アラブ人の名前のしくみ~有名人探訪編:ヤーセル・アラファート

パレスチナの指導者だった故ヤーセル・アラファート(アブー・アンマール)の本名とゲリラ名について調べてみました。

フルネームと本名は?

フルネーム

本名フルネーム(Wikipedia等):

مُحَمَّد عَبْد الرَّحْمٰنِ عَبْدُ الرَّؤُوفِ عَرَفَات الْقُدْوَة الْحُسَيْنِيّ
[ muḥammad ‘abdu-r-raḥmān ‘abdu-r-ra’ūf ‘arafāt ’al-qudwa(h) ’al-ḥusaynī(y)/ḥusainī(y) ]
ムハンマド・アブドゥ・ッ=ラフマーン・アブドゥ・ッ=ラウーフ・アラファート・アル=クドゥワ・アル=フサイニー

父の名前までを並べ、ファミリーネームを後ろに足したものになります。

ibnをはさんだナサブの形式のバージョンもあるのですが、Wikiとかでは後半部分がAbd al-Ra’uf ibn Arafat al-Qudwaと書かれています。しかしAbd al-Ra’ufとArafatは父子ではないというのが正しいらしく、ibnを抜いたAbd al-Ra’uf Arafat al-Qudwaの方が適切なようです。

مُحَمَّد يَاسِر عَبْدُ الرَّؤُوفِ دَاوُد سُلَيْمَان عَرَفَات الْقُدْوَة الْحُسَيْنِيّ
[ muḥammad yāsir ‘abdu-r-ra’ūf dawūd sulaymān/sulaimān ‘arafāt ’al-qudwa(h) ’al-ḥusaynī(y)/ḥusainī(y) ]
[ ムハンマド・ヤースィル・アブドゥ・ッ=ラウーフ・ダーウード・スライマーン・アラファート・ル=クドゥワ(トゥ)・ル=フサイニー ]
ムハンマド・ヤースィル・アブドゥッラウーフ・ダーウード・スライマーン・アラファート・アル=クドゥワ・アル=フサイニー

パレスチナのニュース・新聞サイトなどで紹介されているフルネームはちょっと違っており、このような組み合わせが出回っています。

終盤部分は家名に相当するパーツが複数連なっている状態で、アラファート、アル=クドゥワ、アル=フサイニーは全部ラストネーム・ファミリーネーム的扱い。時系列的にはアル=フサイニーが一番古く、続いてアル=クドゥワ、最後にアラファートという順番で付け足されていったようです。

ファーストネーム

مُحَمَّد عَبْد الرَّحْمٰنِ
[ muḥammad ‘abdu-r-raḥmān ] [ ムハンマド・アブドゥ・ッ=ラフマーン ]
ムハンマド・アブド・アッ=ラフマーン( / アブドゥッラフマーン)

「ムハンマド+◯◯」タイプの2語1セット複合ファーストネームです。アブド・アッ=ラフマーン(アブドゥッラフマーン)は「慈悲深き者 アッラーのしもべ」の意。

مُحَمَّد يَاسِر
[ muḥammad yāsir ] [ ムハンマド・ヤースィル ]
ムハンマド・ヤースィル

ソースによってはフルネームのうちファーストネームが مُحَمَّد يَاسِر [ muḥammad yāsir ] [ ムハンマド・ヤースィル ] と書かれていることも。彼が幼い頃から家族にヤースィルと呼ばれており相続記録にもヤースィルとして載っているという話が伝わっているそうなので、ヤースィルがただのゲリラ名ではなく本名として扱っているケースかと思われます。

父・祖父・曽祖父の名前

祖父や曽祖父の名前は人名録や伝記をたどっていくとつなぎ合わせることができます。

父の名前:
عَبْد الرَّؤُوف
[ ’abdu-r-ra’ūf ] [ アブドゥ・ッ=ラウーフ ]
アブド・アッ=ラウーフ(アブドゥッラウーフ)

「慈悲厚き者 アッラーのしもべ」の意味。パレスチナ系のソースで父の名前+祖父の名前+家名が عَبْد الرَّؤُوفِ دَاوُد الْقُدْوَة だったと書かれていたりします。

1880年パレスチナのガザ生まれ。ガザで教育を受けた後イスタンブール(イスタンブル)へ進学。帰郷後由緒ある家の出の女性と1914年に結婚。1927年以降はエジプトで商売。

ヤースィルは妻がパレスチナに里帰りして(実際にはエジプトのカイロ生まれだという説あり)生んだ第6子。父方従姉妹と「赤ちゃんが生まれたらヤースィルって名付けましょうよ」と約束していた通りヤースィルと命名したというエピソードも。なおアブドゥッラウーフの妻(ヤースィル)の母は産後腎不全にかかりヤースィルが4歳の時に死去。

祖父の名前:
دَاوُد
[ dāwūd ] [ ダーウード ]

イスラームにおける預言者の名前。ダビデに同じ。ダーウードはアラビア文字だと و [ w ] を1個しか書かないのに長母音ūで読む特殊なつづりです。

Wikipediaアラビア語版や『人名から読み解くイスラーム文化』という本などでは祖父の名前がArafat(アラファート)と書かれているのですが、アラビア語ニュースサイトなどを調べてみると مُحَمَّد يَاسِر عَبْدُ الرَّؤُوفِ دَاوُد سُلَيْمَان عَرَفَات الْقُدْوَة الْحُسَيْنِيّ というバージョンのフルネーム紹介があり、それをたどっていくと祖父はダーウードの方だということになります。

ダーウードがもうけた子供は五男ニ女で、そのうちの一人がアブドゥッラウーフだったとのこと。

曽祖父の名前:
سُلَيْمَان
[ sulaymān / sulaimān ] [ スライマーン ]

イスラームにおける預言者の名前。ソロモンに同じ。

ファミリーネームその1

اَلْقُدْوَة
[ ’al-qudwa(h) ] [ アル=クドゥワ ]
al-Qudwa

قُدْوَة [ qudwa(h) ] [ クドゥワ ] は模範、見本の意味を持つ名詞です。『人名から読み解くイスラーム文化』はアル=クドゥワがヤーセルの曽祖父ムハンマドのニックネームだと説明していますが、曽祖父はスライマーンです。

al-Qudwaと呼ばれた祖先

ガザのクドゥワ家関係者が公開している系譜などををたどっていくと、西暦1300年代に既に اَلْقُدْوَة [ al-qudwa(h) ] [ アル=クドゥワ ] という通称を与えられた男性祖先がいたことがわかります。

アレッポ在住で、大きな商家に生まれながらもイスラーム神秘主義(スーフィズム)を実践していたそうです。多くの神秘主義実践宗教家らと交流。ダマスカスに赴いてイブン・タイミーヤにも会ったことがあると書物に記されています。

彼のファーストネームはムハンマド、父の名前はアフマドだったそうですが、複数の肩書き・通称を付け足した呼び名、フルネームなどを集めてみると色々なパターンがあって

  • ابن الدباهي
  • محمد بن أحمد القدوة الزاهد
  • شمس الدين محمد ابن أحمد بن أبي نصر الدباهي البغدادي الحنبلي
  • الشيخ الإمام العالم العارف القدوة شمس الدين محمد بن أبي العباس أحمد الدباهي

شَمْس الدِّين [ shamsu-d-dīn ] [ シャムス・ッ=ディーン ](宗教の太陽)というラカブ(通称・尊称)以外に、اَلْقُدْوَة [ al-qudwa(h) ] [ アル=クドゥワ ](模範)、اَلزَّاهِد [ az-zāhid ] [ アッ=ザーヒド ](禁欲者・修行者)といった色々な肩書きを持っていたようです。

彼の前の世代にもアル=クドゥワを冠した人物はいたようなのですが、ともあれこの大物の先祖がヤーセル氏出身ファミリーの家名の元になったということみたいでした。

また出自を示すニスバからは、アレッポに来る前はバグダードにいた一族だったことがうかがえます。

ガザへ移住したクドゥワ家のアラファート

一族は代々アレッポに住んでいましたが、ガザに移住した人物がいました。それがヤーセル氏の7代ぐらい前のアラファート氏です。

ガザのクドゥワ家の祖:
عَرَفَاتُ بْنُ يُوسِفَ الْقُدْوَة
[ ‘arafāt(u) bnu yūsif ’al-qudwa(h) ]
[ アラファート・ブヌ・ユースィフ・アル=クドゥワ ]
アラファート・イブン・ユースィフ・アル=クドゥワ
クドゥワ家ユーセフの息子アラファート

彼のことを示した英字表記YusefはYusifの口語的発音に基づいたつづり。元々アレッポ出身で17世紀頃(1650年代後半)にガザに移住。ガザで商人として成功。父が家族連れでマッカ(メッカ)巡礼中にアラファート山の辺りで生まれたことから命名されたとか。

ガザ クドゥワ家の2代目:
مُحَمَّدُ بْنُ عَرَفَاتَ الْقُدْوَة
[ muḥammad(u) bnu ‘arafāt ’al-qudwa(h) ] [ ムハンマド・ブヌ・アラファート・アル=クドゥワ ]
ムハンマド・イブン・アラファート・アル=クドゥワ
クドゥワ家アラファートの息子ムハンマド

ガザ クドゥワ家の3代目:
مُصْطَفى عَرَفَات الْقُدْوَة
[ muṣṭafā ‘arafāt ’al-qudwa(h) ] [ ムスタファー・アラファート・アル=クドゥワ ]
ムスタファー・アラファート・アル=クドゥワ
クドゥワ家 アラファートファミリーの成員であるところの / 孫のムスタファー

父の名前ムハンマドをスキップして「自分の名前+祖父の名前+家名」を名乗るタイプのイスム・スラースィー(3パーツから成るフルネーム、three-word names)だと思われます。

ファミリーネームその2

عَرَفَات
[ ‘arafāt ] [ アラファート ]
アラファート

アラファートはマッカ(メッカ)にある山の名前で、イスラームの巡礼における重要な地点としても知られています。人名としても使用。

系譜を見た限りでは、アレッポからガザに移住してきたクドゥワ家出身であるアラファートの名前が家名(ファミリーネーム)のようにして引き継がれているもののようです。

ガザのクドゥワ家初代の後、息子はアラファートの息子ムハンマドと名乗っていて、孫のムスタファーが祖父の名前をラストネームのように使ってムスタファー・アラファートと名乗っています。

その後の世代の人物たちはアレッポ時代から続くファミリーネームに加え、ガザで分家してから出来たらしいアラファートという家名を付け足した名乗りを使っていることが多いようです。ヤーセル氏の7代ぐらい前のご先祖というのがこのアラファートという名前(家名)の出所のようでした。

ニスバ

اَلْحُسَيْنِيّ
[ ’al-ḥusaynī(y) ] [ アル=フサイニー →口語発音はアル=フセイニー ]
アル=フサイニー( / アル=フセイニー)
アル=フサイン(アル=フセイン)の(家系の・末裔の)

正統カリフ アリーの息子であり預言者ムハンマドの孫でもあるアル=フサインの家系だ、という出自を示すニスバになります。家系をたどっていくと、アル=クドゥワの通称を持っていたムハンマド氏の前の世代はこのニスバがついていたりしました。

ネットで紹介されていたヤーセル・アラファート氏のナサブによると、アル=フサインの息子でカルバラーの戦いを生きのびたイマーム アリーの系統だそうです。

通称

通称
يَاسِر عَرَفَات
[ yāsir ‘arafāt(口語発音はyāser ‘arafāt) ]
[ ヤースィル・アラファート(口語発音はヤーセル・アラファート) ]
Yasser Arafat
ヤーセル・アラファート

後から名乗るようになった يَاسِر [ yāsir ] [ ヤースィル → ヤーセル ] にガザのクドゥワ家分家名ともいうべきアラファートを残したイスム・スナーイー(2パーツから成るフルネーム、two-word names)ということのようです。

ヤーセルの由来ははっきりはしていないようで、亡くなった知人の名前を引き継いだとか、子供の頃から家族や親戚に呼ばれていたニックネーム、幼名、別名だとか色々書かれていました。

子供の頃からの別名であるという証拠は、ヤーセル・アラファートの実家関係の相続記録などに残っているらしく、そこにヤーセルの相続分云々といった記述があるそうです。

ゲリラ名

ゲリラ名:
أَبُو عَمَّارٍ
[ ’abū ‘ammār ] [ アブー・アンマール ]
Abu Ammar
アブー・アンマール(アンマールの父)

ゲリラ名の由来は預言者ムハンマドの教友、عَمَّارُ بْنُ يَاسِرٍ [ ‘ammār(u) bnu yāsir ] [ アンマール・ブヌ・ヤースィル ](Ammar ibn Yasir、アンマール・イブン・ヤースィル)にあやかって。

先に名乗り始めたというヤースィルという通称から連想させるのが歴史上の有名人物アンマールの父親ヤースィルだったからついたゲリラ名のようです。

なぜアブー・アンマールにしたのか?

別に自分にアンマールという子供がいるわけでも無いのに

  1. 先にヤースィルというファーストネーム(今回の場合は通名)を持っている
  2. ヤースィルといえば歴史上有名なのはイスラーム黎明期にいた教友アンマールの父ヤースィルだ(アブー・アンマール)
  3. じゃあヤースィルのことは彼にアブー・アンマールと呼ぼう

というパレスチナ周辺によくあるタイプのクンヤ=子供がいないのに「◯◯の父」パターンの典型なのでは、と思われます。

アンマール・イブン・ヤースィルについて

عَمَّارُ بْنُ يَاسِرٍ
[ ‘ammār(u) bnu yāsir ] [ アンマール・ブヌ・ヤースィル ]
Ammar ibn Yasir
アンマール・イブン・ヤースィル

言い伝えによると、アンマールは背が高くて肩幅が広く、目は青みがかっていたとのこと。イスラームにおける口伝はとても詳しいため、アンマールがどんな風にはげていたとか髪の生え具合はどうだったとかまで後世に残っているとか。

彼の伝記のイラストは拷問を受けて苦しんでいるシーン、イスラームの軍勢に加わって勇猛に戦っているシーンなどが多いとの印象です。

アンマールの経歴

  • 彼の父ヤースィルが兄弟を探しにイエメンからマッカ(メッカ)に出てきてそのまま定住。他の兄弟はイエメンに帰ったが、ヤースィルは居着いたその地でスマイヤと結婚。
  • ヤースィルの息子がアンマールも含む男児複数名(うち1名はイスラーム以前に死去)。一家はイスラームに改宗。
  • クライシュ族側から棄教を迫る激しい拷問で母が死去。母はイスラーム共同体で拷問死した1人目の信徒となった。そして父も殺害。アンマールは心にも無いイスラーム否定の言葉を言わされ泣く泣く預言者ムハンマドに事情を打ち明けた。その折に本心で信仰を失っていなければ大丈夫だという旨の神の言葉がクルアーンとして下されたとされる。
  • 預言者ムハンマドと行動を共にし、数々のガズウに参加。
  • 預言者亡き後は第4代正統カリフ アリーと共にウマイヤ家との闘争に参加。ヤマーマの戦いで片耳を失う。最期はウマイヤ家ムアーウィヤの軍勢との戦闘中に殺害され死去。享年93歳。