欧米の影響・近代化とラストネーム
欧米式のファーストネームとラストネーム(ファミリーネーム)の項目にアラブ人は何を書く?
欧米のファーストネーム・ラストネームシステムの影響を受けて2個の名前を組み合わせての名乗りー اِسْم ثُنَائِيّ [ ’ism thunā’ī(y) ] [ イスム・スナーイー ] two-word names ーが増えているアラブ世界。
名前を3つ並べたフルネームを持っている人でも、自分の名前を普段言う時には本人のファーストネームとどれかもう1つの名前を並べて合計2個で完了、ということが一般的になってきています。
たとえば下のような欧米風の名前入力フォームがあったとします。
・First Name
・Last Name / Family Name
このラストネーム部分に入れるファミリーネームにどのようなものがあるのかを確認してみたいと思います。
ファミリーネームがある場合
『アラブ人の名前のしくみ~様々なラストネーム・ファミリーネーム』で挙げたようなファミリーネームを持っている場合は、それをLast Name / Family Name欄に記入することとなります。
ファミリーネームが実質1個だけの場合はわかりやすい
レバノン周辺のように職業名由来の家名がほぼ固定で存在する場合は家名ができた頃に元の部族名由来の形容詞や分家名から切り替わっているのでまず迷いません。
サウジなどの場合は部族由来のファミリーネーム相当パーツが複数あるので要注意
しかしアラビア半島のように大元の出身大部族に由来した形容詞(ニスバ)、その分家であることを示す分家名、ラストネームとして使うことも多い自分の祖父の名前などがある場合、どれをラストネーム代わりに選ぶのかは本人の意向などにより変わる可能性があります。
超大部族ともなると途中で何度も枝分かれしている上に非常に多くの分家があり、分家・支族の成員は普段「al-△△ī」という分家・支族由来のニスバを名乗っていても、そもそもは◇◇族という大きな枠組みの中の一員なので大元の部族の名前が由来になっている「al-◇◇ī」を名乗ることもできます。
そのため、同一人物でもフルネームにバリエーションが生じます。たとえば
本人名前+al-△△ī
本人名前+al-◇◇ī
本人名前+al-△△ī + al-◇◇ī
本人名前+父の名前+ al-△△ī + al-◇◇ī
本人名前+ibn/bin+父の名前+ al-△△ī + al-◇◇ī
といった何パターンもあるのに全部同じ人を指しているといった事態になります。
ネットニュース記事やサッカー試合の選手一覧表といったアラブ人の人名で「どう考えても同一人物のことを言っているようなのにファーストネーム以降が全然違う。フルネームが違う。」という場合はGoogleなどで検索して一番長いフルネームを探して照合するとわかりやすくて良いです。
ファミリーネーム相当のパーツが何個も並んでいる中から1番最初にある本人のファーストネームと、終盤にあるいくつかの家名相当部分を1つずつ組み合わせるとそれらに出てくる人名が同一人物下どうかを確かめることができます。
ファーストネームを3つ並べた名乗りをしている場合
「本人-父-祖父」タイプの人のラストネームは2通り
「本人-父-祖父」のファーストネームを3つ続けてフルネームとしている人の場合は2通りの名乗り方があります。
- 本人の名前をFirst Name、祖父の名前をLast Name / Family Nameとする
- 本人の名前をFirst Name、父親の名前をLast Name / Family Nameとする
エジプトのようなファミリーネーム使用が少ない国ではどちらも混在していて、西欧式の氏名入力フォームでラストネームに何を入れれば良いのか迷ってしまう人も結構いるようです。ネットの相談掲示板とかにも「ファミリーネーム欄にどの名前を書けばいいですか?」といった質問が寄せられているのを見かけたりします。
エジプトの場合だと、割合が大きいのは祖父名をラストネームとするケース。一方、3連続ネームの前半分である「本人名-父親名」部分を切り取って父親名をラストネーム的に名乗るケースはそれよりも少ないとのこと。
「本人-父-祖父」タイプの人のラストネーム実例
『アラブ人の名前のしくみ~フルネーム』に出てきた3きょうだいを例に見てみたいと思います。
- パターン1
祖父の名前をラストネームのようにして اِسْم ثُنَائيّ [ ’ism thunā’ī(y) ] (イスム・スナーイー)2-word namesにしている - パターン2
父の名前をラストネームのようにして اِسْم ثُنَائيّ [ ’ism thunā’ī(y) ] (イスム・スナーイー)2-word namesにしている
長男=アフマド
أَحْمَد مُحَمَّد أَحْمَدُ [ ’aḥmad muḥammad ’aḥmad ]
Ahmad Muhammad Ahmad / アフマド・ムハンマド・アフマド
- パターン1=Ahmad Ahmad
- パターン2=Ahmad Muhammad
長女=ナジュワー
نَجْوَى مُحَمَّد أَحْمَد [ najwā muḥammad ’aḥmad ]
Najwa Muhammad Ahmad / ナジュワー・ムハンマド・アフマド
- パターン1=Najwa Ahmad
- パターン2=Najwa Muhammad
次男=アラーウッディーン
عَلَاء الدِّينِ مُحَمَّد أَحْمَد [ ‘alā’u-d-dīn muḥammad ’aḥmad ]
Aladdin Muhammad Ahmad / アラーウッディーン・ムハンマド・アフマド
- パターン1=Aladdin Ahmad
- パターン2=Aladdin Muhammad
エジプトで実際にある例らしいのですが、同じ兄弟姉妹でもラストネームの名乗りが違うことがあり、パターン1で名乗っている人とパターン2で名乗っている人とが混在していることもあるのだとか。
女性の結婚と改姓
結婚でラストネームを変える風習は無し
アラブ世界では現代日本のような画一的な姓のシステムが無いので日本と全く同じ視点で夫婦同姓・別姓問題を語ることは難しいかもしれませんが、基本的に女性のフルネームは結婚前も結婚後も同じです。その原則は昔も今も変わっていません。
夫婦でラストネームが同じになる場合は?
夫婦同姓のように見える常用フルネームになるケース
夫婦でラストネームが同じになる場合としてはいくつかのケースが考えられます。
- 血縁関係はほぼ全く無いが、たまたま遠い先祖の出身地が由来となった形容詞(ニスバ)や職業名由来家名(ニスバ)といったラストネームが同じ。
- イスラーム以前から続く古い部族のため血縁関係があっても遠すぎて面識すら無い同士だが、一応は膨大な数の成員を要する大部族の枠組みの中に含まれるメンバーである場合。夫婦で揃ってラストネーム部分に大部族名由来を使っている場合、近い親戚でも遠い親戚でも夫婦同姓に。
- 先祖の出身出身地に由来した形容詞(ニスバ)が同じ場合。夫婦のいずれもがラストネームとしてこのパーツを使っていることで夫婦同姓に。血縁関係の有無にかかわらずラストネームが同じになっているパターン。
- 父方いとこ同士の結婚であるため、大部族としての枠組みはもちろん、分家名をラストネームにしても、祖父名をラストネームにしても日本の夫婦同姓相当になっているパターン。アラビア半島や部族の親戚が一緒になって遊牧をしているような地方部にこうしたいとこ婚が多く、アラブ人でラストネームが一緒の夫婦はたいていこのパターン。
しかしアラビア半島の部族社会のように、大部族由来の形容詞、分家家長名由来のファミリーネーム、祖父の名前といった具合にラストネームとして選べる候補がたくさんある場合、父方の血縁関係があったとしても夫婦でラストネームが違っている可能性が高めになるかと思います。
部族社会の国ではアル=ハルビー、アル=カフターニー、アル=ガーミディーのような所属大部族名由来の形容詞をラストネームとして使っていた人が、途中で分家家長や祖父の名前をラストネームにしたい場合に申請を受け付ける制度があります。
なのでアラブのラストネームは現代日本の姓のように固定的で変えられないものとは違い、地域・国によってはある程度本人の意思で使用パーツを切り替えられる部分があり、流動性が見られます。
また、部族地域でない場合は選べる選択肢も少なく、近代に入って国民登録の都合上決めるよう迫られたことで先祖が考えついた家名を使い続けるしか余地が無いケースも考えられ、「アラブ人だから◯◯」とは一概に言えない状況です。
アラブ世界といとこ婚
アラブ世界では日本よりもいとこ同士の結婚に対する抵抗感が少なく、特に地方部や部族社会内部ではいとこ婚が長い間続けられてきました。
特に農地や家畜が遺産として一族の外に流出を防ぐ意味もあって、お互いの父親が兄弟同士という間柄のいとこが結婚することが好まれる傾向があり今でもそうした風潮が残っている地域もあります。
祖父がムハンマド、その息子がアフマドとマフムード、アフマドの息子がハサンでマフムードの娘がサミーラだとすると、いとこ婚をした2人が祖父の名前を家名代わりのラストネームとした場合「ハサン・ムハンマド」と「サミーラ・ムハンマド」と名乗ることになります。
夫婦の顔がよく似ていて出身地の村まで一緒だという場合「ああ父方の祖父を共有するいとこ同士なのだな」で納得されて終わりです。
以前「アラブ世界は夫婦別姓。だから夫婦が同姓の場合は表沙汰にできないようなきょうだい婚であることを意味している。」と書かれているのを見かけたことがあるのですが、そういうことはありません。
西洋風に結婚後通名として名乗るラストネームを変える例も
名乗りの近代化に伴って、エジプト大統領夫人のように欧米風に夫側のラストネーム相当の名称を名乗るようになる人もいます。
ちなみに結婚によるラストネームの変更をしたエジプト大統領夫人はいずれも西洋式教育を受けた経歴のある英国人ハーフです。育った背景が非常に西欧的であったことがアラブ的ではないラストネームの大きな理由だったようです。
*アラブ世界全体を見れば夫婦でラストネームが違うケースの方が遥かに多いですが、アラビア半島など父方いとこ同士の結婚が依然として少なくない地域では夫婦で祖父名由来もしくは分家名由来のラストネームが全く同じという例も見られます。
サーダート(サダト)元大統領夫人の例
結婚前:Jehan Safwat Raouf
جِيهَان صَفْوَتْ رَؤُوف [ jīhān ṣafwat ra’ūf ](ジーハーン・サフワト・ラウーフ)
こちらが結婚前の名前です。日本語ではジーハーン、ジハーン、ジハンとカタカナ表記はまちまちです。
エジプト人医師Safwat Raouf氏と英国人の母の間に生まれました。結婚後ラストネームのようにして名乗りに使っていた父親の名前を使わなくなり、代わりに夫の側のSadatを姓として交換した形になります。
ちなみに父親の صَفْوَتْ [ ṣafwat ](サフワト)という名前ですが、音を聞くだけでは [ t / h ] の子音を示す ة (ター・マルブータ)があるように思えるのですが、オスマン朝時代に由来する「-at」で終わる人名なので ت [ t ] の開かれたターの方で表記します。
結婚後:Jehan Sadat
جِيهَان السَّادَات [ jīhān as-sādāt ](ジーハーン・アッ=サーダート)
サーダート(サダト)大統領夫人になってからの名乗りです。
ムバーラク(ムバラク)元大統領夫人の例
結婚前:Suzanne Saleh Thabet
سُوزَان صَالِح ثَابِت [ sūzan ṣāleḥ thābet ](スーザーン・サーレフ・サーベト)
結婚前の名乗りです。彼女もサーダート夫人同様、エジプト人医師の父親Saleh Sabet氏と英国人の母親との間に生まれたハーフです。ファーストネーム部分のカタカナ表記はについては、スーザーン、スーザン、まれにスザンとまちまちです。
なお父親の名前部分のSaleh Sabetですが、文語的な発音では [ ṣāliḥ thābit ](サーリフ・サービト)になります。しかし口語ではこの語形ではiがeになりやすいので、サーレフ・サーベトという読みに変わっています。(詳しいルールについては『英字表記されたアラビア語の名前とカタカナ化~(口語編)短母音・長母音・二重母音』を参照願います。)
結婚後:Suzanne Mubarak
سُوزَان مُبَارَك [ sūzān mubārāk ](スーザーン・ムバーラク)
結婚後は父親の名前ではなく、夫側のMubarakを姓のように使用。
夫婦同姓・別姓問題とアラブ女性
アラブ女性は結婚してもラストネームは変えないが、名字選択の余地がゼロなのとはちょっと違う
日本では夫婦同姓・別姓問題に関して「アラブ女性は結婚しても姓が変わらない」「アラブ女性は姓・家名を選べず抑圧されている」と紹介されることが多いのですが、アラブには日本のような姓の制度が無く日本人が抱くイメージとは少し違っています。
当サイトのコンテンツでも紹介している通り、アラブ人のラストネーム部分はその人の出自を示すパーツなので、女性であっても男性であっても自分が名乗る際にファーストネームの後に連なっている
- 家名は出さず父親の名前をラストネームにする
- 家名は出さず祖父の名前をラストネームにする
- 先祖の名前由来の家名をラストネームにする
- 先祖の職業・通称由来の家名をラストネームにする
- 出身部族支族(分家)の名称由来の形容詞を使う
- 分家ではなく大元となった大部族連合由来の形容詞を出自表示のラストネームとして使う
- 一族の出身地をラストネームとして使う
といったいくつもの選択肢から選んで名乗れる地域も少なくありません。日本のように近代化に伴い姓の制度が明確に定められたということも無かったので、「かつてアラブ人の出自表示に使っていたこれとあれだけを姓として認める」というルールがはっきりと決まっていません。
そのため「家名は出したくないから部族名をラストネームにするわ」的な感じで公的に名乗る名前を女性の意思である程度コントロールできるようになっています。(ただしアラブ全域でこうなるという訳ではないです。)
日本人の花子さんの例に置き換えてみると
- 18世紀までは700年前にいた先祖武蔵にちなむ武蔵一族と呼ばれていた
- 18世紀に鍛冶屋として知られるようになり、周囲から鍛冶屋と呼ばれるようになった
- 19世紀にものすごい太鼓腹の権兵衛という家長がいて、周囲から太鼓腹家と呼ばれるようになった
- 4代前は勘三という名前だった
- 祖父は太郎
だった場合、「武蔵花子」「鍛冶屋花子」「太鼓腹花子」「勘三花子」「太郎花子」のどれを氏名的に名乗ってもOK、戸籍登録としては最初「太鼓腹花子」だったけれども名乗るのが恥ずかしいから戸籍登録変更を申請して「鍛冶屋花子」に変えようかな、素性がばればれな家名は嫌だから武蔵も鍛冶屋もやめて「勘三花子」か「太郎花子」にしようーというのがアラブ世界のラストネームに関する感覚に近いように思います。
日本とは単純な比較が難しい
鈴木花子さんが佐藤太郎さんと結婚したら鈴木と佐藤の二択から選ばないといけない日本の状況とはかなり違うため、単純に比べられないというのが実情です。
アラブ世界はライトノベルに出てくるような「真名は表で使わず通名で暮らす」ということが行われてきた邪視信仰+通名利用文化圏なので、今でもファーストネームですら家族や本人が選んで戸籍とは違う名前を使っていることもあるなど、日本とは名前との関係がかなり違っています。
なのでアラブ人にとっては「結婚する時にラストネームをどうするか?」に悩むのではなく、戸籍に国民登録する時にどうするのか、銀行などに届ける時にどの組み合わせのフルネームを使うのかといった方が気にするべきポイントとなっています。
出自部分を騙るようなラストネームへの細工には厳しい社会
ただし自分の出自を偽るようなラストネーム部分の名乗りについては厳しい土地柄です。弱小マイナー部族出身なのに有力大部族由来の形容詞をラストネームとして使うといったことに対しては社会的制裁が大きいと言えます。
ラストネーム、ファミリーネームで呼ぶことについて
アラブ世界では元々その人をファーストネームで呼び、日本のように家名で「◯◯さん」と言うことはしませんがラストネームで呼ぶことが全く無いかというとそうでもありません。
大統領といった公人や論文での言及
大統領といった公人はニュースや新聞でラストネーム部分だけで呼ばれることもあります。
日本では「フセイン大統領やムバーラク大統領と呼ぶのはラストネーム・家名で呼んでいることになるのでアラビア語としては間違い」という説明が一般的ですが、実際には現地でも見られる用法です。
論文などで引用する際にも、フルネームをいったん述べたら後はラストネーム部分だけで呼んでいたりします。
元エジプト大統領の例
たとえばエジプトの元大統領のムハンマド・フスニー(/ホスニー)・ムバーラク氏は有名人になったことでまず複合名だったファーストネーム「ムハンマド・フスニー(口語発音はホスニー)」からムハンマドが取れてフスニー(/ホスニー)・ムバーラクとなりました。
アラブ世界では元々3パーツタイプのフルネームを名乗っていた人でも、有名人になるにつれて2パーツのみの短いフルネームになっていく傾向があります。
そして新聞やネット記事などではフスニー(/ホスニー)・ムバーラクというフルネームを使いつつも、人名を繰り返す中でムバーラクしか使わず اَلرَّئِيس مُبَارَك [ ’ar-ra’īs mubārak ] [ アッ=ライース・ムバーラク ](ムバーラク大統領)とのみ呼ぶような省略を行ったりすることがあります。
海外に移民したり対外的な仕事をしているアラブ人が家名で名乗っているケース
移民をして海外に活動の拠点を持っている、対外的な仕事に従事している、といった理由から、ファーストネームではなくラストネームもしくはファミリーネームでMr.◯◯と呼ばれているケースも増えてきています。
ザハ・ハディド氏の例
新国立競技場の設計者として一時期日本のメディアをにぎわせていた故ザハ・ハディド(アラビア語発音はズハー・ハディード)氏。彼女のどこがファーストネームなのか、またなぜハディド氏としないのか、といった声も聞かれました。
彼女も上で記したアラブ式ではなく西欧式にMs.Hadidとして呼ばれたケースに相当します。Hadidは彼女の曽祖父の名前で、ザハ氏の父親がラストネーム的に使っていたものです。
アラブ式に言うならファーストネームのザハ氏で正解ですが、彼女は海外生活が長くアラブメディアのインタビューにも全部英語で答える人だったので、家名のハディード氏で呼ぶのもまた正解だったと言えそうです。
詳しくは以下のページをご覧ください。
『アラブ人の名前のしくみ~有名人探訪編:ザハ・ハディド』