イラクと魚~イラクにおける魚食文化と定番メニュー

イラク方言自習の一環として視聴した魚料理に関する色々な動画・ニュース・伝統文化紹介の内容をまとめたメモページです。

イラクと魚食文化

大河川・湖沼・海の恵み

イラクには اَلْفُرَات [ ’al-furāt ] [ アル=フラート ](ユーフラテス川)、دِجْلَة [ dijla(h) ] [ ディジュラ ](ティグリス川/チグリス川)、そしてこの二大河川が合流した شَطّ الْعَرَبِ [ shaṭṭu-l-‘arab ] [ シャットゥ・ル=アラブ ](シャット・アル=アラブ川)が流れています。

*シャットはアラビア語文語(フスハー)だと「岸」ですがイラク方言では「川(特に大きな川)」なので、シャット・アル=アラブは「アラブ海岸」「アラブ河岸」ではなく「アラブ川」という意味になるとのこと。実際にイラク人の川や魚に関する色々な会話を聞けばすぐにわかるのですが、「シャットで」は川で、「シャットから」は川から、「シャットに近い」は川に近い、「シャット・◯◯開発計画」は河川の造成開発計画という意味で使われています。

また اَلْأَهْوَار [ ’al-’ahwār ] [ アル=アフワール ](「湖沼」を意味する هَوْر [ hawr/haur ] [ ハウル ] の複数形、口語発音はホウル、ホール)と呼ばれる湖沼地帯があり、住民は水場ではボートで移動し、陸上では牛を育てるなどして漁業・畜産業の両方を営んでいることで有名です。

バスラのように海沿いの都市では海での漁業も盛んで現地の魚料理に使われるだけでなく、別の都市に運ばれバグダードの魚唐揚げ屋の店頭にも並んだりしていてグルメリポートの際に「これはバスラから来た海魚のズベイディーをフライしたものです」などとコメントされていることもしばしば。

魚を使ったイラク料理

背開き魚の薪火焼き(マスグーフ)

مَسْقُوف
文語発音:[ masqūf ] [ マスクーフ ]
مَسْگُوف / مَسْكُوف
口語発音:[ masgūf ] [ マスグーフ ]

文語つづりでは語頭が q でマスクーフと読まれます。イラク方言ではアラビア語に無い英語の get と同じ g 音になるため現地ではペルシア語から借りてきた گ [ g ] の字で表記されるか、ك [ k ] と書いて [ g ] を読ませる意図の表記をされるのが一般的。アラブ諸国にも文語と同じマスクーフで発音するアラブ人はいるのですが、イラク国外でも濁点のついたイラク発音である「マスグーフ」で広く知られており日本でも「マスグーフ」が一般的なカタカナ表記です。

マスグーフは背開きにした魚(通常はコイの仲間)を焚き火であぶってじっくり焼いた丸焼きです。海外でも名前を知られたイラク料理の代表選手で、背側から切り開いて平たくした時の丸もしくは楕円に近い形から日本では「円盤焼き*」などといった名称で紹介されています。

*マスグーフに多用されている養殖鯉はでっぷりとしたタイプなので背開きにすると丸く見えるため円盤のような形に仕上がるのですが、サーモンなど別の魚を使うと巨大な一夜干しとか超特大蒲焼に見えることもあります。

魚はたいていがコイ科で、ガッターン、ブンニー、シャッブートといったイラク在来魚は非常に高価。一方サムティー(/セムティー)、カーリービーといった外来の食用鯉はお手頃価格のため流通量も非常に多いとか。

いずれも背中側を切り開く背開きですが、ワタを取った後に水洗いするかどうかはまちまち。湖沼地帯(アフワール)民は漁民としての知恵を備えていることから水洗いしない派だそうで、理由は「水洗いした際に血が身に浸透して生臭くまずくなるから」「ワタや血の残りは洗いさえしなければ焼いている間にカリカリに焦げてはがれ落ちてしまうから」だとか。

燃え盛る火から少し離れた場所に立て、数十分~1時間かけてじっくりあぶります。焼く時に垂直にすることで身の中にある脂が融け出して下に落ちていくしくみだとか。火が通ったらほぼ炭になった薪の上に寝かせて仕上げ。炭化した薪側に皮を向け上を向いている身の側に炭の塊を乗せるといった方法で、カリカリ感を出すとともに脂臭飛ばしをしたら完成。

塩をふるだけのバージョン、最初に下味をつけるバージョン、あぶって火が通った時点でたれやレモン汁をかけて仕上げる方法があり、マスグーフで有名なバグダードのレストラン街方式では塩をふるだけがスタンダードだとか。

2本の串(元々は木の棒や葦の茎、現代では金属製のバーベキュー串が使われることも)にさして立てる以外に、魚焼き網ではさむ方式も普及。放射で早く焼き上がるようにパン焼き窯と同じ構造の粘土窯(タンヌール)に入れたり、焚き火ではなく最初から炭火(基本的には薪火焼きで薪使用禁止地域を中心に使用が拡大)で焼いたり、いくつかのスタイルが存在。

マスグーフといっても調味や焼き方に色々なバリエーションがあり、「マスグーフなら絶対にこの作り方」という決まった方法は無い感じです。ただし家庭用オーブンで焼くと格段に味が落ちるため、イラク人は屋外バーベキュー方式や専門店に魚を持参して焼いてもらうのを好むとか。

食べる時は窯焼きの平パン、生野菜、漬物(酢漬け)、スモークヨーグルト、عَمْبَة [ ‘amba(h) ] [ アンバ ](ピリ辛マンゴーピクルス調味料)などと一緒に出され、食後は紅茶を飲んでさっぱりするのも定番だとのこと。

イラクの国民食として有名なこのマスグーフですが、ここ数年続く史上最大級の渇水で河川の魚が大量死したこと、節水のため養殖池が取り壊されたりしたこと、河川や湖沼の塩分濃度上昇や下水汚染による魚の死亡などから材料となる魚の供給量が激減。気軽に食べられる料理ではなくなってしまったと言われています。2023年夏時点で割安だったはずの魚は肉と同じ価格帯までに暴騰、湖沼地帯の漁民らが故郷を棄て大量移住するなどイラクの水産業界が急速に崩壊してきていると報じられている状況です。

魚のフライ(スィマチ・マグリー)

سَمَك مَقْلِيّ
文語発音:[ samak maqlī(y) ] [ サマク・マクリー(ュ/ィ) ]
سِمَك/سِمَج/سِمَچ مَقْلِي/مَكْلِي/مَگْلِي
口語発音:[ simach maglī ▶ simach magli ] [ スィマチ・マグリー ▶ 語末長母音短母音化でスィマチ・マグリ ]
*スィマチ以外の発音:スィミチ、スィメチ、サマチ 等

سَمَك [ samak ] [ サマク ] は名詞で「魚」、مَقْلِيّ [ maqlī(y) ] [ マクリー(ュ/ィ) ] は受動分詞で「揚げられた、フライされた」。2語目のマクリーがサマクを形容詞修飾しているもので、英語の「fried fish」に相当。

イラク方言では上記の文語発音における k が ch の音になるため ك は چ もしくはその代用である ج、そして q が g の音になるため قگ もしくはその代用 ك に置き換わった表記が多いです。また文語とは語形が変わってしまうので、方言辞典や語彙集なども [ simach ] [ スィマチ ]、[ simich ] [ スィミチ ]、[ simech ] [ スィメチ ] といった発音で載っています。実際に動画を見ると [ samach ] [ サマチ ] と言っている人もいるのですが、一応本項目ではジョージタウンの『The Georgetown Dictionary of Iraqi Arabic: Arabic-English, English-Arabic』に準拠して「スィマチ」としました。

揚げ魚はイラクにおいて魚専門レストランや大衆食堂における定番メニューの一つで、バグダードの庶民的地区の大衆料理店特集でよく登場します。ズーリーなどと呼ばれている小ぶりな魚はワタを取ってからそのまま、大きな魚は切り分けてから調味料をふり油でフライ。カリカリ・ホクホクの白身は大変おいしいとのことで、マスグーフと並んでチェックすべき料理だとか。

マスグーフは薪火焼きに適したコイ科の魚が多用されている一方、揚げ魚は丸焼きに適していない魚種も使われていて、リポート動画でもコイとは違う形の魚を加工しているのを見ることができます。

南部港湾都市バスラでは海水魚ズベイディーのフライ。北部の(アル=)マウスィル(/モウスィル/モースル)のようにスンナ派イスラーム教徒が多い地域では中部・南部に多いシーア派が食べられないナマズ(ジッリー)が運び込まれることから、ナマズ(ジッリー)のフライもポピュラーだとか。

イラクでは魚のフライはトマトペーストで赤く色づけしたライス تِمَّن أَحْمَر [ timman ‘aḥmar ] [ ティンマン・アフマル(/アハマル) ](赤ライス。ティンマンはイラク方言で「米、ライス」の意味。イラク方言ではティェンマンに近く聞こえることが多い印象。)と一緒に出されることが多いらしく、食レポ動画を見ていると「揚げ魚に赤ライスは欠かせない」とのコメントがよく出てきます。

魚の干物の煮汁(マスムータ)

概要

مَسْمُوطَة
[ masmūṭa(h) ] [ マスムータ ]

マスムータは独特の香りを放つ干し魚を調味料・具入りの汁で煮込んだ汁物料理です。港湾都市や湖沼地帯が広がるイラク中部・南部で食べられており、ラマダーン明け祝祭(イード)の日(イード・アル=アドハー、イード・ル=アドハー)の朝食もしくは昼食に欠かせない料理としても有名です。

シュメール古代文明時代の遺産である伝統的な保存食、シュメール王朝支配地域だったイラク南部で今でも続いている食文化として紹介されていることが多く、マスグーフと並んでイラク南部が生んだ料理の一つとされています。

名称はイラク方言で「湯通しする」「熱湯で煮る、熱湯でゆでる、熱湯で調理する(to boil in hot water)」という意味の動詞 سمط [ sumaṭ ] [ スマト ] が由来で、その受動分詞 مسموط [ masmūṭ ] [ マスムート ](湯通しされた、熱湯で煮た)を女性形にした語形。意味は「煮汁」程度の非常にシンプルな名前。マスムータ紹介動画では地元の人が「(文語の)مَطْبُوخ [ maṭbūkh ] [ マトブーフ ](調理された、料理された)と同じ意味のすごく単純なネーミングなんだよ」と話しているシーンも出てきたりします。

使う魚は海水魚、淡水魚の複数魚種。業者(自分で魚を採ってきて加工する女性も含む)によって海水魚メインの場合と、海水魚も淡水魚もあれこれ作っている場合とに分かれる模様。バスラのように港湾都市だと海水魚のマスムータの割合がアップ。マスグーフに比べるとコイ科一辺倒という感じではないとのこと。

具はタマネギ、オクラなど。نُومِي بَصْرَة [ nūmī baṣra ] [ ヌーミー・バスラ ] と呼ばれる干しライム/レモン*を入れるので、鍋の中に黒いボールが浮いているように見えます。

*マスムータ汁に入っているのが燻製ライムと書かれている日本語記事もあるのですが、燻蒸作業ではなく天日干しで作る乾燥ライムになります。長期間天日干しする、熱湯もしくは塩水で熱した後に天日干しすると真っ黒な色になるとのこと。家庭で作る時短レシピではベージュ色になった乾燥ライム/乾燥レモンをオーブンで焼いて黒くする人、油で挙げてから乾燥器で油分を飛ばして作るもいるのだとか。[ ソース ]

種類は汁が赤みを帯びた赤マスムータと黄色がかった黄マスムータの2種。今はカレー粉で味付けをする人が多いそうですが、これは南部の国際的港湾都市バスラにいるインド人香辛料商人たちが持ち込んだカレースパイスが第二次世界大戦以降ぐらいから普及したもので、昔は使われていなかったとか。現地のテレビ番組でも、古代文明が生んだ魚料理とは言われているものの時代とともに変化してきたと紹介されていました。

このマスムータは日本人がくさやに似ていると形容する通り長期保存してある干物は発酵して独特のにおいを放つため苦手な人も多いそうですが、バスラなど南部出身のイラク人にとってはイスラームの祝祭(イード)と結びついた懐かしい思い出の香り・お母さんの味に感じられるとか。

昔はこの干物を数週間、数ヶ月と保存。木のようにカチカチになった挙げ句に虫がわいたりもしたため أَبُو دُود [ ’abū dūd ] [ アブー・ドゥード ](直訳すると「虫の父」、意味は「虫入り、虫つき」)という別名がついたほどだったとか。方言辞典にも乾燥して虫がたくさんわくと書いてあるのですが、今のイラク人はそのような状態になる前に煮汁にして食べてしまっている模様。

本来は保存食ということで何ヶ月、長いと1年間近くも置きっぱなしにして保存していたとのことですが、現代においてマスムータ汁に入れるための素材としては短ければ4~5日、平均で2週間前後干したら完成としすぐに食べてしまうことが多くなっているらしく、どの多数のリポート映像を見た結果、日が経つ前に煮汁にして出している人が多くなっているとの印象を持ちました。

取材動画を見ると「長期間干しておくと硬くなりすぎてマスムータの材料としては向かないので柔らかさが残っているうちに冷凍庫に入れて調理する時に取り出せばいい」「4~5日干せばもう十分」と言っている人も。

最近は身が柔らかいままで食べるために塩やスパイスをふって4~5日干しただけでマスムータ汁にしたり、冷凍庫の普及で長期間干すことで醸し出される香りが濃厚に出た状態の干物を使ったりすることが減っていたりで、独特の匂い(臭い)を強く放っているものが昔よりも食べられなくなってきている模様です。

参考サイト

この料理の名前の和訳について

日本語記事でのマスムータ紹介では「火傷した」「熱々で火傷しそうなぐらいだからこのような名前がついた」として紹介されているものがあるのですが、当方にて複数の現地ソースで「湯通しされた」「熱湯で煮られた、熱湯で調理された(boiled in hot water)」という意味であり火傷(やけど)とは関係無いことを確認済みです。

書籍内で「火傷した」という訳になったのは、おそらくアラビア語-英語辞典にscaldedと載っていることが原因だと思われます。scaldedには「火傷した」「煮沸された、熱湯で煮られた」という2通りの意味があるのですが、マスムータの場合は後者の意味で解釈するケースになります。

同書では耳で聞き取りをされたためか地名や料理名が現地発音との間にずれがある(促音のッが抜けている、チャッフィーエがチャーヒーエになっている、スィマチがサマッチになっている等)部分や料理の説明などが現地メディア等での説明と少し違っている部分があるようなのですが、マスムータの語源についてはイラク撮影のマスムータ特集動画を30本ぐらい見てイラク方言辞典などでも確認した結果「やけどした」「やけどするぐらい熱い」という由来だとの説明は一切出てきませんでした。

そのため当サイトでは「煮汁、煮込み汁」とすべき料理名だと判断し「煮汁」とという名称で紹介することとしました。なにとぞご了承願います。

ムハッラシュ

مُحَرَّش
文語風発音:[ muḥarrash ] [ ムハッラシュ ]

小魚を埋め込んだ平パン。現地ではシュメール時代から続く古代食と形容されていることも。

小魚を意味するイラク方言 حرش [ ḥarish ] [ ハリシュ ] と同じ語根から成る動詞派生形第2形受動分詞語形で「小魚を埋め込んだ」「小魚が入った」というニュアンスからの呼び名になっているものと思われます。ちなみに「バスラでは حناية と呼ぶ」との情報も。

米粉文化圏の湖沼地帯・南部ではとろみのある米粉生地を طَابَق / طَابَك / طَابگ [ ṭābaq / tābak / tābag ] [ ターバク / ターバグ ] と呼ばれる粘土製プレートに広げ、そこにズーリー(アブー・フレイザ/フレーザ)と呼ばれる小ぶりな魚を配置して焼く方式だとか。

ターバク(ターバグ)プレートの下は焚き火(炎が落ち着いた後の弱火~炭火)で、生地の上には مَطَّال [ maṭṭāl ] [ マッタール ](南部で多用される(水)牛等の糞を固めたディスク状の燃料)を並べるのが標準的な作り方。

弱火の薪火もしくは炎が引いた後の炭火▶ターバク(/ターバグ)▶米粉パン+魚◀上のマッタール

という順番ではさみ、上下に熱源を配置するので、カリッ パリッとした仕上がりに。

*上の動画ではマッタールが入手できないイラク南部以外の人も真似して作ることができる方法を紹介するため、わざと薪で代用しているとの旨をチャンネル主が説明しています。