アラビア語入門(井筒俊彦全集 第十二巻/慶應義塾大学出版会)

アラビア語入門 井筒俊彦全集 第十二巻

★★★★☆
1960年代まで慶應義塾大学のアラビア語教科書として使用
アラビア文字で挫折する東洋学専攻者を一定レベルまで引き上げるため
全編を通じてラテン文字転写メインで文法を解説

著者: 井筒 俊彦
出版社:慶應義塾大学出版会

著者の先生について

井筒俊彦先生は1914年東京生まれ1993年没。父は新潟県米問屋家庭出身のビジネスマンで石油会社に勤務。私生活では禅・内観法・瞑想法を実践する求道者・書家でもあったとのこと。息子の俊彦氏にもそれを教え込み、禅関連の書ものを読ませたり座禅をさせたり、心という一文字を自身の中に刻みつけるような情操教育を施したりされたのだとか。

井筒俊彦先生は父の意向に従い慶應義塾大学経済学部予科に入学するも以前から憧れ慶應進学を志した動機でもあった西脇順三郎教授を追う形で文学部英文科に転向。その後旧約聖書を読むためにヘブライ語を学び始め、アラビア語、ならびに周辺諸語へと外国語学習の幅を拡大。

最終的には30を超す言語をマスターした稀代の天才だけに周囲の追随を一切許さないレベルの突き抜けっぷり。語学ができすぎて指導を受ける側が必死でついていくものの途中で息切れしてしまいしばしば挫折してしまっていたことが周囲の関係者の回想でも語られています。

司馬遼太郎氏も井筒先生を20人の天才が1人になったような人ものと語っているように、どの言語も海外から取り寄せた専門書基本的にごく短い期間でサクッとマスターされていたのだとか。しかし井筒先生曰くアラビア語だけはそうもいかなかったとのこと。実際には周囲からすると驚異的なスピードで上達されていたようですが…

1937年慶應大学卒業と同時に助手に就任。ちょうどその頃アラビア語の教えを請うことを思い立たれたようで、帝政ロシア出身タタール人の汎イスラーム主義活動家で東京回教礼拝堂(東京ジャーミイの前身)イマームも務めたアブデュルレシト・イブラヒム(アブド・ラシード・イブラヒム)師に接触。イスラームを同時に学ぶという条件でアラビア語の教授を受けたといいます。

2年ほどかけて一通りの教えを受けた頃ロシアによる迫害を逃れて大学者ムーサ・ビギエフ(ムーサー・ジャラールッラーハ)師が来日。アブデュルレシト・イブラヒム師より紹介され、ムーサ師が滞在している2年の間に彼の頭の中に暗記されていたイスラームやアラビア語関連の膨大な書籍の知識に触れたのだとか。

日本の軍部は第二次世界大戦中に中東に接触。井筒先生は通訳業を務めながらアラビア語資料をひたすら読む生活を送られたようです。この『アラビア語入門』にも一日中アラビア語に明け暮れていたという回想が載っていました。

戦後は慶應大学教授に就任。1958年に『コーラン』(クルアーン)を出版。1959年以降は海外の各地で研究者生活を送られたとのこと。『井筒俊彦著作集』刊行途中で急逝されてしまいましたが、この『アラビア語入門』自体は生前に著者ご本人による校正が済んでおりその修正内容が反映された上で収録されているとのことです。

本の概要

●執筆は1941年。創設したばかりの慶應義塾語学研究所、外国語学校の各国語語学入門叢書第1巻として発刊し井筒先生がヘブライ語、シリア語、ペルシア語、トルコ語等の教科書を次々に執筆する予定だったものの実現せず。先生曰く書いたことすら忘れ果てたという戦後の1950年になって慶應義塾大学語学研究所語学論叢2『アラビア語入門』として刊行。初版についていた正誤表等に基づいた改訂版が1993年に中央公論社『井筒俊彦著作集』第二集(イスラーム文化)として出版。井筒俊彦全集 第十二巻は中央公論社バージョンをリニューアルしたものとなっています。

●全部で600ページを超えるボリュームですが『アラビア語入門』自体はその半分ぐらいです。後半はアッカド語、ヒンドスターニー語、セム系諸語とアラビア語の話、クルアーンのアラビア語がどのようなものであったかに関する考察等を掲載。

●井筒俊彦全集 第十二巻バージョンは約8500円。紀伊國屋書店のサイトで提供されている電子版も同じ価格です。アラビア語学習書の中でも値段が高い部類に入るので、学生さんの場合は大学図書館でまず借りてみて気に入ったら購入するというのもありかと思います。

●冒頭において井筒先生はー東洋学に重要性を持つアラビア語であるが日本はおろかヨーロッパですら完全に学習し山積する文献を自由自在に活用できるような学者が数えるしかいない。というのもアラビア語が余りに難しい、というよりはむしろ余りに繊細で複雑すぎるゆえである。語彙が驚くほど豊富で、英語・ドイツ語・フランス語を勉強するようなつもりで取り組むと挫折することは初めからわかっているーと指摘。欧州から入手できるアラビア語文法書で信頼できるものは独習するには難しすぎるため、学問的に正確でありながらも取り組みやすい入門書が必要だと感じて井筒先生自らが執筆されたとのこと。

●慶應に入学し東洋学を専攻する人たちがドイツ語で書かれたブロッケルマンの文法書や英語で書かれたライトの文法書に到達するための橋渡しとなることを想定した本であること、また井筒先生がヨーロッパ諸語を得意とされており各国語との対比もしばしば登場することなどから、アラビア語が全く初めてな方、日常生活や普段の読書に活用できる実用的なアラビア語を軽くさらっと勉強したいという方には向いていません。

●名詞・形容詞・複数形を先に覚えてから動詞派生形で締めくくる構成ではなく、例文の詳細な解説を読みながら少しずつ学んでいく方式です。文字や名詞から始まって動詞派生形や仮定法で終わる一般的な文法項目並び順に従って学習していく形式をお求めの方は、他の文法書と併用する必要があるかもしれません。

●あまり詳しくしすぎないことを心がけて執筆されたようで発展的な文法事項はあまり出てきませんが、動詞派生形が15形まであることが明記されていたり、知っていなくても日常のアラビア語運用には全く支障が無いような細かい話が登場したりします。ただ教科書としての全体の対象レベルは中級の前半(lower intermediate)ぐらいといった感じです。

●約80年前に書かれたので日本語の言い回しは古めかしいのですが、アラビア語部分は例文に古典を使用しており、フスハー自体の変化が非常に少ないこともあって現代においてもアラビア語の学習書として十分使えるだけの質を保っていると言えます。特にイスラーム学や中東史を専攻する学生さんであれば一読する価値はあるかと思います。

●例文が短いので負担が少なくて取り組みやすいです。

●属格(所有格)は「の」格、対格(目的格)は「を」格と呼ばれています。

井筒先生による学習者向けのコメント

アラビア語学習者界隈でよく知られた話かと思いますが、井筒先生の文法書には初学者が間違えやすいポイントがどこであるとか、これを怠ってはならないといった様々なコメント・叱咤激励の言葉が記されています。井筒先生の講義を受けている気分に浸りたい方にはちょうど良いかもしれません。

他書には無い味わいがあるので、ここに要旨をまとめてみたいと思います。

  • アラビア語は西アジアの文化語のうちでおそらく最も学習困難な言語であり、第一歩となる文字と発音で挫折するのが常である。よほどの天才は別として普通の我々には大きな障害である。
  • 巻舌のできない人は出来るようになるまで練習する必要がある。
  • できるだけたくさん単語を覚えてそれを活用することが外国語を短期で学習する秘訣である。
  • 訳読を何度も読んで、できれば暗記してしまうこと、少なくとも単語は全部確実に覚えてしまうことが肝要。初歩のうちにこれを怠ると何年経っても決して進歩しない。
  • アラビア語文法の勉強は動詞派生形全部の変化形式を完全に覚えてしまえば一段落だが、大抵の人は決まったようにここで挫折する。
  • ただ通読してしまわず一つ一つの名詞単数と複数を暗記して先に進んでいただきたい。今この場所で払うわずかの努力が後には二倍、三倍の利益をもたらして帰って来る。
  • farra、madda、massa、labbaといった動詞は三人称単数の語形を見ただけでは他の人称・数の時の語形が全然推察できないから、一つ一つ覚えなければならない。これは決して安易な仕事ではない。多くの人々はせっかくアラビア語を学び始めても、この種の難関に当面して絶望してしまうのである。このような殆ど無限に難しい言語を習得するためには、あまりあせらずに一つずつ確実に暗記していくよりない。
  • まだ充分この二種の動詞(注:بدامشى)の完了形および未完了形の変化を暗記できていない人は、今度こそはっきり覚えてしまわなければならない。アラビア語の文法組織特に動詞のシステムは実に複雑である。もしその中の一つを曖昧のまま棄てておけば次から次へと積み重なって最後には全然何もわからなくなってしまう。
  • 例に掲げた単語は漫然と読過しないで一つ一つ暗記していただきたい。
  • 動詞派生形を整理し、その変化形式を覚えていかなければならない。我々のアラビア語文法研究もいよいよ最後の段階に達したのである。
  • アラビア語に精通したいと思う人は、個々の動詞についてその派生形の一つ一つの意味を丹念に覚えていくしかない。アラビア語の完全な学習には10年、20年の長き努力を必要とする。

表記・誤字脱字について

●1950年の版ではアラビア文字部分は他の書籍からの切り貼りで、訳読部分はLouis CheikhoのMajāni Al-Adabから、その他の部分はWrightのA Grammar of the Arabic Languageからの複写だったとのこと。しかし新しく出た井筒俊彦全集の第十二巻では普通のアラビア文字活字になっているため読みやすくなっています。

●過去の版にあった誤記が複数箇所修正されています。ローマ字転写等に見られた誤字は断り無く修正したとのこと。それ以外の特筆すべき修正点は巻末修正表にまとめられています。

●読みやすいアラビア文字の字体ではありますが、訳読部分のアラビア文字は合字が使われており一般的な入門書とは違った文字のつながり方をしています。慣れれば大丈夫ですがアラビア文字をまだ十分に覚えていない方は混乱されるかもしれません。

●アラビア文字の段階で挫折する人が多いから、とのことでローマ字による表記が大半となっています。訳読練習の例文も後半にならないとアラビア文字になりません。アラビア文字の読み書きを既にマスターしている人には頭にあまり入って来ずかえって読みづらく感じるかもしれません。

●ローマ字表記は現在主流のものとは違うので慣れるまでに多少違和感を覚える可能性があります。

●ローマ字表記部分は語末のタンウィーンを省略せず小さな文字で un、in、an と書き添えてあります。同じ大きさの文字ではなく、小さく kitabun のように表記してあるので他の部分との区別がしやすいです。ちなみにアリフ・マクスーラは小さな y を添える形でアリフを使った長母音と区別されています。

感想

1941年に書かれたにもかかわらず語学書として非常に正確な内容で今でもまだまだ現役で使える内容であることは特筆すべき点かと思います。欧州から専門書を取り寄せて独学するだけでなくアラビア語に堪能なタタール人ウラマーに師事までされた井筒俊彦先生のアラビア語知識が当時としては非常に高い水準にあったことを感じ取ることができた1冊でした。

内容的には古典的作品からとられた例文を中心に学びたい方向けです。

文法解説としてはライトの文法書のようなごくごくオーソドックスなものなので、日本語で書かれた文法書を既に何冊も終えていてかつ現代文だけを読みたい方はこの本を経由せず直接専門的な文法書に移られるのが良い気がします。

(2022年3月修正)

アラビア語入門 井筒俊彦全集 第十二巻 井筒俊彦全集 第十二巻 アラビア語入門
著者: 井筒 俊彦
出版社:慶應義塾大学出版会