口語・方言で起こる人名・地名の英字表記の変化
文語と口語での英字表記の違い
アラビア語には本や公文書に用いられる文語・書き言葉のフスハーと、日常会話やSNS等で用いられる口語・話し言葉のアーンミーヤがあります。また、地域・農耕/定住/遊牧の違い・部族といった単位で異なる方言はラフジャと呼ばれます。
文語には研究し尽くされて高度に洗練された文法ルールがありますが、口語では上で出てきた語根は文語と同じでも、母音が違う物に置き換わっていたり、長母音が短くつまって読まれたり、様々な変化やバリエーションが生まれがちです。方言によっては母音が抜けやすいものもあり、英字表記にも影響を与えます。
アラビア語の名前の英字表記では、文語に即した学術的なルールにほぼ近い表記のこともあれば、非常に口語的な読みに近い表記のこともあり、同じ人名でも英字表記が8通りぐらいあることは珍しくありません。かなり変化してしまっていることもあり、知らない人が見ると別個の人名を指しているのだと勘違いしてしまうこともしばしばです。
方言により違う一部アルファベットの異なる発音
アルファベット表で紹介した色々な異なる発音のうち、比較的有名なものをかいつまんで紹介したいと思います。
エジプトやイエメンにおけるj→g
アルファベットの異なる発音ですが、例えばエジプトやイエメンではجというアルファベットをjではなくgで発音する地域が多く存在します。エジプトはjをgで発音する国として有名ですが、実際には全土ではありません。この発音で有名なエジプトであっても、gではなくjで発音する方言が混在しています。(歴史的にはgの方が古い読みで、後から変化してjに遷移していったとされています。昔の名残があるだけで、エジプトのアラビア語が間違っている訳ではありません。)
上記地域では、ja・ji・ju をジャ・ジ・ジュではなくga・gi・gu ガ・ギ・グと読み、名前の英字表記もjābir(ジャービル)でなくgābir(ガービル)のようにjをgに置き換えた表記の使用率が高くなる傾向にあります。さらに口語的な変化で後半のiがeに変わってgāber(ガーベル)まで読みが変わります。日常生活で使われる人名の英字表記では長母音を示す横棒の記号は省かれますので、文語ではjābirだったものがgaberまで変化を遂げることとなります。
エジプト人の名前としてgaberと英字表記されている場合は、ガベルもしくは-erを英語風に読んでしまいガバーとはせず、長母音āを補った上でgāber(ガーベル)というカタカナ表記にします。方言での日常的な発音に即した英字表記なので、gabīr(ガービル)ぐらいまではまだしも、jāber(ジャーベル)もしくはjābir(ジャービル)まで戻してしまうのはやめた方が良いかと思います。
イラクにおけるj→ch
イラクなどではこのج(j)がchで発音されることもあります。チャラビーという人名はアラビア語でجلبيと書かれますが、アラビア語表記の通りに文語的に読めばjalabī、さらに長母音の横棒を取った場合にはjalabiと英字表記されます。
一方、口語に即してjをchで読めば、chalabī(チャラビー)。さらに長母音の横棒を取った場合にはchalabiという英字表記になります。
英字でchalabiと書いてあった場合、イラク方言のことを前提にchaをチャと読み、さらに語末のiを長母音īに戻してchalabī(チャラビー)というカタカナ表記を作ることとなります。方言での読み方に即した英字表記なので、jalabī(ジャラビー)まで戻してしまうのはやめた方が良いかと思います。
アラビア半島や北アフリカ(リビア、スーダン等)におけるq→g
アラビア半島や北アフリカの一部(リビア、スーダン等)にはqをgで発音する方言があります。
男性名صَقْر(=鷹)はスタンダードな発音ではサクルなので英字表記はsaqr(軽い発音のsと違うので学術的な表記は下点のついたṣaqr)になります。しかし方言によってはqがgで読まれサグルと発音されるので同じアラビア語表記でもsagrという英字表記が採用されています。
この場合は本人がsagr(サグル)と読ませるつもりでqではなくgを使って英字表記しているので、サクルまで戻してしまわずにサグルとカタカナ化するのが良いものと思われます。
他の例としてはサウジアラビアのカスィーム(日本語的なカタカナ表記でカシームと書かれていることが多いです。)が挙げられます。文語のつづり通りな読みはal-qaṣīmですが、方言ではqがgになってqaṣīm(カスィーム)の部分がgaṣīm(ガスィーム)になります。英字表記でQassimだったりGassimだったりするのはそのためです。
アラビア半島のq→j
アラビア半島(湾岸)にはق(q)をjで発音する方言があります。たとえばアラブ首長国連邦(UAE)の首長国の一つであるシャルジャ。
元のアラビア語表記では定冠詞al-(アル)をつけたاَلشَّارِقَةで、文語通りの学術書的な英字表記ではal-shāriqa(アル=シャーリカ)もしくはター・マルブータがついた女性名詞特有の語末処理によってhが添えられたal-shāriqah(厳密にはふんわりhを添えたアッ=シャーリカフという読み方がありますが、通常はfは読まず手前のaまでしか読まずアッ=シャーリカとなります。)です。
現地方言でqをjで発音するのに合わせてまずal-shārija / al-shārijah(アッ=シャーリジャ)に変化。この語形の女性名詞特有の母音省略で後半のiが抜けてal-shārja / al-shārjah(アッ=シャールジャ)に変化。さらに前半の長母音āが短くなってal-sharja / al-sharjah(アッ=シャルジャ)まで行き着くことができます。
日本語のウェブページでこの首長国名のカタカナ表記にシャールジャとシャルジャの2種類があるのにはそのような背景があります。
文語には無い母音がある
文語では短母音はa(ア)、i(イ)、u(ウ)の3種類のみ。e(エ)とo(オ)はありませんが、口語では珍しくありません。
長母音はā(アー)、ī(イー)、ū(ウー)の3種類。しかし口語ではē(エー)とō(オー)があります。
二重母音はai(アイ)とau(アウ)の2種類。しかし口語ではai(アイ)が転じてei(エイ)もしくはē(エー)、au(アウ)が転じてou(オウ)もしくはō(オー)っぽい音になったりします。
数字を使うチャット・SNS向けArabziによる人名表記
アラビア文字の入力ができなかったUNIX時代に端を発すると言われるArabizi(عربيزي)。アラビア文字に似た形の数字や記号を使って主に話し言葉のメッセージを書く方法です。حは7、عは3、طは6といった具合に、アラビア語特有の子音を置き換えます。
- mo7ammad = Mohammad(モハンマド)[ 喉を狭めて奥で出すh ]
- 6aher = Taher(ターヘル)[ 舌を奥に引っ込めて出す重いt ]
携帯電話やパソコンでアラビア語入力ができなかった時代に多用されたこの記述方法は現在も残っています。公的な人名表記では用いませんが、SNSのアカウント名等で比較的普通に使われているので、必要な方は当サイト内の関連ページをご参照願います。
→ 『英字・数字・記号で入力するチャットアラビア語~Arabizi(عَرَبِيزِي)』
リンク先のページは主に英語優勢圏におけるArabiziの対照表です。フランス語圏ではまた違った表記ルールがあります。