アラブ人の名前のしくみ~クンヤ(◯◯の父・◯◯の母など)

  1. クンヤの定義
    1. クンヤとは
    2. 色々な人に使われているクンヤ
    3. 用途
    4. モロッコでの事例
  2. 子供の名前を使ったクンヤ=子称
    1. ◯◯の父
    2. ◯◯の母
    3. 基本的には息子の名前を使うが、娘の名前を入れたり、子供がいない人が適当な名前を◯◯部分に入れて通称にしていることも
    4. 物事の名称やブランド名への利用
  3. 父親の名前を使ったクンヤ=父称
    1. ◯◯の息子
    2. ◯◯の娘
  4. 親、子供以外の名前を使ったクンヤ
    1. ◯◯に兄弟姉妹の名前が入る場合
    2. ◯◯に甥・姪の名前が入る場合
    3. ポピュラーなアブーとウンムの実例
    4. 「~の息子◯◯」はナサブで本人ファーストネーム抜きの「~の息子」呼びはクンヤ
  5. クンヤと語形・格の変化
    1. أَب [ ’ab ] [ アブ ] 父、父親
    2. أُمّ [ ’umm ](ウンム)母、母親
  6. 人名表記とクンヤの位置
    1. 歴史上人物の人名録方式フルネームではクンヤが先
    2. 本名の後にクンヤが来る名乗り方
  7. アラブ社会におけるクンヤの使われ方
    1. ファーストネームで呼ばないアラブの文化
    2. 子供が生まれる=改名ではないので注意
    3. 現代におけるクンヤの使用頻度
    4. 家名に転じたクンヤ
  8. 男児がおらずそもそも未婚なのに通称「◯◯の父」
    1. 未婚男性を呼ぶ時の通称としての用法
    2. 赤ちゃんでお少年でもお父さん?~男児とあだ名「アブー・◯◯」
    3. 未婚男性の通称「アブー・◯◯」を作る特定のセット
    4. 「アブー・◯◯」さんは実子が生まれたら我が子を◯◯と命名するか?
    5. カリフのクンヤが実子の名前と一致しない例
  9. ◯◯に人名以外を当てはめたクンヤ形式のラカブ(あだ名)
  10. クンヤに関する話題あれこれ
    1. イラクにおける特定職業のクンヤ(あだ名)
    2. 活動名、コードネームとしての「アブー・◯◯」
    3. 歴史上の偉人と「イブン・◯◯」

クンヤの定義

クンヤとは

كُنْيَة
[ kunya(h) ] [ クンヤ ]

意味:

  1. 近親呼称
  2. 尊称
    *例:第2代正統カリフ ウマルの別名 اَلْفَارُوق [ ’al-fārūq ] [ アル=ファールーク ](裁定者、真偽を見分ける者、分断者、物事を分け隔てる者、物事を2つに切り分ける者)
  3. モロッコなどでは出自表示のいわゆるニスバ(現代マシュリク諸国におけるラカブ)と呼ばれるパーツ【▶ ソース

あだ名としてその人の身内の名前を使って「◯◯のお父さん」「◯◯のお母さん」などと呼ぶものはクンヤに当たります。

日本ではクンヤというと「◯◯の父」と「◯◯の母」の2つだけが紹介されていることも多いのですが、実際には「◯◯の息子」「◯◯の娘」「◯◯の兄/弟」「◯◯の姉/妹」「◯◯の父方/母方おじ」「◯◯の父方/母方おば」もクンヤに含まれます。(詳しめのアラビア語辞典にはこれらが列挙されているので、確認が必要な方は参照願います。)

クンヤについては辞典の定義によると

  • その人への尊敬を示す
  • その人の特定時期の様子・外見・特徴が由来となってクンヤで呼ばれる例が古くからあった
  • 験担ぎ・幸せを願って赤ちゃんをクンヤで呼ぶことがある
  • 本来のファーストネームよりも周囲での認知度が高くなり、その名前で広く知られるケースが多い

となっています。

色々な人に使われているクンヤ

アラブ世界では地域差こそあるものの「◯◯の父」「◯◯の母」などという通称・呼び名が多用されていて、実際に子供を持つ親の立場にある人だけに限らず、既婚ではあるものの子供はいない人を呼ぶ際にも使われています。

男性の通称「◯◯の父」については特に広い年齢層を相手に使う傾向が強く、まだ結婚すらしていない青年、少年、生まれたての赤ちゃんなど、様々な年齢層の愛称・あだ名として広く使われています。

「◯◯の母」はそこまで多彩な使われ方をしていませんが、アッバース朝カリフ ハールーン・アッ=ラシードの妃ズバイダが実子とは全然関係の無いクンヤ「ウンム・アッバース」(アッバースの母)で通っていたり、既婚女性が存在しない実子の名前の代わりに架空の名前を使って「ウンム・◯◯」(◯◯のお母さん)とご近所さんに呼ばれたりと、アブー同様”◯◯は実子の名前だ”というイメージと切り離すべき事例が複数あるので要注意です・

用途

クンヤにはいくつかの用途があります。

  1. ファーストネームを丸出しで呼ぶことを避けるため
  2. その人が父・母であるという立場に敬意・称賛・好意を示すため
  3. その人の偉大さをたたえ賛美するため
  4. 特定の職業の人物を呼ぶ時にクンヤを使う
  5. 生物・事物に別称・通称の形で名前をつけるため
  6. 日用品・衣料品などが有する性質や袖といったパーツの有無などを表現するため
  7. 商品ブランド・マーク名の定型表現として

のように人ではなく物や動物にも使われており、「クンヤとは純粋な意味での近親呼称のみ示す」という訳ではありません。

そのため文中で「アブー・◯◯」「ウンム・◯◯」となっていても、実際に◯◯という名前の子供を持つお父さん・お母さんだったり、その人の好物や好きな動物である△△がシンボルマークとなって「△△の父、△△おやじ」といったあだ名で呼ばれている人だったり、「◯◯を持っている事物、◯◯が備わっている事物、◯◯印の製品」だったり、意味する内容はまちまちです。

モロッコでの事例

アラブ世界におけるクンヤについて解説するモロッコ人宗教家。クンヤについて説明する前にまずはモロッコにおける語の使い方について確認しましょう、という前置きの講話が入ります。

彼によるとモロッコ人は出自表示部分である اَلطَّنْجِيّ [ ’aṭ-ṭanjī(y) ] [ アッタンジー(ュ/ィ) ](アッ=タンジー、タンジェ出身の(人))のような語をクンヤと呼んでいるとか。

日本では中世アラブ人名も現代アラブ人名もこのラストネーム部分をまとめてニスバと呼んでいますが、現代マシュリク(エジプト以東のアラブ諸国)では英語表現 title の英訳であろうラカブなどに置き換わっています。

子供の名前を使ったクンヤ=子称

◯◯の父

発音と表記

أَبُو ــ
[ ’abū ◯◯ ] [ アブー・◯◯ ]

Abu ◯◯
人名としての意味:◯◯の父、◯◯のお父さん、◯◯くんパパ、◯◯ちゃんパパ
物としての意味:◯◯の主、◯◯があるもの、◯◯がついているもの

◯◯部分に息子などの名前を入れ、◯◯が直前の「父」という名詞を後ろから属格支配して複合語「◯◯の父」になっているものです。「アブー・◯◯」で1セットなので、「◯◯さん」と呼ぶのは間違いになります。

アブーは一般的な英字表記では長母音を表す Abuu や Abū と書くことは少なく、Abu が非常に多いです。口語(方言)だとアボー寄りに聞こえる発音になったりするため、英字表記には Abo、Abou も見られます。

*ouはフランス語の影響を受けた地域でよく使われている表記で、「ウ」もしくは「ウー」の音を表すのが普通です。そのため Abou となっている場合はアボウとカタカナ化してしまうと本来の発音とは違ってしまう可能性が高くなります。

一方、子供が「父さん」と自分の父親を呼ぶ時は「アブー」とはせず my father という意味合いの「アビー」(文語の場合)とします。これに呼びかけの「ヤー」をつけると「ヤー・アビー」(ねえ父さん)になります。ただ日常生活では口語を使うので方言に従った語形に変わります。

ディズニーアラジンの猿「アブー」との違い

ディズニーアラジンに出てくる猿のアブーですが、日本語のカタカナで書くとアラビア語的には「◯◯のお父さん」の前半部分を切り取ったものか、口語(話し言葉、方言)における أَبُوه [ ’abū ] [ アブー ](彼のお父さん)を想起させやすいためネットでも「アラジンのアブーはアラビア語で”お父さん”」と書かれている日本語投稿を何度か見かけたことがあります。

ところがアラビア語版では1語目が違う文字で2文字目も「bb」と重ねて小さい「ッ」が入った عبو [ ‘abbū ] [ アッブー ] になっており、 أَبُو ــ [ ’abū ◯◯ ] [ アブー・◯◯ ](◯◯の父、◯◯のお父さん)とは区別ができるものに設定されています。

この عبو [ ‘abbū ] [ アッブー ] 自体は普段アラビア語をやっていても聞かない・見ない名前なのですが、調べてみると北アフリカやイベリア半島のアンダルス地方などで使われきた名前・家名の一部なのだとか。そのためディズニーが全く独自に考えたおかしな名前かというとそうでもなく、中東イスラーム世界に実在するネーミング的に一応意味が通るものとなっています。

由来については十分に調べきれていませんが、実在するムスリム人名 عبو [ ‘abbū ] [ アッブー ] に関して「(神の、アッラーの)しもべ」という意味の男性名アブド、アブドゥッラーなどとその愛称語形アッブードなのではないかと考えているネイティブもおり、「アラジンの猿の Abu はお父さんじゃなく違うアッブー」というアラビア語書き込みも見かけました。

アブー・◯◯さんに◯◯という長男がいるとは限らない

詳細は下で改めて紹介しますが、アラブ世界の複数国にはアブー・◯◯(◯◯の父)というクンヤが通称として広く用いられており、赤ちゃん・少年・青年から高齢者まで、未婚・既婚や実子の有無に関係なくアブー・◯◯と呼ぶ習慣があります。

パレスチナ解放機構の全盛期を支えた重鎮たちの通称「アブー・◯◯」はいわゆるゲリラ名、イスラーム武装組織幹部によくある「アブー・◯◯」もコードネーム・活動名だったりと、実子である息子とは関係の無い名前が◯◯部分に入っているケースも多いです。

日本では「アブー・◯◯の◯◯には長男の名前が入る」部分だけが知られていますが、実際にはそうでない事例も多いです。解説文を書く場合は「◯◯は彼の長男の名前」とすると間違いになりかねないので、どのケースに相当するのか確認する必要が出てきます。

◯◯の母

発音と表記

أُمُّ ــ
[ ’ummu・- ] [ ウンム・- ]

Umm ◯◯(◯◯の母、◯◯のお母さん)

◯◯部分に息子などの名前を入れ、◯◯が直前の「母」という名詞を後ろから属格支配して複合語「◯◯の母」になっているものです。「ウンム・◯◯」で1セットなので、「◯◯さん」と呼ぶのは間違いになります。

ウンムは口語だと母音 u が母音 o よりになりやすいことからオンムに近く発音されることが多く、Umm 以外に Omm などと英字表記されていることが多いです。本当は2つ連なっているはずの m を1つに減らしてしまうバージョンも Um、Om、ウの音を ou で当て字した Oum なども。

これらは日本語のカタカナ表記がウンム、ウム、オンム、オムと何通りにもなってしまう原因となっていますが、元は全部同じ単語で文語アラビア語ではウンム、口語アラビア語ではオンムなどと発音されているものを指します。

*ouはフランス語の影響を受けた地域でよく使われている表記で、「ウ」もしくは「ウー」の音を表すのが普通です。そのため Oumm となっている場合にオウンム、Oum となっている場合にオウムとカタカナ化してしまうと本来の発音とは違ってしまう可能性が高くなります。

一方、子供が「母さん」と自分の父親を呼ぶ時は「ウンム」とはせず my mother という意味合いの「ウンミー」(文語の場合)とします。これに呼びかけの「ヤー」をつけると「ヤー・ウンミー」(ねえ母さん)になります。ただ日常生活では口語を使うので方言に従った語形に変わります。

基本的には息子の名前を使うが、娘の名前を入れたり、子供がいない人が適当な名前を◯◯部分に入れて通称にしていることも

基本的に息子の名前を◯◯部分に入れますが、男子がいない場合は娘の名前を入れます。国によって違うようですがイラクなどはテレビを見ていると娘の名前を使って「◯◯の父」「◯◯の母」を名乗っている人が結構登場するとの印象です。

あとは地域によっては子供がいない人でも◯◯部分に適当な人名を入れて「◯◯のお母さん」と呼ばれることもあるようで、以前パレスチナ農村部の御長寿インタビューシリーズを見ていた時にそのようなクンヤで通っている高齢女性が出演していました。

クンヤを聞いただけでは実子の有無が判断できないのですが、この番組では既婚かどうか・夫は健在か・ウンム何と呼ばれているのか・子供はいるかあれこれ質問するため「みんなからはウンム・◯◯と呼ばれているんだけど。子供はいないわよ。」と本人が言っているので「◯◯のお母さん」というあだ名が便宜上設定されたものだと確認できた次第です。

物事の名称やブランド名への利用

この「◯◯の父」「◯◯の母」は動物・無機物・抽象的な事柄などの名称・別称としても多く使われています。(「酩酊の母」=酒の別名 など。)

「アブー・◯◯」は商品ブランドを指して「◯◯印」「◯◯マーク」という意味で使われることもあります。たとえば山の絵が大きく配置された أَبُو جَبَلٍ [ ’abū jabal ] [ アブー・ジャバル ](*ジャバル=山)と呼ばれるブランドだと「ジャバルの父さん」「ジャバルのおやじ」ではなく「山マーク」「山ブランド」「山印」といった訳にするのが適切だということになります。

父親の名前を使ったクンヤ=父称

◯◯の息子

اِبْن ــ
[ ’ibnu・– ] [ イブン・– ]

Ibn ◯◯
意味:◯◯の息子

親が「我が息子よ」と自分の息子を呼ぶ時は「ヤー」(ああ~よ)+「イブニー」(我が息子)を組み合わせた「ヤ・ブニー」(文語の場合)などとします。ただ日常生活では口語を使うので方言に従った語形に変わることも。

イブンは口語だとビンやベンで発音されることがしばしばあるため、英字表記も bin や ben といった話し言葉バージョンが多用されています。アラブ人の家名、ラストネーム部分に含まれる Bin◯◯ や  Ben◯◯ は「◯◯の息子、◯◯家の息子、◯◯家の者」といった意味のクンヤがそのままファミリーネームに転じたものになります。

アラブ世界では母親の名前を◯◯部分に持ってくる「イブン・母」というクンヤは使われず、父親が不明である、認知してもらえなかった訳ありの生まれの子供という不名誉なものと見なされます。

ただし預言者イーサー(イエス・キリストに相当)についてはまた別の話で、彼の一般的呼称「イーサー・イブン・マルヤム」(マルヤムの子イーサー)は唯一神アッラーによる恩寵と奇跡を表すものとなっています。処女懐胎という類を見ない誕生の仕方であり実父の名前を使ったクンヤが作れなかったためです。

◯◯の娘

بِنْتُ ــ
[ bintu・– ] [ ビント・– ]

Bint ◯◯
意味:◯◯の娘

親が「我が娘よ」と自分の娘を呼ぶ時は「ヤー」(ああ~よ)+「ビンティー」(我が娘)を組み合わせた「ヤー・ビンティー」(文語の場合)などとします。ただ日常生活では口語を使うので方言に従った語形に変わることも。

ビントは口語でベントに近く発音されることがあり、英字表記が bent になっていることがあります。マレーシアなどではアラビア語の影響を受けて binti(ビンティ)が使われているとのことですが、アラブ諸国では語末に i をつけた表記は通常使わず、bint が標準的表記となっています。

親、子供以外の名前を使ったクンヤ

◯◯に兄弟姉妹の名前が入る場合

  • أَخُو ــ
    [ ’akhū・– ] [ アフー・– ]

    Akhu ◯◯(◯◯の兄/弟)
    *兄弟や親しい人物が「我が兄弟よ」と男性相手に呼ぶ時は「ヤー」(ああ~よ)+「アヒー」(我が兄弟)を組み合わせた「ヤー・アヒー」(文語の場合)などとします。ただ日常生活では口語を使うので「アフーヤ」のように方言に従った語形に変わることも。「父さん」「母さん」という呼びかけに比べればバリエーションはだいぶ少ないように思います。
  • أُخْتُ ــ
    [ ’ukhtu・– ] [ ウフト(ゥ)・– ]

    Ukht ◯◯(◯◯の姉/妹)
    *姉妹や親しい人物が「我が姉妹よ」と女性相手に呼ぶ時は「ヤー」(ああ~よ)+「ウフティー」(我が姉妹)を組み合わせた「ヤー・ウフティー」(文語の場合)などとします。ただ日常生活では口語を使うので方言に従った語形に変わることも。「父さん」「母さん」という呼びかけに比べればバリエーションはだいぶ少ないように思います。

◯◯に甥・姪の名前が入る場合

  • عَمّ ــ
    [ ‘ammu・– ] [ アンム・– ]

    Amm ◯◯(◯◯の父方おじ)
  • خَالُ ــ
    [ khālu・– ] [ ハール・– ]

    Khal ◯◯(◯◯の母方おじ)
  • عَمَّةُ ــ
    [ ‘ammatu・– ] [ アンマトゥ・– ]

    Amma ◯◯(◯◯の父方おば)
  • خَالَة ــ
    [ khālatu・– ] [ ハーラトゥ・– ]

    Khala ◯◯(◯◯の母方おば)

Amma、Khalaですがアラビア語では「~のおば」という形で後ろから属格(所有格支配)を受けた場合は語末のtの音を復活させてアンマ→アンマトゥ、ハーラ→ハーラトゥと読まれます。しかし英字表記の場合は単体の時の発音アンマ、ハーラに対応したAmma、Khalaになっていることが多いようです。

ちなみに「アンム・ムハンマド」のような場合、「ムハンマドの父方おじさん」という意味ではなくムハンマドという中年男性に対する呼びかけとしての「ムハンマドおじさん」「ムハンマドおじちゃん」という意味で使われていることが多いので混同しないよう要注意です。

ポピュラーなアブーとウンムの実例

اَلْكُنْيَة [ ’al-kunya(h) ]として現代で多用されているのは、長子の名前「◯◯」を当てはめて、その父を أَبُو ــ [ ’abū — ](アブー◯◯)、その母を أُمُّ ــ [ ’ummu ◯◯ ] とする通称です。

  • َأَبُو أَحْمَد
    [ ’abū ’aḥmad ] [ アブー・アフマド ]

    Abu Ahmad、アフマドの父
  • َأُمُّ أَحْمَد
    [ ’ummu ’aḥmad ] [ ウンム・アフマド ]

    Umm Ahmad、アフマドの母

長子と書きましたが、男の子、特に長男の名前が◯◯部分に入ります。◯◯部分に女児の名前が入ることもあります。

父親も母親もそれぞれの本名もフルネームも子供が生まれる前と全く同じで変化は一切しませんが、通称で呼ばれる形に切り替わります。

父がムハンマド、母がファトヒーヤであれば子供アフマドが生まれた時点でアブー・アフマド、ウンム・アフマドと呼ばれるのが一般的になりファーストネームの影が薄くなります。(本人のファーストネームをじかに呼ぶのを避ける、イスラーム以前ジャーヒリーヤ時代からあったアラブ的慣習の名残でもあります。)

「~の息子◯◯」はナサブで本人ファーストネーム抜きの「~の息子」呼びはクンヤ

混同されやすいナサブとクンヤ

本人のファーストネームの代わりにその人の家族の名前を使って呼ぶクンヤという通称の用法には「~の父(アブー・~)」「~の母(ウンム・~)」以外に「~の息子(イブン・~)」「~の娘(ビント・~)があります。

よくネット上の記事で本名の代わりに「イブン・~」と呼ぶケースをナサブと書いてあることが多いのですが、アラビア語で書かれた人名に関する説明やアラビア語辞書の記述に基づくとそれらはクンヤだということになります。

「ファーストネーム・イブン/ビン・~」(ナサブ)と違って「イブン・~」のようなケースでは、ibn と bint は系譜を示すためのつなぎ部分となるパーツではなく本人のファーストネームを呼ばない代わりの通称を形成する複合語の先頭に来るため用法が異なります。

ナサブ(△△の息子◯◯)

مُحَمَّدُ بْنُ سَلْمَانَ
文語発音:[ muḥammad(u) bnu salmān ] [ ムハンマド・ブヌ・サルマーン ]
文語風カタカナ表記:ムハンマド・イブン・サルマーン
サルマーンの息子ムハンマド

ْمُحَمَّدْ بِنْ سَلْمَان
口語発音:[ muḥammad bin salmān ] [ ムハンマド・ビン・サルマーン ]
*口語だと語末の母音が脱落します。
口語風カタカナ表記:ムハンマド・ビン・サルマーン
サルマーンの息子ムハンマド

本人のファーストネームと父親の名前を اِبْن [ ’ibn ] [ イブン ](息子)という語でつないだものです。このような用法では語頭の「’i」部分が落ち بْن [ bn(*語中の格に応じてu/i/aを足す) ] [ (主格)ブヌ/(属格)ブニ/(対格)ブナ ] という2文字になります。

クンヤ(△△の息子)

اِبْنُ سَلْمَان
文語発音:[ ibn(u/i/a) salmān ] [ イブン((主)イブヌ/(属)イブニ/(対)イブナ)・サルマーン ]
文語風カタカナ表記:イブン・サルマーン
サルマーンの息子

بِنْ سَلْمَان
口語発音:[ bin salmān ] [ ビン・サルマーン ]
口語風カタカナ表記:ビン・サルマーン
サルマーンの息子

本人のファーストネーム「ムハンマド」を出さず「サルマーンの息子」単体で言及する場合はクンヤとなります。

ニュースで既にフルネームが出てきてイブン・サルマーン/ビン・サルマーンだけでもムハンマド・ビン・サルマーン氏だとわかる場合、文脈上他の人物と混同しないようなシチュエーションではファーストネーム抜きの「~の息子」というクンヤが登場することがあります。

なお、女性の場合はファーストネーム抜きで「ビント・~」(~の娘)と呼ぶケースがクンヤになります。

クンヤと語形・格の変化

أَب [ ’ab ] [ アブ ] 父、父親

父という意味の名詞です。後ろから所有格(属格)支配を受けない時は [ ū ](長母音ウー)の音はつきません。

なお、同じクンヤである أَخ [ ’akh ] [ アフ ] も同じ文法が適用される特殊な名詞で、「◯◯の兄」になった時には أَخُو [ ’akhū ] [ アフー ] と語末の母音がuからūへと長く変化します。

أَب [ ’ab(un) ] [ アブ ] 父、父親

男性・単数・非限定の時の語形です。主格であれば語末に格を示す母音「u」と非限定であることを示す「n」を組み合わせた「un」という音がつきますが、普通は発音されず読み上げ時には省略されます。

  • ٌأَب
    [ ’abun ] [ アブン ]

    語末の格変化部分まで完全に読む場合。
  • ْأَب
    [ ’ab ] [
    アブ ]

    語末の格変化部分を省略したワクフという読み方です。このように語末にあった母音のuを落として発音した場合、人によっては [ ’abb ] [ アッブ ] に近く聞こえることがあります。

「◯◯の父」の3つの格変化

主格

أَبو ــ
[ ’abū — ] [ アブー◯◯ ]
Abu ◯◯
◯◯の父は ← 主格

クンヤを単体で挙げる場合はこの語形です。元の أَب [ ’ab ](アブ)に و [ w ] を足して、أَبو  [ ’abū ] [ アブー ]とのびた長母音に変わります。

  • ٍأَبُو طَالِب
    [ ’abū ṭālib ] [ アブー・ターリブ ]
    Abu Talib、ターリブの父
所有格(属格)

أَبِي ــ
[ ’abī — ] [ アビー・◯◯ ]
Abi ◯◯
◯◯の父の ← 所有格(属格)

~の息子ーの息子…という形式の系譜表示であるナサブの時に用いる格です。レバノンでは「◯◯の父」をファミリーネームとして使う場合は、これと同じ أَبي ــ [ ’abī — ] [ アビー・◯◯ ] の語形で名乗りをするようです。

元の أَب [ ’ab ](アブ)に ي [ y ] を足して、أَبي  [ ’abī ] [ アビー ] とのびた長母音に変わります。

  • اِبْنُ أَبِي طَالِب
    [ ’ibn ’abī ṭālib ] [ イブン・アビー・ターリブ ]
    Ibn Abi Talib、アブー・ターリブの息子

注1:イブンの「’i」部分は通常の英字表記やローマ字転写ではただの「i」と書かれていますが、ここでは元々ハムザがあったことをわかりやすくするように「’」を書き足してあります。

注2:イブンの「’i」はアラビア語において前後の単語をつなげて一気読みする時に発音されないという特徴を持っています。「イブン」の「イ」部分にあるアリフというアラビア文字部分には本来 ء [ ’ ](ハムザ)という声門閉鎖音/声門破裂音が組み合わせられているのですが、ここでは表記上隠れています。読み飛ばす「ハムザト・ル=ワスル」の場合には「إِبْن」ではなく「اِبْن」と書かれます。

目的格(対格)

أَبَا ــ
[ ’abā — ] [ アバー・◯◯ ]
Aba ◯◯

◯◯の父を ← 目的格(対格)

人名の中では登場しない格なので、アラブ人の名前を調べたりするだけの目的であれば特に覚えなくても大丈夫です。

文語において動詞の目的語や、呼びかけの対象となっている時に使われます。元の أَب [ ’ab ](アブ)に ا(アルファベットのアリフ。特定の子音は持たず長母音āを作る時に使われたりします。) を足して、أَبَا  [ ’abā ] [ アバー ] とのびた長母音に変わります。

  • يَا أَبَا طَالِب [ yā ’abā ṭālib ](ヤー・アバー・ターリブ)
    「おお、ターリブの父よ」

أُمّ [ ’umm ](ウンム)母、母親

أُمّ [ ’umm ](ウンム)母、母親

女性・単数・非限定の時の語形です。主格であれば語末に格を示す母音「u」と非限定であることを示す「n」を組み合わせた「un」という音がつきますが、普通は発音されず読み上げ時には省略されます。

  • أُمٌّ
    [ ’ummun ] [ ウンムン ]

    語末の格変化部分まで完全に読む場合。
  • أُمّ
    [ ’umm ] [ ウンム ]

    語末の格変化部分を省略したワクフという読み方です。ちなみに口語ではuがoになって [ ’omm ](オンム)という発音に変わります。その場合英字表記ではOm、Ommo、Ommなどと書かれます。

「◯◯の母」の格変化

主格・属格(所有格)・対格(目的格)は以下の通りです。

  • 主格
    أُمُّ ـــ
    [ ’ummu・– ] [ ウンム・– ]

    ◯◯の母は/が
  • 属格(所有格)
    أُمِّ ـــ
    [ ’ummi・– ] [ ウンミ・– ]

    ◯◯の母の
  • 対格(目的格)
    أُمَّ ـــ
    [ ’umma・– ] [ ウンマ・– ]

    ◯◯の母を

「◯◯の父」とは違って、「◯◯の母」(ウンム◯◯)については「◯◯」と組み合わせる複合語になっても「ウー」「イー」「アー」と長母音化したりしません。そのため日常会話での音読や英字表記には格変化を示す語末部分が登場しないので特に気にする必要も特に無いです。

アラビア語表記上で付け加える文字も無いので、母音記号以外のつづり上における見た目の語形にも変化がありません。英字表記もUmmや口語風のOmmなどだけでmの後に母音を書かないのが普通です。

人名表記とクンヤの位置

歴史上人物の人名録方式フルネームではクンヤが先

歴史上の人物などでクンヤや本名をずらりと並べる人名録方式では、クンヤ(アブー某)が先でファーストネームが後に来ます。

たとえば、第四代正統カリフ アリーの場合は息子がハサンという名前で通常定冠詞をつけてアル=ハサン。アル=ハサンの父アリー・以下略というのが長い人名録方式の出だしに来て、「アブー・アル=ハサン・アリー・イブン・以下略」という語順になります。

第四代正統カリフ アリーのフルネーム例

أَبُو الْحَسَنِ عَلِيُّ بْنُ أَبِي طَالِبٍ

語末まで完全に読む丁寧な文語読み
[ ’abu-l-ḥasani ‘alīyu bnu ’abī ṭālibin ]
[ アブ・ル=ハサニ・アリーユ・ブヌ・アビー・ターリビン ]

簡略的な文語読み
[ ’abu-l-ḥasan ‘alī(y) bnu ’abī ṭālib ]
[ アブ・ル=ハサン・アリー(ュ/ィ)・ブヌ・アビー・ターリブ ]

日本語化したカタカナ表記
アブー・アル=ハサン・アリー・イブン・アビー・ターリブ
アブー・アル=ハサン・アリー・イブン・アビー=ターリブ等

  • 長男のファーストネーム:ハサン
    シーア派イマームにも数えられる彼の名前には通常定冠詞がつけられアル=ハサンと呼ばれます。
  • 本人のファーストネーム:アリー
  • 父親の名前:アブー・ターリブ
    これはクンヤです。アリーの父の本名については諸説ありますがアブド・マナーフ説が有力のようです。しかしアリーのフルネームでは父親のファーストネームは使われずクンヤのみ記すことが一般的です。

本名の後にクンヤが来る名乗り方

現代では歴史上人物のフルネームとは違いクンヤがファーストネームやラストネーム類の後に置かれることがしばしばあります。堅い人名録方式とは異なるので区別・使い分けが必要となります。

◯◯パパの~、◯◯ママの~

一方SNSなどで名乗る名前の場合、「アリーママのアーヤ」という意味の「アーヤ・ウンム・アリー」や「ハサンパパのアリー」という意味の「アリー・アブー・ハサン」のようにファーストネームの後にクンヤ形式の通称を並べてあるケースも見られます。

人名録方式とは異なる口語的で日常において使用される表現らしいのですが、フルネームの代わりにアブー某やウンム某をファーストネームの後に続けることもしばしば行われているようです。

ただ基本的にはアブー某、ウンム某と呼ぶ場合はファーストネームは同時には呼ばず、自己紹介などで「本名の方は?」と聞かれればファーストネームを相手に伝え、「ウンム何ですか?」と聞かれればクンヤの方を答える感じになるかと思います。

クンヤ形式の家名と混同しやすい口語風なクンヤの同格的並列

また、ファーストネームに「アブー・◯◯」や「イブン・◯◯」といった複合語が続いた場合、それがクンヤ形式の家名であり本人のあだ名ではなく先祖のあだ名だというケースがしばしばあるので区別することになります。

フルネームの氏名表記で「ムハンマド・アブー・アフマド」と書いてある場合、アフマドの父ムハンマドという意味で使っている場合もあれば、アブー・アフマド家のムハンマドという意味で「アブー・アフマド」が家名でラストネームであるケースもあるので結構まぎらわしいです。

アラブ社会におけるクンヤの使われ方

ファーストネームで呼ばないアラブの文化

アラブ世界においてクンヤは本当のファーストネームでその人を呼ぶ代わりに使われてきました。

部族抗争が盛んだった大昔、本名を簡単に知られることはその人の素性がすぐにばれることにもつながるため通称が多用されたのが始まりだったと説明されていることも。そのような「本名を隠す」文化圏においては、大人だけでなく子供も長寿と無事な成長を願って幼少期から通称を与えられていました。

بَادِرُوا أَوْلَادَكُمْ بِالْكُنَى قَبْلَ أَنْ تَغْلِبَ عَلَيْهِمُ الْأَلْقَابُ
バーディルー・アウラーダクム・ビ=ル・クナー・カブラ・アン・タグリバ・アライヒム・ル=アルカーブ

というアラビア語の一文(*預言者の言行録ハディースに含まれますが、真贋について確実な根拠は無い部類に入るとされるのだとか)にも見られるような、「(敵によって)我が子に好ましくない通称がつけられてしまいそれが広まる前に自分たちで急いで通称を名付け(て先制せ)よ」という考えが根底にあったといいます。

子供が生まれる=改名ではないので注意

『自分の名前が3つある!? ~アラブ人のびっくりする名前の付け方~ 』
http://ja.myecom.net/arabic/blog/2013/12486/

イーコムというサイトには子供が生まれるとアラブ人は名前が変わると書かれていますが正確な説明文ではありません。本名を言わなくなる代わりに通称が多用されるようになるだけです。

役所に書類を出せば名前を変えられる、アラブ人は自分の名前を簡単に変えられるとありますが、一般的にアラブ地域では生まれた時に国民登録する名前はそのままで通称が変わっていく形を取ります。ID登録した本名とは違うファーストネームを名乗っているとか、アブー某で呼ばれるといったことは役所への登録とは全く関係の無い範囲で行われています。

誕生後の国民登録は「本人のファーストネーム+父のファーストネーム+祖父のファーストネーム+曽祖父のファーストネーム」や「本人のファーストネーム+父のファーストネーム+祖父のファーストネーム+家名に相当するもの」の4パーツ登録といった形式で行われます。

アブー某というクンヤ形式の通称はゲリラ活動や反政府運動メンバーの仮名として使われてきたという経緯があるため、エジプトなどでは役所に届け出る国民登録の名前としては認められず禁止されています。

執筆された先生は移民先で生まれ育った方のためかアラビア語のレッスン動画で完了形と未完了形を混同されていたり、基本用語のつづりを間違えたりされているため、人名についても誤りを含んだ解説ブログを書かれたのではないかと思われます。
(失礼な物言いですみません。ただ、上記サイトの人名に関する説明はアラブの一般的な慣習というよりも執筆者の方が育ったコミュニティ内での慣習に関する話だと理解された方が良いように思います。)

実際に現地の改名条件を確認しましたが、先生のご家族の出身国であるチュニジアでも日本同様改名には複数の条件が設けられています。アラブネームではない外国風ネームである、男女を混同しやすい紛らわしい名前である、いじめの対象になっている、周囲に同名だらけで区別のために手を加えたいといったそれなりの理由が必要で、該当しない場合改名申請は却下されると明記されています。

ちなみに上記URLの記事では「エナ=私の本名」とありますが誤記で、正しくは「オルファ=私の本名」です。記事を書かれた講師の方は基本的にチュニジア方言ベースでレッスンをされたり記事を書かれたりしているですが、エナは文語の أَنَا [ ’anā/’ana ] [ アナーもしくはアナ ] の方言・口語読みにカタカナを当てはめたもので、「私は(が)」(=人称代名詞の主格)になります。

オルファというのは文語の أُلْفَة [ ’ulfa(h) ] [ ウルファ ] の方言・口語読みで、こちらが講師の方の本名で「親しさ、友情、愛情」という意味の女性名になります。

あと「オムー(母)」とありますが当ページでも紹介している通りUmmやOmmのようにmが2個続いているので、実際の発音はたいていウンムかオンムになりオムーと伸ばす感じにはならないです。

現代におけるクンヤの使用頻度

このクンヤは今でも多用されている地域(アラビア半島、シリア・レバノン地域など)とそうでない地域(エジプトなど)があり、肩書きやトルコ語由来の敬称で呼ぶことが多いエジプトとかだと庶民層での使用率が高いといった偏りが見られるようになっているのだとか。

なお、アラブ世界では子供がいないのにアブー某と呼ばれることも多いため、◯◯部分が実子の名前とは言えないケースも少なくありません。未婚の若者同士の場合はその人のファーストネームや人間関係から思いつく名前とアブーを組み合わせただけの単なる通称として気軽に使われているのが普通です。

家名に転じたクンヤ

ファミリーネームに関する項目でも書いていますが、家長名の呼称「アブー・◯◯」(◯◯の父、地域によっては◯◯名に産品・商品名が入って◯◯屋)や「イブン・◯◯」(◯◯の息子)がファミリーネームに転じた例が多く存在します。

現代アラブ人の名前の英字表記でファーストネームの後にAbu某やIbn某と書いてある場合、大半がファミリーネームをラストネームとして書いていると判断して構いません。

このような例では、ファーストネーム部分の本人と後に来る「アブー・◯◯」「イブン・◯◯」は対応関係に無く、ファーストネームが女性の名前になっていて性すら一致しないことになります。

「◯◯の父」ファミリー

2パーツ方式のフルネームによるサンプルです。

例:
أَبُو شَعْبَان
[ ’abū sha‘bān ] [ アブー・シャアバーン ]

Abu Sha‘ban、アブー・シャアバーン家(シャアバーンの父ファミリー)

  • مُحَمَّد أَبُو شَعْبَان
    [ muḥammad ’abū sha‘bān ] [ ムハンマド・アブー・シャアバーン ]
    Muhammad
     Abu Sha‘ban(ムハンマド・アブー・シャアバーン)

    *「シャアバーンの父ムハンマド」ではなく「アブー・シャアバーン家のムハンマド」という意味になります。

    • 本人(男性)の名前部分:مُحَمَّدٌ [ muḥammad ] [ ムハンマド ]
  • حَلَا أَبُو شَعْبَان
    [ ḥalā ’abū sha‘bān ] [ ハラー・アブー・シャアバーン ]
    Hala Abu Sha‘ban(ハラー・アブー・シャアバーン)
    *「シャアバーンの父ハラー」ではなく「アブー・シャアバーン家のハラー」という意味になります。無理に「父」の部分を「母」と読み替えて「シャアバーンの母ハラー」とするのもNGです。

    • 本人(女性)の名前部分:حَلَا [ ḥalā ] [ ハラー ]

「◯◯の息子」ファミリー

例:
اِبْنُ زَيْدٍ
[ ’ibn zayd/zaid ] [ イブン・ザイド ]

Ibn Zayd/Zaid、イブン・ザイド家(ザイドの息子ファミリー)

  • مُحَمَّد اِبْن زَيْد
    [ muḥammad ’ibn zayd/zaid ] [ ムハンマド・イブン・ザイド ]
    Muhammad Ibn Zayd(ムハンマド・イブン・ザイド)
    *「ザイドの息子ムハンマド」(ムハンマド・イブン・ザイドもしくはムハンマド・ビン・ザイド)とは異なります。

    • 本人(男性)の名前:مُحَمَّدٌ [ muḥammad ] [ ムハンマド ]
  • حَلَا اِبْن زَيْد
    [ ḥalā ’ibn zayd/zaid ] [ ハラー・イブン・ザイド ]
    Hala Ibn Zayd(ハラー・イブン・ザイド)
    *「ザイドの息子ハラー」ではありません。無理に「息子」の部分を「娘」と読み替えて「ザイドの娘ハラー」とするのもNGです。

    • 本人(女性)の名前:حَلَا [ ḥalā ] [ ハラー ]

男児がおらずそもそも未婚なのに通称「◯◯の父」

未婚男性を呼ぶ時の通称としての用法

地域によっては本人のファーストネームに関連した名前で「◯◯の父」というあだ名をつける慣習があります。本人にその名前の男児もいないし、そもそも結婚すらしていないのに「◯◯の父」というクンヤがつくパターンです。

他人のファーストネームを丸裸の状態で呼びつけるのを避けるという意味もあるようです。より気軽に呼べる通称を多用するアラブ文化のひとつということなのかもしれません。

独身時代の「アブー・◯◯」という通称はあくまで本人のファーストネームなどから連想したものであって、将来生まれるであろう男児につけたい名前を思い浮かべて周囲にそう呼んでもらうように周知するという性質のものではありません。

未婚だった青年期にアブー・ジャースィムと呼ばれていたムハンマドさんのクンヤは、実子アフマドちゃんが生まれた時点でアブー・アフマドに切り替わることになります。

赤ちゃんでお少年でもお父さん?~男児とあだ名「アブー・◯◯」

未婚男性をそのファーストネームに関連したニックネームで呼ぶ「アブー・◯◯(◯◯のお父さん)」文化圏では、赤ちゃんや少年であっても「◯◯のお父さん」というあだ名で呼ばれることが行われています。

テレビを見ているとまだ声変わりも婚約もしていないような小学生ぐらいの子が「アブー・◯◯」と呼ばれたりする光景も珍しくありません。

管理人がよく見ているイラクのTV放送でも頻出で、まちかどインタビューでリポーターが「君の名前は何かな?」と聞いて小学生ぐらいの男の子が「フセインです」(*フセイン、フセーンはフサインの口語発音)と答えたりすると、リポーターが「じゃあアブー・アリー君なんだ。アブー・アリー、今何年生?勉強はがんばっているかな?」とニックネームに切り替えてトークを続けることが多いです。

イラクの新年特番です。西暦の新年早々に生まれた新生児とお母さんたちを取材し祝い金をプレゼントするという企画なのですが、3:01頃に男性リポーターが「シュノ・イスマ・マー・シャーア・ッラー?」と女医さんに質問しています。

*シュノはイラク方言で「何?」、イスマは「彼の名前」。マーシャーアッラー(マ・シャーア・ッラー)は「マー・シャーア・アッラーフ」をつなげ読みしたもので「(これぞ)アッラーが望まれしもの」という直訳ですが素晴らしい物事の感嘆や、邪視・嫉妬による害を防ぐためのお守りとして唱えられたりする慣用句です。イラクでは人の名前を聞く時に「お名前」という名詞に神の祝福や加護を示す文言を加えて「お名前は?」と聞く言い回しが良く使われており、ここでも生まれたての男の子の名前を大切に扱っていることがうかがえます。

女医さんは「ハサン」と答えると、リポーターは「ハサン、アブー・ファラーフ君ですね」とリアクション。「ご無事で何よりです」とお母さんにマイクを向け、健康と無事の成長を祈る言葉を伝えています。

生後すぐにハサンという本名を言い換えて「ファラーフのお父さん」というあだ名で呼ばれた赤ちゃん。なぜ赤ちゃんにもクンヤ「◯◯の父」と使うかという理由ですが、アラビア語辞典によっては

وَرُبَّمَا كُنِيَ الْوَلِيدُ تَفَاؤُلًا
幸運を願って新生児にクンヤがつけられることもあり得る

と記載されていることも。その子が無事に育つように、願掛け・験担ぎとして「◯◯のお父さん」と呼ばれる慣習がある程度存在することがうかがえます。これについては具体的な理由を紹介しているニュース記事【▶ ソース 】もあり、成長し実際に結婚・子を授かるまで長生きするようにとの願いが込められているのだとか。

日本では親の側が乳幼児に「お父さん」「パパ」と呼びかけることは決してしませんが、元々アラブ世界ではお父さんが子供に対して「ねえお父さん」のようにあべこべな呼びかけをする習慣があり幼いまだ分娩室にいるような赤ちゃんが「お父さん」と呼ばれること自体は日本と違って違和感が少ないです。

未婚男性の通称「アブー・◯◯」を作る特定のセット

アラブ諸国では「本名が△△の場合は◯◯の父というニックネームで呼ぶ」といった具合に特定のセットが決まっています。

「◯◯は彼のお父さんの名前でもないし、まだ結婚していないし、◯◯なんて赤ちゃんが生まれたことすらないのになんでアブー・◯◯と呼ばれているんだろう?」というケースはたいていこの連想ゲーム的な由来によるものです。

アリー↔フサイン

対応関係のモデル人物

عَلِيّ 
文語発音:[ ‘alī(y) ] [ アリー(ュ/ィ) ](アリーュとアリーィを混ぜたような発音)
口語発音:アリー、アリ
)↔ حُسَيْن [ ḥusayn / ḥusain ] (フサイン / 口語ではフセイン)

第4代正統カリフでシーア派初代イマームとして扱われているアリーがモデル。シーア派では預言者ムハンマドのそばで幼少期から育ちイスラームの真髄に触れた類まれで特別な人物とされています。

حُسَيْن
文語発音:[ ḥusayn / ḥusain ] [ フサイン ]
口語発音:フセイン、フセーン(イラクではフスィエン、フシェーンに近い場合あり)
フサイン

第4代正統カリフ・シーア派初代イマームだったアリーの息子でシーア派第3代イマームだったアル=フサインが由来。第2代イマームだったアル=ハサンの弟。アリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマという人徳に恵まれた夫婦の間に生まれた預言者ムハンマドの大切な孫だったとして、シーア派の間で非常に強い崇敬を受けている人物です。

「◯◯の父」方式のあだ名
  • عَلِيّ(アリー)= أَبو حُسَيْن [ ’abū ḥusayn / ḥusain ] (アブー・フセイン)フセインの父さん
  • حُسَيْن(フセイン)= أَبُو عَلِيّ [ ’abū ‘alī ] (アブー・アリー)アリーの父さん

モデルになった親子だとアリーが父親でアル=フサイン息子なのですが、現代におけるあだ名としては双方向での連想が行われます。

そのためフサイン(フセイン、フセーン)は「アブー・アリー」「アブー・フセイン」(フセインの父さん)(日常会話での使用なのでここでは口語の発音を書いてあります。)になることもあれば、逆にフセインが「アブー・アリー」(アリーの父さん)と呼ばれたりするのだとか。

*第4代正統カリフのアリーにはハサン、フサインという息子がおりそれぞれがシーア派のイマームとして崇敬されています。シーア派では自分達の祖先が見殺しにしてしまったフサインを追悼してアーシューラーの日に殉教劇の上演、詩の朗読、信徒たちが自らを鎖で鞭打つ苦難の追体験などが行われます。

アリー↔ハサン

第4代正統カリフ・シーア派初代イマームだったアリーの長男・シーア派第2代イマーム حَسَن [ ḥasan ](ハサン)のバージョンは

  • عَلِيّ [ ‘alī(y) ] (アリー)↔ حَسَن [ ḥasan ] (ハサン)
    • عَلِيّ(アリー)= أَبُو حَسَن(アブー・ハサン)ハサンの父
    • حَسَن(ハサン)= أَبو عَليّ(アブー・アリー)アリーの父

*イラクでは حَسَن [ ḥasan ] [ ハサン ] のクンヤは أَبُو فَلَاح [ ’abū falāḥ ] [ アブー・ファラーフとアブー・ファラーハを混ぜたような発音 ](アブー・ファラーフ)とするのが一般的だとか。

ウマル↔ファールーク

第2代正統カリフ عُمَرُ [ ‘umar ] [ ウマル ](ウマル / 口語ではオマル)の通称が فَارُوق [ fārūq ] [ ファールーク ](真偽を識別する者)だったことに由来する連想。

  • عُمَرُ [ ‘umar ](ウマル / 口語ではオマル)↔ فَارُوق [ fārūq ](ファールーク)
    • عُمَرُ(ウマル)= أَبُو فَارُوق(アブー・ファールーク)ファールークの父
    • فَارُوق(ファールーク)= أَبُو عُمَرَ(アブー・ウマル)ウマルの父

ハーリド↔ワリード

こちらもネット上の複数ページで紹介されていました。

  • خَالِد [ khālid ] (ハーリド)↔ وَلِيد [ walīd ] (ワリード)
    • خَالِد(ハーリド)= أَبُو وَلِيد [ ’abū walīd ] (アブー・ワリード)ワリードの父さん
    • وَلِيد(ワリード)=  أَبو خَالِد [ ’abū khālid ](アブー・ハーリド)ハーリドの父さん

こちらはイスラーム初期の武将、ハーリド・イブン・アル=ワリードの本人と父親の名前からの連想かと思います。

その他の例

ネットから色々と拾ってきたものになります。異なる地域の用法が混ざっているかと思います。ご了承ください。

  • مُحَمَّد [ muḥammad ](ムハンマド)
    = أَبُو جَاسِم [ ’abū jāsim ](アブー・ジャースィム)ジャースィムの父
    *本来 أَبُو قَاسِم [ ’abū qāsim ](アブー・カースィム)となるところが、湾岸地方やイラク方言にあるqの音のj化が起きてjāsimになったものだとか。カースィムは預言者ムハンマドの早逝した息子の名前から。
  • فَضْل [ faḍl ](ファドル)
    = أَبُو الْعَبَّاسِ [ ’abu-l-‘abbās ] [ アブ・ル=アッバース ](アブー・アル=アッバース)アル=アッバースの父
    *アッバース家の祖となった預言者ムハンマドの叔父(父アブドゥッラーの弟だが預言者ムハンマドと3歳違い)اَلْعَبَّاسُ بْنُ عَبْدِ الْمُطَّلِبِ [ アル=アッバース・ブヌ・アブディ・ル=ムッタリブ ](アル=アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ)にちなむ。彼のクンヤが أَبُو الْفَضْلِ [ ’abu-l-faḍl ] [ アブ・ル=ファドル ](アブー・アル=ファドル、アル=ファドルの父)だったことから。
  • أَحْمَد [ ’aḥmad ](アフマド / アハマド)
    = أَبُو شِهَاب [ ’abū shihāb ](アブー・シハーブ)シハーブの父
  • أَحْمَد [ ’aḥmad ](アフマド)
    = أَبُو يُوسُف [ ’abū yūsuf ](アブー・ユースフ)ユースフの父
  • سُلَيْمَان [ sulaymān / sulaiman ](スライマーン)
    = أَبُو دَاوُود [ ’abū dāwūd ](アブー・ダールード)ダーウードの父
    *スライマーンはソロモン、ダーウードはダビデに同じ。
  • عِيسَى [ ‘īsā ](イーサー)
    = أَبُو عَبْد اللهِ [ ’abū ‘abdu-llāh ](アブー・アブドゥッラー)アブドゥッラーの父
  • إِبْرَاهِيم [ ’ibrāhīm ](イブラーヒーム)
    = أَبو خَلِيل [ ’abū khalīl ](アブー・ハリール)ハリールの父
    *イブラーヒーム(アブラハム)の別名は「アッラーの友」という意味の خَلِيل الله [ khalilu-llāh ](ハリールッラー)。
  • طه [ ṭāhā ](ターハー)
    = أَبُو يَاسِين [ ’abu yasiīn ](アブー・ヤースィーン)ヤースィーンの父
    *どちらもクルアーンの章名だが、はっきりとした意味がわかっていない神秘の文字。クルアーンの章の冒頭でアッラーが預言者ムハンマドに語りかける時の語なので、預言者ムハンマドの別名だとされることがイスラーム世界では一般的な模様。
  • عَبْد اللهِ [ ‘abdu-llāh ](アブドゥッラー)
    = أَبُو نَجْم [ ’abū najm ](アブー・ナジュム)ナジュムの父
    *najm=星
  • نَجْم [ najm ](ナジュム)
    = أَبُو سُهَيْل [ ’abū suhayl / suhail ](アブー・スハイル)スハイルの父
    *najm=星、suhayl / suhail=カノープス星
  • قَيْس [ qays / qais ] [ カイス ]
    = أَبُو لَيْلَى [ ’abū laylā / lailā ] [ アブー・ライラー ](口語では短母音化してアブー・ライラ)ライラーの父
    *アラブの古典的悲恋物語『ライラーとマジュヌーン』より。カイスはライラーの恋人だった青年(父方いとこ)で、マジュヌーンの本名。カイス自体はイスラーム以前からあった古典的な男性名。

「アブー・◯◯」さんは実子が生まれたら我が子を◯◯と命名するか?

ファーストネームなどからの連想で青年期まで「アブー・◯◯」(◯◯の父さん)と呼ばれていた人だと、結婚して実際に男児が生まれた場合「アブー・△△」という別のクンヤに切り替わることになります。

フサインというファーストネームで「アブー・アリー(アリーの父さん)」と呼ばれていた場合、実子がアリーちゃんにならない限り「アブー・△△」に変わってしまいます。

「独身時代からのクンヤを維持するために息子の名前をそれに合わせて決めるかどうか?」はよくある質問らしく、イラクメディアでも紹介されていました【▶ ソース  】。専門家によると、イラクの場合「アブー・◯◯」さんに子供が生まれてもクンヤを変えずに済むよう実子を授かった際に◯◯くんと命名したがる人が多いのだとか。

カリフのクンヤが実子の名前と一致しない例

歴史上の有名人物にも、クンヤと実子の名前とが一致しない例が見られます。たとえばアッバース朝カリフのハールーン・アッ=ラシードとその正妃ズバイダ・ビント・ジャアファルです。

ズバイダは父方・母方いとこであるハールーンと結婚。一人息子のムハンマド(後にアル=アミーンというラカブを持つカリフして知られるに至ります)を設けますが、実子の名前に由来するウンム・ムハンマドやウンム・アル=アミーンというクンヤではなく、ウンム・ジャアファルというクンヤで広く知られています。

ジャアファルはズバイダの実父の名前ですが、由来自体は彼女をとてもかわいがっていた祖父アブドゥッラー(アル=マンスール)のクンヤであるアブー・ジャアファル(ジャアファルの父)を想起させるものとしてウンム・ジャアファルという尊称・通称が与えられたということのようです。

また彼の夫となったハールーンも、アラビア語で書かれた歴史書によれば最初は預言者ハールーン(アロン、アーロン)の兄弟であるムーサー(モーセ、モーゼ)との連想なのかアブー・ムーサーというクンヤを持っていたようです。

しかしカリフ位に即位した時には妻ズバイダが持つウンム・ジャアファルとおそろいのアブー・ジャアファルというクンヤに変わっています。この詳細についてはアラビア語で書かれた経緯を見つけることができなかったのですが、ハールーンにジャアファルという長男も子供もいなかったらしいことと照らし合わせると、アブー・ジャアファルというクンヤも実子とは無関係だった可能性が非常に強そうです。

妻のウンム・ジャアファルとは祖父が同じなこともあり、ウンム・ジャアファルに合わせてアブー・ジャアファルになったということだったのかもしれません…

◯◯に人名以外を当てはめたクンヤ形式のラカブ(あだ名)

アラビア語で多用される表現で、「◯◯の父」「◯◯の母」の◯◯部分に物の名前を入れると「◯◯をもたらすもの」、「◯◯な性質を有するもの」、「◯◯な動物」、「◯◯が備わっている品物」といった意味になります。

またその名前で知られることとなった歴史上の人物が動物などが大好きで「◯◯の父」と呼ばれたケースもあります。実在する子供や人間の父・母という意味の通称とは違うので、「アブー・バクル」(=ラクダ好き)や「アブー・フライラ」(=猫好き)のようなケースとなるとあだ名である「ラカブ」に近い部類と言えるようです。

アブー・バクル

ٍأَبُو بَكْر
[ ’abū bakr ] [ アブー・バクル ]

Abu Bakr、アブー・バクル
若ラクダの父、ラクダ好き

アラビア語辞書や人名辞典によると بَكْر [ bakr ](バクル)は若いラクダのことだそうです。

第1代正統カリフのファーストネーム自体は عَبْد اللهِ [ ‘abdu-llāh ](アブドゥッラー)。イスラーム改宗前、ジャーヒリーヤ時代には「カアバのしもべ」という意味の عَبْد الْكَعْبَةِ [ ‘abdu-l-ka‘ba(h) ] (アブドゥ・ル=カアバ)というファーストネームだったと伝えられています。

アブー・バクルはクンヤになります。しかし彼自身にはバクルという名の子供はいませんでした。彼がラクダをとても好んでいて、そのことから「若ラクダの父」と呼ばれたと伝えられています。

最初はクンヤだった「アブー・バクル」ですが、第1代正統カリフにあやかって命名されるようになり、今では普通のファーストネーム(イスム)として使われています。

アブー・フライラ

أَبُو هُرَيْرَةٍ
[ ’abū hurayra(h) / ’abū huraira(h) ] [ アブー・フライラ ]

Abu Huraira / Abu Hurairah、アブー・フライラ
メス子猫の父、猫好き

هُرَيْرة [ hurayra(h) / huraira(h) ](フライラ)という名詞は「メスの猫」という意味の هِرَّة [ hirra(h) ](ヒッラ) の縮小形名詞で「小さなメス猫、子猫」を指します。

アブー・フライラの本名ははっきりとは伝わっておらず、いくつもの説があるとのこと。おそらくアブド・シャムスといったファーストネームだったようです。イエメン出身でイスラームに改宗後移住。預言者ムハンマドに仕えていた彼は非常に記憶力が良く、預言者の言葉をハディースとして数多く後世に残しています。

言い伝えによると、「皆さん私をアブー・フライラとは呼ばないでもらえないだろうか?アッラーの使徒様~彼とその家族に祝福と平安がありますように~は私にアブー・ヒッルというあだ名を下さいました。オスの方がメスよりも良いですから。」と彼自身が語ったとされています。

メス猫ではなくオス猫を意味する هِرّ [ hirr ](ヒッル)を使った「أَبُو هِرٍّ」[ ’abū hirr ]というあだ名で呼ばれたかったようですが、定着したのはフライラの方だったということのようです。

また違う機会に本人が語ったところによれば、子供時代にメスの子猫を飼っていたことがあり、昼間羊の世話に出る時は一緒に連れて行って遊んでやって、夜は木のところに置いておいたといいます。子猫は羊の世話をしている時に見つけた元野良猫で、彼の袖の中に入れて持ち帰ったとか。

彼は猫おやじというニックネームの通り非常に猫が好きだったらしく、預言者伝であるハディースからもそれをうかがい知ることができるそうです。

アブー・ラハブ

أَبُو لَهَبٍ
[ ’abū lahab ] [ アブー・ラハブ ]

Abu Lahab、アブー・ラハブ
炎の父

預言者ムハンマドや初期のイスラーム共同体に対する迫害を行ったことで知られるアブー・ラハブ。

預言者ムハンマドの父方おじである彼の本名は、ジャーヒリーヤ時代に信仰されていた女神 اَلْعُزَّى [ ’al-‘uzzā ] [ アル=ウッザー ] のしもべという意味の عَبْد الْعُزَّى [ ‘abdu-l-‘uzzā ] [ アブドゥ・ル=ウッザー ](アブドゥルウッザー)。

息子の名前は عُتْبَة [ ‘utba(h) ] なので、彼自身の本当のクンヤは أَبُو عُتْبَة [ ‘abū ‘utba(h) ] [ アブー・ウトバ ] Abu Utba(h)、アブー・ウトバになります。

لَهَب [ lahab ] [ ラハブ ] は炎という意味で、彼があまりにも美男なのでつけられたクンヤ形式のあだ名(ラカブ)だそうです。燃え立つほどの美男ぶり。色白の美しい顔が怒ったりすると炎のように真っ赤に染まったことがあだ名の由来だったとか。

ジャーヒリーヤ時代から持っていた彼のあだ名ですが、イスラームに対する迫害から後に「地獄の炎に焼かれる者」「煉獄の炎がお似合いの男」という意味合いが付加された形になったようです。

ちなみにこのアブー・ラハブはイスラームの天敵と後世まで語り継がれる存在のため大河ドラマでたいそうな悪人顔で登場することが多いらしいのですが、エジプトの著名な法学者が「史実に反する、本当はものすごい美男だった」とコメントしたこともあったとか…

クンヤに関する話題あれこれ

イラクにおける特定職業のクンヤ(あだ名)

イラクでは特定の職業名に特定のクンヤが与えられる事例があり、現地メディアでも紹介されるなどしています。これらはご当地クンヤということで局地的な使用にとどまっている事例となっています。

兵士はアブー・ハリール

兵士のクンヤは أَبُو خَلِيل [ ’abū khalīl ] [ アブー・ハリール ](ハリールの父)が定番【▶ ソース 】だとか。これは1940年代にパレスチナに援軍として赴いたイラク軍人らがアル=ハリール(ヘブロン)で戦ったことが由来などと言われています。

直訳すれば「アル=ハリールの父」ですが、このケースに関しては実際には「アル=ハリールで戦った人」といった意味になります。

警察官はアブー・イスマーイール

イラクにおける警察官のクンヤは أَبُو إِسْمَاعِيل [ ’abū ’ismā‘īl ] [ アブー・イスマーイール ](イスマーイールの父)。これの由来は1921年に英国がインド人らを導入して作った近代イラク警察創設だと言われています。

初のイラク人として警察官になった男性のファーストネームが خَلِيل [ khalīl ] [ ハリール ] だったため、ハリールという男性名から連想によって作られるクンヤ(あだ名)である أَبُو إِسْمَاعِيل [ ’abū ’ismā‘īl ] [ アブー・イスマーイール ] がイラク警察の警官のあだ名になったのだとか。

これについては「ハリール氏の実子がイスマーイールだった」とかそういうことではなく、ファーストネームの由来である خَلِيل [ khalīl ] [ ハリール ] から خَلِيل الله [ khalilu-llāh ] [ ハリール・ッラー ](ハリール・アッラー、アッラー友)という別名を持つ預言者イブラーヒーム(聖書のアブラハムに対応)を想起させること、そしてそのイブラーヒーム(アブラハム)の息子の1人がイスマーイール(聖書のイシュマエルに対応)であったという連想から導き出されたタイプのクンヤ「イスマーイールの父」になります。

活動名、コードネームとしての「アブー・◯◯」

反体制活動では身元がつきとめられにくくするため、仲間内で互いを識別するための仮名・通称がしばしば使われてきました。

アラブ世界では、反体制組織、抵抗活動ゲリラ、犯罪組織ならびに秘密警察など本名ではなく اِلِاسْم الحَرَكِيّ [ アリ=スム・ル=ハラキー(ュ/ィ) / 会話調発音:アル=イスム・ル=ハラキー(ュ/ィ) ](コードネーム)として仲間が呼ぶのに使うものについてはこの「◯◯の父」という形式のクンヤが広く使われています。

こうした組織内での通称については本名なり役職なりその人物を連想させる何か・他の人物を区別する要素を元に「◯◯の父」と命名され時として上層部から与えられる形で名乗り始めたりもするため、◯◯が実子(長男など)の名前でない可能性が高いです。

イスラーム武装組織で幹部が「アブー・◯◯」と名乗っている場合も、本名とも実子の名前とも全く関係が無い通称だと考えて別途本名を調べた方が良いと思われます。実際に犯罪報道などではその人物の本当のクンヤが「アブー・△△」でコードネームとしてのクンヤが「アブー・□□」ということがしばしばあります。

パレスチナの例

有名なのがパレスチナ解放闘士らのゲリラ名です。日本ではアラファト議長の名前で知られていたヤーセル・アラファートのゲリラ名もこのクンヤ形式で「アブー・アンマール」(▶詳細は別ページ参照)というものでした。

ファタハのサブリー・ハリール・アル=バンナーもアブー・ニダール(直訳:闘争の父、ニュアンスとしては「闘争する者」)という活動名を持っていましたが、これは組織加入時に名前を選ぶように言われ自分で決めたことが伝えられています。

*ちなみにパレスチナ大統領マフムード・アッバースはクンヤ「アブー・マーゼン」で知られていますが、彼の場合はマーゼンという名前の子息が実際にいます。

イラクの例

サッダーム・フセイン大統領の料理人として証言を提供した人物として「アブー・アリー」氏という男性がいるのですが、イラクでは報道記事に「彼の名前は اِلِاسْم الحَرَكِيّ(コードネーム)」「彼の当時のコードネームはアブー・アリーだった(اسمه الحركي وقتها أبو علي)」と注意書きがついていることがあります。

このような注釈がわざわざついている場合、「アブー・アリー」が取材を受けることによって危害が及ぶのを恐れて設定された仮名ではなく、バアス党政権時代(具体的にはサッダーム・フセイン大統領直属料理人として取り立てられて以降)に周囲からその名前で呼ばれていたもしくはそう名乗るように授けられた/選ばされた職場名・活動名だっただろうと考えるのだ妥当だと思われます。

彼については現役当時使っていたコードネームが身元の割れない単純なクンヤだったため、書籍『独裁者の料理人 厨房から覗いた政権の舞台裏と食卓』の元になったインタビューでもそのまま使い回して名乗ったものと推察可能です。

*『独裁者の料理人 厨房から覗いた政権の舞台裏と食卓』ではサダム・フセイン、アブー・アリというカタカナ表記になっています。

歴史上の偉人と「イブン・◯◯」

アラブ・イスラーム世界が誇る偉人として知られるのがイブン・バットゥータやイブン・ハルドゥーンですが、両者とも家名に近い扱いでいずれも父親の名前はバットゥータやハルドゥーンではありません。

家名「イブン・◯◯」で通っているが父の名が◯◯でない・実際の父親の名前との食い違いがある偉人ネームの例

世界史の教科書に出てくるアラブ世界の学者たちの多くがこのパターンです。

どれもファーストネームの代わりに名字・家名を使うラストネーム呼び的用法なので、いずれも各人のファーストネームはイブン・◯◯とは別に存在。たいていはムハンマドといったごくごく普通の名前となっています。

何代も前の先祖の名前が由来とされ「◯◯家の者/子息」というニュアンスを持つ「イブン・◯◯」
  • イブン・ハルドゥーン
    本名:アブドゥッラフマーン、父の名前:ムハンマド
  • イブン・ルシュド
    本名:ムハンマド、父の名前:アフマド(*実際の発音はアハマドに近いです)
  • イブン・スィーナー
    本名:アル=フサイン、父の名前:アブドゥッラー
  • イブン・トゥファイル
    本名:ムハンマド、父の名前:アブドゥルマリク
  • イブン・ジュバイル
    本名:ムハンマド、父の名前:アフマド(*実際の発音はアハマドに近いです)
  • イブン・アラビー
    本名:ムハンマド、父の名前:アリー
  • イブン・タイミーヤ
    本名:アフマド(*実際の発音はアハマドに近いです)、父の名前:アブドゥルハリーム
祖父や母親など父親以外の名前が「イブン・◯◯」の◯◯になっているケース
  • イブン・バットゥータ
    本名:ムハンマド、父の名前:アブドゥッラー
    *何代も前の男性先祖バットゥータの名前にちなむ家名的な「バットゥータ家(の者/子息)」という意味ではなく、母親の通称だとされるバットゥータに由来するとされる、そのまんまな「バットゥータさんの息子」的な意味だというのが通説である模様。バットゥータは母親の名前だと説明しているアラビア語サイトや書籍が多いとの印象。
  • イブン・ハンバル
    本名:アフマド(*実際の発音はアハマドに近いです)、父の名前:ムハンマド
    *幼い頃に亡くした父親の代わりにもう1代前の祖父までスキップしてイブン・◯◯の◯◯部分に祖父の名前が来ている例。養育者で当時家長だった祖父にちなんで周囲から「ハンバルさんちの子」的に呼ばれていたのがそのまま歴史資料での呼び名とした残った例。

アル=アンダルス一帯における家名表示としての「イブン・◯◯」

イベリア半島をアラブ人らが統治していたアンダルスで活躍していた知識人らについてはほとんどが同地に多かった「イブン・◯◯」という家名で、日本語に例えると歴史に残る偉人らを鈴木・佐藤・山田などと呼んでいるのに近いと言えます。

現代アラブ人のラストネームだとイブンも含めて「イブン・◯◯家」「◯◯の息子家」のように訳した方が良いケースが結構あるのですが、アンダルスで活躍した学者たちに関しては「イブン・◯◯」が家名(ファミリーネーム、ラストネーム)の通称のような感じになっているということで「◯◯家」と訳す方が良い模様。

イブンという名詞自体には「~家」「~ファミリー」という意味は無いのですが、意訳すると「イブン・◯◯」で「◯◯家」になると考えるべきケースかと思います。

アラビア語の本なども「イブン・ハルドゥーン家」ではなく「ハルドゥーン家」という表現になっており、「ハルドゥーンの息子」という通称で呼ばれたハルドゥーンの長男を家長・父祖として扱った家名というよりは、ハルドゥーンの子孫に当たる人々がラストネーム(ファミリーネーム、家名、名字、姓)として使っていたケースに相当するとの印象です。

こうしたアンダルス風家名についてはイブン・バットゥータのように◯◯部分に該当する名前を持っている男性の祖先が見当たらない場合と、イブン・ルシュドのように何代も前にルシュドという男性の祖先がいて彼の祖父もまた同じイブン・ルシュド(*孫と区別するためのイブン・ルシュド・アル=ジャッド、つまり祖父の方のイブン・ルシュドという表記あり)という名前で通っていた場合と、いくつかのケースがあるようです。

イブンを含む出自表示~イブン・バットゥータはバットゥータさん、イブン・アル=ハイサムはアル=ハイサム、ハイサムさんではない

イブン・バットゥータとバットゥータは別人

日本の創作物でのネーミングやファンの方による呼び名で多いのが、「イブン・◯◯」という歴史上アラブ系有名人・学者の名前やそれにちなむキャラ名を「◯◯」と呼ぶ件です。

◯◯は本人の名前ではなく、父親か多くの場合は何代も前の祖先の名前なので、本人と◯◯部分の先祖の名前が一致しない限り「◯◯さん」と呼ぶことは誤りとなります。

たとえば「イブン・バットゥータ」は「バットゥータさん」ではありません。バットゥータ氏は先祖男性か有名旅行家本人の母親の名前だと言われており、「バットゥータ先生」のような呼び方は母親の名前を連呼していることになり間違った使い方となります。

かの有名な旅行家「イブン・バットゥータ」については

  • イブン・バットゥータ:バットゥータさんの息子、本名ムハンマドの代わりの名字呼び的通称
  • バットゥータ:母親のニックネーム(=女性名)*旅行家の父はアブドゥッラー

日本で言えば「花子さんちの息子さん」「花子のせがれ」という通称として使われている「イブン・バットゥータ」をバットゥータ部分が家名だと間違えてしまい花子さんの息子を指すのに「花子さん」としてしまっている事態に相当します。

アラブ式の呼び方では「イブン・バットゥータ(バットゥータの息子)」と呼ぶか、息子の名前を使ったクンヤである「アブー・アブドゥッラー(アブドゥッラーの父)」、もしくは本人のファーストネームであるムハンマドと呼ぶのが適当です。

【補足】

漫画『バットゥータ先生のグルメアンナイト』作者さんはX(Twitter)投稿にて

  • ムハンマドという名前の人物は山ほどいるのでイスラム圏の人名は通称名で表すことが多い
  • イブン・バットゥータのバットゥータは「バットゥータ(=父の名前)の息子」ではなく家名を示す方の用法でイブン・バットゥータは「バットゥータ家の人」という意味になることからバットゥータ先生という呼び名にした
  • イブン・バットゥータにするとイブンさんと間違えられる可能性があるのでイブンを抜いてバットゥータだけにした

との旨を説明されていますが、アラブ人名の解説としては誤りに相当するためこうした創作内での設定と実際のアラブ世界における命名ルールとを区別する必要があります。というのも、

  • ファーストネームで呼び捨てることを嫌う文化が根底にあるため、アラブ人は珍名なファーストネームの人であっても通称で呼ばるのが普通でした。ムハンマドのような人気ネームのファーストネームを持つ人が山のようにいたから始まった通称制度ではなく、中世のマグリブ地方やイベリア半島では家名の代わりに「イブン・◯◯」と呼ぶのが一般的だったりとファーストネーム以外でその人を識別し周囲が呼ぶという複数のシステムがアラブ世界で普及していたことに起因しています。
  • 「イブン・バットゥータ」と「バットゥータ」は全くの別人を指すので、日本でしばしば行われている「イブン・◯◯」からイブンだけを抜き取った「イブンさん」が誤用なのに加え、「バットゥータさん」呼びも同じく誤用に当たります。
  • 有名な旅行家の「イブン・バットゥータ」については何代も前の男性祖先がバットゥータであることに起因する名字・家名的な「バットゥータ家」「バットゥータ家の者」という呼び名ではなく、実母の通称・愛称由来の「バットゥータさんの息子」のパターン。

であることから、実際のアラブ人名の解説として記事を新たに書いたりノンフィクション歴史物を新規に創作したりする場合には転用ができない情報となっているためです。

イブン・アル=ハイサムとアル=ハイサムは別人で、アラビア語ではアル=ハイサムとハイサムも区別される

光学などで功績を残した「イブン・アル=ハイサム*」もイブンを含めた「イブン・アル=ハイサム」全部揃った状態が出自表示「アル=ハイサムさんちの子」「アル=ハイサム家の息子」という意味になるので、イブンを取ってしまって「アル=ハイサム氏」「ハイサム氏」しても日本の鈴木や山本のような名字呼びにはなりません。

アラブ世界には日本のような画一的な姓の制度が無いのでわかりづらいのですが、「◯◯の息子」方式は◯◯に実父ではなく何代か前の先祖男性の名前を入れて「◯◯が家長であるファミリー」「◯◯が家長をしていたファミリー」のように識別するためのバックグラウンド表示方法となります。

なので中世の学者イブン・アル=ハイサムに含まれる「アル=ハイサム」は彼の何代も前の先祖男性の名前で、イブンを加えて初めて「アル=ハイサム(さんが家長だった)一族の生まれの」という。なので「アル=ハイサムさん」「ハイサムさん」だけで呼ぶのは日本など非アラブ圏における誤解・誤用であり、アラブ人名としては間違いになります。

またアラビア語ではアル=ハイサムと定冠詞をつけるべきなのですが、日本ではアラブ人名のカタカナ表記ルールのせいで省略されてしまうことが多いです。正しくはアル=ハイサムなのですが日本ではそれを省略して良いとの慣例があるためイブン・アル=ハイサムではなくイブン・ハイサムと表記されている状況です。

アラビア語では定冠詞アルの有無はもっと細かく区別されるので、アル=ハイサムさんとハイサムさんとでは微妙に違います。また同じ人物でもフルネームの形式によってハイサムだけになっていたりアル=ハイサムになっていたりとまちまちな場合もあるので、アラビア語で表記する時は日本式に置くべき場所から定冠詞アルを省略してしまわないよう注意が必要です。

 

(2024年3月 イブン・バットゥータ部分を加筆)