アラビア語の名前を英字表記からカタカナにするのは難しい
アラブ人の名前を日本語で表記する際、アラビア語ではなく英字からカタカタにすると原語とはかけ離れた物になってしまったり、記事を書いた人によって表記が違ってしまったりということが起きます。
アラビア語の名前の英字表記やカタカナ表記については学術的なルールが定められています。しかしそれ以外の範囲においては色々な英字表記があり、同じ人名でもどの英字表記を元にしたかによってカタカナ表記も大きく異なるという難しさがあります。
日本語で書かれた記事や投稿にアラビア語の人名・地名を文語の母音記号通りに忠実な形でカタカナ化したものが多くないのは、このような事情によるものだと言えます。
口語的な音の変化でさらに生まれるバリエーション
話し言葉では書き言葉と語形が同じでも付加する母音が違うことも話し言葉のアラビア語では文語のつづり・母音記号通りに発音しないことがしばしばあります。特定のアルファベットが書き言葉本来とは違う発音になったり、母音のiがe、uがoに近くなったり、様々です。
そのため同じ人名の英字表記でも、文語のつづりや読みに即した比較的わかりやすいものから、口語的に色々な変化が起こった原型をあまりとどめていないものまで様々となります。複合語の場合は2語を切り離して書いたりくっつけて書いたりと統一されていません。
本来あったはずの長母音が表記上消えたり、口語では文語でのつづりや記号に無い母音が付け加えられたり、英語を読む感覚で発音すると間違いになったり、アラビア語の文語文法や方言の問題までからんでくるので相当複雑です。
ザーイド?ザイード?ザイド?ザーイェッド?
たとえばアラビア語でزايدと書く人名は文語文法に忠実に従って読めばzāyid [ zāyid ](ザーイド)となります。しかしアラブ人の名前の英字表記は学術書はともかく、普通のニュースや読み物では長母音を表すāは使わず、ただのaを用いてZayid [ zāyid ]となっています。
また同じような発音ながらZāyid / Zayidではなく二重母音のようなつづりになっているZāid / Zaidという英字表記も多用されています。
アラビア語の語形に関する知識が無い場合、記事を書いた人の判断で長母音を補う位置が正しかったり間違っていたり様々になってしまうようです。上記のザーイドに関しては特ザイードとカタカナ表記されることが多く、ザイードほどではありませんがZayid(ザイド)も使われています。
ここで原語の文語に忠実なのはザーイドです。次にザイドですが、これは元のزايد [ zāyid ](ザーイド)とは違う人名のزيد [ zayd / zaid ](ザイド)が存在するため不適切なカタカナ表記と言えます。音的には似ていますが別人名です。ザイードについては、アラビア語でz、y、dの子音を組み合わせた人名はザーイドかザイドのどちらかであり、長母音にする場所もおかしいということでおすすめできません。
(*ただしアラビア語に忠実にするのではなく英語圏などにおける発音に合わせる場合は話が違ってきます。英語圏では語の前半部分が長母音であるアラブ人名を後半を長母音にして読むケースが多く、Khalidがハーリドではなくカリードになるといった具合にアラビア語圏とは違う発音がメジャーだったりします。ザーイドをザイードとカタカナ化する件も、英語を経由したために長母音の位置がずれたケースだと思われます。欧米に移住したアラブ人は周囲からカリードやザイードと呼ばれている可能性も高いため、アラブ系の名前だからといってその人の居住地に関係無く一律でハーリドやザーイドと表記するのが正解だとは言い切れません。)
さらに、口語では母音が変わってZāyidのiがeになってZāyed [ zāyed ]と読まれがちです。現地での会話を聞けば、語末の「yed」部分は「イェッド」と促音に近く感じるかもしれません。日本語のカタカナ表記にする際ザーイェドやザーイェッドの方がザーイドよりも良いと感じる方がいるのはそのためです。
人名「ザーイド」の色々な読まれ方
- 文語:Zāyid(un) [ zāidun ](ザーイドゥン)
語末の格母音やタンウィーン(=最後の「n」)まで読むとザーイドゥンとなります。日常生活ではここまで読みませんが、構文を確認しながら教科書や文法書を丁寧に読むような場合はザーイドゥンまで発音します。
「un」のザーイドは動詞基本形(=派生形第1形)の能動分詞です。元々yの部分はء(ハムザ)でزَائِدٌとつづり[ zā’id(un) ]という語形でしたが、人名として使われる段階でي [ y ]に転化したとされています。 - 文語:Zāyid [ zāyid ](ザーイド)
語末のunを読まない場合です。最後にidが来るため[ zayidd ](ザーイッド)に近く聞こえることがあります。 - 口語:Zayed [ zāyed ](ザーイェド)
能動分詞後半のiの音がeに置き換わって英字表記もZayedに変わります。最後にedが来るため[ zayedd ](ザーイェッド)に近く聞こえることがあります。
アラビア語の文語に必ずのっとるべきとは限らない
現地の発音にある程度即したカタカナ化のさじ加減
英字表記されたアラビア語の名前は、جというアルファベットの発音を現地方言に即してgとしてあるものをjに変える、eに転じるなどした短母音をiに変える、といった作業をして文語通りのつづりに即したカタカナ表記にするのが正解とは必ずしも限りません。
現地の人が日常的に使って当たり前となっている読み方をカタカナにした方が良い場合もあります。
Naguib Mahfouz (ナギーブ・マフフーズ)
≠ ナグイブ・マーフォウズ、ナグイブ・マハフォウズ
نَجِيب مَحْفُوظ [ najīb maḥfūẓ / エジプト ; nagīb maḥfūẓ ]
エジプトが誇る大作家の名前です。ī(イー)をui、ū(ウー)をouで英字表記しているのは変則的ですが、これが公式のつづりだとのこと。
アラブ地域一般の文語的発音通りならナジーブ・マフフーズとかナジーブ・マハフーズで構わないのですが、彼はエジプトが誇る生粋のエジプト人で生まれも首都カイロです。エジプトでは文語を読む時も首都カイロ近辺の方言ではjをgで発音することもあり、日本でもナジーブではなくナギーブとカタカナ表記しています。
海外に移住・帰化したアラブ系住民の名前をカタカナ表記する場合
帰化している人の名前については、英語・フランス語風に発音した物をカタカナ表記にすべき場合もあります。
Mena Massoud(メナ・マスード)
مِينَا مَسْعُود [ mīnā mas‘ūd ]
文語のつづり通りならミーナー・マスウードですが…
実写映画『アラジン』の主演でアラブ諸国でも一躍有名になったメナ・マスード。幼い頃にカナダに移住したにもかかわらずエジプト方言が堪能だということで、アラブ世界でも好感度が高いようです。
彼の一家はキリスト教コプト正教会の信徒です。ミーナーという名前はアレキサンドリアのメナスという聖人、それ以外の聖職者、一般信徒達に使われてきたとてもポピュラーな男性名なんだとか。英字表記ではMinaとかMenaとかになるようです。
Menaとあるので「メナ」と発音するのかどうか確認するために色々なインタビューやニュース映像を見てみたのですが、エジプトでも他のアラブ諸国でも皆「ミーナー」と言っているようでした。メナ・マスード自身も英語の自己紹介でMenaをミーナーもしくはミーナと発音していました。カナダ人インタビュアーも「ミーナ」と言っていました。
Massoudはssが2個連ねてありますが、マッスードと促音にするためのものではなく、ただのs1個と変わらないケースのssになります。ouは長母音[ ū ](ウー)の違う英字表記パターン。そしてع(アイン)という子音を表す「‘」が脱落してしまって、英字表記を見ただけではマスードと読めてしまいます。本人も英語インタビューでアイン抜きのマスードで発音していました。
本人や他のカナダ人の発音を見る限り「ミーナ・マスード」とかが良いのでは?という気もしましたが、日本ではメナ・マスードで通っている状況のようです。
Jacques Nasser (ジャック・ナッサー)
جَاك نَصْر [ jāk naṣr ]
文語のつづり通りならジャーク・ナスルですが…
口語風に読むとṣの後にe音が入りやすい語形でnaṣir(ナスィル)とnaṣer(ナスェル)の中間のような発音に。学術的でない普通の人名表記なので下点は無しでnaser。そしてフランス語圏にもよくあるsの2個重ねとなってnasserという英字表記になっているものと思われます。
彼の場合、英語圏で仕事をしていて日本でもジャック・ナッサーというカタカナ表記が流布しているので、この場合はジャック・ナスルではなくジャック・ナッサーを使うのが良いかと思います。
ちなみに日本語で検索してみましたが、ごくわずかながらジャック・ナセルというカタカナ表記をしているページも見つかりました。
シリア・レバノン周辺地域のキリスト教徒の洋風の名前
レバノンやシリアのキリスト教徒のように、洋風の名前を名乗っている場合は特にアラビア語のつづり通りに発音しないことが多いです。たとえば男性名のجُو。つづり通りならjū(ジュー)という発音になりますが、実際の発音はジョーjō。女性名のكَارُولもつづり通りならkārūl(カールール)ですが、kaをカではなくキャで発音しkyārūl(キャルール)→ kyārōl(キャーロール)での発音が普通です。
アラブ世界ではフランスによる植民地統治時代の名残でフランス語の影響が今でも強い地域が複数あります。レバノンもその一つで、レバノン人のキリスト教徒のファーストネームがフランス語名のことがしばしばあります。その場合はフランス語風の読みでカタカナ化します。
人によって違うアラブ語ネームの英字表記
英字表記については国・地方や個人によってもばらつきがあります。
ひとまず有名人、芸能人、歌手に関しては公式での氏名英字表記を本人のホームページ、CDジャケット、ビデオクリップのクレジットで確認できることが多いです。有名人の氏名を英字で引用する場合は、アラビア語の表記や日本語のカタカナから英字に戻すのではなく、本人が採用しているつづりを使うのが一番確実です。
上で挙げた2つのクリスチャン向けファーストネームはいずれもレバノンで活動する芸能人の名前なのですが、どちらも英字表記はJoeとCaroleです。アラブ人の名前でも、こうしたどう見ても洋風の名前の場合は欧米諸語のルールに則ってジョエ、カロレではなくジョー、キャーロールもしくはキャロルとカタカナ化する必要があります。
ハーリド?キャレド?カリード?
アラビア語に「永く続く」という意味の男性名 خَالِد [ khālid ](ハーリド)があります。長母音の横棒を取ったのが、良く使われている英字表記のKhalidになります。ハリドというのはKhalidのaが元はāだったことを念頭に置かず、Khalidのつづりのままカタカナ化したものかな?と思います。
khはkとhの中間のかすれた音ですが、アラビア語をやっている人たちはカ行ではなくハ行でカタカナ化するため、業界内でカーリド、カリドと書くのはごく少数派です。
ハーリドを口語的に読むとハーレドに近くなるので、この段階で話し言葉に即した英字表記のKhāledが派生します。前半のāから横棒を取ったのがハーレドの英字表記としてポピュラーなKhaledです。アラビア語屋的にはハーレドですが、カ行でカタカナ化したのがカーレドになります。Khaledというつづりからはハーレド以外にも、ハレド、カーレド、カレドといったカタカナ表記が生じる可能性があります。
DJ Khaled
パレスチナ系ムスリムファミリー出身のDJ Khaled。日本ではキャレドとカタカナ表記されています。
アメリカでの色々なインタビューを見ると、aの部分が長めでキャーレドに聞こえるような気がしました。視聴者からの質問に対する本人の回答によると、フルネームがキャーレド・キャーレド。カリードと間違えて発音されることもあるとか。アラブ人からはアラビア語読みのハーリドと呼ばれるそうです。
Khalid
こちらはR&BシンガーのKhalidで日本ではカリードとカタカナ表記されています。アラブ圏ではアラビア語表記で خالد [ khālid ]と書かれています。上のDJ Khaledと全く同じです。
本名Khalid Donnel Robinson。アラブ系ではありません。本人がSNSでイスラーム教徒でもないと明かしているので、何かの縁があって親御さんがアラビア語由来の名前をつけただけのようです。アフリカ系アメリカ人でアラビックネームの方が時々いるのでそのパターンかもしれません。
彼の場合は現地でも実際にカリードと発音するようです。どうやら英語圏には元々アラビア語で خَالِد [ khālid ]であった人名をカリードと読む人が多いみたいです。それでキャーレドと読む方のDJ Khaledが「カリードって呼ばれることもあるんだよ」とコメントしていたようです。
Khalidについては、原語に即したカタカナ表記がハーリドであっても、英語圏はどの読み方なのかよく確認してからでないと誤ったカタカナ化になってしまう危険性が高いと言えるかもしれません。
ちなみにカリードという発音に即した英字表記にKhaleedというものがあるようです。