اِبْن [ ’ibn ](息子)、بِنْت [ bint ](娘)で示す父系の系譜
Cの息子Bの息子Aの息子/娘であることろの某
ナサブはその人の系譜・父方の家系を示すために ibn [ イブン ]*、アラビア語口語では bin [ ビン ] など)や bint [ ビント ] を使って
*実際には文語アラビア語フスハー表記で bnu [ ブヌ ] という語形・発音となります。これを bun [ ブン ] として覚えている方も少なくないかと思うのですが、母音 u の位置が違っているためブンではなくブヌと読みます。
- 男性
◯◯ ibn A ibn B ibn C ibn D
◯◯ bin A bin B bin C bin D
(Dの息子Cの息子Bの息子Aの息子であるところの◯◯) - 女性
◯◯ bint A ibn B ibn C ibn D(Dの息子Cの息子Bの息子Aの娘であるところの◯◯)
と表記する方法を指します。
アラブ世界の伝統的な人名は、自分ー父ー祖父ー曽祖父と父方の先祖をたどることでその人の系譜を示します。一番最初に本人のファーストネームを持ってきて、(曽祖父)の息子であるところの(祖父)の息子であるところの(父)の息子であるところの◯◯というふうに父系の家系がわかるようになっています。
歴史上の人物のフルネームは一般的にこの形式で書かれています。本人のファーストネームがメインのパーツで、同格用法的に後を連ねていくといった感じになっています。
なお同じ ibn [ イブン ]、bint [ ビント ] を使っているので紛らわしいのですが、その人のファーストネームの代わりに通称として使う「イブン・◯◯」や「ビント・◯◯」はクンヤという近親呼称になります。
現代では使われなくなってきているナサブの用法
昔はそうやって父・祖父・曽祖父…それぞれの間に 「~の息子」という意味の ibn(口語はbin)をはさんでいたのですが、現代では ibn を使わない方向にシフトしています。
今ではかしこまったフルのフルネーム・首長家のフルネーム・ビンを慣習上使う傾向が強めなオマーン等を除いて各人のファーストネームを単に並べただけのものを記載するだけになっており、昔とはかなり事情が変わってしまっています。
そのため創作物で現代アラブ人キャラクターの名前を皆◯◯・ビン・某や◯◯・ビント・某にしてしまうと実情にそぐわない設定になってしまうので要注意です。
しかし現代でも自分の系譜をずっとたどれる人の家系を述べる時に使われますし、歴史上の人物の名前はこの方式で記載されているので目にする機会はまだまだ非常に多いと言えます。
自分のフルネームを言う時には ibn / bint は使わないものの、家系を聞かれて覚えている限りのご先祖まで名前を挙げていく時にはこのナサブの形式で言っていく、という感じかと思います。
なお、ネット上では「bin某と連ねるタイプのフルネームは王族や元首だけになっている」というような説明が見られますが正確な情報ではありません。
アラビア半島では王族ではない部族民でも名乗りの際に بن [ bnu ]=ibn、binを本人名と父名の間にはさんでいるケースがしばしば見られます。普段はbin無しのフルネームを使っているサウジ人が丁寧でかしこまったフルネームではbinを入れている、オマーン人がbinありのフルネームでテレビに出演しているなど、管理人もこれまでに元首以外のアラビア半島人が「ファーストネーム+bin+父の名前+家名」と名乗っているケースをたびたび見かけました。
「~の息子◯◯」はナサブでファーストネーム抜きの「~の息子」はクンヤ
本人のファーストネームの代わりにその人の家族の名前を使って呼ぶクンヤという通称の用法には「~の父(アブー・~)」「~の母(ウンム・~)」以外に「~の息子(イブン・~)」「~の娘(ビント・~)があります。
よくネット上の記事で本名の代わりに「イブン・~」と呼ぶケースをナサブと書いてあることが多いのですが、アラビア語で書かれた人名に関する説明やアラビア語辞書の記述に基づくとそれらはクンヤだということになります。
「ファーストネーム・イブン/ビン・~」(ナサブ)と違って「イブン・~」のようなケースでは、ibn と bint は系譜を示すためのつなぎ部分となるパーツではなく本人のファーストネームを呼ばない代わりの通称を形成する複合語の先頭に来るため用法が異なります。
ナサブ
مُحَمَّد بْنُ سَلْمَان
文語発音:[ muḥammad(u) bnu salmān ] [ ムハンマド・ブヌ・サルマーン ]
文語風カタカナ表記:ムハンマド・イブン・サルマーン
サルマーンの息子ムハンマド
مُحَمَّد بِنْ سَلْمَان
口語発音:[ muḥammad(u) bin salmān ] [ ムハンマド・ビン・サルマーン ]
口語風カタカナ表記:ムハンマド・ビン・サルマーン
サルマーンの息子ムハンマド
本人のファーストネームと父親の名前を اِبْن [ ’ibn ] [ イブン ](息子)という語でつないだものです。このような用法では語頭の「’i」部分が落ち بْن [ bn(*語中の格に応じてu/i/aを足す) ] [ (主格)ブヌ/(属格)ブニ/(対格)ブナ ] という2文字になります。
クンヤ
اِبْنُ سَلْمَان
文語発音:[ ibn(u/i/a) salmān ] [ イブン((主)イブヌ/(属)イブニ/(対)イブナ)・サルマーン ]
文語風カタカナ表記:イブン・サルマーン
サルマーンの息子
بِنْ سَلْمَان
口語発音:[ bin salmān ] [ ビン・サルマーン ]
口語風カタカナ表記:ビン・サルマーン
サルマーンの息子
本人のファーストネーム「ムハンマド」を出さず「サルマーンの息子」単体で言及する場合はクンヤとなります。
ニュースで既にフルネームが出てきてイブン・サルマーン/ビン・サルマーンだけでもムハンマド・ビン・サルマーン氏だとわかる場合、文脈上他の人物と混同しないようなシチュエーションではファーストネーム抜きの「~の息子」というクンヤが登場することがあります。
なお、女性の場合はファーストネーム抜きで「ビント・~」(~の娘)と呼ぶケースがクンヤになります。
ナサブなのに祖父や母の名前が続く場合
ナサブでは本人のファーストネームの後に父親の名前だけが来るのが大原則ですが、祖父や母の名前が続くナサブで通っているケースもあり歴史上の有名人にもこのパターンの人物が複数存在しています。
祖父の名前が続く例
預言者ムハンマドは若くして亡くなった父親の名前が عَبْد اللهِ [ ‘abdu-llāh ] [ アブドゥ・ッラー(フ) ]、祖父の名前が عَبْدُ الْمُطَّلِب [ ‘abdu-l-muṭṭalib ] [ アブドゥ・ル=ムッタリブ ] でした。
*アブドゥルムッタリブ(アブド・アル=ムッタリブ)の意味は「アル=ムッタリブの奴隷」。これは通称で祖父の本名は شَيْبَةُ الْحَمْدِ [ shaybatu/shaibatu-l-ḥamd ] [ シャイバトゥルハムド ] だったとか。シャイバは「1本の白髪」、ハムドは「称賛」を意味。アブドゥルムッタリブが生まれた際、黒髪に白髪が一筋混じっていたことから「白髪誉太郎」的な名前がつけられたとのこと。
預言者ムハンマドの名前も父の名を直後に続ける
مُحَمَّدُ بْنُ عَبْدِ اللهِ
[ muḥammad(u) bnu ‘abdi-llāh ] [ ムハンマド・ブヌ・アブディッラー ]
Muhammad ibn Abdullah(アブドゥッラーの息子ムハンマド)
以外に祖父の名前を続けた
مُحَمَّدُ بْنُ عَبْدِ الْمُطَّلِبِ
[ muḥammad(u) bnu ‘abdi-l-muṭṭalib ] [ ムハンマド・ブヌ・アブディ・ル=ムッタリブ ]
Muhammad ibn Abdulmuttalib(アブドゥルムッタリブの息子ムハンマド → アブドゥルムッタリブの孫ムハンマド)
という名乗り・呼ばれ方がされていたことが記録として残っています。
母の名前が続く例
特殊な出生だったイエス・キリストのアラビア語版フルネームだと、ibnの後に母マリアの名前が続きます。
عِيسَى بْنُ مَرْيَمَ
[ ‘īsā bnu maryam ] [ イーサー・ブヌ・マルヤム ]
Isa ibn Maryam(マルヤムの息子イーサー)
イーサーはイエスのアラビア語名、マリヤムはマリアのアラビア語名です。アラビア語表記においてはイブンのイ部分にある語頭のアリフというアルファベットが脱落したナサブの形式で表記されていることが多いです。
なおイスラームでは神の命によってマルヤムの胎内にイーサーが創造され処女懐胎に至ったとされています。妊娠期間がどのぐらいだったかについてはクルアーンの解釈者によってまちまちだとか。
イブンとビントの使い方
ナサブ中での位置
父ムハンマド、祖父アブドゥッラー、曽祖父ハーリドという家系があったとします。ムハンマドに生まれた男児アフマドと女児ザイナブはそれぞれ英字表記で
- 息子:ハーリド
أَحْمَدُ بْنُ مُحَمَّدِ بْنِ عَبْدِ اللهِ بْنِ خَالدٍ
[ ’aḥmadu-bnu-muḥammadi-bni-‘abdi-llāhi-bni-khālid(in) ]
Ahmad ibn Muhammad ibn Abd Allah ibn Khalid …
アフマド・イブン・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・イブン・ハーリド…
(ハーリドの息子のアブドゥッラーの息子のムハンマドの息子であるところのアフマド) - 娘:ザイナブ
زَيْنَبُ بِنْتُ مُحَمَّدِ بْنِ عَبْدِ اللهِ بْنِ خَالدٍ
[ zainabu-bintu-muḥammadi-bni-‘abdi-llāhi-bni-khālid(in) ]
Zainab bint Muhammad ibn Abd Allah ibn Khalid …
ザイナブ・ビント・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・イブン・ハーリド…
(ハーリドの息子のアブドゥッラーの息子のムハンマドの娘であるところのザイナブ)
2人ともibnとbint直後にある父とそれ以前の先祖たち「Muhammad ibn Abd Allah ibn Khalid …」は共通です。本人の名前の後に、息子ならibn(イブン)/ 娘ならbint(ビント)を介して父以降の先祖を並べていくのがナサブ(系譜)の方式です。
*女性に関してはibnat(イブナト)という表現もありますが少ないです。
- 男性
本人の名前・ibn・[ 父・ibn・祖父・ibn・曽祖父… ]ーここは兄弟姉妹共通 - 女性
- 本人の名前・bint・[ 父・ibn・祖父・ibn・曽祖父… ]ーここは兄弟姉妹共通
- 本人の名前・ibnat・[ 父・ibn・祖父・ibn・曽祖父… ]ーここは兄弟姉妹共通
アラビア語の実際の発音と英語・日本語表記とのずれ
英語や日本語ではibn(イブン)、ibnat(イブナト)に直されてしまいますが、実際のアラビア語では系譜を表すナサブの同格的な用法では語頭の i [ イ ] が取れてしまいブン、ブナトと聞こえる発音となります。
bint(ビント)についてはアラビア語と同じ発音となります。
たどるのは父方先祖
母方ではなく父方の先祖をたどります。伝えられている先祖の数が多ければわかっている限りの大先祖まで並べていくのが特徴で、“自分で暗記して口で唱える家系図”のような一面も持ち合わせています。
いつも毎回この長いのをフルネームとして名乗っていた?
昔においても本人の名前を所属ファミリーを示すのにいちいち大ご先祖様達の名前をずらずら並べていた、という訳でもないらしく、
- 本人名+ナサブ(定冠詞「al-」+部族名等のニスバ形容詞◯◯ī(y))
「◯◯族の~」 - 本人名+ibn+父の名前+ナサブ(定冠詞「al-」+部族名等のニスバ形容詞◯◯ī(y))
「◯◯族の△△の息子◯◯」
のような名前の組み合わせで他人からは認識されていた、という感じのようです。
息子~名詞 اِبْن [ ’ibn ](イブン)とその用法について
古来からアラブ世界では祖先を同じくする部族が بَنُو ــ [ banū — ](バヌー◯◯)と自分たちのことを呼び共同体を形成してきました。
このバヌーというのはアラブ人の系譜を示す時に使うibn(イブン)という語の複数形にあたります。少し特殊な文法があるのでまずはそれを確認したいと思います。
اِبْن [ ’ibn ] [ イブン ]
اِبْن [ ’ibn ] [ イブン ]
息子
名詞の単数形。語頭の「’i」[ イ ] は前の語とつなげて読むと発音が省略されるという特徴を持っています。これの前に息子本人の名前が来ない時は「’i」[ イ ] は脱落せず残ります。
- اِبْنُ مَنْصُورٍ [ ’ibnu manṣūr(in) ] [ イブヌ・マンスール ]
マンスールの息子(は)← 主格
[ ’ibn ] と [ manṣūr ] を息継ぎせずに読むと、’ibnの後に読み飛ばしていた語末にある主格の母音uが復活します。manṣūrは語末が所有格(属格)を示すiとタンウィーンというnがつきますが、 そこで読み終える場合には通常発音されません。 - اِبْنِ مَنْصُورٍ [ ’ibni manṣūr(in) ] [ イブニ・マンスール ]
マンスールの息子(の)← 所有格(属格)
[ ’ibn ] (イブン)が所有格(属格)になると語末にある格を示す母音がiになります。 - اِبْنَ مَنْصُورٍ [ ’ibna manṣūr(in) ] [ イブナ・マンスール ]
マンスールの息子(を)← 目的格(対格)
[ ’ibn ] (イブン)が目的格(対格)になると語末にある格を示す母音がaになります。
بْنُ ــ [ – bnu – ][ ブヌ ]
خَالِدُ بْنُ الْوَلِيدِ [ khālidu-bnu-l-walīd ] [ ハーリドゥ・ブヌ・ル=ワリード ]
Khalid ibn al-Walid、ハーリド・イブン・アル=ワリード
クンヤのページでも登場している武将でもある彼の名前に出てくるイブンは「~の息子◯◯」という意味で、系譜を表すナサブの用法です。アラビア語の文法面で起きている変化は以下の通りです。
- خَالِدٌ [ khālidun ] → خَالِدُ [ khālid ]
人名ハーリド単体では、格を示す語末の母音+nを含めた省略無しのフルな発音では خَالِدٌ [ khālidun ] [ ハーリドゥン ] となります。しかし「~の息子ハーリド」という表現では「n」が無くなって、主格を表す母音uだけが語末に残った خَالِدُ [ khālidu ] [ ハーリドゥ ] に変わります。 - اِبْنُ الْوَلِيدِ [ ’ibn(u) ] + [ ’al-walīd(i) ] → [ ’ibnu-l-walid(i) ]
人名ハーリドの後に同じ主格で置く「アル=ワリードの息子」を用意します。[ ’al-walīd ] は前の名詞「息子」を所有格(属格)支配するので、母音記号はiがついた部分まで完全に発音すると [ ’al-walīdi ][ アル=ワリーディ ] となります。
[ ’al-walīdi ] の「’al-」は定冠詞「al-」なので、前に名詞イブンが来ているので [ ‘a ](ア)の音が消えます。そして2語をくっつけると [ ’ibn ] の語末にある主格の母音uが現れて [ ’ibnu–l-walid(i) ] [ イブヌ・ル=ワリーディ もしくはiを読まずに イブヌ・ル・ワリード ] となります。 - خَالِدُ بْنُ الْوَلِيدِ [ khālidu–bnu-l-walīd(i) ]
前に息子の名前ハーリド、後に父親の名前アル=ワリード(注:定冠詞つきです)が来ると、اِبْن [ ’ibn ] [ イブン ] の「イ」部分が発音だけでなく文字上でも消えてしまい、بْنُ [ bnu ] [ ブヌ ] となります。
父親の名前まで一気読みする時にはアラビア語での発音は
[ khālidu ] + [ (’i)bnu ] + [ (’a)l-walīd(i) ] = [ khālidu-bnu-l-walīd(i) ]
に。ただし父親の名前で読み終える時は、walīdの後にある所有格(属格)を示すiは発音されずにdまで読み上げておしまいになるのが普通です。
ちなみに、アラブ人の名前で出てくるブン(bnu)とかビン(bin)とかベン(ben)とかはこれのことです。
بَنُونَ [ banūna ] [ バヌーナ ]
بَنُونَ [ banūna ] [ バヌーナ ]
上のイブンの複数形の一つです。通常は أَبْنَاء [ ’abnā’ ](アブナーゥもしくはアブナーッ)という複数形を息子たち・子供たちという意味で使いますが、部族名を言う時などはこのバヌーナという複数形を使います。バヌーナで、息子たち・子供たち・子孫という意味になります。
بَنُو ــ [ banū — ] [ バヌー・◯◯ ]
بَنُو ــ [ banū — ] [ バヌー◯◯ ]
後ろから部族名を示す名詞によって所有格(属格)支配を受けると、バヌーナ [ banūna ] の最後についている ナ [ na ]が取れてバヌー [ banū ]に変わります。「ー」部分に部族名を入れて、「◯◯の子孫たち、◯◯属の民」という意味の語ができます。
- بَنُو سُلَيْم [ banū sulaym / sulaim ] [ バヌー・スライム ]
Banu Sulaym、スライム族
بَنُي ــ [ banī — ] [ バニー・◯◯ ]
بَنِي ــ [ banī — ] [ バニー・◯◯ ]
上のバヌーは主格の時の形で、所有格(属格)と目的格(対格)にした時は語末のūがīに変わってバニーになります。部族名また時には地名で出てくるBani(バニー)とかBeni(ベニー)とかはこれになります。
娘~名詞 بِنْت [ bint ](ビント)とその用法について
اِبْنَة [ ’ibna(h) ](イブナ)の用法
اِبْنَة [ ’ibna(t/h) ] [ イブナ ]
娘
元々女性の出自を述べるナサブの用法では بِنْت [ bint ] とこちらの2パターンがあります。英字表記で「ibnat」と書いてあるものになります。
語形としてはこちらの方が بْنُ [ bnu ][ ブヌ ] に女性化の ة(ター・マルブータ)をつけだたけなので、まずはこちらから見ていきたいと思います。
語形と表記・発音上の脱落
イブナは「息子」という意味の اِبْن [ ’ibn ] に女性化の ة(ター・マルブータ)をつけ اِبْنَة [ ’ibna ] (イブナ)としたものです。اِبْنَة [ ’ibna ] の語末は場合によって [ t ] の音で読まれる場合と、 [ h ] の音で読まれる場合とがあるので、ここでは便宜上 اِبْنَة [ ’ibna(t/h) ] [ イブナ ] と書いてみました。
語頭の「’i」[ イ ] は前の語とつなげて読むと発音が省略されるという特徴を持っています。これの前に娘本人の名前が来ない時は「’i」[ イ ] は脱落せず残ります。
女性本人の名前はなしで、後ろに父親の名前が来た時
- اِبْنَةُ مَنْصُورٍ [ ’ibnatu manṣūr(in) ] [ イブナトゥ・マンスール ]
マンスールの娘(は)← 主格
[ ’ibna ](イブナ) と [ manṣūr ] を息継ぎせずに読むと、’ibnaの後に読み飛ばしていたtの音と語末にある主格の母音uの発音が復活します。 - اِبْنَةِ مَنْصُورٍ [ ’ibnati manṣūr(in) ] [ イブナティ・マンスール ]
マンスールの娘(の)← 所有格(属格)
[ ’ibna ](イブナ)が所有格(属格)になると語末にある格を示す母音がiになります。 - اِبْنَةَ مَنْصُورٍ [ ’ibnata manṣūr(in) ] [ イブナタ・マンスール ]
マンスールの娘(を)← 目的格(対格)
[ ’ibna ](イブナ)が目的格(対格)になると語末にある格を示す母音がaになります。
本人の名前と父親の名前にはさまれた時
اِبْن [ ’ibn ] [ イブン ] の時と同じで、「~の◯◯」という風にした時には語頭の ا [ ’i ] の部分が書かれず、以下のようになります。(ファーティマの語末とイブナの語末で格を示す母音を合わせます。)
- فَاطِمَةُ بْنَةُ مُحَمَّدٍ [ fāṭimatu-bnatu-muḥammad(in) ]
ファーティマトゥ・ブナトゥ・ムハンマド
ムハンマドの娘ファーティマ(は)← 主格 - فَاطِمَةِ بْنَةِ مُحَمَّدٍ [ fāṭimati-bnati-muḥammad(in) ]
ファーティマティ・ブナティ・ムハンマド
ムハンマドの娘ファーティマ(の)← 所有格(属格) - فَاطِمَةَ بْنَةَ مُحَمَّدٍ [ fāṭimata-bnata-muḥammad(in) ]
ファーティマタ・ブナタ・ムハンマド
ムハンマドの娘ファーティマ(を)← 目的格(対格)
このような格変化はアラビア語の文中で起こることなので、ただ人名を見るだけであれば関係無いので気にしなくて大丈夫です。英字表記では
- Fatima / Fatimah ibnat Muhammad
ムハンマドの娘 ファーティマ
بِنْت [ bint ](ビント)の用法
こちらは اِبْنَة [ ’ibna ] (イブナ)と違い表記・発音上の脱落はありません。語末に格変化の母音はつきますが、人名について見る場合は気にしなくて大丈夫です。
- بِنْت مُحَمَّدٍ [ bint muḥammad ] [ ビント・ムハンマド ]
ムハンマドの娘 - فَاطِمَة بِنْت مُحَمَّدٍ
[ fāṭima(h) bint muḥammad ]
[ ファーティマ・ビント・ムハンマド ]
Fatima(h) bint Muhammad、ムハンマドの娘ファーティマ
現代のアラブ世界ではこちらのbintの方がナサブ(系譜)に使われることが大半であるように思います。
ちなみにこのアラブ式命名システムが伝わったマーレシアのムスリム社会ではこの語が由来の「binti」が女性の名乗りに使われています。アラブ式とは違う独自性もあるのでマレーシアの命名ルールについては別途検索をお願いいたします。
ナサブの実例
預言者ムハンマド
مُحَمَّدُ بْنُ عَبْدِ اللهِ بْنِ عَبْدِ المُطَّلِبِ بْنِ هَاشِمِ بْنِ عَبْدِ مَنَافِ بْنِ قُصَيِّ بْنِ كِلَابِ بْنِ مُرَّةَ بْنِ كَعْبِ بْنِ لُؤَيِّ بْنِ غَالِبِ بْنِ فِهْرِ بْنِ مَالِكِ بْنِ النَّضْرِ بْنِ كِنَانَةَ بْنِ خُزَيْمَةَ بْنِ مُدْرِكَةَ بْنِ إِلْيَاسَ بْنِ مُضَرَ بْنِ نِزَارَ بْنِ مَعَدَّ بْنِ عَدْنَانَ
ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・イブン・アブドゥルムッタリブ・イブン・ハーシム・イブン・アブド・マナーフ・イブン・クサイイ・イブン・キラーブ・イブン・ムッラ・イブン・カアブ・イブン・ルアイイ・イブン・ガーリブ・イブン・フィフル・イブン・マーリク・イブン・アン=ナドル・イブン・キナーナ・イブン・フザイマ・イブン・ムドリカ・イブン・イルヤース・イブン・ムダル・イブン・ニザール・イブン・マアッド・イブン・アドナーン
(イブンをブンと記している日本語資料もあります)
اِبْنُ [ ’ibn ] ibn(イブン)の語頭1文字が取れた ُبْن [ bnu ](主格) / بْنِ [ bni ] (所有格・属格)を介して父・祖父・曽祖父から遙か前の祖先までたどった系譜です。クライシュ族の元となったアドナーン族の系譜までを記したものになります。
全人類の祖アーダム(アダム)までたどれるナサブも流布していますが、法学的な根拠をもって信憑性があると言えるのはアドナーンまでの部分で、そこからアーダムまでは半ば伝説の域と見なされている模様です。
1番最初のムハンマドという人名だけ主格なので直後の「~の息子」という部分だけは主格を示す母音uがついて بْنُ [ bnu ][ ブヌ ]となっています。父親の名前以降は後ろ側から所有格(属格)支配を受けているので、母音iがついて بْنِ [ bni ][ ブニ ]となっています。
日本語のカタカナ表記上は最初から最後までー・(イ)ブン・ー・(イ)ブン・ー・(イ)ブン・ーと書いていきますが、アラビア文字上ではー・ブヌ・ー・ブニ・ー・ブニ・ーと発音しています。
サッダーム・フセイン
Wikipediaのアラビア語版には彼のナサブ(父系系譜)が載っています。
صدام بن حسين بن مجيد بن عبد الغفور بن سليمان بن عبد القادر بن السيد الأمير عمر الثاني أمير تكريت، ابن السيد بكر بن السيد الأمير عمر الأول، ابن السيد الأمير شبيب ابن السيد الأمير حسن بن السيد الأمير علي، ابن السيد الأمير حسن، ابن السيد الأمير ناصر الدين العراقي- أمير البصرة وأمير قبائل عبادة، يمتد انتشارها من العراق وحتى الشام – ابن السيد حسين العراقي، ابن السيد إبراهيم العربي، ابن السيد محمود، ابن السيد عبد الرحمن شمس الدين، ابن السيد عبد الله قاسم نجم الدين المبارك، ابن السيد محمد خزام السليم، ابن السيد شمس الدين عبد الكريم أبي محمد الواسطي، ابن السيد صالح عبد الرزاق، ابن شمس الدين محمد، ابن السيد صدر الدين علي، ابن السيد أبي علي أحمد عز الدين الصياد، ابن سيدنا القطب السيد عبد الرحيم ممهد الدولة، ابن السيد سيف الدين عثمان، ابن السيد حسين، ابن السيد محمد عسلة، ابن السيد حازم علي أبو الفوارس، ابن السيد أحمد، ابن السيد علي، ابن السيد رفاعه الحسن المكي نزيل المغرب، ابن السيد المهدي، ابن السيد أبي القاسم محمد، ابن السيد الحسن القاسم، ابن السيد الحسين، ابن السيد أحمد الأكبر، ابن السيد موسى الثاني، ابن الإمام إبراهيم المرتضى، ابن الإمام موسى الكاظم، ابن الإمام جعفر الصادق، ابن الإمام محمد الباقر، ابن الإمام علي زين العابدين، ابن الإمام الحسين الشهيد، ابن أمير المؤمنين علي بن أبي طالب
途中で一部人物の肩書きや役職が挿入されていますが、こちらも اِبْنُ [ ’ibn ] ibn(イブン)の語頭1文字が取れた ُبْن [ bnu ](主格) / بْنِ [ bni ] (所有格・属格)を介して
- 本人
صَدَّام [ ṣaddām ] [ サッダーム ]
能動分詞「~する者」の強調形の語形で、意味は敵と激しく衝突して駆逐する、戦闘で大いに激突し敵を撃退する、ガンガン進撃して相手をボコボコにするといった意味合いの勇猛なイメージの名前です。 - 父
حُسَيْن [ ḥusayn / ḥusain → 口語風に読んで ḥuseyn / ḥusein ] [ フセイン ]
佳人という意味の حَسَن [ ḥasan ] を変形した縮小形名詞で、小さな佳人を示します。正統カリフアリーのうち上の息子がハサン、下の息子がその縮小形であるフサインでした。今では定冠詞「al-」をつけてその2人を表します。カルバラーの戦いで一族のほとんどが殺害されてしまったアル=フサインに対するシーア派信徒の贖罪意識は強く、今でもアーシューラーの日に追悼行事が行われています。 - 祖父
مَجِيد [ majīd ] [ マジード ]
普通の形容詞よりも強調されている語形だとされ、(大いに)栄光ある、高潔な、高貴なという意味になります。 - 曽祖父
عَبْد الْغَفُورِ [ ‘abdu-l-ghafūr ] [ アブドゥ・ル=ガフール ]
「アブド・◯◯」形式の名前で、許す者アッラーのしもべという意味です。
そしてアミールの肩書きを持つずっと前の代のご先祖らをたどり、さらにはカルバラーの戦いで生き残ったイマーム アリー(アリー・アクバルとアリー・アスガルにはさまれたアリー3人組のうちの真ん中のアリー)→イマーム アル=フサイン(カルバラーの戦いで死去)→第4代正統カリフ/シーア派イマーム アリー が遠い祖先だったということが示されています。
ナサブ用法と家名用法の違いに注意
イブンやビンが必ず父子関係を示すとは限らないので要注意
日本ではよく間違えて混同したまま記事が書かれたり解説されたりしているのですが、「ムハンマド・ビン・サルマーン(サルマーンの息子ムハンマド)」と「ウサーマ・ビン・ラーディン(ビン・ラーディン家のウサーマ)」はそれぞれ違う用法です。
- ムハンマド・ビン・サルマーン
- ムハンマド:本人のファーストネーム
- ビン:息子と父の関係を示すナサブ(系譜)表記のつなぎパーツで「(~の)息子」の意味(口語発音バージョン)
- サルマーン:ムハンマドの父親の名前
- ウサーマ・ビン・ラーディン
- ウサーマ:本人のファーストネーム
- ビン・ラーディン:家名(何代も前の先祖の通称)
- ラーディン:ビン・ラーディンと呼ばれた先祖の父親(家名由来男性の先代)
ムハンマド・ビン・サルマーンは父子関係を示すニスバ
ムハンマド・ビン・サルマーン・アール・サウードはムハンマドが本人のファーストネーム、サルマーンが父親の名前、アール・サウードが「サウード家」という意味の家名(姓・名字に相当)を示すパーツになります。
なのでムハンマド・ビン・サルマーン・アール・サウードの場合は「ムハンマド・ビン・サルマーン」が実父との父子関係を意味するナサブで、残りの「アール・サウード」は家名部分ということになります。
なのでこの場合は「サウード家サルマーンの息子ムハンマド」という意味になり、聞いた人は本人の父親がサルマーンでサウードが遠い先祖の名前を使った家名であろうと理解します。
ビン・ラーディン(ビン・ラディン)は昔の先祖の名前が由来の家名を代々一族全員で引き継いでいるファミリーネーム
ビン・ラーディンは家名なので一族は皆「◯◯・ビン・ラーディン」
日本では「ビン・ラーディン(ビン・ラディン)はアラビア語でラーディンの息子(ラディンの息子)という意味しか持たない」と書いていらっしゃる方が多いですが適切な説明ではありません。
ビン・ラーディンの場合はラーディンという人物が何代も前のずっと昔のご先祖にいて、その息子で「ビン・ラーディン(ラーディンの息子)」というあだ名で通っていた人物が成功したり分家したりで独立したために「ビン・ラーディン家(ラーディンの息子の家・一族)」と呼ばれるようになりファミリーネームとして使いだした家名になります。
西欧におけるMac◯◯、Mc◯◯、◯◯son同様家名として固定されている部分なので、その一族に生まれた男児も女児も全員「◯◯・ビン・ラーディン」というフルネームになります。
ナサブと間違えて女性だからといって「◯◯・ビント・ラーディン」と直すと間違いになります。
また遠い先祖を共有している親戚全員がこの家名を使うので、父親が違ういとこ同士やはとこ同士でも全員「◯◯・ビン・ラーディン」というフルネームになります。ラーディンも通称ビン・ラーディン氏も彼らが共有する先祖の名前なので、この家名を名乗りたくないといった個人的都合が無い限り各自の父親がムハンマドでもアフマドでも全員ラストネーム部分は「ビン・ラーディン」になります。
ウサーマ・ビン・ラーディンという人名は現代アラブ社会に多い単純な2パーツタイプフルネーム(本人の名前+家名)なので父子関係を示すナサブは含まれておらず、「ビン・ラーディン家のウサーマ」という意味になり、アラブ人は「ラーディンの息子ウサーマ」(=ウサーマの父親はラーディン)とは解釈しません。
アル=カーイダ問題で有名になった彼の父親の名前はムハンマドでしたが、「~の息子ウサーマ」という実際の父子関係を表すナサブを含めると「ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・ラーディン(ビン・ラーディン家 ムハンマドの息子ウサーマ、ラーディンの息子家出身であるムハンマドの息子ウサーマ)」という形式になります。
アラビア語メディアでも「ビン・ラーディン殺害」のような言い方をする
日本では「ウサーマ・ビン・ラーディン(オサマ・ビン・ラディン)はラーディンの息子(ラディンの息子)という意味しか無いから、ビン・ラーディン容疑者とかビン・ラーディン暗殺のような呼び方は間違い。」という説明が広くなされていますが、正しい情報ではありません。
実際にはアラブのメディアやSNSでも「ビン・ラーディン殺害」のようにファーストネーム抜きの家名だけで書かれていることがあり、一般的に報道番組や専門家出演番組などでも本人の家名相当部分で呼ぶことが慣習化しています。
これは日本でいうところの「鈴木氏」に相当する言い方になるのですが、詳しくは『アラブ人の名前のしくみ~フルネーム』にて紹介していますのでそちらを参照願います。
なお「ラーディン殺害(ラディン殺害)」のようにビン・ラーディンという2語セットで家名になっているものを分解して後半だけ使うのは誤りとなります。西欧のMacArthur(マッカーサー)姓を「アーサー家」と言わないのと同様、「ビン・ラーディン」はこれ1まとまりで家名となっています。
ナサブとイベリア半島のアラブ人フルネームについて
アラブ世界東方の家名システムとの違いに注意
イベリア半島出身のアラブ人には「イブン・◯◯」と呼ばれる偉人が大勢います。
クンヤのページで詳しく紹介しているのですが、イブン・バットゥータ、イブン・ハルドゥーン、イブン・ルシュド、イブン・スィーナー、イブン・ジュバイルといった有名人の名前は全部家名で呼んでいるもので本人たちの父親の名前はバットゥータ、ハルドゥーン、ルシュド、スィーナー、ジュバイルではありません。
これはアル=アンダルス(イベリア半島やモロッコ付近の西方アラブ世界にあった家名の方式で、「イブン・◯◯」の◯◯部分は通常実父ではなく家名の元になった先祖の名前が入ります。
- イブン・バットゥータ
本名:ムハンマド、父の名前:アブドゥッラー
*バットゥータは母親の名前由来で、女性名ファーティマの愛称語形ファットゥーマがバットゥータに変形したものだとの説あり。 - イブン・ハルドゥーン
本名:アブドゥッラフマーン、父の名前:ムハンマド - イブン・ルシュド
本名:ムハンマド、父の名前:アフマド(*実際の発音はアハマドに近いです) - イブン・スィーナー
本名:アル=フサイン、父の名前:アブドゥッラー - イブン・トゥファイル
本名:ムハンマド、父の名前:アブドゥルマリク - イブン・ジュバイル
本名:ムハンマド、父の名前:アフマド(*実際の発音はアハマドに近いです) - イブン・アラビー
本名:ムハンマド、父の名前:アリー
アル=アンダルスのアラブ人のフルネームの構成
長めのフルネーム
(1)本人の名前+(2)ビン/イブン・父の名前+(3)ビン/イブン・祖父の名前+・・・+(4)[ ここだけ家名部分:ビン/イブン・家名の元になった父祖名 ]
[ ] でくくった「ビン/イブン(bin/ibn)・家名の元になった父祖名」のかたまりが家名を示すパーツになります。祖父の名前の後にビン/イブンが続きますが、曽祖父から家名の元になった遠いご先祖までのファーストネームが省かれている場合は(3)の男性と(4)の男性との間には父子関係は存在しないので(4)部分だけ家名として切り離して考えます。
短いフルネーム
(1)本人の名前+(4)[ ここだけ家名部分:ビン/イブン・家名の元になった父祖名 ]
2パーツタイプの短いフルネームです。本人のファーストネームの後にいきなり家名部分が来ているパターンです。この場合は(1)と(4)の間には父子関係が無い上、何代分ものご先祖のファーストネームがすっ飛ばされて直接普通のナサブのように連結されています。
東方アラブ世界の一般的な名前規則だと家名無しの「◯◯の息子ーー」という意味に訳してしまいそうになりますが、アル=アンダルスの場合はファーストネームとファミリーネームを組み合わせた2パーツ型フルネームになるのが普通だと考えて差し支え無いと思います。