Proto-Western Malayo-Polynesian(西部マレー・ポリネシア祖語)のページに kilig ないしは kirig という発音・表記で語義が「shudder」(震え)だったとして掲載されている。
『Tuttle Pocket Tagalog Dictionary』には「COLLOQ shivered because of love」(口語 恋愛ゆえにぞくぞくする)と載っており、「身震い・ぞくぞく」という意味から俗語・スラング的用法として「ロマンチックな出来事にぞくぞくする・ドキドキする・くらっとくる」という意味が生まれたらしいことがわかる。
「おなかの中に蝶が舞っている気分」はタガログ語ではなく英語フレーズの直訳
なお『翻訳できない世界のことば』日本語版にある意味説明「おなかの中に蝶が舞っている気分」は英語原作『Lost in Translation』で使われていた英語表現・熟語「The feeling of butterflies in your stomach」を翻訳者氏が通常の和訳通り「胸がざわめくこと、ドキドキすること」と日本語化しなかったことが由来で、タガログ語として元々 kilig という語が「お腹の中で蝶が踊る」という意味や由来を持っていたというのとは違うため「南国で蝶がたくさんいるフィリピンならではの素敵な言い回し」と誤解しないよう要注意だと思われる。
*フランス語にも「papillons dans le ventre」という全く同じ言い回しでドキドキをお腹の中の蝶で表す熟語があるが、『The Anglicization of European Lexis』(2012年 John Benjamins Publishing Company刊)p.205によると英語から意味借用(semantic borrowing)された輸入表現で英語の have butterflies in one’s stomach に既存のフランス語単語を使ってフランス語化したものだという。
英語の熟語「have butterflies in one’s stomach」(緊張・不安(・期待)などでそわそわする・ドキドキする・ざわざわして落ち着かない、胃がキリキリする、胃がシクシクする)自体は1908年『The House of Prayer』(アメリカ人作家 Florence Converse 著)初出の新しい表現で、元々は軽い胃痙攣(light stomach spasms)といった緊張・不安で胃がおかしくなった状態を指すような表現だったとか。
当初は butterfly という単数形だったが1900年代半ば頃に複数形の butterflies を使った熟語として使われだし今の形に落ち着いたのだとされている。
1943年にアメリカのボーイスカウト雑誌『Boys’ Life』に掲載されたパラシュート部隊隊員青年の談話では第二次世界大戦にで自分がどのような任務を行っているのかを児童生徒向けに説明。「I landed all right and although I’ll always have butterflies in my stomach every time I go up, I’ll never experience the fear of that jump.」(上昇するたびにいつもドキドキするものの無事着地。私は飛ぶことを恐れたことはありません。)というコメントで現行の英熟語「have butterflies in one’s stomach」が定着した様子を確認できるという。
そのため『翻訳できない世界のことば』での意味解説”おなかの中に蝶が舞っている気分”はタガログ語生まれの表現を紹介している箇所ではなく、単に英語圏で115年ほど前に考案されその後熟語として定着した have butterflies in one’s stomach を直訳しただけのものでしかなかった形となっている。
タガログ語での kilig の元々の意味は「震え、身震い」かつ現代における意味も「興奮からドキドキ・ワクワク・ぞくぞく・くらくらすること」となっているので、緊張・不安からのドキドキを表すために生まれた英熟語の butterflies in one’s stomach とは性質が異なっていると思われる。タガログ語のキリグはロマンチックな恋愛がらみのぞくぞくということで、英語と同じように悪い意味での緊張や不安からドキドキするという風に解釈・和訳しないようにする必要があるかと。
ケース分類
英語原作ではタガログ語での意味をだいたい正確に説明していたが、和訳の時点で直訳しない方が良い「have butterflies in one’s stomach」(緊張・不安(・期待)などでそわそわドキドキする)を「おなかの中に蝶が舞っている気分」と日本で意味が認知されていない言い回しに直訳したことで「お腹の中の蝶で表現するなんてフィリピンって面白い」的な誤解が発生した。
kilig(キリグ)の語源自体は西部マレー・ポリネシア祖語で「震え」を表す kilig ないしは kirig。タガログ語でも震え・身震いという意味が残っているが、「ロマンチックなぞくぞく・ドキドキ」という意味で多用されるように。
しかし翻訳困難外国語記事では元の意味に触れていないことがほとんどで、「ロマンチックなぞくぞく・ドキドキ」を表すために生まれた言葉だと誤解されることもしばしばである模様。
RAZLIUBIT(ラズリュビッチ)【ロシア語】
表記と発音
разлюбить( [rəz⁽ʲ⁾lʲʉˈbʲitʲ] )[ Wiktionary | Forvo ]
オンライン辞書などで音声を確認する限り、ラズリュビッツでもラズリュビッチでもラズリュビットでもない感じだとの印象。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
恋がさめ、ほろ苦い気持ちになる。
実際の意味
辞書に載っているのは「愛することをやめる、もう愛していない、愛が冷める、好きではなくなる、熱意や愛情を失う」という単純な語義で、「ほろ苦い気持ちになる」という上手く訳せない微妙なニュアンスの紹介は無し。
ロシア語では raz- が接頭すると否定の意味を表すことがあるそうで、「razliubit」も「raz-(否定)+ –liubit(love、愛する)=愛さなくなる」というシンプルな構成。そのため辞書サイトや例文サイトを調べても「彼はもう私のことを愛していない」や否定表現の「私はあなたを愛さずにはいられない」といったシンプルな意味での掲載のみが確認できた。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「To fall out of love, a bittersweet feeling.」(愛が冷めること、それはほろ苦い感覚。)となっており、RAZLIUBIT の意味自体は「愛が冷める。恋が冷める」のみで、ほろ苦い気持ちだというのは原作者氏が愛が冷めるというのはどういう感情なのかを自身の言葉で言い換えコメントしている部分だとある程度わかる表現になっていた。
しかし和訳の時点で「恋がさめ、ほろ苦い気持ちになる。」まで全部が RAZLIUBIT の語義だと誤解される内容に置き換わった形となっている。
なお、ロシア語-英語オンライン辞書には「Very rarely used word (top 20,000)」とあるので使用頻度はかなり低い単語である模様。
ケース分類
訳せない多くの要素が詰まっているというわけではなさそうなので、訳せる言葉ながら『翻訳できない世界のことば』に掲載された例に該当するものと思われる。
英語原作では「愛が冷めること」と定義していたが、和訳によって「恋が冷めほろ苦い気持ちになる」まで全部ひっくるめた語義説明に置き換わった。
KUMMERSPECK(クンマーシュペック)【ドイツ語】
実際の発音
Kummerspeck(/ˈkʊmɐˌʃpɛk/、クマシュペク) [ Wiktionary | DWDS | Forvo ]
『翻訳できない世界のことば』はつづり上 -mm- となっているものの発音としてはただの m になる部分が見落とされたか、つづりと発音が一致しない部分でつづりを優先させて実際の発音であるクマ(ー)ではなく表記 Kummer の見た目そのままな感じの当て字であるクンマーとする慣用カタカナ表記を適用したからなのか「クンマーシュペック」となっている模様。
Wiktionary、DUDENサイトなどには発音表記が [ˈkʊmɐʃpɛk] とありその通りに読むと「クマシュペク」になるものと思われるが、ネイティブ発音サンプルファイルだとクマーシュペクと伸ばしているように聞こえるものもあるとの印象。日本におけるドイツ系ソースの Kummerspeck 紹介記事でもカタカナ表記「クマーシュペック」が一般的であるように見受けられる。
また実際の発音が「-シュペク」になるにもかかわらずカタカナ表記で「-シュペック」になっている件については、日本語における外国語単語のカタカナ化に際する慣例表記(例:英単語 book は英語ではブクと発音するのにカタカナ表記ではッを足したブックになる)が原因だと思われる。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
直訳すると、「悲しいベーコン」。食べすぎがつづいて太ること。
実際の意味
Kummerspeck(/ˈkʊmɐˌʃpɛk/、クマシュペク) [ Wiktionary | DWDS ]
└ Kummer:【名詞】悲しみ、苦悩、苦しみ、心配、心痛
└ Speck:【名詞】ベーコン、豚の脂身;(口語)体脂肪、ぜい肉 [ Collins | Langenscheidt ]
名詞「悲しみ、苦悩、苦しみ、心配、心痛」+名詞「ベーコン、豚の脂身;(口語)体脂肪、ぜい肉」の2語から構成される複合語で、メンタル的な理由から食べ過ぎたせいでついてしまったぜい肉を茶化して表現する言葉だとか。
ドイツ語-英語辞典での記載は以下の通りとなっており、また複数確認した結果「名詞」として載っていることが一般的であるように感じられた。
Collins
excess weight caused by overeating because of emotional problems
感情面での問題による過食で引き起こされた過剰体重
Langenscheidt
extra weight caused by eating due to worries
心配事のせいで食べることにより引き起こされた過度の体重
オンラインドイツ語辞書サイト DWDS のグラフからすると、1960~1970年代以降ぐらいに流行った比較的新しい造語・スラングであるものと思われる。
ドイツ語ネイティブによる解説によると、感情的に不安定になり食に走ったことが引き起こした体重増加分や腹回りなどの贅肉を指す言葉だとか。ネットで提示されている英訳例は grief bacon、worry weight、sorrow fat などなど…
元々は豚の脂身であるベーコンを指すのに使ったりすることから「grief bacon(悲しみベーコン)」などと英訳・和訳されているようだが、ドイツ語では俗語的な用法として speck を人間の体脂肪・ぜい肉を形容するのに使うとのことなので、実際には「悲しみぜい肉、悲しみ脂肪、悩みぜい肉、悩み脂肪」といったニュアンスである模様。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では名詞+名詞の「grief-bacon(悲しみ-ベーコン)」となっていたものが、和訳される時に直訳ではない形容詞+名詞の「悲しいベーコン」に書き換わったらしく、日本語版『翻訳できない世界のことば』では形容詞+名詞という組み合わせに相当する「悲しいベーコン」と説明されている。また食べ過ぎの理由が感情面での問題であることを示す emotional(感情的な)に対応する訳語も省かれている。
また Kummerspeck は太った時に増えた体重や贅肉・体脂肪を指す語で、日本語版「食べすぎがつづいて太ること。」のように太る現象自体を指すわけではないかと。
オンラインドイツ語辞書で「制御できない心理的問題による肥満」のような語義説明を載せているものもあるとはいえ、英語原作『Lost in Translation』では「Excess weight gained from emotional overeating」(感情的な過食により増えた余分な体重)となっており「太ること」とは書かれていないことから、原作と語義説明が違っている一種の誤訳に分類されるケースだと思われる。
ケース分類
原語での発音と読みガナとの間に少しずれがあり『翻訳できない世界のことば』では表記寄りのつづりになっている模様。
和訳の過程で英語原作とはニュアンスが違う説明文への置き換わり「過食で増えた余計な体重」→「食べ過ぎで太ること」が起こった。また英語原作では書かれていた食べ過ぎの理由 emotional(感情的な)に対応する訳語が日本語版では省かれている。
TREPVERTER(トレップヴェルテル)【イディッシュ語】
実際の発音
trepverter
└ טרעפּ(trep):階段(の段(々))、(flight of) stairs
└ ווערטער(verter):言葉たち
この語のIPA発音表記が見つからなかったので、2つのパーツに分けて確認することに。
Wiktionaryによるとヘブライ文字つづりは טרעפּווערטער として登録。前半はドイツ語由来の名詞 טרעפּ(trep)で意味は「階段の段(々)」。発音は /tʁɛp/ で単数・複数が同形。後半はドイツ語由来の名詞 וואָרט(vort、英語の word に対応)の複数形 ווערטער(verter)となっている。
Wiktionaryに編集人が掲載した発音表記通りに trep を /tʁɛp/、verter を /ˈvɛʁtəʁ/ 発音すると、ʁ はパリの r とかアラビア語の غ の発音バリエーションの一つである有声口蓋垂摩擦音を表すことから、トゲプヴェグテグが混ざったようなトレプヴェルテルに近くなるのでは?という気も。
これは「ר」の子音字が古い時代のティベリア式発音では /ɾ/ だったのがその後変化して現代ヘブライ語では /ʁ/ に置き換わっていることなども関係がありそうだが、Quora の『How do I pronounce the Yiddish/Hebrew Reysh? It’s like the Russian vibrated R or the R from France.』では
- セファルディム(のヘブライ語)は前部でのふるえ音、アシュケナジムはヘブライ語もイディッシュ語も方言によって異なりドイツ語影響下では口蓋垂でスラブ語(スラヴ語)影響下では前部でのふるえ音
- 昨今のイディッシュ語歌手はロシア語話者が多いが、昔は口蓋垂の ר(reysh)がスタンダードだった。
といった話題が提供されている。
同様の各種解説記事・語学書・専門書・知恵袋系サイトによるとイディッシュ語の場合は「ר」を /ʁ/ で発音する場合と /r/ で発音する場合とがあったり、イディッシュ語の方言によっても違っていたりとまちまちである模様。
reddit の『Pronounciation of ר』には Uriel Weinreich(ウリエル・ヴァインライヒ/ユリエル・ワインライク)著『College Yiddish』(YIVO Institute for Jewish Research 刊)に説明が載っているとして該当箇所が引用されている。Googleブックス検索でも内容を確認してみると
『College Yiddish』p.21
Uriel Weinreich 著
YIVO Institute for Jewish Research 刊
There are two admissible r-sounds in Yiddish, both of them indicated in our transcription as [ ʀ ]. One is the “lingual r,” produced by the tongue vibrating along the front edge of the upper gums; the other is the “uvular r,” produced by the vibrations of the uvula. Most people learn the lingual r (also called the “trilled r”) more easily. The English type of r is not admissible in Yiddish, nor must the Yiddish r be skipped or weakened in any position:
となっており、
- イディッシュ語では歯茎ふるえ音(trilled r)である「lingual r(舌音の r)」と口蓋垂ふるえ音である「uvular r(口蓋垂の r)」の2種類の発音が認められている
- たいていの人はよりより簡単な lingual r(舌音の r)=歯茎ふるえ音(trilled r)の方で習得する
- 英語タイプの r はイディッシュ語では認められていない
- どの位置にあってもイディッシュ語の r は読み飛ばしたり発音が弱まったりすることはない
のような区別だとしている。
Wiktionaryの発音表記はトゲプヴェグテグが混ざったようなトレプヴェルテルと発音するドイツ語系発音法ということらしいが、歯茎ふるえ音であっても口蓋垂ふるえ音であっても r で英字表記・当て字することには変わりなくカタカナ表記としては「トレプヴェルテル」になるものと思われる。
YouTubeのイディッシュ語講座では「トレプヴェルテル」寄り、Forvo の発音サンプル音声ファイルでは「トレプヴェーテル」に聞こえるとの印象。ヴェーテルと読んでいるサンプル音源については現代ドイツ語会話で見られる「rの母音化」と呼ばれる現象で、音声ファイル登録者がイディッシュ語の色々な単語を吹き込んでいる一方ドイツ在住であることからドイツ語発音が混ざっておりイディッシュ語として正確に読み上げていないのでは、と推察される。
この語の正確な発音や地域差についてはヘブライ語とイディッシュ語の詳細な知識が必要になるため、管理人が調べられるのもここまでということに。
なお『翻訳できない世界のことば』でトレップヴェルテルになっているのは、日本語における外国語単語のカタカナ化に際する慣例表記(例:英単語 book は英語ではブクと発音するのにカタカナ表記ではッを足したブックになる)が原因だと思われる。
ちなみに Wiktionary には Trepverter のイディッシュ語表記として טרעפּווערטער が登録され、オランダのサイト Stichting Jiddische Lexicografie Amsterdam にも収録されているがウェブ検索でヒットする件数は非常に少なく、Googleブックスでも1980年代以降に使われた3件の事例が示されるだけとなっていることから、ヘブライ文字を使ったイディッシュ語、ヨーロッパでユダヤ人が暮らしていた時に使っていた生きたイディッシュ語として trepverter が使われていなのではなかった可能性も考えられるかと。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
直訳すると「言葉の階段」。あとになって思いうかんだ、当意即妙な言葉の返し方。
実際の意味
英語圏での紹介事例
英語圏では外国語表現雑学本の人気シリーズ『The Meaning of Tingo』(2005年刊)、『Toujours Tingo』(2007年刊)などでこの Trepverter が収録されたらしき形跡は見られない。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』刊行以前の2009年5月上旬頃の英語版Wikipediaに既に記載があったこと、新造したアメリカ在住作家ベローを通じて「Trepverter」が英語圏でいち早く広まったであろうことから、有名雑学本とは違う経路で英語話者である『翻訳できない世界のことば』原作者氏の目に留まり、語源はフランス語であることや英語に staircase wit という訳語があることなどが見落とされたまま、元になったフランス語よりも優先してイディッシュ語にあった言い回しという設定で作家が造語した Trepverter が掲載されたものと推察できるように思われる。
日本語版『翻訳できない世界のことば』と英語原作との違い
『翻訳できない世界のことば』原作である英語版『Lost in Translation』では「A witty response or comeback you think of only after it’s too late to use. Literally, “staircase words”.」(使うには手遅れ過ぎる時になってから思いつく機知に富んだ返事や受け答え。文字通りの意味は「階段言葉」。)となっており、和訳との間にだいぶ違いがある。
語順的にも「階段言葉」であることから英語版の「staircase words」が正確な直訳となっているが、日本語版では和訳時に順序が逆になり「言葉の階段」に変わっている。
大元はフランスのディドロが『俳優についての逆説』で使った造語
trepverterはフランス語の「L’esprit de l’escalier」(esprit de l’escalier、階段の機知)と表す内容が全く同じで、集まりの場では当意即妙な切り返しができず黙り込んだりしてしまったのに、その場を辞して帰るために開催場所の階段を下りたあたりで「あーっ、ああ言えば良かった!」と上手い言い回しを遅ればせながら思いつくことを意味。
フランス語の「L’esprit de l’escalier」(esprit de l’escalier、階段の機知)は由来を説明する書籍や記事が多数あり、Denis Diderot(ドゥニ・ディドロ/ドニ・ディドロ)が遺稿の一つだった俳優論『Paradoxe sur le Comédien』(俳優についての逆説、1830年刊)で使ったのが最初・語源だったことを確認可能。
ディドロは銀行家・政治家であった Jacques Necker(ジャック・ネッケル)邸での夕食会の際、参加者だった知識人が他の知識人たちの才能に関するあけすけで辛辣な評価に呆然。言われた言葉について考えるので精一杯になり何も言えなくなってしまい、辞去する段階になってからはっと我に返って感受性が強すぎるために何もコメントできなくなってしまった自分を悔しく思ったのだという。[ ソース ]
なお「階段の機知」については複数言語で共通する言い回しがあることに関して「人間はたいてい同じようなことを考えるから、各言語でそっくりなフレーズが同時多発的に生まれたらしい」といった考察もネットでは見られる。
しかしながら各言語での言い回しに関して調べてみると「a calque of French esprit de l’escalier」や「borrowed from French」などといった具合にフランス語からの借用だと書かれていたりするので、実際にはフランスのディドロが考案した造語が翻訳借用により各言語に取り入れられていったからであり各言語の話者があちこちで似た表現を考案したのではない可能性が非常に高いとの印象。
イディッシュ語における「階段言葉」「階段の機知」とその由来
イディッシュ語の Trepverter については
『Jewish American Writing and World Literature: Maybe to Millions, Maybe to Nobody』p.
Saul Noam Zaritt 著
2020年 Oxford University Press 刊
However, trepverter is not as “local” as Bellow’s narrator would have the reader believe: trepverter is actually a calque of the French idiom l’esprit de l’escalier, likely a result of interactions between Yiddish and French-speaking of Montreal, where Bellow spent the first nine years of his life.
しかしながら、trepverter はベローの語り手が読者にそう感じさせるかもしれない”ローカル”なものではなく、実はフランス語のイディオム l’esprit de l’escalier の翻訳借用であり、おそらくはベローが人生最初期の9年間を過ごしたモントリオールでのイディッシュ語・フランス語間の相互作用の結果だったのだ。
*文中の「Bellow」はカナダ生まれのユダヤ系アメリカ人作家ソール・ベロー(Saul Bellow)のこと。
『Verbatim, the Language Quarterly 6』p.5
1979年 Verbatim Books 刊
No German (or German dictionary) of my acquaintance says Treppenwörter. The German term is Treppenwitz, which is probably a loantranslation of the French term, which, pace both contributors, is l’esprit de l’escalier, coined by Diderot in that form. Both terms refer to the faculty of “staircase wit’ rather than to concrete instances of its operation. The latter are designated in Yiddish by the form trepverter which may be more current in America than its German parent and hence the source of Mr. Slobodkin’s misinformation. Saul Bellow’s Herzog uses the Yiddish word (and also the French phrase)
・筆者の知人のドイツ人もドイツ語辞書も階段の機知という意味では Treppenwörter(*管理人注:ネット情報によるとフリジア語だとのこと)を使っていない。
・ドイツ語では Treppenwitz だが、おそらくはディドロの造語であるフランス語表現 l’esprit de l’escalier の借用翻訳。(*管理人注:ドイツ語圏でも Treppenwitz はフランス語からの借用だとの記事あり。オンラインドイツ語辞書DWDSによるとディドロが考案したフランス語表現が1800年代半ばにドイツ語化されたものだという。)
・イディッシュ語では trepverter という言い回しで、ドイツ語の親(*イディッシュ語が話されていた地域であるドイツで使われいた Treppenwitz のことかと)の方よりもアメリカで流通している。
・ソール・ベロー(Saul Bellow)は『Herzog』(日本語カタカナ表記:ハーツォグ/ハーツォーグ/ハーゾグ/ハーゾク)の中で「階段の機知(階段言葉)」としてイディッシュ語とフランス語それぞれの表現を使っている。
『Jewish Language Review』
1981年 Association for the Study of Jewish Languages (University of Haifa) 刊
I have never heard Yiddish trepverter and wonder whether Bellow was not just coining a nonce to put in Herzog’s mouth (since Yiddishisms, not Germanisms, are appropriate to Herzog’s English, it is clear why Bellow did not want to use the established German word). Can anyone attest such a Yiddish word?
・自分はイディッシュ語の trepverter という表現を聞いたことが無い。
・Herzog に関しては既存のドイツ語表現「階段の機知」を使いたくないというイディッシュ語主義的な動機がベローにはあり、(*主人公である)Herzog が話す英語文で使うべく trepverter を造語したのではないかとも思っている。
・こうした(*trepverter)というイディッシュ語表現が本当にあるのかどうか、誰か証明できるというのだうか?
といった記述があり、「Can anyone attest such a Yiddish word?」あたりには「そんなイディッシュ語表現など実在しなかっただろうに。実際に使っていたと証言できる人が仮にいたのなら知りたいぐらいだ。」という批判・不満とも言えるニュアンスを感じ取れるように思われた。
どうやらイディッシュ語界隈では、カナダ生まれのリトアニア・ユダヤ系アメリカ人作家・劇作家であるソール・ベロー(Saul Bellow)が1964年刊の英語小説『Herzog』(日本語カタカナ表記:ハーツォグ/ハーツォーグ/ハーゾグ/ハーゾク)で使うために元のフランス語からイディッシュ語に翻訳借用して作ったのではないかという声があった様子。
Googleブックスの過去書籍検索でも1964以前の書籍で Trepverter / טרעפּווערטער を使っているものがヒットしないこと、イディッシュ語やヘブライ語のメジャーなオンライン辞書で検索しても出てこないこと、イディッシュ語やヘブライ語の書籍でもソール・ベロー(Saul Bellow)が『Herzog』で使ったといった言及があることから、ソール・ベローがイディッシュ語に元々あった翻訳借用表現という設定で作中に出したというイディッシュ語関係者からの指摘通りだった可能性も高いかと。
以上の理由から、ソール・ベローがフランス語の l’esprit de l’escalier から直接イディッシュ語風にに翻訳借用して考案したものがユダヤ人社会に広まったという順番が実際のところで、ヨーロッパにおいてイディッシュ語話者たちがフランス語表現を翻訳借用して使ってきた表現でなかったのではなかったということだったものと思われる。
これに関してSNSを検索したところ、イディッシュ語通訳者が
- Non-words that native Yiddish speakers have never heard [ ソース ]
- Pretty sure I’ve seen it’s made up. [ ソース ]
と投稿。ネイティブのイディッシュ語話者たちが耳にしたことの無かった言葉であり、以前には使われていなかった表現をソール・ベローが自作したことは確実だろうとしている。
「階段言葉」「階段の機知」と訳語
英語圏ではフランス語での言い回しを英語化した「staircase wit」が直訳的な対応表現として掲載されるなどしており、また記事によっては「afterwit」(後知恵)と紹介されていることも。『Makers of Jewish Modernity』(2016年Princeton University Press刊)によると直訳は「stairways」(階段(の段々))対応する英訳は「afterthoughts」(後からの思いつき、後知恵)だという。
trepverter の訳語についてはフランス語から L’esprit de l’escalier(esprit de l’escalier)を輸入した各言語に存在。
結局のところ Trepverter はイディッシュ語特有の表現でもなく、またイディッシュ語以外に翻訳するのが困難な言葉というわけでもないと言えるかと。
ケース分類
イディッシュ語業界の記事やイディッシュ語翻訳者の投稿によると、Trepverter はイディッシュ語ネイティブたちが使っていたわけではなく、カナダ生まれのユダヤ系アメリカ人作家ソール・ベローが作品『Herzog』(1964年刊)で主人公に使わせるためにフランス語からイディッシュ語に翻訳借用して作ったアメリカ生まれの新造表現のことが由来だったとか。
各国にある「階段の言葉」「階段の機知」類はディドロの造語として有名なフランス語表現がオリジナルで Trepverter もその一つ、しかもイディッシュ語にそういう表現があることにされ小説で使われた造語だったが、何らかの形で原作者氏の目に留まり『翻訳できない世界のことば』に収録。イディッシュ語ネイティブたちが生み出した概念でアシュケナジムらがヨーロッパにいた時から使ってきたイディッシュ語特有の熟語だと誤解する人が出る形となった。
FEUILLEMORT(フイユモール)【フランス語】
実際の表記と発音
feuille-morte(/fœj.mɔʁt/)[ Wiktionary | Forvo ]
feuille(葉)+ morte(死んだ)= feuille morte(死んだ葉、枯れ葉)で、ハイフンでつないで
FEUILLEMORT は『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』の時点からハイフンや最後の E が抜けた表記で、フランス語であれば誤字脱字の類に相当、ハイフンやスペース無しでつなげた feuillemorte は英語圏での外来語としての表記、最後の e が抜けた feuillemort も同じく英語的表記である模様。
なお読みガナのフイユモールの出所は不明。IPA発音表記を見ながらフランス語が守備範囲外の管理人が実際の音声ファイルを聞くとフェイモフトと聞こえるようにも感じるが、日本語では feuille(葉)部分はフイユなど何通りかのカタカナ表記で工夫して表されているようで、morte についてはモルトとカタカナ表記するのが無難である様子。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
枯葉の様に色が薄れていく。(形容詞)
実際の意味
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「Having the colour of a faded, dying leaf.」(色褪せた枯葉の色をしている、色褪せた枯れ葉色の)という言い回しで形容詞として紹介。原作の時点では語末の e が抜ける誤字もしくはフランス語由来の英語表現として原語とは違うつづりになったものの使用はあったが、「枯葉色をした」という意味自体は合っていた。
それが和訳の時点で「色が薄れていく」となり、枯葉色に限らず紅葉のごとく濃かった何らかの色が薄まってまた別の何らかの色に変化していくという別の意味合いに変わった形となっている。
なおシンプルな「枯葉色の」という意味のフランス語形容詞が『翻訳できない世界のことば』という翻訳困難な言葉を集めた本に収録されたのかは不明。
ケース分類
フランス語の形容詞として扱う場合は FEUILLE-MORTE とつづる必要があったが、本ではフランス語由来の外来語として英語圏で使われている表記 FEUILLEMORT が使われている。
原作では「枯葉色をした、枯葉色の」という意味の形容詞として正確な説明がなされていたが、和訳の過程で「枯葉の様に色が薄れていく」という色を問わず濃い色から薄い色に遷移するという内容に置き換わっており、いわゆる誤訳の事例に当たる。
記載言語固有ではないもの(同族言語との語源共有・輸入語・翻訳借用)、同時期に複数言語で使用が始まっており発祥との確定が難しいもの
MERAKI(メラキ)【ギリシャ語/ギリシア語】
表記と発音
μεράκι(meráki / メラキ)[ Wiktionary | Forvo ]
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
料理など、なにかに自分の魂と愛情を、めいっぱい注いでいる。
実際の意味
英語圏での紹介事例
ギリシア語というヨーロッパ地域内のメジャーな言語の表現ということもあってか、英語圏における外国語表現紹介ムーブメントの比較的早い時期から
『In Other Words: A Language Lover’s Guide to the Most Intriguing Words Around the World』
Christopher J. Moore 著
2004年 Walker Books 刊
meraki [may-rah-kee] (adjective)
This is a word that modern Greeks often use to describe doing something with soul, creativity, or love — when you put “something of yourself” into what you’re doing, whatever it may be. Meraki is often used to describe cooking or preparing a meal, but it can also mean arranging a room, choosing decorations, or setting an elegant table. [ 引用元:npr『Translating the Untranslatable』]
この語は現代ギリシア人たちがしばしば使用。何であるにせよ自分がやっていることに自身の何かを投じる時、魂、独創力、ないしは愛を込めて行うことを表す。Meraki は調理や食事の用意について述べる際に多用されるが、部屋のアレンジ、室内装飾選び、まてゃエレガントなテーブルをセッティングするといったことも意味し得る。
『The Meaning of Tingo: and Other Extraordinary Words from Around the World』
*多くの翻訳困難語紹介書籍・記事の元ネタになった人気雑学本。先述の通り、嘘雑学であるピサンザプラを広めた本としても知られる。
Adam Jacot de Boinod 著
2005年 Penguin Books 刊
you’re doing something with soul, creativity or love, and putting something of yourself into what you’re doing
何かを魂そして想像力や愛をもってすること、また自身の何かをやっている物事に投入すること
などとして紹介。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』での意味説明はメジャーな先行書籍・記事の内容を継承した感じの「Pouring yourself wholeheartedly into something, such as cooking, and doing so with soul, creativity, and love.」(料理など何らかの物事に心から身を投じている、また魂、独創力、愛をもってそのようにしている)となっている。
『翻訳できない世界のことば』については日本語版での語義説明(見開き右側のイラスト内の日本語文章)は英語原作の直訳にはなっておらず、~ing and ―ing という風に結ばれた2つのパーツをまとめた「料理など、なにかに自分の魂と愛情を、めいっぱい注いでいる。」として訳されているほか、英語原作にあった creativity(独創力/創造性/クリエイティビティー)に対応する訳語が省かれている形となっている。
ギリシア語における語義
オンラインのギリシア語-英語辞書などによると、μεράκι(meráki / メラキ)の意味は「強い欲求、熱望」「何かに対する熱意・打ち込んでいる様子」「とても楽しい気分・喜び・良い気分」など。
-
- πολύ έντονη επιθυμία
強い願望 - έντονη αγάπη και φροντίδα για κτ., ιδίως για ορισμένη δραστηριότητα
≒ 特に特定の活動に対して、強い愛情を注いだり強く気にかけたりすること - (συνήθ. πληθ.) έντονα ευάρεστο συναίσθημα που συνήθ. προέρχεται από τη διασκέδαση
(通常複数形で)楽しいことをしたりしてとても愉快に感じること
- πολύ έντονη επιθυμία
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- μεγάλη επιθυμία, πόθος, λαχτάρα
強い欲求、欲望、切望 - λύπη, μελαγχολία για κάποια επιθυμία που δεν πραγματοποιήθηκε, καημός
悲しみ、憂鬱、メランコリー - έντονη κλίση, πάθος
傾倒、情熱
- μεγάλη επιθυμία, πόθος, λαχτάρα
『翻訳できない世界のことば』で紹介されているのは μεράκι(meráki)語が持ついくつかの意味のうちの一つであり、必ずしも「料理など、なにかに自分の魂と愛情を、めいっぱい注いでいる。」という意味で用いるわけではなく、また語源としてもそういう意味の名詞ではなかった模様。
語源はギリシアがかつて統治下にあったオスマン朝(オスマン帝国)で用いられていたオスマン語(オスマン・トルコ語)とされ、現代のトルコ語における merak がその後継的存在となっている。
ギリシア語以外にもアルバニア語、セルビア・クロアチア語、マケドニア語、アルメニア語といった同じ語源を持つ複数言語においても似た使い方をされているらしいことから、「ギリシア人が考え出したギリシャ特有の民族性を反映した言葉」「ギリシア語特有の言葉で、対応する語が他の言語には存在しない」といった解釈は誤解に相当するかと。
品詞
ギリシア語辞典では名詞として載っているものが形容詞と表示されている点については、先行書籍が形容詞として掲載したことが原因になっているものと思われる。meráki は英語圏の外国語表現紹介本・記事によって「名詞」「動詞」「副詞」「形容詞」などと品詞がまちまちで、「名詞・動詞・形容詞の全てとして使える」といった解説を行っているウェブ記事も見られる。
錯綜する品詞情報ゆえに英語圏の質問サイト HiNativeでは『Is the word “meraki” a noun, verb or adverb? How is it used in a sentence?』(”meraki”は名詞、動詞、それとも副詞ですか?文中ではどうやって使いますか?)といった投稿もなされているが、ギリシア語ネイティブから「名詞です」との回答が寄せられている。
語源
ネットの記事ではオスマン語ないしはトルコ語が由来と書かれており、外来語との認識がなされている様子。米国の知恵袋サイト Quora『What is the meaning of Meraki (Greek) and Merak (Turkish)?』ではネイティブのギリシア語話者とトルコ語話者が回答に参加。近代以降のオスマン語における語義をそれぞれ引き継いでいるせいか大きな違いは無いものの、多用する語義にずれがあることなどがうかがえる。
ギリシア語の μεράκι(meráki / メラキ)やトルコ語の merak の語源となったオスマン語(オスマン・トルコ語)の مراق については「アラビア語の مراق が由来」と説明されているのが一般的である模様。
ところが、アラビア語においてと مراق つづられる語は「薄い」といった内容を表す文字群(語根)である ر – ق – ق(r – q – q)から成る名詞 مَرَقّ [ maraqq ] [ マラック ]((下腹部や鼻などの)薄い・柔らかい部分)の複数形 مَرَاقّ [ marāqq ] [ マラーック ] で、熱意や好奇心とは無縁な語義となっている。
『Arabic-English Lexicon』
Edward William Lane 著
مَرَقٌّ sing. of مَرَاقُّ, (Hr, Ḳ,) which signifies The thin, or delicate, and soft, or tender, parts of the belly: (Ṣ, Ḳ:) or the lower part thereof with what surrounds it, that is thin or delicate [in the skin]: (TA as from the Ṣ [but not in my copies of the latter]:) or the lower part of the belly, in the region of the صِفَاق [q. v.], beneath the navel: (T, TA:) and metonymically applied in a trad. respecting ablution to the lower part of the belly of a man, together with the رُفْغَانِ [or groins] and the genitals and the [other] places of which the skin is thin or delicate: and, of a camel, the أَرْفَاغ [or groins, and similar places of flexure or creasing]: (TA:) or (Ḳ) مَرَاقُّ [thus applied] has no sing. (Ṣ, Ḳ.) Also The soft part of the nose, (JK, TA,) in the side thereof; [i. e. each of the alæ thereof;] as alsoمُسْتَرَقٌّ↓: (TA:) pl. as above. (JK.)
・(下)腹の薄く・繊細で・柔らかい部位
・鼻の柔らかい部位(いわゆる鼻翼付近のことかと)
トルコ語の語源解説サイトではオスマン朝期の語義の変遷について
Nişanyan Sözlük
Çağdaş Türkçenin Etimolojisi
-
- Arapça rḳḳ kökünden gelen maraḳḳ مرقّ veya marāḳḳ مراقّ “karnın veya kulağın duyarlı kısmı, dalak” sözcüğünden alıntı olabilir; ancak bu kesin değildir.
要旨:おそらくはアラビア語からの借用語で、語根 rḳḳ(*rqqのこと)から成る maraḳḳ مرقّ ないしは marāḳḳ مراقّ(腹部や耳の繊細な部分、脾臓)が由来であり得るが、定かではない。 - 17. yy sonuna dek Türkçede nadiren rastlanan sözcük daha sonra radikal anlam değişikliğine uğramış, ya da Arapça riḳḳat/raḳîḳ sözcüğünden yeni türetilmiştir.
要旨:17世紀末まではトルコ語の文書内でめったに使用されなかった語。後に語義が大幅に変化したか、もしくはアラビア語の riḳḳat(*現在日本では riqqa ないしは riqqah と転写される رقة のことかと)または raḳîḳ(*raqīq と転写される رقيق のことかと)を新規に由来とする形で移入されたかのどちらか。 - [Meninski, Thesaurus, 1680]
meraḳḳ pl. merāḳḳ: Tenuior molliorque pars ventris, auris pars mollior [karnın ve kulağın yumuşak kısmı].
[Ahmed Vefik Paşa, Lehce-i Osmani, 1876]
merāḳ: Dalak, sevda, bazan manya ve cünūn manasına. Halen istifsa, ibtila, teessür.
[Şemseddin Sami, Kamus-ı Türki, 1900]
merāḳ: (…) 2. Bir şeyi anlamak ve öğrenmek arzu ve gayreti, Fr. curiosité
・1680年の辞典【メラック、複数形メラーック】:腹部や耳の柔らかい部位
・1876年の辞典【メラーク】:脾臓、愛、マニアや狂気、諦め、苦しみ、悲しみ
・1900年の辞典:物事を理解しよう・学ぼうとする欲求と努力、フランス語でいうところの curiosité(好奇心、探究心)
- Arapça rḳḳ kökünden gelen maraḳḳ مرقّ veya marāḳḳ مراقّ “karnın veya kulağın duyarlı kısmı, dalak” sözcüğünden alıntı olabilir; ancak bu kesin değildir.
のようにまとめられており、アラビア語語源説が濃厚ではあるもののはっきりと確定まではしていないらしいこと、人の身体の部位・臓器という語義が後に人間の気質や感情を表すものとして変化したらしいことがわかる。
この変遷についてはアラビア語からオスマン語を経てギリシャやバルカン半島周辺に輸入されるまでの過程を追った英語ブログ記事『With Merak, on Meraki: Meaning, Possible Origins, and Various Uses of the Word』が詳細に考察。脾臓(spleen)が複数の文化において人間の気質・感情の原因とされてきたこととの関連性に言及している。
先述のトルコ語語源サイトによると、語義が急激に変化した理由を「アラビア語の riḳḳat(*現在日本では riqqa ないしは riqqah と転写される رقة のことかと)または raḳîḳ(*raqīq と転写される رقيق のことかと)の語義を新規に取り入れたから」とする説もあるとか。
これらの語はいずれも مَرَقّ [ maraqq ] [ マラック ]((下腹部や鼻などの)薄い・柔らかい部分)と複数形 مَرَاقّ [ marāqq ] [ マラーック ] と同一の語根 ر – ق – ق(r – q – q)から成る語で、
- riḳḳat = رقة [ riqqa(h) ] [ リッカ ]
【名詞】薄さ;細さ;繊細さ、柔和さ - raḳîḳ =رقيق [ raqīq ] [ ラキーク ]
【形容詞的用法】薄い;細い;繊細な、柔和な
を意味。
元々狂気という意味合いだったマニアという語が趣味などに対する過度の熱狂者や好事家を意味するのに多用されるに至った点に関しては日本などと共通なので「脾臓、愛、マニアや狂気、諦め、苦しみ、悲しみ」から「物事を理解しよう・学ぼうとする欲求と努力、好奇心、探究心)」と発展した流れについては比較的わかりやすいものと思われる。
しかしなが「腹部や耳の柔らかい部位」「脾臓」が「愛、マニアや狂気、諦め、苦しみ、悲しみ」に転じた経緯については、トルコ語による専門書などでさらなる調査を行って確認する必要があるものと思われる。
ケース分類
ギリシア語独自の表現ではなくオスマン語(オスマン・トルコ語)が由来で、トルコ語やオスマン朝統治下にあったギリシャ以外の複数地域の言語と共通。
『翻訳できない世界のことば』では一部先行書籍同様に形容詞扱いされているが、正しくは名詞かと。
STRUISVOGELPOLITIEK(ストラウスフォーヘルポリティーク)【オランダ語】
語の構成と実際の発音
struisvogelpolitiek(/ˈstrœy̯s.foː.ɣəl.poː.liˌtik/)[ Wiktionary | Forvo ]
WiktionaryのIPA表記やForvoのサンプル音声を聞いた限りでは「ストライスフォーフォルポーリティク」に近い発音に思えるが、オランダ語のカタカナ表記には慣習的なルールがあったりカタカナ表記と実際に聞こえる発音がずれていることがあったりするらしいので、「ストラウスフォーヘルポリティーク」という本でのカタカナ表記もその都合だと思われる。
ただ「ポリティーク」に関しては「ー」の場所がずれている模様。
struisvogel(/ˈstrœy̯sˌfoː.ɣəl/)[ Wiktionary | Forvo ]:ダチョウ
└ struis(/strœy̯s/)[ Wiktionary | Forvo ]:ダチョウ
ui 部分は二重母音で、発音 œy̯ は日本語によるオランダ語発音解説記事だと「アウ」「アウとアユの中間」「オの口をしながらエ+ウの口をしながらイ(アイのようなオイのような響き)」「オウの口でエイと発音する。日本人の耳にはアイと聞こえると思う。」「どうしてもうまく発音できない時の逃げ道としては「アウ」「エユ」あたりの音を出してごまかすのが無難。実際の音はどちらかと言えば「アイ」に近い。」「カタカナ書きとしてはアウにするものの実際にはアユに近く聞こえる」など様々。
なお発音については地域による発音差もあるそうで、Quora回答には首都アムステルダム寄りだとアイのような感じに、南にあるロッテルダムなどだとアウのような感じになるという情報も。
└ vogel(/ˈvoːɣəl/、ヴォーフル)(ホラント方言:[ˈfoʊ̯χɔɫ]、フォウホル)[ Wiktionary | Forvo ]:鳥
Wiktionaryの情報が正しいかは怪しいものの、Forvoで音源により「ヴォーフォル」「フォーホル」などと聞こえ発音がまちまちなのには理由がある様子。
politiek(/poːliˈtik/、ポーリティク)[ Wiktionary | Forvo ]:政治
日本ではフランス語や英語の politique において「ポリティク」と発音するにもかかわらず「ッ」を足した「ポリティック」としたり(例:英単語 book は英語ではブクと発音するのにカタカナ表記ではッを足したブックになる)、長母音「ー」を足した「ポリティーク」を使うことが慣習化しているが、オランダ語の場合は伸ばす箇所が違い「ポーリティク」になるとのこと。
『翻訳できない世界のことば』でのカタカナ表記は慣例表記の影響で「ー」の位置がポーリティクからポリティークにずれた形となっている。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
直訳すると「ダチョウの政治」。悪いことが起きているのに、いつもの調子で、まったく気づいていないふりをすること。
実際の意味
原作の英語版では「Literally, “ostrich politics”」(直訳すると”ダチョウ政治”)となっており、日本では英語表現「Ostrich policy」(ダチョウ政策、ダチョウの平和)に対応する訳語としてダチョウ政策という用語なども使われていることから、「の」を抜いた「ダチョウ政治」という和訳で良いものと思われる。
「ダチョウ政治」は現実・危険・困難を直視せず無かったかのようにふるまい現実逃避する政治を示した言葉で、ダチョウが危険を回避するために視界からそれを遮断すべく砂の中に頭を突っ込むという俗説が由来。(ちなみに古代ローマ時代の属州総督・博物学者プリニウスの記述が原因だとか。)
Googleブックス検索や国立国会図書館デジタルコレクションによると日本では西暦2000年以前にも「ダチョウ政策」「ダチョウの平和」という用語がいくつかの書籍で使われていることが確認できた。
金融界では2006年に発表された金融問題とリスク認識に関する論文『The “Ostrich Effect” and the Relationship between the Liquidity and the Yields of Financial Assets』においてDan Galai(ダン・ガライ)氏とOrly Sade氏が「ダチョウ効果」(オストリッチ効果、オーストリッチ効果)というネーミングを用いて話題になったという。
なお「struisvogelpolitiek」自体はオランダ語発祥のオランダ語独特の表現ではなく、1800年代半ばに登場したとの情報もあるドイツ語の「Vogel-Strauß-Politik」が直接の由来である可能性があるという。ダチョウ政治を意味する英語の「ostrich politics」についても同様にドイツ語由来だという情報が見られた。
実際Googleブックス検索でドイツ語表現 Vogel-Strauß-Politik を調べてみると1800年代後半に多くの書籍や新聞で使われていたことが確認でき、心理学者フロイトの著作にも登場していたことがわかった。ただオランダ語の struisvogelpolitiek も同じく1800年代後半に多数の使用例がありほぼ同時期に広がっていたようで、ドイツとオランダのどちらが先だったのかはさらに専門書などで掘り下げる必要あり。
ケース分類
カタカナ表記は実際の発音の聞こえる通りとは少し違っており、後半はオランダ語だとポーリティクとなるが日本での慣例表記に合わせて「ー」位置が後方にずれたポリティークになっている。
また「ダチョウ政治」「ダチョウ政策」などは『翻訳できない世界のことば』刊行時には既に英語圏も含め各国に訳語があり使われている表現で、オランダ語特有の言い回しではなくドイツ語由来である可能性も存在。
語義説明文章内の該当言語表記にスペルミスが含まれているもの
TRETÅR(トレートール)【スウェーデン語】
実際の発音
tretår [ Wiktionary | Forvo ]
└ tre(/treː/、トレー):3
└ tår(/toːr/、トール):滴、少量の飲み物(アルコールやコーヒー)【英語の tear に対応】
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
本での説明文
もともと、TÅRはコーヒー。PATÅRは、そのおかわりのこと。TRETÅRは「3杯目のおかわり」という意味。
誤字について
日本語版では PATÅR、英語版では patår と表記されているが、正しくは PÅTÅR / påtår かと。スウェーデン語辞書やスウェーデン語記事を見る限り、tretår と違い前半部分にも ゜をつけるつづりとなっている。
(ちなみに patår はベルギーからフランス北部で話されているワロン語で銅貨やお金を指す名詞として実在するとか。)
スウェーデン発の書籍・記事では påtår とつづられているが、『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』よりも前の2013年1月17日に書かれたブログ記事で既に patår という誤字が出回っていたことが確認可能。そのため『Lost in Translation』はスウェーデン側の一次ソースではなく英語で書かれたネットコンテンツを参考に絵本の tretår 説明文を作成した可能性が考えられる。
patår はスペルミスだという指摘はネット上にも出ており、BuzzFeed の記事『16 Fantastic Words That Can’t Be Translated Into English』に対するコメントで
There’s a typo on number 9, the refill of coffee in Swedish is “påtår”, not patår… (å is an actual letter in it’s own right…)
スェーデン語でのコーヒーのおかわりは patår ではなく påtår …(åはそれ自体で実際の1文字です)
という情報が寄せられている。
実際の意味
スウェーデン語におけるコーヒーの1杯目~5杯目の名前
tår(/toːr/、トール)は英語の tear(涙;滴)に対応、「滴」「少量の飲み物(アルコールやコーヒー)」の意。
飲み物ということで紅茶などにも使えるものの実質的にはもっぱらコーヒーの時に使う表現だそうで、tår の前に数を表す語などを組み合わせて2杯目、3杯目…と表すとのこと。
3杯目を特別視して3杯目を表す単語だけ別途に生み出したというわけではなく1杯目、2杯目、3杯目…と数え上げていく言い回しが決まっており、その3杯目だけが翻訳困難語として切り離して紹介された形となっている模様。
Wiktionaryや北欧文学・ドイツ文学 研究者中丸禎子氏ウェブサイト記事『「”言葉”が彩る新しい世界へ」取材こぼれ話10選・3』などによると
【コーヒー1杯目】kaffetår:コーヒー1杯
【コーヒー2杯目】påtår(/ˈpoːˌtoːr/、ポートール):おかわり1回目
【コーヒー3杯目】tretår:おかわり2回目 (tre:3)
【コーヒー4杯目】krusetår:おかわり3回目
【コーヒー5杯目】pintår:おかわり4回目
のように、コーヒーの1杯目以降を数えるスウェーデン語での名称が存在するのだとか。
画像引用元:Wikimedia Commons
スウェーデンの店舗におけるコーヒーの価格表の一例。
スウェーデン語版Wikipediaでソースとして挙げられてもいるオンラインのスウェーデン語辞書によると、
Svenska Akademiens ordbok | SAOB
TRE
-TÅR. om tredje koppen kaffe; jfr på-tår 2. DN 1892, nr 8462 B, s. 1. —
コーヒーの3杯目;1892年以降
とあり、近代になってから作られた比較的新しい表現であることが確認可能。
スウェーデン語辞典オンライン版 Svenska Akademiens ordbok (SAOB)(スウェーデン・アカデミーによる最大級のスウェーデン語学術辞典だとか。)によるとコーヒーの何杯目なのかを表す一連の表現がスウェーデンで使われだしたのは1800年代だったという。同辞書の情報によると、先に1杯目(kaffetår、1843年~)や2杯目(patår、1842年~)の名称が造語され、50年ほど経ってから3杯目を表す tretår(1892年~)、4杯目を表す krusetår が作られた模様。
reddit『påtår? How to use in a sentence?』によると、実際の日常生活(主にカフェ)で頻繁に使うのは最初のおかわりである påtår の方で、全体の3杯目にあたる2回目のおかわり tretår はそこまで多用はしないという。
BuzzFeed の記事『16 Fantastic Words That Can’t Be Translated Into English』内コメントにも「påtår はよく使うが、tretår は一度も聞いたことが無い」という書き込みがあることなどからして、トレートールが特別な意味合いを持っている、スウェーデンではコーヒー3杯目に当たる2回目のおかわりだけに大切な役割があるといった解釈は非ネイティブによる想像や誤解の類に近い可能性もあるかと。
また pintår についてはさすがにそこまで大量に飲む機会が少ないせいか既に死語同然になっているようで、Svenska Akademiens ordbok (SAOB)(スウェーデン・アカデミー スウェーデン語学術辞典)にも掲載されていない件がスウェーデン語版Wikipediaにも書かれている。
結局のところ tretår については単なる「コーヒー3杯目」という単純な語で翻訳ができないような含みや特別な意味は無いようで、外国語表現紹介有名雑学本『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズにも載っていないが、何らかの理由で『翻訳できない世界のことば』原作者氏が興味を持ち収録されたものと思われる。
påtår(コーヒー2杯目/おかわり1回目)や tretår(コーヒー3杯目/おかわり2回目)といった語は、スウェーデンのコーヒーブレイク習慣であるフィーカを紹介する書籍・記事にはしばしば登場することから、『Lost in Translation』に FIKA(フィーカ)を掲載したついでに併記されていた tretår を同時収録した可能性も考えられるかと。
また『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』発刊以前の2013年1月17日に書かれたブログ記事に
Tretår (Swedish) A second refill (patår) on a cup of coffee (tår), hence a “threefill”
として紹介されており、『Lost in Translation』での意味説明に言い回しが非常に似ていること、2杯目のコーヒー(1回目のおかわり)の påtår 前半の a に ゜がついていない誤字 patår になっている点が全く同じであることから、『翻訳できない世界のことば』原作者氏はフィーカ解説書籍・記事か英語圏で出回っていた外国語表現紹介ネット記事を検索で調べて tretår の絵本ページを作成した可能性があるように思われる。
さらにさかのぼると英語で書かれた1998年刊行のヨーロッパトラベルガイドに
but patår (refills) usually cost only a few kronor extra
しかし patår(おかわり)は通常ほんの数クローナしかかからない
という ゜抜けの patår 表記が『Fodor’s upCLOSE Europe』(1998年 Fodor’s Travel Publications 刊)見られることから、英語圏ではインターネット隆盛期以前からこの手の誤字が出回っており、それが引用・孫引きを経て『翻訳できない世界のことば』に収録されたものと考えられる。
『翻訳できない世界のことば』英語原作と日本語版との違い
『翻訳できない世界のことば』日本語版では
もともと、TÅRはコーヒー。PATÅRは、そのおかわりのこと。TRETÅRは「3杯目のおかわり」という意味。
となっており「TRETÅRは3杯目のおかわり」とのみ書かれているが、tretår が「3回目のおかわり=通算4杯目のコーヒー」を指しているのではない点は要注意だと思われる。
この一連の名称は1杯目から数えて何杯目に当たるかを通算でカウントするものらしく、tretår だと「3杯目のコーヒーで、おかわりの回数としては2回目」という意味で、英語原作『Lost in Translation』では
On its own, “tår” means a cup of coffee and “patår” is the refill of said coffee. A “tretår” is therefore a second refill, or “threefill.”
それ自体で “tår” はコーヒー1杯を意味、そして “patår*”はそのコーヒーのおかわり。”tretår”はしたがって2回目のおかわり、すなわち”3杯目”。
*管理人注:påtår
という風に「2回目のおかわり=3杯目」という語義だとはっきり理解できる記述になっていた。
日本語版は原作の直訳にはなっておらず、「コーヒー1杯、コーヒー1カップ」が物質名・飲料名と理解され得る「コーヒー」に置き換わっているほか、「2回目のおかわり、つまりは3杯目」が合わさって「3杯目のおかわり」という表現に変わっており、英語原作よりも誤解を生じやすい文章になっているように見受けられた。
ケース分類
英語圏で出回っている外国語表現紹介本・ブログ記事が元ネタになっているためか påtår が patår とつづられており、ネット上でスペルミスとの指摘が出ている。
また英語原作『Lost in Translation』では「それ自体で “tår” はコーヒー1杯を意味、そして “patår*”はそのコーヒーのおかわり。”tretår”はしたがって2回目のおかわり、すなわち”3杯目”。」という意味説明だが、日本語版『翻訳できない世界のことば』では「もともと、TÅRはコーヒー。PATÅRは、そのおかわりのこと。TRETÅRは「3杯目のおかわり」という意味。」となっており内容に多少の差がある。
実際の発音と読みガナとのずれや慣用的カタカナ表記の使用について
GEZELLIG(ヘゼリヒ)【オランダ語】
実際の発音
gezellig(/ɣəˈzɛ.ləx/、ガジェラフとハジェラフが混ざったような発音?)(/χəˈzɛləx/、フジェラフとハジェラフが混ざったような発音?)[ Wiktionary | WikiWordenboek | Forvo ]
ヘゼリヒは実際のオランダ語発音とはずれたカタカナ表記で、ヘゼリヒとはっきり読むのはオランダ語発音ではなくベルギーで話されているオランダ語であるフラマン語における発音に近いのでは、という気もするがこの語をカタカナで正確に表現するのはかなり難しい模様🤔
オランダ語使用者による日本語でのオランダ語表現・発音紹介では「ヘゼリヒ」「ゲゼリグとへゼリフが混じったような発音」「ヘェゼレヘェ」「フゼルッフ」「ヘゼリフ」「フゼラハ」などまちまちで、カタカナで原音に近い読みガナをつけるのは容易ではないらしいことがうかがえる。
またこの件についてはオランダ語研究界隈における学界標準カタカナ表記を調べ、ヘゼリヒが妥当なのかどうかも含め確認する必要があるように見受けられた。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
単に居心地よいだけでなくて、ポジティブであたたかい感情。物理的に快いという以上の「心」が快い感覚。たとえば、愛する人とともに時をすごすような。
実際の意味
オンライン辞書などによると、「居心地がいい」「雰囲気がいい」「社交的・フレンドリーで心地良さを与えるような」「人と一緒にいることを好むような、他の人たちと和気藹々と心地良く過ごすような」「楽しい」といった意味があるという。
gezellig の gezel の部分が「仲間(companion)」という意味なので、そこから複数の仲間が集まる際に感じられる心地というニュアンスを持つのだとか。
元になったとされるのは中期オランダ語の gesellich だという。ドイツ語には語形・響きがそっくりな gesellig(社会的な;社交的な)がありそちらは中高ドイツ語の gesellec が由来だとか。双方とも同じ系統の言語であるオランダ語 gezellig の gezel もドイツ語 gesellig の gesel もゲルマン祖語における gasaljô(同居人、仲間)を語源とすると考えられているそうで、そこから派生したオランダ語の gezellig も中世から使われている相当古い表現である模様。
そのため単語・語形そのものはオランダ語発祥のオランダ語独自表現というのとは違っており、古いオランダ語と古いドイツ語とどちらが先に使い始めたのかなどについては両言語で書かれた辞典・専門書・論文なども参照して詳しく調べる必要があるように思われた。
ただ意味については「社交的な」という部分を除けばオランダ語とドイツ語でだいぶ違っているようで、「仲間と過ごす団らんのひとときといった居心地の良い楽しさを与える」という具体的設定部分がオランダ語ならではの表現として紹介されるに至った一因になっているものと推察される。
なお、『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「Describes much more than just coziness – a positive warm emotion or feeling rather than just something physical – and connotes time spent with loved ones, togetherness.」(単なる居心地の良さをはるかに超える – ポジティブで温かい感情や単なる物理的(*ないしは肉体的)な何かとはむしろ違う感覚 – そして愛する人々と一緒に過ごす時間や団らんを暗に示す。)という言い回しになっていた。
日本語版では英語版の rather than(どちらかというと、~よりはむしろ、~ではなくて)を more than と同じニュアンスの「~以上の」と訳しているほか、loved ones(愛する人々)という複数形が単数形の「愛する人」になっているなど、字数削減の都合と思われる簡略化や微妙な違いが存在するとの印象。
HIRAETH(ヒラエス)【ウェールズ語】
実際の発音
hiraeth [ Wiktionary | Geiriadur | Forvo ]
└ /ˈhɪraɨ̯θ/(ヒライス):ウェールズ北部、ウェールズ南部
└ /ˈhiːrai̯θ/(ヒーライス):ウェールズ南部
Forvo などのネイティブ発音音声ファイルでもIPA発音表記通りのヒライスやヒーライスと発音しており、ヒラエスは英字表記 hiraeth をそのままカタカナ読みした感じの読みガナであり原語発音との間にずれがあるものと思われる。
ウェールズ語の二重母音(diphthong)発音解説では ae は英語の eye(アイ)のように発音する(英語の eye そっくりになるのは南部発音だと記載している解説も)とあるので、-rae- はラエではなくライと読むべきなのでは…という気も。
そうした実際の発音よりも見た目上の当て字とするヒラエスが『翻訳できない世界のことば』日本語版制作陣の判断によるものなのか、日本のウェールズ語学会の慣行なのかは調べる必要があるかと。
なお、口語だとヒーレスやヒレスっぽい発音になったりもする模様。
ちなみに『翻訳できない世界のことば』出版元である創元社の『なくなりそうな世界のことば』では「ヒライス」という現地発音通りのカタカナ表記を採用。『翻訳できない世界のことば』改訂時にヒライスに修正するということは行っていないようだが、創元社SNSの『翻訳できない世界のことば』関連投稿では本に書かれているヒラエスよりもヒライスの使用回数が多い状態となっている。
このように同じ出版社のよく似た書籍で読みガナが異なる件については専門家の関与や一時ソース利用の有無による情報精度の違いが背景にあるものと思われる。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
帰ることができない場所への郷愁と哀切の気持ち。過去に失った場所や、永遠に存在しない場所に対しても。
実際の意味
『翻訳できない世界のことば』では触れられていないものの、現代ではウェールズという存在やウェールズ文化などについて使うことが多いとか。そのためネットでも Hiraeth を「longing for Wales」(ウェールズに対する郷愁・懐古・憧憬・切望)と説明している割合が高い模様。
ただ、この語自体は元々「郷愁、切望、憧憬、ノスタルジア」といった意味の語で、失ってしまったものや遠くに離れてしまった物事・場所に対する悲しみや郷愁・望郷、心の中に在るウェールズに対する熱望・憧憬・ノスタルジーなどが入り混じった感情などを意味するとのこと。
ウェールズ語-英語辞書では
Geiriadur
Geiriadur Ar-lein Cymraeg-Saesneg / Saesneg-Cymraeg
Welsh-English / English-Welsh On-line Dictionary
-
- homesickness(ホームシック、郷愁、懐郷)
- grief or sadness after the lost or departed(失ったもしくは亡くなった人に対する悲嘆や悲しみ)
- longing(切望、憧れ)
- yearning(熱望、憧れ、思慕)
- nostalgia(ノスタルジア、懐古、懐旧)
- wistfulness(物悲しげな切望)
- earnest desire(心からの願い、切なる願い)
GPC (Geiriadur Prifysgol Cymru)
A Dictionary of the Welsh language
grief or sadness after the lost or departed, longing, yearning, nostalgia, wistfulness, homesickness, earnest desire
失ったもしくは亡くなった人に対する悲嘆や悲しみ、切望、熱望、懐古、物悲しげな切望、郷愁、切なる願い
Gweiadur
A Welsh-English / English-Welsh on-line dictionary
longing, nostalgia, homesickness, wistfulness, yearning
切望、懐古、郷愁、物悲しげな切望、熱望
となっており、『翻訳できない世界のことば』で説明されている「帰ることができない場所への郷愁と哀切の気持ち。過去に失った場所や、永遠に存在しない場所に対しても。」以外の語義も有していること、亡くなった人に対しても使うことなどがわかる。
紙媒体の辞書である William Owen Pughe 著『A Dictionary of the Welsh Language: Explained in English』(1803年刊)には regret(後悔)という語義も掲載。同書では
Gwyw calon gan hiraeth.
The heart is palfied by regret.
という用例が挙げられているが、ウェールズ文学関連の複数書籍によると西暦1200年頃に活躍した宮廷詩人 Einion Wann / Einion Wan によるエレジー(悲歌、哀歌、挽歌 )の一節だとのこと。
他の英語書籍では
- Makes the heart wither from regret(悲嘆で心がしぼむ)
*ここでの regret は自分のやったことなどに対する後悔ではなく「(失われたものや亡くなった人などに対する)惜しむ気持ち、哀惜、悲嘆、哀悼」という語義かと。 - His heart is withered with grief(悲嘆で心がしぼんでいる)
という英訳や意味解説が載っており、『翻訳できない世界のことば』で定義されている場所ではなく人間である故人にまつわる感情である「悲嘆、悲痛」「深い悲しみ」といったニュアンス、先述ウェールズ語-英語辞典の「失ったもしくは亡くなった人に対する悲嘆や悲しみ」として使われているであろうことが確認可能。
GPC (Geiriadur Prifysgol Cymru) の例文・用例集によると hiraeth という語自体は中世から使われてきた非常に古い語で、イングランドに併合され今でも大英帝国の一部のままでいるウェールズという存在や伝統・文化を想うといった文脈とは関係が無いシチュエーションでも用いられてきたらしいことがうかがえる。
『翻訳できない世界のことば』掲載語句のうちポルトガルのサウダーデ(サウダード)、ブラジルのサウダージがこの Hiraeth に近いようだが、国民性について語る時のスケールの大きな定義と、もっと一般的な内容を表すごく普通の名詞としての語義とがある点で似ているとの印象。
特に説明間違いは無いものの語義理解には補足情報が必要だと思われる例
JUGAAD(ジュガール)【ヒンディー語】
実際の表記と発音
जुगाड़(/d͡ʒʊ.ɡɑːɽ/ 、ジュガール)[ HinKhoj | Wiktionary1 | Wiktionary2 | Forvo1 | Forvo2 ]
ヒンディー語発音としては、最後の文字がそり舌音でジュガードとは聞こえずジュガールのような発音となるため、英字表記(ラテン文字での当て字)として jugaad と書いてもカタカナ表記としてはジュガードではなくジュガールとすべき事例だとのこと。[ ソース1 | ソース2 ]
2017年にはオックスフォードの辞典にも新規掲載されたこの語だが、英語圏ではつづりのままに発音が行われているようで同辞典のウェブサイトでは
Oxford English Dictionary (OED)
-
- イギリス英語:/dʒʊˈɡɑːd/(ジュガード)
- アメリカ英語:/ˌdʒuˈɡɑd/(ジュガド)
- インド英語:/dʒʊˈɡaːɽ/(ジュガール)
という発音の違いがあるとしている。
またヒンディー語圏ではジュガールに関する記事で jugaad 以外に jugaadu という英字表記も用いられている模様。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
最低限の道具や材料で、とにかくどうにかして、問題を解決すること。
実際の意味
ジュガールはヒンディー語のスラングだそうで、ネットやオンライン辞書で紹介されている意味は
-
- ハック、ライフハック、生活などを効率よくするためのアイデアやテクニック、創意工夫によるその場しのぎの間に合わせ、ありあわせのものや最低限のものでなんとか解決すること
- 自家製もしくは地元産で寄せ集めの材料で作った四輪車・乗り物
*ジュガール車(jugaad vehicle、jugaad car)はインドだけでなくパキスタンやバングラデシュでも使用されているとのこと。
-
- TEMPORARY SOLUTION(一時的な解決策、当座の解決策、暫定対応)
- CREATIVE IMPROVISATION(創造力に富んだ即興、独創的な即興)
- QUIRK(変な癖、奇癖)
- HACK(ハック、物事をうまくやるためのこつ・アイデア)
- MAKESHIFT(その場しのぎ、間に合わせ)
- CONTRAPTION(新工夫、新案、珍妙な仕掛け・装置・機械)
など。
サンスクリットが語源だという説が一般的であるようだが、ジュガール自体はスラング
Jugaar(ジュガール)インドならではの創意工夫精神として海外で注目されている用語だとのことで、日本では「ジュガール精神」といった名称でビジネス関連の記事などにしばしば登場。2017年にはオックスフォードの辞典にも掲載されインドでも話題になったという。
インド発のコンテンツではインド式ジュガールはおもしろ・びっくり映像という形で多数紹介され、YouTubeでも視聴することができる。閲覧数稼ぎといった意図もあってか、ビジネスに役立つ柔軟な思考といった内容ではなく「ハック、物事をうまくやるためのこつ・アイデア」「珍妙な仕掛け・装置・機械」としてのおもしろおかしさを楽しむ動画の投稿が多いとの印象。
そんなジュガールだが、世界各国のビジネス界における流行語になった後、「中途半端な仕事ぶり、いい加減な仕事ぶり」悪い意味合いで使われる事例も見られるようになったそうで、ブーム初期に有していたポジティブなニュアンスが悪いニュアンスに置き換わる用法も出てきているという。
ジュガールはビジネス界で流行しただけでなく翻訳困難語紹介ブログなどでも取り上げられてきたが、『翻訳できない世界のことば』は良い意味で使われるジュガールのみが取り上げられており、インドの日常会話で実際に使う場合には「四輪の乗り物ジュガール」や「ずさんな対処、いい加減な仕事ぶり」といった意味にもなり得る点については注意が必要だと思われる。
FIKA(フィーカ)【スウェーデン語】
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
日々の仕事の手を休め、おしゃべりしたり休憩したりするために集うこと。カフェ、家、いずれでも、コーヒーを飲んだり、お菓子を食べたりして、数時間。
実際の意味
(他の人たちと集まって)コーヒー(やお茶)などを飲んだり焼き菓子・甘いパン・ペストリーなどの軽食を食べたりすること、(皆で集まってする)コーヒーブレーク。
英国のアフタヌーンティーに似たスウェーデンの習慣で、だいたい午前10時頃、午後3時頃。本には数時間とあるものの15~30分程度の息抜きとしてのコーヒーブレークであることが多く、長引くと1時間、さらには数時間になったりすることもあるとか。
スウェーデンのフィーカ習慣紹介記事によるとコーヒーと組み合わせるおやつとしてはシナモンロールが特に有名だとのこと。
RESFEBER(レースフェーベル)【スウェーデン語】
実際の発音
resbefer(²r’e:sfe:ber、レースフェーベル)[ Folkets Lexikon | Forvo ]
*小さな「2」は元の辞書サイトにあった記述をそのままペーストしたものなので、意味については Folkets Lexikon にて確認可能かと。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
旅に出る直前、不安と期待が入り混じって、絶え間なく胸がドキドキすること。
実際の意味
英語圏の外国語表現雑学本やネット記事などで紹介されてきたスウェーデン語表現で、res(a)(旅、旅行)+ feber(熱、英語の fever に対応)の2語から構成。直訳は「旅熱、旅行熱」(travel fever)。
スウェーデン語-英語辞書やネイティブ説明によると、一般的な意味は「旅行の前に不安・神経質(ナーバス)になること」。また「旅行ばかりしているのにそれでもまだ飽き足りない旅行病・旅行マニア的な状態・様子」を指すのに使うこともあるという。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』は「The restless beat of a traveler’s heart before the journey begins, a mixture of anxiety and anticipation. 」(旅が始まる前、不安と期待とが入り混じって旅行者(の胸)が絶えずドキドキすること。)という日本語版とだいたい同じような説明文で、不安によるそわそわと期待・喜びによるそわそわの両方を感じさせる表現となっている。
日本では「不安」の部分が抜けて「旅に出る前に期待で胸がドキドキすること」「旅の始まりの心躍る高揚感」といった良い意味での期待感だけが残された解釈に変わっていることもあるが、スウェーデン語における本来の意味としては旅行前の不安症的なものを含むらしく、ただの期待感・ワクワクとは違う心配な気持ち・強い不安・体調不良なども込みで出発前特有の心境や体調を意味する模様。
なおドイツ語の訳語である Reisefieber も同じ travel + fever にあたる2語構成で「旅行を控えてワクワクドキドキする気持ちを強い不安とを感じること」という全く同じ意味を表すため、スウェーデン発祥かどうかは別途調べる必要があるかと。
NUNCHI(ヌンチ)【韓国語】
実際の表記と発音
눈치([nuɲt͡ɕʰi]、ヌンチ)[ Wiktionary | Forvo ]
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
他人の気持ちをひそかにくみとる、こまやかな心づかい。
実際の意味
お隣の国の言葉ということで日本語サイトでも色々と詳しい紹介がなされている。
ヌンチは韓国におけるコミュニケーションの重要要素「他人の顔色をうかがう、相手の機嫌をうかがる」「他人の心を顔色やその場の状況から判断・把握し気を利かせること」「周りの状況を察することのできる能力」「空気を読む能力」「気付くこと、察すること、機転を利かせること」「勘が良いこと、勘を働かせること」といった表現をする際に使用。
オンラインの韓国語-日本語辞書類によるとヌンチ自体は名詞だそうで
- 勘、センス、機転;様子(N 韓日辞書)
- センス、素振り、機転、勘(Kpedia)
- 勘、機転;表情、顔つき、素振り(Wiktionary)
といった意味があるとのこと。
『翻訳できない世界のことば』で紹介されているのは「他人の気持ちをひそかにくみとる、こまやかな心づかい。」という内容だが、実際には人の心やその場の状況などを察したりと英語や日本語などで一言では表せないような色々な言い回しに使うことがわかった。
DRACHENFUTTER(ドラッヘンフッター)【ドイツ語】
実際の発音
Drachenfutter(ドガヘンフタとドラヘンフタが混ざったような感じに聞こえる発音)[ Wiktionary | Forvo ]
Drache には「n」を足して「ドラゴンの、竜の」+「えさ」=「ドラゴンのえさ、竜のえさ」になるという構成になっている模様。
発音は発音記号による表記や実際のネイティブ音声からするとドガヘンフタとドラヘンフタが混ざったような感じに聞こえるように思われるが、ネット記事を見る限りドイツ語へのカタカナ当て字としてはドラッヘンフッターが一般的である模様。
これについては日本語における外国語単語のカタカナ化に際する慣例表記「英単語 book は英語ではブクと発音するのにカタカナ表記ではッを足したブックになる」「-er と書かれるものの伸ばさないアと発音する語末でもカタカナ表記では伸ばしたアーとする」などが関係しているものと思われる。
なお創作界などだと龍は東洋、竜は西洋といったイメージがありドイツのドラゴンに関しては竜の方がしっくりするような気もするが、漢字解説記事によると旧字体と新字体(文字としては竜の方が古い)の違いであり、語義に明確な区別・差異は無いという。
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
直訳すると、「龍のえさ」。夫が、悪いふるまいを妻に許してもらうために贈るプレゼント。
実際の意味
男性が配偶者・パートナーのご機嫌取りのために贈るプレゼント。ドイツ系ソースによると飲んで帰宅が遅くなった時に用意されることが多く、ラインナップとしては菓子・ケーキ・花などが定番だとか。
Drachenfutter という語自体はドイツ語-英語オンライン辞書で探しても出てこず、ドイツ語-ドイツ語オンライン辞書でもヒットしないことが複数件あった。ドイツ語-ドイツ語辞書サイトの使用頻度グラフによると1980年代以降に使用が広がっていった表現で、ファンタジー用語「ドラゴンのえさ」ではないご機嫌取りのお土産としての用法は今から30~40年前に新しい言い回しとして定着した(元)流行語だったものと推測される。
ドイツ語-英語オンライン辞書によると俗語・スラングとして口うるさくする女性や怒ったり酔ったりして近寄りがたい感じになった女性をドラゴンと形容することもあるらしく、ビールを飲みすぎて帰宅もすっかり遅くなった夫を待って機嫌を損ねている妻などをドラゴンと呼ぶのも元々あった比喩表現を利用したものとなっている様子。
なお、この Drachenfutter は英語圏では外国語表現雑学本の人気書籍『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズに「Literally translated as ‘dragon fodder’ it describes the peace offerings that guilty husbands offer their spouses.」として掲載されており、後続の類似雑学系記事でも同様の内容でしばしば紹介されてきた。
KABEL SALAT(カーベルザラート)【ドイツ語】
実際の発音
Kabel Salat / Kabelsalat [ Wiktionary | Forvo ]
└ Kabel(/ˈkaːbəl/、カーベル)[ Wiktionary | Forvo ]
└ Salat(/zaˈlaːt/、ザラート)[ Wiktionary | Forvo ]
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
直訳すると「ケーブル・サラダ」。めちゃめちゃにもつれたケーブルのこと。
実際の意味
「Kabel」は英語の cable(ケーブル)に対応。「Salat」は英語の salad(サラダ)に対応。
同じ状態(ごちゃごちゃにからまった多数の電化製品ケーブル)を表す英語での類似表現は cable spaghetti(ケーブル・スパゲティ/ケーブル・スパゲッティ)。日本語記事でもケーブル・スパゲティという表現が使われていることがある。
ドイツ大使館のドイツ案内サイトにある『【今週のドイツ語】Kabelsalat 』によると「実は19世紀中頃からドイツでは、ぐちゃぐちゃに混ざっている状態、整理整頓されていない状態のことを サラダ と表現していたそうです。」とのこと。
ドイツ語オンライン辞書にも俗語的な語義として「トラブル、混乱」と掲載、用例からも色々なものが雑然と混ざってしまっている様子を表すのに使われていることがわかる。
SAUDADE(サウダージ)【ポルトガル語】
実際の発音
saudade [ Wiktionary | Forvo | infopédia ]
Wiktionaryでは
- ポルトガル:/sɐwˈda.dɨ/(サウダディ)、[sɐwˈða.ðɨ]
- ブラジル:/sawˈda.d͡ʒi/(サウダジ)
ような発音の違いがあるというIPA発音表記にはなっているが、実際にネイティブ音声を聞いてみるとポルトガル発音はサウダードかサウダド、ブラジル発音はサウダージかサウダジという感じに聞こえるような感じも。
オンラインポルトガル辞書サイトの infopédia では sɐwˈdad(ə), sɐuˈdad(ə) という、サウダダとサウダデが混ざったような発音かサウダドのどちらかだと理解できる表記となっている。
日本語や英語で書かれた発音解説記事によると、ポルトガル本国ではサウダーデというよりはサウダード寄りの発音に。ブラジルのポルトガル語ではアクセントが置かれない saudade 語末の -e はエではなくイの響きに変わるとのこと。
一方ポルトガルに関連した日本語書籍を見てみるとポルトガル発音に寄せた「サウダーデ」ないしは実際の発音に近くしたらしい「サウダード」となっていることも。また「サウダーディ」になっている記事、「サウダデ」や「サウダードゥ」になっているポルトガル語学習書も見られる。
東京外国語大学言語モジュールのポルトガル語学習コンテンツでも「ポルトガルはサウダーデの国だ」という例文となっており、リスニングをするとサウダードに近く聞こえるものにサウダーデというカタカナ表記を組み合わせることが標準的に行われていることがうかがえる。
そのため、ポルトガルの国民性を象徴する有名な言葉として紹介する際にはブラジル発音とは区別してサウダーデなりサウダードなりの表記を採用するのが良いものと思われる。
『翻訳できない世界のことば』に関しては、英語原作の時点からブラジルの話が出てくるためポルトガルとブラジルをひっくるめてのサウダーデ(サウダード/サウダージ)を紹介していたページだったものとも考えられる。
ただ本の中で「ポルトガル語」と「ブラジル・ポルトガル語」を区別していることから「SAUDADE サウダージ/ポルトガル語」の方はポルトガルポルトガル語として扱っていたとも受け取れ、ポルトガルの表現として扱いつつも日本でブラジル発音に依拠したカタカナ表記が広く用いられていることから”サウダージ”が選ばれた可能性が考えられ、ポルトガルの言葉として紹介しつつも読みガナはブラジル式というずれが存在することになるかと。
参考サイト
- note記事『Saudadeについて』
- StackExchange『different ways of pronouncing “saudade”』
『翻訳できない世界のことば』での意味解説
心の中になんとなくずっと持ち続けている、存在しないものへの渇望や、または、愛し失った人やものへの郷愁。
*見開き反対側は「単に何かや誰かを惜しむというよりもっと強い感情で、美しくも切ないアートや文学のテーマにもなります。国から国へ、人から人へ、そのニュアンスが伝わっていっているようです。ブラジルでは、毎年1月にsaudadeの日というのがあります。」との説明文。
実際の意味
諸説あり確定していない語源
saudade はポルトガル語やポルトガルの隣(北)にあるスペイン北西部ガリシア州で話されているガリシア語の名詞。両言語の祖となったガリシア・ポルトガル語を経て現在の語形になったとされているが、具体的な語源や中世以降の語形・用法変化については諸説あり確定していない模様。
ガリシア語本来の語形は soidade だが、現代ガリシア語ではポルトガル語と同じ saudade が使用されるようになっているとのこと。
ガリシア・ポルトガル語という名称の「ガリシア」は古代ローマの属州でイベリア半島にあったガラエキアにちなみ、属州時代に口語ラテン語(俗ラテン語)が一体に伝わりポルトガル語やガリシア語の祖となったという。
そのためもあってか saudade の元になったのはラテン語だったと説明されていることが一般的であるようだが、元になったのが具体的にはどの単語だったかについては諸説あるそうでオンラインポルトガル語辞書を見てもまちまちだった。
ポルトガルの国民性とからめての深い意味としてのサウダーデ(サウダード/サウダージ)
「翻訳が難しい言葉」「一言では表せない言葉」として世界的に知られるサウダーデ(サウダード、ブラジル発音:サウダージ)。英語圏でも以前から色々な本・記事で紹介されており、外国語表現紹介本『The Meaning of Tingo』(2005年刊)『Toujours Tingo』(2007年刊)シリーズにも「the longing for things that were or might have been」として載るなどしていた。
『翻訳できない世界のことば』英語原作『Lost in Translation』では「A vague, constant desire for something that does not and probably cannot exist, a nostalgic longing for someone or something loved and then lost.」(直訳:存在しないもしくは多分存在しないかもしれない何かに対するあいまいだが絶えることの無い切望、愛したもののその後失ってしまった誰かや何かを懐かしみ憧れる気持ち。)といった説明がなされており、日本語版「心の中になんとなくずっと持ち続けている、存在しないものへの渇望や、または、愛し失った人やものへの郷愁。」よりも多少具体的な描写となっている。
日本語の辞典や解説サイトなどで紹介されている saudade の和訳・意味は
- 郷愁
- 哀愁
- 憧憬、思慕
- 悲しみ、心の痛み、悲痛
- 遠い昔や失われたものにひかれる気持ち。郷愁。[ デジタル大辞泉 ]
- 過ぎ去ったものを懐かしむ気持ちで、「郷愁」に似ているが、それに二度と出会うことはないだろうという諦めや宿命を含意している。サウダーデはポルトガル人の国民性の一部とされ、大航海時代に戻ることのなかった男が多かったために形成されたと考えられている。[ 英辞郎 ]
- ポルトガル人が心の奥深くに持っている感情 “saudade” [ サウダデ ] つまり「遠くにいる人などを懐かしく思って会いたい気持ち」はブラジル人も同様に持っており、この感情はよく表現されます。[ 守下幸子著『使える・話せる・ポルトガル語単語』2003年 語研刊 ]
- 人がかつて愛情・愛着を抱いた対象が不在(または消失)の場合、過去の記憶を欲求し、想起した時に心の内部に生じる嬉しい、悲しい、懐かしいといったさまざまな感情の総体である。歴史上の文献としてこの言葉は、13世紀の叙情詩に古形として現れ、大航海時代の間の15世紀中に現在の形となり、以後今日に至るまで、特に詩や散文にそうした感情がサウダーデとして語り継がれている。それゆえ、サウダーデはポルトガル人の民族感情を表現する言葉と言えよう。[ 天理大学学報『サウダーデとポルトガル人-パスコアイスとモラエスの事例に触れて-』 ]
- サウダーデは、目の前にない幸福、すなわち遠くにあるか、時間とともに過ぎてしまった何かあるものに対する、痛みを伴うような、甘い哀愁のこもった思い出であり、その失われた幸せを再び取り戻したいという欲求が混じった思いでもある [ 東京外国語大学論集紀要論文『サウダーデの文献学的研究に向けて』 ]
など。
黒澤直俊氏による紀要論文『サウダーデの文献学的研究に向けて』によると、このサウダードの概念というのはポルトガルが王政から共和制に移行した1900年代(20世紀)初頭に起こった Saudosismo(サウドズィズモ*)と強く結び付いたものだったという。
*Wikipedia日本語版項目『サウダージ』では”サウダシスモ”というカタカナ表記になっている。
サウドズィズモはポルトガル文学において数世紀にわたり受け継がれてきたサウダーデの精神を重視したものだったが、今日においてのネイティブ向けポルトガル語辞書の定義としては「時間や空間の上で遠く離れた誰かや何かについての記憶や思い出に関係した郷愁的感情」といった内容・理解になるとのこと。[ ソース ]
またオンラインポルトガル語-英語辞書には「目の前にいない/その場にいない人に対する愛情のこもった/優しい挨拶」といった意味も載っており、サウダーデ(サウダード、ブラジル発音:サウダージ)が色々な語義を持つことがうかがえる。
日常会話における軽い意味でのサウダーデ(サウダード/サウダージ)
「翻訳が極めて難しい語」「ポルトガルの国民性を表す非常に深い言葉」として紹介されることが多く、非常に複雑であるがゆえに単純な訳語を見出すことが不可能だといったイメージで受け止められがちだが、ネットではポルトガル語話者らから「ポルトガルの文学などと結び付いているからポルトガル人意外に理解は難しいと思う」といった意見だけでなく「大げさに説明されすぎる傾向があるけども、日常会話では恋しいとかいなくて寂しいとかいった普通の使い方もする」といった投稿がなされている事例も見られる。
例:
Reddit『Sometimes I think “Untranslatable” Words Are Over-Hyped』
(”翻訳できない”ことばって課題宣伝なんじゃないかと時々思うんだけれども)
また、日本語で確認できる例文としては
- Tenho saudade do sabor do molho de soja.
醤油の味が懐かしい。
[ 東京外国語大学言語モジュール:ポルトガルポルトガル語:語彙モジュール ] - Estou com saudade de você.
私はあなたが恋しい。
[ 使える・話せる・ポルトガル語単語 ] - Ele está saudade do Brasil.
彼はブラジルが恋しい。
[ 使える・話せる・ポルトガル語単語 ] - 家族や友達から離れているとき、国民性をよく表すこの表現が、しばしば使われます。
Estou com saudade da família
私は家族が恋しい
[ 初めて学ぶブラジル・ポルトガル語 ] - Ah! Que saudade eu tenho da Bahia.
アー、バイアがとてもなつかしいよ!
[ ポルトガル語基本単語2000 ]
などが見つかった。
翻訳ができない外国語ムーブメントでは複雑な意味の saudade のみがクローズアップされていることが多いが、実際にはポルトガルの歴史や文学に関する理解なども要求する深い定義から翻訳が可能な日常会話的な使い方まで幅広く、本の説明文「単に何かや誰かを惜しむというよりもっと強い感情」が当てはまるかどうか、日本語に容易に訳せるかどうかはケースバイケースらしいとわかった。
最後に
雑学本・記事の内容を辞書やネット検索で再確認してみることの大切さ
ここまで各語についてまとめてみましたが、元の語義とのずれや非ネイティブによる想像が補ったストーリーの付加というのは『翻訳できない世界のことば』が発売される前から欧米で見られた現象となっています。
こうした書籍やウェブページは語学の教材や外国語表現の正確な意味を知るには向いていませんが、各国語の言葉に対し非ネイティブがどのような面白みを求めるのか、そして引用が繰り返されていく過程でどんな変化が加わるのかを知るという点では非常に興味深く感じました。
今は各国語-英語のオンライン辞書が複数あり、英語ができれば検索エンジン、Googleブックスといった書籍情報検索を使ってある程度の事実確認は自力でできる時代になっています。
翻訳が難しい言葉ほど作品考察的な推測では正確な意味にたどり着くことは困難なので、欧米で出回っている/欧米経由で日本に入ってきた「翻訳できない外国語の言葉」紹介文についてはその言語の辞書やネイティブによる解説を読んで、本来の意味と使い方を確認することが大事なのかもしれません。
外国語表現ブームに伴う”その国に根ざした特別な言葉”という解釈と海外での議論
言語相対論的な「その土地の風土・文化が言葉を形作る」「その言語ならではの特別な意味合いがある」という考えからの物語付与や元の語義からの飛躍は欧米の一部言語学関係者・語学関係者から問題視されているようで、英語で情報を検索してみると色々な書籍・論文・記事・投稿を見ることができます。
海外では翻訳できない外国語表現ブームの弊害を指摘した『Don’t Believe A Word: The Surprising Truth About Language』のような書籍や、ウェブ上にある「翻訳が難しい珍しい外国語表現の本来の意味を調べて辞書や専門書を元に翻訳・解説してみると、ストーリー性もエキゾチックなドラマ性も何も無いただの単語であることがわかってしまう」といった皮肉めいた意見などはその一例となっています。
しかし自言語には無い不思議・素敵な言葉とそれにまつわる興味深い物語へのニーズが高いこともあって、雑学本を通して色々な言語からピックアップされた数多くの単語が本来とは違う形で出回るという現状はなかなか変わらない模様です。
当記事を読んで「絵本が与えてくれた素敵な気持ちが台無しになってしまった」と残念な気持ちになられた方も少なくないかと思います。
ただ上記のような翻訳困難外国語表現ブームというのは異文化を異質なものとして見てその違いを楽しむというスタンスに依拠しがちで、往々にして「さすが◯◯人」といった先入観に当てはめ語義の背景を十分調べずに非ネイティブが補う作業による誤訳を誘発する、実際には翻訳困難ではない語であることを見落とす、他の言語から近代になってから輸入された外来語であるにもかかわらず「~の民ならでは」という解説をつけてしまうといった結果にもつながっています。
日本では大手メディアも含め「異文化への理解や畏敬の念が芽ばえ育まれる」「世界は素敵な言葉にあふれていると知ることができる」「こんな言葉があったのかと勉強になった」といった評価が与えられているようですが、日本よりもずっと前から翻訳ができない外国語ムーブメントがあった欧米ではむしろ部外者によるステレオタイプ的視点や非学術的デマという問題点が指摘される事象ともなっています。
『翻訳できない世界のことば』については欧米で出回っている誤情報を載せていた英語原作部分とはまた別に日本語版のみに見られる要修正箇所が複数あり、英語原作から日本語化する際の誤訳による語義・説明文の変化、原語表記や読みガナの取り違えやスペルミスが現時点でも残っているように見受けられます。
これについては日本語版の出版社側に対応していただく内容に該当するのでは…と思います。
砂漠と灼熱の国アラビアというイメージが生んだ比喩表現誤解釈の例
アラビア半島のステレオタイプが生んだ誤った推論
アラビア語というのはそうしたステレオタイプやオリエンタリズム、風土論的な推測に基づいたアラビア語表現の解釈がしばしば行われる言語でもあるのですが、
例:アラビア語における「太陽のような人」
日本での都市伝説的解説
「アラビア半島は砂漠だらけで365日暑く常に雨不足。太陽は死しか意味しない嫌われ者。太陽を神として慕い敬う気持ちなど生まれない。悪魔同然で誰も好きではないので「太陽のよう」と形容すると皆怒る。冷酷非情という意味になるので女性をほめるのに絶対に使ってはいけない。近頃は日本も酷暑続きで、太陽がけなし言葉になるアラブ人の気持ちがわかる気がする。」
▶アラビア語や神話学的要素の比喩表現への影響などについて調べずにアラブ=砂漠というイメージから意味や背景となるストーリーを推測したことによる誤解。アラブ世界では冷酷非情の代名詞は太陽ではなく石。太陽は冷酷非情の正反対で比喩表現としては寛大・皆に優しいという扱い。
実際
アラブ世界はメソポタミアなど古代文明における月・太陽・金星信仰を引き継いでおりアラビア半島北側では太陽は男性神、南側では母なる女性神だった。太陽は水と一緒に生命を育み草木を育てる存在で、寒く凍えるような冬の後の春に見られる新生の象徴、闇と悪を暴き正義と真実を司る公明正大な神とされた。イスラーム以後も「太陽のよう」はほめ言葉として使われ、高貴な統治者の称賛・女性の称賛・正義や真実の比喩であり続けた。
現代でも太陽はアラブ諸国において寛大で無償の愛を与える母親の代名詞などとして良い意味のたとえに多用。歯が抜けた小児が太陽に「お天道さまロバの歯みたいなばっちいのをガゼルの歯みたいなきれいなやつに替えてください」と願うまじないも依然として残っている。
という「アラブ世界では太陽は死を象徴する冷酷非情な嫌われ者」論のように、資料や専門書で調べずに創作され有名書籍を通じて広められてしまった都市伝説的な解説も少なくないです。
アラビア語表現というとすぐに「なだらかな砂漠以外は無い」「アラビア半島は365日灼熱」「人が住んでいる地域も雨が降らず、人々は日々水がろくに手に入らないギリギリの極限状態で暮らしてきた」という連想から解釈されてしまうことが多いのですが、このステレオタイプ的な前提そのものが間違っているため、辞書や専門書などで調べないと正しい推論に至ることができません。
アラビア半島というのは実際には「オアシス、井戸、河川、高山もあり砂漠以外の定住地もあった」「年中暑いのではなく春夏秋冬があり、冬には凍死する人や食糧不足で死ぬ人もいた」「河川が無い地域でも地下水脈があり井戸で家畜や人間を養っていた」でした。
またアラビア語はセム諸語の一つでアラビア半島よりも北の地域で話されていた言語の流れをくむため、多くの単語は現在のイラクやパレスチナなどで話されていた言語からそのまま引き継いでおり、「アラビア語の言葉は灼熱のアラビア半島の砂漠で生まれた」的な考えは語源となった地域の創作になりかねません。
さらにはアラビア半島の太陽・月・星信仰は砂漠が多く暑さが厳しい地域よりも北で生まれた宗教の影響を受けていたため太陽のイメージもアラビア半島より寒い地域における太陽のイメージに近い考えなども混ざっているため、「アラビア半島は灼熱の国だから太陽は嫌われ者」という推論をやると、アラビア語における太陽の伝統的な比喩表現と大きくずれるので嘘雑学・都市伝説を生む原因になりがちです。
◯◯語のおもしろ表現=「その土地だけにしか無い言葉」という断定を起点とした推察が生む誤解
ところが翻訳ができない言葉ブームの中では辞書や専門書で調べるということが軽視されがちで、「その土地特有の環境から生まれた言葉だけが載っているはずだから、砂漠だらけで灼熱地獄のアラブ世界のイメージを通して理解することができる」という風に推測のみで情報が補われ「片手にやっとためられた水を愛おしく感じ大切にする人々の思いが結実して誕生した独特な単語」といった無関係な情報が付け足されて、いつの間にか正しい語源ということになり世界各国に広まるということも珍しくないように見受けられます。
しかし外国語表現というのは他の言語と共通の何の変哲も無い語もあれば、その地域独特の本当に翻訳が難しい語もありまちまちです。
アラブ世界における太陽観のように少しずれた地域の影響を受けているためにその国の風土を思い浮かべながら意味を想像することが適切ではない場合も存在。ヨーロッパのように同じ語族の各言語が広がっているエリアだと、自然環境がかなり異なる広い地域にわたって同じ語源と同じ概念の姉妹語が流布していたりもします。
非ネイティブ向けの雑学本に載っている単語はよくよく調べてみると近隣諸国と共通の表現でその国独自の言い回しでないことも多く、その語については当てはめるべきではない「その国ならではの環境が生み出した言葉にまつわる特別なストーリー」が部外者による想像や憶測から作られたことで、ネイティブ向けのソースを調べてみたらだいぶ話が違っていたということもしばしばです。
『翻訳できない世界のことば』については近現代の新造語も複数掲載されていますが、いくつかはヨーロッパで同時期的に広まったものでその国・その言語で独自に生まれたものではないケースもあり、その語の理解には「その土地だけのオンリーワン」以外の視点も欠かせないように感じました。
創作の考察と言葉の意味調べとの違い
管理人個人の考えではありますが、語学としてその言語と向き合う場合は本や辞書の非常に短い説明を元に非ネイティブの立場で考えついた推測を足すのではなく、できる限り多くの辞典・書籍・専門書を参照しそれぞれの語の意味を把握し翻訳が容易な語とそうでない語とをきちんと区別できるように務めるのが遠回りなようで実は最も堅実な方法なのでは…という気がします。
外国語表現というのは辞書で意味が規定されており、語源や細かい語義も専門書や研究論文によって確認することが可能です。
語学は漫画・映画・小説といった創作の考察とは違い手持ちの情報を元にした推測は禁物で正しい情報を新規に調べないといけないジャンルなので、その土地のイメージなどから想像するだけだとどうしても欧米における翻訳困難語ブームのようなことになってしまいがちです。
今回記事を書くために色々な辞書や専門書を読んでみましたが『翻訳できない世界のことば』や欧米の翻訳困難語紹介雑学本・記事で有名になった表現の中には「これはその言語のことや背景事情を知らないと絶対に訳せないだろう」と感じさせるような本当の翻訳困難語というのが数はそう多くないものの一定数含まれており、ネイティブによる解説やネイティブ向けの論考も含めて読まないと正解に到達できないであろう事例も複数あったように感じた次第です。
言語学者や語学関係者からの批判を乗り越えて
間違いの指摘や本来無かった意味の追加に関する考察・議論が中心となってしまった当ページですが、外国語表現紹介ブームが日本よりもずっと早く起こった欧米では「それでもやはりその言語特有の言い回しを伝えることには意義がある」として、一次ソースに当たらないまま進められた伝言ゲームのようになってしまった翻訳困難語紹介とは一線を画する取り組みも起こっている様子。
ただの誤報拡散ではない意義ある翻訳困難語の情報提供を目指しているらしいサイトも検索で複数ヒット。
ベストセラー書籍に比べれば影響力は非常に小さいかもしれませんが、海外では色々な動きが日本よりも先行して起こっており、都市伝説的な不正確な雑学情報ばかりが流布してしまっている状況とはだいぶ違ってきている模様です。